(つまず)きかけて立ち止まる。

歩道橋の上の平坦な道に何を躓くものがあったのだろう。

多分小石だろう、と思って確認はしない。
そのまま走る気にもならなくて、スマホで時間を確認した。

午前0時17分。

「だめだ……いっちゃったあ……」

溜息と共に、階段を走って昇り乱れた息を整える。

この歩道橋を降りれば駅はもうあと少しだった。

あと3分。いや、5分早かったら。

「終電、間に合ったのになあ……」

はあ、とため息をついて独り言をこぼす。

昼間に比べて通りゆく人々もまばらになった、歩道橋の上。
欄干に手をついて空を見上げる。

タクシーで帰る?

いや、そんなんしたら今日のバイト代もったいないじゃん。

──残業までしたのに。
その残業が、私に最終電車を乗せてはくれなかった。

『遅番のやつがバックれたから洗い場まわんなくて困っちゃったよ。手伝ってくれる?』

手伝いますよ、と言ったのは私だ。

『助かるよ、優ちゃん! ほんといい子だよねえ、ありがとう!』

終電に間に合うように切り上げればいっか。

そう思ったのに、突然店が混んでなかなか抜け出せなかった。

慌てて着替えて店を出たら、この有様。

──"いい子"なんて。

言われて嬉しいわけじゃない。

溜息が落ちた先を見たくなくて、顔を上げる。

ずっと周りの人の顔色を窺ってる気がする。
私は私なりに頑張ってるつもりなのに、そこから「もっと」と言われて頼られたら、うまく抜け出すことができない。



日付を越えた夜空を見上げると、大きな月が昇っていた。

満月なんだ。
綺麗だな、と思った。


──"月が綺麗ですね"が隣にいる人に向けてのアイラブユーならば、一人で呟く"月が綺麗だなあ"の翻訳は

「疲れたなあ……」

に違いない。


どうやって帰ろうか今からどうしようか。
そんなこと考えるのを月の綺麗さに思考を放棄したその時──

「ちょ、ちょおきみっ、ストーップ」

「わ、わわ」

 突然首根っこを掴んで欄干から引き剥がされた。

「……え?」

そこには、まったく知らない男の人がいた。

真面目で優等生が看板の私とは正反対の金髪。
私の首を掴んだと思われる手には、タトゥーがあった。

関わったことないような人種。多分ヤンキーとかホストとかそういう、むしろ関わりあいになりたくないタイプ。

そんな人が、なぜか私の目の前で──

慌てたような、困ったような顔をしていた。

「……な、なんですか?」

「え。だってきみ、なんか」

低い声は、思ったより優しい響きをしていた。


「──なんか、飛び降りそうだと思ったから」


なにそれ。

あ、つまり私の独り言『疲れたなあ』を聞いてたってこと?
それで慌てて──こんなチャラそうな人が──私を心配して、欄干から引き剥がしてくれたってこと?

そう思うと、なんだか笑えた。

優しくなさそうな見た目と、優しい理由に警戒心が吹っ飛んだ。

「あははっ。大丈夫ですよ、誤解です」

「え? ああ、そうなの? ごめんね」

その人は少し気まずそうに、後ろ髪をかいた。
明るい満月のおかげで、その整った顔がよくわかる。

今まで接したことのないタイプだから怖かったけど、顔はかっこいい。

心配させちゃった。
独り言も聞かれちゃって、恥ずかしいな。

昨日はついてない日なのかもしれない。

「……私、大丈夫なんで」

「──そっか」

「わっ!?」

答えた瞬間、手を引かれて驚いた。
タトゥーの入った手が私の手を掴んでいる。

「じゃあ、今からちょっと遊びにいかない?」

「へ?」

理解ができない。

「だから私は……」

言いかけた私の目の前で、そのチャラそうな男の人は人のいい笑みを浮かべた。

「あーごめん。俺、女の子の言う大丈夫だけは聞こえない耳してんの」

「ええ!?」

「もうこの駅終電終わってるからいいよね〜? じゃあっ、行こっか!」

「えええ!?」

目の前で金髪が揺れた。

「ちょっ、ちょっと、突然!」

私の手を引いて揺れる金色の後頭部。
大学にも明るい髪の人はいるけど、こうして夜に……。
目の前の丸い金色の後頭部が、先ほど見上げた月と重なる。

「ねえきみ、名前は?」

「ゆ」

言いかけて止まった。
反射的に名乗ろう、として……こんな人にいきなり名前教えて、大丈夫?
そう思って、止まった。

「え? ゆ? ……じゃあ、ゆちゃって呼ぶね!」

意外とギャルっぽい名乗りすんだね、と。

気を害さなかったような返事に逆に戸惑った。
何その適応力?

