高校一年の春。よく晴れた五月下旬。
桜の花弁は儚く散り、色鮮やかな新緑が輝き出す。
そんな学校帰りの出来事だった。
わたし、桃原(ももはら)晴花(はるか)はいつもとは違う道を通り、遠回りをしていた。
その理由は、目の前を走る男の子のせいだった。
どうして、こんなことになっているのか。

――時間は少しだけ遡る。

その日の放課後は慌ただしかった。

「桃原。おまえ、狙われているぞ!」

学校を出て、いつも道を通って帰ろうとした矢先。
背後から耳を疑うような声が飛んできた。
振り返ると、真新しい制服に身を包んだクラスメイトの男の子がこちらをじっと見つめていた。
意表を突いてきた彼の名前は矢坂(やさか)浩二(こうじ)くん。
ちょっとクセのある柔らかそうな髪に、丸くて大きな瞳がキラキラしている。
まるで王子様のような整った顔立ち。
無愛想で素っ気なく見えるけど、根は優しい人で、いつもクラスのみんなを元気にしてくれる。
つい目で追ってしまうような、不思議な雰囲気を持った隣の席の男の子だ。

「誰に?」
「死神に」

おうむ返しに訊くと、思わぬ答えが返ってきた。

死神?
まさか、ほんとに?

いや、そんなことはあり得ない……と思うけれど……。
驚いた顔で固まるわたし。
矢坂くんの方も目線で、言外に「秘密だよ」と、わたしにだけ分かるように伝えてくる。

「死神が、おまえの命を狙っているぞ。俺、聞いたんだよ。今日、この町で死ぬ予定の魂の中に、おまえの名前が入っていたのを」
「なに、それ?」

興味本位で聞くと、矢坂くんはどうしたら伝わるのかと悩む。

「あっ、信じていないな。俺には、目に見えない存在の声が聞こえるんだよ」
「なにそれ……?」

初耳ばかりの告白に、わたしは驚きに目を見開いた。

「確か、今日の一六時三十四分。いつもの通学路を歩いていると、歩道に飛び出して走ってきたトラックと衝突」

矢坂くんは深刻な面持ちで淡々と口にする。

「その場で死亡。これが、おまえの運命だったはずだ」

矢坂くんはこめかみを押さえながら、死神が言ったことを思い返していた。

突然の事故死。

あまりに現実味がない話だった。
とても信じることなどできない。
それなのに……。

「心配するなよ、俺がおまえのことを守ってやる!」
「えっ……?」

わたしは弾かれたように顔を上げる。
矢坂くんが真顔でそう言い切ったからだ。

「おまえに定められた運命は、事故で即死。今から、その運命がおまえを死なせようとしてくる。いつもの道を通ったら危険だ。遠回りするぞ!」
「ちょっと!」

矢坂くんはわたしの手をつかんで、走り出した。
道を突き抜けて、歩道橋を駆け上がる。

「今日の一六時三十四分。これを乗り切れば、運命は変わるはずだ」
「矢坂くん……今から学校に戻る選択肢はないのかな? 学校の中なら、安全じゃ……」

わたしはおそるおそる、自分の手を引いて走る矢坂くんの背中を見つめる。

「それじゃ、死の運命を回避できない。学校に戻る前に、今度は車に衝突する」

どうしよう。死の運命から守るって言われたからか、変に矢坂くんのことを意識してしまう。
矢坂くんの真剣な表情を目にして一層、胸が高鳴るのを感じた。
今この瞬間は彼以外、何も見えない。

でも……どうして、わたしは……こんなうさんくさい話を信じてついてきたんだろう。

わたしはわずかに揺らぎを含んだ瞳で自問自答する。

……いや、矢坂くんだから、ついてきたんだ……。

温かい気持ちが、ほのかに胸に広がった。
わたしはまっすぐ、矢坂くんの背中の方を見据えて足を踏み出す。

わたしたちの学校は、『小中高一貫校』。
だから、高校生になっても、学校が変わることもなく、同じ校舎に通っている。
わたしは、中学二年生の頃から矢坂くんのことが好きだった。
でも、矢坂くんは少し変わっているけれど、運動神経抜群ですごくかっこいい。
それに比べて、わたしはお菓子が大好きだという取り柄だけで、どこまでも地味。

