グラスの氷がカランと音を立てたとき、腕時計の針は23時52分を指していた。口元に運んだジンジャーエールはすっかりぬるく、甘さだけがべたつくように舌に残る。

 耳に届く同僚たちの甲高い笑い声と、室内にこもる熱気が妙に頭に響き、私は薄暗い個室でそっと息を吐き出した。会社での疲労と、この場に馴染めない焦燥感が、重く胸にのしかかる。

 早くこの場を立ち去りたい、けれど、このまま終わってしまうのは嫌だ――そんな矛盾した思いを抱えながら。


 水瀬(みなせ)(はるか)、二十四歳。都内の商社に入社二年目の私は、慣れない都会での一人暮らしと、責任ばかりがのしかかる仕事のプレッシャーに、心底うんざりしていた。特に、人間関係には気を遣いっぱなしだった。

 先日も、企画書に些細なミスがあっただけで、部長から延々と嫌味を言われた。その間、同期は皆、見て見ぬふり。助け舟を出してくれる者など誰もいなかった。
 会社の飲み会も、常に上司の顔色を伺い、同期に愛想笑いを振りまくばかりで、心から楽しめることなんてほとんどなかった。

 今日の飲み会も、盛り上がっているのか疲れているのか、よく分からない空気がただ続いていた。隣で聞こえる同期たちの楽しそうな声も、私にはなぜか遠い世界の音のように響く。
 私はただ、この場所から早く抜け出したい、そればかりを考えていた。


「ねえ。水瀬ちゃんって、いつも静かだよね〜。でも意外と、酔ったらはしゃぐタイプだったりして?」

 隣の同期が、陽気な調子で肩を小突いてくる。正直、そんな気分にはなれない。愛想笑いを浮かべながら「え、そんなことないですよ……多分」と曖昧に答える。

 同期は「え〜、真面目〜」と笑い、グラスの水を煽った。その乾いた笑い声が、やけに遠く聞こえる。

 私は気づかれないように、スマホのロックを解除した。時刻を確認し、思わず息を呑む。

 ……やばい。終電まで、あと数分しかない。

 お店の場所は駅からやや離れていて、普通に歩いたら間に合わない。焦りが胸を締めつける。私は慌ててバッグを手に取り、上着に袖を通す。

「……すみません。私、そろそろ電車が」
「あ〜! 水瀬ちゃん、終電族なんだ? そっかー、じゃあまたね〜」

 軽く手を振られ、私は小さく会釈をして店を飛び出す。その瞬間、解放感と共に、言いようのない孤独感が胸に広がるのを感じた。


 外に出ると、思っていたよりも風が冷たい。十二月上旬の夜は、肌を刺すような寒さだ。吐く息は白く、体が一気に冷えていく。

 夜の街はまだ賑わっているが、人通りはまばらで、ハイヒールの音が乾いたアスファルトに寂しく響く。

 できるだけ急ぎ足で歩くものの、疲労が溜まった足元は鉛のように重く、なかなか前に進まない。

 ようやく駅が見えてきた――と思ったそのとき、ホームへと続く階段の上から、バタンとドアが閉まる無情な音が聞こえた。慌てて階段を駆け上がったけれど、目の前で電車は、白い吐息を残して走り去っていった。

 ガタン、ゴトン……と、遠ざかる電車の音が、私の絶望をあざ笑うかのように響く。

「……はあ、最悪……」

 こぼれた声は、誰に聞かれることもなく、冷たい空気に吸い込まれていく。
 これからどうしよう……と思い、とぼとぼと駅の改札を出たそのとき。

 ――ザーッ!