「じゃあ俺はピッピって呼んで〜。ほら、女の子って好きピ、とか彼ピ、とかって言うでしょ? あれ可愛いから、ピ」

「え、ええ?」

歩道橋の階段を降りる時、そっと降りやすように手を組み替えられたけど──離しては、くれない。

「ほら、〇ケモンっぽいでしょ? ピッピって可愛いし。知ってるかな? ポケG〇とかやらない?」

「や、やらない」

やらないし知らない。
──だってずっと、"いい子"だったから。
ゲームだってあんまりやってこなかった。
〇ケモンは〇カチュウとイ〇ブイぐらい知らない。

私の困惑を無視して、男の人は呑気に笑ってる。
歩道橋の階段が終わる。

二人で地上降りた。

タトゥーが入った手は、まだ私の手を掴んでいる。

「とりあえず俺、お腹すいちゃったあ。ご飯ついてきてくれる?」

「えええ?」

なんかさっきからそれしか言ってない気がする。

男の人の言葉は疑問系なのに、その笑顔には断れない雰囲気があった。

金髪にタトゥー。その見た目が怖いからじゃなくて──低い声が耳に心地良かったせいだと思う。



終電を越えて歩く繁華街を全然知らない。


バイトが終わったらまっすぐ家に帰って、また次の日大学に行く。

飲み会だって行くけど、"しっかり者"で"いい子"だから、そこそこ遊び終わったら帰るし、私は夜の街を知ってるわけじゃなかった。



「俺ここのラーメン好きなんだよねえ」

繁華街のビルの一階。大きい提灯。他のお店に劣らない眩い照明。
ラーメン屋の前で男の人は立ち止まった。

あ、ここ。夜しかやってないお店。
インスタで知ってはいるお店だった。

けど時間的に、夜は大抵居酒屋のバイトだし、バイト終わりでも夜に食べるにはハイカロリーが過ぎる。


「いらっしゃいませー。奥のカウンター席にどうぞー」

引っ張られただけとはいえお店に入ってしまったからには、もう隣に座るしかない。

「俺味玉にしよ。人気ナンバーワンだって、きみもこれにする?」

「だ、大丈夫です……」

油断したらすぐ太る。
女の子が女の子として認められて生きるのって大変なのだ。

「自分で頼むし、大丈夫です」

……太るの怖いとはあえ、さすがに何か頼まなきゃいけないよなあ。

え、奢り? 
それなら安いメニューのほうがいい?

メニュー表のサイドメニューを眺めていた時に、彼が小さく手を上げた。

「味玉ラーメン二つくださーい」

戸惑う私に彼がにこっと笑った。
カウンター席のせいで顔が近い。

「言ったでしょ? 俺に女の子の"大丈夫"は聞こえないって」

なんて返事をしようか迷っている間に、同じラーメンが二つ目の前のテーブルに置かれた。

「勝手に頼んじゃってごめんね。余ったら俺食べられるくらいお腹空いてるから」

……初対面の人の食べかけなんて食べれる?

初めて入ったずっと気になっていたお店のラーメンは、バイト終わりということもあってお腹の空いていた私の胃に、綺麗におさまってしまった。



「背徳がすぎる……」

お腹いっぱい。

どうしよ、至福。

お店を出て思わず一息つくと、男の人が笑った。

「おいしかったみたいでよかった。じゃあ、次」

「え!?」

次!?
ここで解散じゃないの!?



