僕はお昼寝していた。
侯爵家の子供部屋は明るく清潔だ。赤ちゃん専用のベットはふかふかで、窓から差し込む春の日差しは柔らかで暖かい。
ぽかぽかふかふかしたものに包まれて、いい気持ちだ。
毎日幸せ。
それなのに、いい気分でうたた寝をしていた僕に、突然の悲劇が襲いかかった。
パシャン……!
「ふっ……ふぇっ!ふぇええーーーんん!!」
あろうことか、いきなり頭から冷水を浴びたのだ。
あまりの冷たさに驚いて、声を上げて泣き出してしまう。
いくら侯爵家の長男とはいえ、生まれて数ヶ月の赤ちゃんなのだから仕方ない。
「マリウス様!申し訳ございません!まあ、大変!ずぶ濡れ。大丈夫ですか!?」
乳母のクレアは真っ青だ。
手を滑らして僕に花瓶の水をかけてしまったらしい。乳母といってもまだあどけなさが残る若い女性である。
手早く僕の顔と頭をタオルで拭くと、新しい産着に着替えさせた。
それでも顔を真っ赤にして泣き止まないものだから、こうなるとクレアでもお手上げだ。泣く子と地頭には勝てぬとはよく言ったものである。
「マリウス様、すぐにシーツも替えますよ。少しがまんしてくださいね」
よしよし、と抱っこした僕の背中を優しくぽんぽんする。
そしてそっとベットに仰向けに寝かせると、濡れた産着とシーツを抱えて、急いで部屋を出て行った。
ひとり部屋に残された僕はまだ泣いていた。
だが人とは面白いもので、あまりに懸命に泣いていると何が原因で泣いていたのか、自分でもわからなくなる時がある。
これは赤ちゃんも同じであった。
「ふぇええーーーんん!!ふっうっうっ……あ……れ?何で泣いてたんだっけ……?そうだ、サボテン枯らしちゃったんだ……」
大切にしていた小さな鉢植えのサボテン。
丸っこい頭のてっぺんにぐるりと王冠をかぶったように、黄色の小さな花が咲いていた。
「可愛がっていたのに……大事にしていたのに……。仕事が忙し過ぎて鉢植えを枯らしまっくって……」
小さな僕の脳裏に次々と前世の記憶が蘇る。
社畜サラリーマンで、休日出勤と残業だらけで全然休みなんてない。
ささやかな趣味だったガーデニングだって、満足にできなかったし……。
丈夫なサボテンまで枯らすなんて、なんて悲惨な人生なんだ……。
「あうっ……ううう……」
情けない……もうヤダ!こんな人生。絶対に今度は枯らさないぞ!次の人生こそは、のんびりゆったり大好きな花と緑に囲まれたスローライフを送るんだ。
そうだ……今ならできる!
侯爵家の長男ならば!
毎日草花や野菜、果樹を育てて、大好きなことだけして暮らすんだ!!
決意した僕はうれしさのあまり、ベッドの上でコロンコロンと寝返りを打った。
その時、頭の中でかちりと音がして、小さな声がした。
【スキル発動条件、満了】
うん?なんだ?気のせいかな?
嬉しすぎてあまり気にならない。
だけど、うふふと笑って気が済むまでコロコロしていると、視界に青い何かが映った。
「あや……?」
まだまだ上手く話せないが、目で物体を目視するのは得意だ。僕はベッドに横向きに寝たまま、床に落ちたものをジッと見つめた。
それはクレアが落とした花瓶とわすれな草だった。淡い水色の花は無惨に白い床の上に散らばり、ぐっしょりと濡れていた。
確かわすれな草の花言葉は、『わたしを忘れないで』だったかな。男のくせに花言葉を知ってるなんて、どうなの、とか男女問わず煙たがられたけど構うもんか。
好きだったことは、転生しても忘れない。
ひょっとしたらこのわすれな草の水をかぶったおかげで、前世を思い出せたのかもな。
なのに、こんなにしおれてしまって、かわいそうに……。
「あだあだ」
僕は片言で、『ごめんね。青い貴婦人さん』と謝ったつもりだった。
だってそのわすれな草は、貴婦人のように凛として気品があり、美しいと本気で思ったからだ。
すると、またあの声がした。
【スキル、『花言葉』発動】
え……?
うわっ!まぶしい!
次の瞬間、信じられないことが起こった。青い光が僕を中心に部屋中に広がったのだ。
わっ!わっ!なんだ?何がどうしたんだ!?
その光は湖の波紋のように波打ちながら、穏やかに広がってゆく。
そして青い花びらがキラキラ輝きながら部屋中を舞い踊る。
僕の体から出ているのか、この光……?
だけどひときわまばゆのは、床に落ちたわすれな草だった。
目が徐々にまぶしさに慣れていく。必死で光の中心を見つめてみる。
すると青い光は揺らめきながら、少しづつ人の形になってゆく。
光がようやく収まった時、わすれな草が落ちていた床に、長く青い髪の美しい女性が佇んでいた。
深緑のドレスにスカイブルーの美しい瞳は、優しく僕を見つめている。
だ、誰?どこから入ってきたの?何でこの部屋にいるんだ?どうして……?
まさか、こ、この人はわすれな草?
わすれな草の精霊が実体化したのか!?
僕はものすごく驚いた。だってこんなことは生まれて初めてだ。まあ、生まれて間もないけど。
いや、そうではなく!
目の前に知らない美人がいる!しかもどうやら僕のせいらしいんだ!!
さっき片言でつぶやいたのがいけなかったのか?青い貴婦人さんって……!?
「何かしてほしいことがありますか?」
気が動転して、頭を両手で抱えコロンコロンと寝返りを繰り返す。
そんな僕に、青い貴婦人は穏やかに尋ねてきた。
さらに仰天すると、彼女はまた同じ質問をする。
うう~ん、困った。別にしてほしいことってないし。でもせっかく親切に言ってくれているのに、何もありませんっていうのも悪いし。
あ、そうだ。これなら。
「あうあう」
こんなお願いでもいいのかな、とおそるおそる頼んでみた。
『花瓶を元に戻して』と。
すると精霊は割れた花瓶に両手をかざす。明るい白銀の光が花瓶のかけらに降り注ぐ。
バラバラになったかけらたちはカタカタと音を立てながら元の花瓶の形に戻っていった。
「あうー」
僕は驚嘆のうなり声を上げた。
すごい!割れた花瓶が復元したよ!
僕の言葉がわかっているのだろう。
青い貴婦人は満足げに微笑む。そして銀色の粒子になると、わすれな草の姿に戻っていった。
部屋は静まり返り、何事もなかったように花瓶にわすれな草が春の日差しに輝いていた。
なんだか夢を見ていたみたいだ。今の出来事は一体……。
僕はぼんやりとそんなことを考えていた時、突然、静寂を破るものが現れた。
「坊ちゃま……?これは何のおたわむれですか???」
モップを持って戻ってきたクレアが、一部始終を目撃してしまったのだった。