「えっ!?」

 突然、雨の音が聞こえてきた。アスファルトに当たる雨粒が、小さな水飛沫を上げる。

「うそでしょ……私、傘持ってないのに……」

 コートの肩が、じっとりと濡れていくのを感じる。あっという間に髪にも水が滴り、頬を伝う。

 人通りが引いた駅前には、雨に濡れるのを避けるように駆け込む人影もまばらだ。遠くに見えるコンビニの蛍光灯だけが、やけに白く寂しく光っている。普段通りの日常が断ち切られた焦燥感と、行き場のない孤独感に苛まれた。

 私は、肩をすくめて歩き出す。どこに向かうのかもわからないまま。ただ、ここにはいたくない……それだけだった。

 ヒールの音が寂しく路地裏に響き、雨音が現実から私を隔てる膜のように聞こえた。濡れたアスファルトが街の光をぼんやりと映し出し、世界が滲んで見える。

 そのとき、ふと視界の端に、街のネオンとは違う、やわらかな琥珀色の灯りが見えた。

 ――この場所……。

 どこか見覚えのある場所に、私の足は自然と向かっていた。そこには、古びた木の看板が静かに佇んでいる。

 《Café Earl Grey》

 ……あれ? このお店、昔は違う名前だったような。
 ここは、私が高校生の頃に友達と試験前に何度か来たことがある、小さなカフェ。

 「アサノ珈琲」――たしか、当時はそんな名前だった。あの頃の私は、このカフェで参考書を広げながら、大学生活や将来に漠然とした夢を抱いていた。

 まさか、こんな時間まで開いているなんて知らなかったな。もしかしたら、金曜日だけ深夜営業しているのかもしれない。

 ガラス越しに見える店内の明かりは、どこか温かくて。扉の向こうからは、コーヒーの香ばしい匂いがゆらりと漂ってくる。

 寒さと雨に打たれ、冷えきった私の体が、その匂いに引き寄せられていく。

 気づけば私は、古びた木の扉に手をかけていた。カラン……小さなカウベルの音が、静かに響いた。

 中に入ると、ほんのりとした暖かさと、深く澄んだジャズの音が迎えてくれた。
 木目調のカウンター。小さなテーブル席。クリスマスを思わせるオーナメントの飾りつけ。懐かしいような、でもどこか洗練された空間に、私はそっと息をついた。

「いらっしゃいませ――……あれ?」

 ふと、カウンターの奥でカップを磨いていた男性が顔を上げた。
 店員の彼と目が合った瞬間、まるで時が止まったようだった。

 整った顔立ち、落ち着いた眼差し。少し長めの前髪はゆるく分けられ、温かい照明に微かに光るダークブラウンの髪が、知的で柔らかな印象を与えている。

 「うそ……」

 今、目の前に立っているのは、高校時代、私が密かに憧れていた一つ年上の先輩――椎名(しいな)暁人(あきひと)さんだった。

 いつも優しく、どこか掴みどころのない雰囲気を持っていた先輩。
 当時、廊下ですれ違うたびに、その涼やかな顔立ちに見惚れたり、文化祭での真剣な横顔に心を奪われたりしたものだった。
 私にとって彼は、手の届かない眩しい存在だった。

 あの頃は、どこか遠い存在に感じられた彼の整った顔立ちが、今はすぐ目の前で、わずかに驚きの色を浮かべている。


「……せん、ぱい?」

 声にならないほど驚いた私を見て、椎名先輩がふっと目を細めて笑う。その笑顔は、あの頃と少しも変わっていなかった。

「君、もしかして……水瀬?」
「はっ、はい。水瀬遥です」
「久しぶりだね。こんな場所で会うなんて、本当に偶然だな」

 夢を見ているのかと思った。けれど、寒さにこわばっていた指先が、椎名先輩の言葉で、じんわりと温まっていくのを感じる。モノクロだった世界に、再び色が戻ってきたようだった。