「お腹いっぱいになったところで、ちょっとチルりに行かない?」



誘い文句はやっぱり疑問系だったけど、同じ温度になって繋がれた手を、私は振り払うことができなかった。




──今度連れてこられたのは、ビルの地下だった。

「ハタチだよね。よかったよかった」

入口で年齢確認をされて連れてこられたのは──

「やっほ。俺の連れ、ちょっかいかけないでよ」

──シーシャバーだった。

薄暗い店内は、嗅いだことのないにおいがした。

今まで立ち行ったことのない空間。
ソファの置かれたフロアは駅前にある純喫茶みたいだ。
お客さんは私と歳の近そうな……けど今まで関わったことのない、彼と同じ夜のいきものような雰囲気の人ばかりだった。

「はじめて?」

プロジェクターで映し出される知らない映画。

「はい」

頷いて、案内されて座った。

インスタでフォロワーの多いお店らしくて、入り口はいろんなスクショの写真が貼られていた。

ソファー席の隣。

さっき会ったばっかりの男の人。
タトゥーが入ってて金髪で、チャラそう。
なのに私の顔を真剣に見て、静かな声で私に聞いた。

「怖い?」

──大丈夫? じゃ、ないんだ。

その質問に、彼の優しさを感じてしまった。

「……すこし」

「やめる?」

目の前にインスタでしか知らなかったシーシャが置かれている。

「やめない」

──『あんなもの煙草でしょ、悪い子がするものよ』
誰かが言った言葉を思い出して──振り払った。

「してみたい」

大丈夫、とは答えなかった。

「……合わなかったらすぐ外出よ」

そう彼は言った。

「じゃ、肩の力抜いて。息吸って──」

冬でもないのに白い息を吐き出した。


「リザード○みたい」

「お、知ってるじゃん」

慣れた手つきで煙を吐き出して、彼は笑った。

──とんでもない夜に迷い込んでしまった。

知らない世界の、知らない街みたい。

煙が晴れた視界に、私に笑いかける"ピッピ"の姿が映った。




「私、ずっといい子だったんです」

話し始めた私の言葉を、彼は遮らなかった。

「真面目に勉強して大学行って……バイト先でも、真面目でいい子で通ってて」

だから。

「頼られたら断れなくて……いい子って言われて信頼されたら、裏切れなくて。それで今日、バイト終わっても手伝ってたら……終電、逃しちゃって、なんかうまくいかないなあ、って」