そう思うと、胸がちくりと痛んだ。
だけど、春の芽吹きのような温かさを。
胸中に感じられるのは、彼のそばで笑い合えるからこそだろう。
最初は、少し話すだけの関係だった。
だけど、毎日のたわいのない会話の積み重ねによって、少しずつ距離が縮まって。
気づけば、わたしは矢坂くんのことばかり、目で追うようになっていた。

わたしたちは席が隣り同士なだけの関係。
正直、不釣り合いなのは自覚がある。

でも、大好きな矢坂くんが告げた言葉はぜんぶ、信じたい。
それだけが、今のわたしにできることだから。
死の運命が、わたしを死なせようとしてくる。
もし、その言葉が真実だというならば、これから起こるのは最悪だ。

事故死。

胸の奥に嫌な熱が宿る。
それでも心臓の鼓動が止まらないのは、……それを乗り越えて、矢坂くんとともに未来を進みたいと思うから。
もしも、死の運命を変えることができたら、矢坂くんに今度こそ、想いを伝えたい。
心に灯る温かな光を頼りに。
わたしは矢坂くんに導かれるまま、大通りへと繰り出していた。

「はぁはぁ……っ」

胸が苦しい。
でも今、足を止めたら、死の運命に追いつかれそうな気がしてがむしゃらに走った。
大通りを一気に駆け抜けて、あてもなく走る。
春の花咲く通りで、午後の陽射しが心地良い。
そうして、いつもとは違う道を通り、彼の後ろを駆けていくと、駅に行き当たった。

「……そ、そうだ。駅前なら、時間が分かるはず……!」

わたしは乱れた呼吸を整えると、駅の電光板の時刻に目をやった。
一六時三十五分。
死の運命から一分過ぎている。
わたしは何とか、死の運命を変えることができたんだ。

「桃原、良かったな」

矢坂くんの声がした。
わたしは振り向く。
春のような心を巡る、一筋の光明を見たような心持ちで。

「ありがとう。矢坂くんのおかげだよ」

振り返ったわたしは思わず、目を瞬いた。
そこには、矢坂くんの姿はなかったから。

あれ……?

ほんの一瞬だった。
ほんの一瞬、目を離したら、つい今までわたしの横にいた矢坂くんがいなくなっていた。

「矢坂くん……?」

一体、どういうことなのだろう。
先程まで、そばにいた矢坂くんが見当たらない。
少なくとも……。
分かっていることは、この状況にわたしの心臓はこの上なく跳ねているということだけだった。

「ふええ……。矢坂くん、どこにいるの?」

いてもたってもいられなくて、必死に駆け出していく。
駅前の周囲を散々、探し回った。
でも、走れば走るほど、振り切りたい現実は鮮明になっていく。

矢坂くんがどこにいない。
一向に見つかる気配はない。
まるで、最初からいなかったように。

汗が出るほど、必死に走って。
それでも身体は不思議なほど、冷たいままで。
わたしは息を切らしながら走り続ける。
気づけば、駅前に戻ってきていた。

「はあはあ……」

力が抜けてベンチに座り込んだ。
――その時だった。

「桃原、ここだ」
「えっ!?」

声が思わず、裏返る。
矢坂くんははるか上――駅前の屋根の上に立っていた。
簡単に登れる場所ではない。
しかも、そこから飛び降りて、彼はわたしの目の前に降り立った。
運動神経が抜群という話ではない。
嫌でも、周囲からの視線を感じてしまう。
そう思った直後。

――静寂に包まれる。

すべてが、すべてが止まっていた。
周りの人たちも、車も、まるで時間が止まってしまったかのように、すべてが固まっている。