「えっと……たまたま、お店の前を通りかかって。でも、まさか、先輩がここにいるなんて……」
「雨、けっこう降ってるね。君、びしょ濡れじゃないか」

 コートから滴る雨の雫、濡れた肩。先輩は、私の姿を見てすぐに動いた。

「タオル、どうぞ。そのコートも、良ければ預かろうか?」

 椎名先輩が、カウンターの奥からタオルを差し出してくれる。彼の優しい声が、凍えていた私の心をじんわりと溶かしていく。

「え、あ……ありがとうございます」

 私はおずおずとコートを脱ぎ、先輩に手渡す。そのとき、彼の指先が私の指に触れ、ドキリとする。冷たかったはずの体が、ほんの一瞬で熱を帯びていくようだった。

 ――まさか、こんな夜に。こんなふうに、先輩と再会するなんて。

 疲労と絶望でどん底だった心が、一瞬にして跳ね上がった。
 高校時代、遠くから背中を追っていた憧れの彼が今、目の前で心配そうに微笑んでいる。

 数年の時を経て、大人になった私と彼。けれど、椎名先輩の笑顔はあの頃と変わらない、優しいままだ。

 この偶然はきっと、私にとってかけがえのない、特別な贈り物だと感じた。



「さあ、座って」

 椎名先輩に促されるまま、私はカウンター席に腰を下ろした。冷たい雨に打たれ、絶望的な気分だったはずなのに、今はまるで違う世界にいるようだ。

 先輩の優しい眼差しに、凍えていた心が少しずつ解かされていくのを感じる。疲労と驚きで、まだ頭の奥が混乱していたけれど、不思議と安堵感が広がっていく。

 椎名先輩は何も言わずに、私の目の前に温かいおしぼりを差し出してくれた。受け取る手がまだ微かに震えているのに気づいたのか、先輩は目を細め、そっと微笑む。

「ちょっと待ってて。今、カフェオレを淹れるから」

 そう言って、先輩はカウンターの向こうで手を動かし始めた。
 豆を挽く軽快な音、スチームの優しい音。心地よい響きが店内に満ち、私の心のざわめきを静かに鎮めていくようだった。

 店内は、落ち着いた琥珀色の照明に包まれている。天井から吊るされたアンティーク調のランプが、やわらかい光を投げかけ、磨き上げられたカウンターや、並べられたカップを静かに照らしている。

 外はまだ小雨が降っているようで、窓ガラスには水滴が斜めに走っていた。

 十二月に入り、東京の街には本格的な冬の気配が漂い始めている。通りに並ぶ街路樹には、小さなイルミネーションが灯り、商店街の飾りつけはすでにクリスマスモードだ。

 けれど今、このカフェの中だけは、まるで時間の流れが緩やかになったかのような、不思議な安らぎに満ちている。
 外の喧騒とは無縁の、私だけの隠れ家のような空間。この静寂と温かさが、雨に濡れ、都会の波に揉まれて疲れ切った私の心を、そっと包み込んでくれるようだった。

 夜中の二時前。店内には私以外にお客はおらず、窓の外の雨音と静かなジャズの音だけが響く。椎名先輩は、閉店後の片づけを終えたのか、少し余裕があるようだった。


「お待たせ」

 先輩が、カウンター越しにマグカップをそっと差し出す。ゆらりと立ちのぼる湯気から、甘いミルクと香ばしいコーヒーの匂いが漂ってきて、思わず深く息を吸い込んだ。

「いただきます」

 さっそく一口飲むと、カフェオレの温かさとまろやかさが、疲弊しきった体にじんわりと広がっていく。

「美味しい……私、カフェオレ好きなんです」
「やっぱり。高校生のとき、君が学校の自習室でカフェオレを飲んでるの、何度か見かけたことがあったから」
「えっ!?」

 うそ……先輩が、私を見ていてくれたことがあったなんて。驚きと喜びで、胸の奥がキュンと鳴る。
 カップから顔を上げると、椎名先輩は少し照れたように微笑んでいた。

「水瀬って、いつも静かに本を読んでるのに、時々ふっと笑ったり、眉間にシワを寄せたりするから。……気づいたら、目で追っていたんだよな」

――気づいたら、目で追っていた。

 何気ないであろう先輩の言葉なのに、私の心臓は大きく跳ねた。全身の血液が、一気に頬に集中していくように熱くなる。

 憧れだった先輩に、そんなふうに言ってもらえるなんて、夢の中の出来事のようだった。
 私は、口元が緩みそうになるのを必死に堪える。

「そういえばさ」

 コーヒーを一口飲んだ椎名先輩が、ふと、昔を懐かしむように宙を仰いだ。

「水瀬、覚えてる? 高校の自習室で、カフェオレをこぼした君に、俺がハンカチを貸したときのこと」
「……え?」

先輩が私に、ハンカチを貸してくれたときのこと? ……あっ。もしかして、あのとき?