聞いてるよ、とばかりに頷かれた。
もう手は繋がれてない。
この人が、この空間が嫌だったら逃げ出せる──。

「真面目に生きてるのに報われない……いい子でいるのに、なんかひどいなあ、って思ってたけど」

──それでも私は離れない。

「…………思ってもみない体験しちゃった」

「大丈夫?」

今大丈夫だと言えば、彼は聞いてくれる気がした。
だからそう答えなかった。

「はい。……悪くないかも」

さすがに出会えてよかったとはまだ言えなすぎる。




けど──日付を超えて夜の中で朝を待つ……ううん、朝を待つことなくただ夜を楽しむ日なんて、きっとあのままじゃ知らなかった。




「ちょっと、くらくらする」

「はは。本当に初めてなんだな」

地上に戻って、空を見上げる。
歩道橋で見上げた時よりも、月が傾いている気がした。

「ゆちゃんって見てて気持ちいいよね。ラーメンの食べっぷりもよかったし」
「あれは思ったより美味しかったから……!」

スカウトやナンパが怖くて一人では歩きたくない繁華街も、金髪にタトゥーという彼のおかげか、誰も声をかけてこない。

「おはよー!」

チャラそうな男の人が突然声をかけてきてびっくりした。

「この前楽しかったなあ!」

それが隣にいる彼に言っていると、彼が答えるように上げた手で気がついた。

「やほ、久しぶり〜! また今度飲もっか」

彼の返事にハイタッチして、それからその人は私を見た。
目が合う。ピアス、ばちばち。

「お、可愛い子連れてるじゃん」

「この子は俺の友達」

タトゥーの入った手が私を守るように前に出された。

「怖がるから絡まないでよね」

はいはい、とその男の人が私から視線を逸らした。
友達なのだろう。そう思えば、ピアスばちばちのその人も怖くなかった。

「おはようございます」

「え、オレ!? おはよー! ……めっちゃいい子じゃん!」

夜は挨拶ができるだけで褒めてくれるらしい。
優しいなあ、と思うと同時に、この人たちは暗くなった時間が『おはよう』の時間なんだな、と感じた。

彼はまた後ろ手で髪をかいて、それから「行こうか」と私の手を引いた。

私は頷いて、引かれるその手に従った。
宛なんて知らない。
ないのかもしれない。
彼の手の甲のタトゥーは、まるで夜の道標みたいだった。

「行きましょ、ピッピ」

ふざけた名前だけど、もう呼ぶのに躊躇いも恥ずかしさもなかった。




シャッターの閉まった商店街を二人で歩いていると、マットを広げて座っている男の人がいた。

「よかったら見てください」

人通りが少ない商店街で、その言葉は私たちに向けられているのだろう。

「シルバーアクセサリーだって」

ピッピが足を止めて、それからしゃがみこんだ。
その横に私もしゃがむ。

一個千円、と書かれた段ボールのボード。
マットの上に並ぶアクセサリーのトレーの上には、デザインの違う銀色の指輪がたくさん並んでいた。

「ゆちゃ、ほしい?」

「うーん、可愛いんだけど」

あの月の形をした石のやつなんて可愛い。ぷっくりとした透明に七色を重ねた色をしている。

けど、

「私イエベだから、シルバー系似合わないんだよねえ」

石の下のリングの部分が銀色だ。
せっかくだから買いたい気持ちもあるけど、買ったところで着けない気がする。

「これ、ください」

ピッピが指差したのは私が目を留めた指輪だった。

「え、ちょ」

差し出された千円札を男の人が受け取った。
それからピッピがタトゥーの入った手の指先で、月の形をした足がついた指輪を丁寧に抜き取った。

「イエベとかブルベとか気にしなくていいよ。ゆちゃは可愛いからなんでも似合う」

「そんな……」

握らされて、指輪の冷たい温度に戸惑う。
着けていいものだろうか。

「その指輪についてる石ね、ムーンストーンっていうんですよ。天然石なんです」

「ムーンストーン……」

指輪のトップについた、ガラスとは違う透明な色の石。
私の手の中で角度によって光の色を変える石を、ピッピが覗き込んだ。

「へえ、"つきのいし"かあ……いいじゃん」

月の綺麗な夜に──こんな夜にぴったりの石だ。
ローズクォーツとかアメジストとかは知ってたけど、これは知らなかった。

「天然石っていうのはそれぞれ石言葉っていうのがありまして、そのムーンストーンは──……あ、いらっしゃいませ」

男の人の声が途切れたのに顔を挙げると、私たちの横に、どう見てもカップルの男女が立っていた。

行こうか、と促すように立ち上がったピッピに従って立ち上がる。

商店街で立ち止まって、ピッピが私に聞いた。

「着けようか?」

「大丈夫」
自分で着ける。

私は指輪を手に取って──

「大丈夫って、言ったね」

──そう言ったピッピが、私の手から指輪奪って、それから私の左手を取った。

「俺が着けたげるよ」

私の左手に、銀色の指輪が着けられた。

「…………綺麗」

商店街の照明の下で、手の動きに合わせて色を変える光。
意外なことにサイズはちょうどよかった。

「似合うよ」

ピッピが私を見ていた。

「ゆちゃ」

今までの人生で誰にも呼ばれたことない呼び方。
だから私も同じように呼びたくなった。

「ねえ、ピッピ」

この夜が明けてしまうのが惜しい。

なかったことになってしまうのだろうか。

本名も連絡先も知らない。

私たちはただ、一緒に食べて、遊んで、手を繋いだだけ。

そう遠くない場所に、寝泊まりできる場所があるのを知っている。

「私、このまま──」

「駅まで行こうか」

私の言葉を遮って、ピッピは言った。

「ゆっくり歩いて行ったら、始発にちょうどいいよ」

ああ、もう、そんな時間なんだ。

スマホを取り出して時間を確認した。
午前4時8分。

「うん」

自然と手を繋いで歩き出した。
私から繋いだかもしれない。


繁華街を離れる。人が減っていく。

歩道橋に差し掛かる。
階段を昇る時、さりげなく手が組み替えられた。

優しい人なんだな、と思う。
優しい人だった。

階段を終えて、私は立ち止まった。
駅はもうすぐそこ。


「ねえ、ピッピ」

「ん?」

──なんて言おう。

その顔に、月の色の金髪に、夜の道標みたいなタトゥー。
──名前も知らないあなたに、なんと言おう。
この夜のお礼? それとも、連絡先(これからのこと)

逡巡した私に、ピッピは微笑んだ。

「…………大丈夫だよ」

え?