 椎名先輩の言葉が、私の脳裏に忘れかけていた記憶を鮮やかに呼び覚ました。高校時代のあの日の光景が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。



 ――あれは、高校二年生の秋のこと。放課後の、夕日が傾き始めた頃。

 当時の私は、今よりもずっと不器用で、周りの目が気になって仕方なかった。テストで百点をとっても不安で、友達と話すときも言葉を選びすぎて疲れてしまう。成績も人付き合いも、すべてにおいて「完璧」を求めすぎて、いつも心に余裕がなかった。

 だから、図書室の隣にある、ほとんど誰も使わない静かな自習室が、私のお気に入りの場所だった。

 この日もいつものように自習室の机に参考書を広げ、集中力を高めようと、缶のカフェオレのプルタブに指をかけた、次の瞬間……。

『うわっ!』

 カシュッ、という乾いた音と共に、不意に手が滑ってしまった。

 開いたばかりのカフェオレは、容赦なく机の上に盛大に飛び散った。甘ったるい匂いが鼻を衝き、白い参考書の上にも、見る見るうちに茶色いシミが広がっていく。

 やばい……! 焦りと恥ずかしさで、顔から火が出そうになる。

 どうしよう。こんなところを、もし誰かに見られたりしたら……。

 ただでさえ目立つのが苦手なのに、こんな失敗、絶対に誰にも知られたくない。
 完璧でいなければならない、という強迫観念が、私をがんじがらめにしていた。

 教室に戻ってティッシュを取りにいく時間もないし。こうなったらもう、制服の袖で拭こうか……いや、それじゃあ余計にカフェオレが広がってしまう。八方塞がりで、ただ立ち尽くすことしかできない。

 震える手で、ただ呆然と飛び散ったカフェオレを眺め、私が途方に暮れていたそのとき。

『良かったら、これ使って』

 視界の端に、そっと白いハンカチが差し出された。ふわりと、どこか懐かしい石鹸の香りが漂う。

 ハッとして顔を上げるも、窓から差し込む夕日が逆光になり、相手の顔はよく見えなかった。ただ一つ分かったのは、彼が学ラン姿の男子生徒ということだけ。

『えっ、あっ……』

 あまりの動揺に、その人物が誰なのかを確認する余裕なんてなく。私は、目の前に差し出されたハンカチを受け取るだけで精一杯だった。



「嘘……あのときの男の人って、椎名先輩だったんですか?」

 今、目の前にいる椎名先輩が、あのときの記憶と、あの光の中に立っていた少年の姿と、鮮やかに重なった。

 当時の私は、焦りと恥ずかしさで顔を上げられず、先輩の顔をまともに見ることさえできなかった。ただ小さく「ありがとうございます」とだけ言って、ハンカチを受け取り、机を拭くだけで精一杯だったから。

 でも、まさかあの優しい手の主が、椎名先輩だったなんて……。

「あのときは慌てていて、先輩だと全然気づかなくてすみません」

 熱くなった頬を隠すように、俯きがちに言葉を絞り出す。

「まあ、あのときの水瀬はすごく焦ってたし、仕方ないよ。でも『ありがとう』って小さな声で言ってくれたの、今でもハッキリ覚えてるよ」

 先輩は、あのときのことをずっと覚えていてくれたんだ。その事実が、じんわりと胸に広がる。

 高校生のあの頃の小さな接点が今、こんな形で繋がるなんて。点と点だった過去の記憶が、一本の確かな線で結ばれ、未来へと伸びていくのを感じた。


「あの……ここって確か、昔は『アサノ珈琲』でしたよね? いつの間にか、名前が変わったんですね」

 私は、先ほどから気になっていたことを口にする。すると、先輩は嬉しそうに頷いた。

「うん。二年前にリニューアルして『カフェ・アールグレイ』って名前になったんだ。俺が今、ここで店長をしてるんだよ」
「……え、そうなんですか!? 先輩が店長だなんて、すごい!」

 驚きと尊敬の念が、声に乗って溢れた。

「まだオーナーじゃないんだけど、いつか自分の店を持つのが夢でさ。今は、ここで修行中みたいな感じかな」
「へえ。かっこいい……! 夢に向かって頑張ってる人って、本当に素敵です」

 そう言った瞬間、先輩の顔がほんの少し、驚いたように揺れた気がした。だけど、すぐに笑みを返され、先輩は何でもない様子で話し始める。

「ありがとう。……水瀬は? 今、どんな仕事してるの?」
「私は……商社で事務をやってます。二年目になって、やっと慣れてきた頃ですけど。最近は……ちょっと、しんどいですね」

 ネガティブな言葉は飲み込もうとしたけれど、なぜか先輩の前ではうまく取り繕えない。胸の奥にずっと溜め込んでいた疲労感や孤独感が、カフェオレの香りと共に、ふわりとこぼれ出そうになる。

「今日は、同期の子たちと飲みに行った帰りだったんです。楽しくないことはなかったんですけど、なんか……みんなのテンションについていけない自分が、すごく浮いてる気がして」
「……分かるよ。俺も、社会人になってすぐの頃はそんな感じだったから」

 先輩は、自分のマグカップをゆっくりと口に運ぶ。

「みんなが盛り上がってるときに、自分だけ違うところにいるような気がして、帰り道で無性に寂しくなるんだよね」

 先輩の言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
 私だけではなかった。椎名先輩も、そんな孤独を抱えていたなんて。この人は、ずっと“完璧な人”で、私とは違う世界の住人だと思っていたから。

 高校のときの先輩は、文武両道で、友達も多くて、いつも笑顔で誰にでも優しかった。そんな彼が今、私の目の前にいる。

 人に気を遣い、静かに夢を追いかける彼の裏で、誰にも見せない孤独や迷いを抱えている。それでも先輩は、前を向いている。その人間らしい一面が、どうしようもなく私の胸に響いた。

 憧れだった先輩への気持ちは、より深い親近感へと変わっていくのを感じた。


「……椎名先輩って、昔から人気でしたよね」

 つい口をついて出た言葉に、自分でも驚く。でも、もう止まらなかった。

「私なんて、いつも先輩のことを、ただ後ろから見ているだけで、ちゃんと話したこともなかったのに……。まさか、今日まで覚えていてもらえたなんて思わなかったです」

 カップの縁に視線を落とし、私は俯いた。胸がドキドキして、頬がじんわりと熱くなるのを感じる。

「うん……でも、俺も見てたよ。水瀬のこと」

 椎名先輩の声は、とても静かだった。でも、確かに、真っ直ぐ私の心に響いた。

「水瀬って、たしか文芸部だったよな? 学校の自習室の窓際で、放課後はいつも本を読んでて……俺、ああいう静かな雰囲気の子、いいなって思ってたんだ」
「本当に?」
「ああ、ほんとだよ。……高校のとき、君に話しかけようかなって、何度か思ったんだけど。結局、タイミングが分からなくて、卒業しちゃったんだよな」

 それは、信じられない言葉だった。あの頃の私は、自分なんて空気みたいな存在だと思っていたから。
 目立つのが苦手で、人付き合いも得意じゃなくて。椎名先輩みたいな人とは、住む世界が違うと、勝手に決めつけていた。
 
 そんな私が、まさか憧れの先輩の視界に入っていたなんて……。今まで抱えていたコンプレックスが、少しずつ和らいでいくような気がした。

「……あの頃は、先輩が眩しすぎて、遠くから見ているのが精一杯でした。でも、まさか先輩が私を気にかけてくれていたなんて、夢みたいです」

 私は顔を赤らめ、視線を逸らしながら、信じられない気持ちと、彼への憧れが混じり合った本音を漏らした。椎名先輩は、そんな私の様子を優しく見つめ、静かに微笑んでいた。

 この深夜の特別な時間が、二人の距離をゆっくりと、だけど、確実に縮めているのを感じる。

 まるで、冷えた心に温かいカフェオレがじんわりと満ちていくように、彼の存在が私の心を優しく包み込んでいくようだった。



 店内には、ジャズが静かに流れている。時計を見ると、もうすぐ午前三時になろうとしていた。

「……そろそろ、閉めるね」

 椎名先輩が、静かに告げた。

「え、もうこんな時間……すみません、長居しちゃって」
「ううん、大丈夫だよ。普段はもう片づけ終わってる時間だけど」

 椎名先輩は立ち上がって、カウンターの照明を少し落とした。天井のランプがふんわりと照らすだけの、ほの暗い店内。
 外の雨はいつの間にかすっかり止んでいて、窓の向こうに濡れた路面が光を反射している。