聞き返す前だった。

視界が彼いっぱいになって、それから唇に感じた温度が離れて、キスをされたのだと気が付いた。

手を繋ぐより近い、鼻先が触れ合うような距離。

「大丈夫って、言わせない方が早いなって」

ずるい。

こんなキスをされるなんて。
どうなっていい気がした。このままどこにだって行ける気がした。

このキスの感情は、

「……欲情?」

きっと私の覚悟は伝わってる。
頷かれたら、電車に乗らなくってもよかった。

もう誰が決める"いい子"でいる必要なんてない。

「愛情だよ」

ピッピが微笑んだ。

「大丈夫だよ。きみがいい子なのをお天道様が見逃しても、月がちゃんと見てるから。大丈夫」

その優しい言葉を聞いてわかった。

きっとこの歩道橋で出会った時、本当に私は飛び降りそうな顔をしていたのだろう。

だから彼はこうして、一緒に過ごしてくれた。

楽しい夜の歩き方を教えてくれた。

「ねえ、ピッピ私」

「俺みたいな男は」

自分でもなんと言おうとしたかわからない。
正しいこともわからず勢い任せに開いた方だった。
まるで言わせないというように、ピッピの声が遮った。

「火遊びくらいがちょうどいいんだよ。花火みたいなもんだと思って」

それじゃ一夜で消えちゃうじゃない。

悲しい言葉に、なんと返せばいいのかわからなくて少し俯く。

「ねえ、見て」

彼が歩道橋の外を指差した。顔を上げる。

終電を逃した数時間前、一人でため息をこぼしていた欄干の先。

0時過ぎの月が昇っていた暗い夜空は、午前4時をすぎてすっかり顔を変えていた。

「綺麗な朝焼けだよ」

紫とオレンジの薄いグラデーション。
水平線の先の光の気配。
夜明けの寸前。

──この時間には、確か名前があった。

魔法のような美しい時間。

「マジックアワー……」

名前を思い出して、ハッと顔を戻す。

そこにはもう──

「……ピッピ……?」

私の目の前には、もう誰もいなかった。

先ほど触れる距離にいた彼の姿はもうそこにはない。

「え……?」

まるで魔法のように消えてしまった。



欄干に手を乗せて下を見る。駅から、電車の走る音が聞こえて、スーツ姿の人たちが出てきていた。
そこには黒髪の人ばかりで、金髪の姿はない。

「…………行っちゃった?」

空を見上げる。月はもう見えない。

夢だったんじゃないか。幻だったんじゃないか。
そう思って、欄干に乗せた自分の手を確認する。

そこには確かに、ムーンストーンの付いた指輪があった。

──大丈夫。

その石は昇ったばかりの朝日を浴びて、先ほどとは違う色に光った。






もうそろそろ上がりの時間だ。
そんな気持ちで店内の壁かけ時計を見た私に、店長の声が投げられた。

「ごめん優ちゃーん! 今日の遅番、今これないって電話あって、ちょっと手伝ってくれるー?」

遅番、新しい人だったっけ。
しょうがないか。

「わかりました。ちょっとならいいですよ」

「ほんと真面目で助かる!」

いい子だよねえ、と言われた言葉をさらりと流して、言われた洗い場を手伝う。
そろそろ気になる時間になってきた。
店長が顔を出してきた。

「もうちょっと大丈夫?」

「大丈夫じゃないです」

帰ります、と言って仕事を一区切り。
私は私がやるべきところまで。なんならプラスアルファを終えた。

「お先に失礼します」

引け目なんて感じる必要ない。
私は私がやれるところまでやったのだ。

「ありがとうね!」

店長は気持ちよくそう言って、「助かったよ!」と言って店を出る私に手を振ってくれた。

駅まで続く歩道橋に向かって歩く。

スマホで時間を確認する。
まだ日付が変わる前だ。これから走る必要はなさそう。

歩道橋を昇って、それからその上で立ち止まった。

……下弦の月。

いつのまにかすっかり名前を覚えた月の形。
その柔らかな光に、付けている指輪をかざす。

ムーンストーン。

似合わないと思っていた銀色の指輪も、着けているうちに見慣れてすっかり馴染んだ。


──そういえばこの石には石言葉があるって言ってたっけ。


終電の迫る時間になっている。
それでもどうしても気になって、歩道橋の上でスマホを取り出して検索を始めた。




fin.

(その石言葉は"恋の予感")