 私は席を立ちかけて、言葉に詰まった。

「ありがとうございました」と言って帰るには、先輩と過ごすこの時間が、あまりにも名残惜しかった。けれど、ここに長居する明確な理由も、もう見つからない。

「水瀬」

 先輩に名前を呼ばれて、顔を上げる。

「……電車、始発までまだ時間あるよね? 外は冷えるだろうし、良かったらもう少しここにいてもいいよ」
「……いいんですか?」
「もちろん。あったかいブランケットもあるし」

 柔らかな笑顔で、先輩はレジ下の棚からブランケットを取り出し、私に差し出してくれた。

「寒くない? 水瀬のコート、もう乾いたかな」
「はい、ほとんど乾きました。……ありがとうございます」

 私はソファ席に移動し、そっと腰を下ろす。ブランケットを羽織ると、緊張していた体がじんわりと和らいでいくようだった。

 先輩は、カウンターの中の片づけを終えると、マグカップに新しいカフェオレを注いで、私の前にやってきた。

「どうぞ。今度は、ラテアート付きで」

 そう言って差し出されたマグカップには、繊細なハートのラテアートが浮かんでいた。
 私は思わず息をのむ。こんなに美しいラテアートは、初めて見た。

「……すごい。これ、先輩が?」

 私は目を輝かせた。

「うん。最近ラテアートの練習してるんだけど、どうかな? 気に入ってくれたら嬉しいんだけど」

 先輩は、少しはにかみながら尋ねた。

 こんな夜遅くまで残って、疲れているだろうに。椎名先輩の気遣いが、温かく心に響く。

「ラテアート、すごく可愛いです」
「そう言ってもらえて、良かったよ」

 先輩は、私の向かいにあるソファにゆっくりと腰を下ろすと、少し照れくさそうに、だけど真剣な眼差しで私のほうを見つめてくる。

「あのさ……水瀬って今……誰かいるの?」
「え!?」

 唐突な質問に、思わず声が裏返った。

「ええっと……誰か、とは?」

 思わず聞き返しながらも、頬が一気に熱くなるのを感じる。

「その……恋人、とか……」
「い、いませんけど……ここ数年は、ずっと仕事ばかりで。誰かと付き合う余裕もなくて」

 私はマグカップを両手で包みながら、視線をカフェオレの表面に落とす。

 恋人の有無なんて、先輩ったらどうしてそんなことを聞くの?

「……そっか」

 椎名先輩は、ほっとしたように目を細めて笑った。

「それを聞いて……なんか、安心した」

 えっ。『安心した』って……それって、どういう意味で言ってるの?

 疑問に思い先輩のほうを見ると、彼とパチッと目が合った。そして、ふいに空気が変わるのを感じた。

 店内は、しんと静まり返っている。ジャズのBGMは今はもう流れていない。聞こえるのは時計の針の音と、お互いの呼吸だけ。

「俺……高校のとき、水瀬にもっと話しかければ良かったって、卒業してから何度も思ったよ」

 先輩と同じ思いを抱いていた私は、彼の言葉を聞いて自然と口からこぼれた。

「……私もです。先輩に、ずっと憧れていました」

 自分でも、どうしてこんなに素直に言えてしまうのか分からなかった。でも、ここで言わなければ、一生後悔すると思った。だから……

「私、先輩とこうして話していると、どうしようもなく心が惹かれていくんです。私……やっぱり、今でも先輩のことが好きです」

 ああ、どうしよう。つい感情に任せて言ってしまった……! だけど、ここまで来たらもう引き返せない。

 返事を聞くのが怖くて、下を向いてしまいそうになるけれど。私は必死に顔を上げ、先輩を真っ直ぐ見据える。

「椎名先輩は、私のこと……どう思ってますか?」

 私の問いかけに、先輩が一瞬息をのんだのが分かった。そのわずかな沈黙が、私には永遠のように感じられた。

 ドクドクと、胸の鼓動が耳元でうるさく響く。

 息が詰まるような緊張感と、全てを打ち明けた解放感。期待と不安が入り混じるなかで、私は先輩の言葉を待つ。

「水瀬」

 椎名先輩は私の目を真っ直ぐ見つめ、静かに言葉を紡ぎ始めた。先輩の瞳が、真剣な光を帯びる。

「俺はあの頃、ずっと君の背中を見ていた。あのとき言えなかった言葉を今、ここで伝えさせてほしい。……俺は、水瀬のことが好きだ。ずっと、好きだった」

 椎名先輩の言葉に、目頭が熱くなる。

 ……まさか、先輩も私と同じ気持ちでいてくれたとは。視界は、次々と涙で滲んでいった。

 先輩は、そんな私を優しく見つめながら、そっと立ち上がった。そして、カウンターの奥にある、棚の一角へゆっくりと歩み寄る。
 彼の背中越しに、その棚に置かれた様々なコーヒー豆の袋や、アンティークなカップ、そして数冊の本が見えた。

「あと、これなんだけど……」

 椎名先輩が取り出したのは、少し色褪せた装丁の、古びた一冊の本だった。見慣れたタイトルに、私の心臓が小さく跳ねる。

「先輩、それ……」

 その本に、私ははっきり見覚えがあった。高校生のとき、何度も読み返したお気に入りの小説だ。

「うん……高校生の頃、水瀬も読んでたよね。たしか、このシリーズが好きだって、文芸部の掲示板に書いてあったから」

 先輩がパラパラと本のページをめくる。すると、物語の途中のページから、鮮やかな水色の栞が顔を出した。
 私の視線は、その小さな四つ葉のクローバーが描かれた栞に、釘付けになる。

「この栞……高校の卒業式の日、自習室を片づけていたら床に落ちてたんだ。たぶん、水瀬が読んでたこの本から落ちたんだろうなって、そのとき思ったんだよな」

 手のひらに乗るほどの、小さな四つ葉のクローバーが描かれた栞。それは、私が高校生のときに肌身離さず愛用していたものだった。

 テスト前、気分転換に読んでいたあの小説に挟んで、自習室に忘れてきてしまったのだ。

 探してもなかなか見つからなくて、どこかで失くしてしまったと諦めていた、大切な栞。それがまさか、何年もの時を経て、今、先輩の手元にあるなんて。

「あのとき、すぐに君に返そうと思ったんだけど、うっかり渡しそびれてしまって……気づいたら、ずっと持ったままだったんだ」

 言葉にならない驚きが、私の胸を突き抜ける。

 この何年もの間、先輩は、私を、そして私の大切な栞を、ずっと覚えていてくれた。まるで、彼の心の奥底に、私という存在がずっと息づいていたかのように感じられて、胸が熱くなった。

「栞、ずっと返せなくてごめんな」

 先輩は、はにかむように微笑んだ。その視線が、真っ直ぐ私に注がれる。それは、単なる偶然では片づけられない、運命のような温かい光だった。

「いつも学校の自習室で、ひとり真剣に本を読んでいた水瀬は、周りに流されたりしなくて、ちゃんと自分の世界を持っているように見えて……なんか、すごく惹かれたんだ」

 椎名先輩の声は穏やかで、だけど、確かな響きを持っていた。私の心臓は、ドクドクと激しく高鳴る。

「でも、あの頃の俺は周りから“いい人”って思われたくて、みんなに八方美人な態度をとっていたんだ。誰かに気を遣ってばかりで、本当の自分を出すのが苦手でさ」

 先輩は、少し寂しそうに目を伏せた。その横顔には、かつての葛藤が垣間見える。

「だから、水瀬みたいに真っ直ぐな子に、どう接したらいいか分からなくて。結局、何も伝えられないまま卒業しちゃって。ずっと、後悔ばかりだったんだ」

 先輩の瞳には、あの頃の葛藤と、今ここでようやく私に伝えられたことへの安堵が混ざりあっている。

「水瀬」

 先輩は私に向かって微笑むと、そっと肩を抱き寄せてくれる。

「今日は疲れただろ。少しだけ、休んでていいよ」

 私は、小さく頷いた。そして、先輩の肩にもたれるように体を預ける。彼の体温が伝わってきて、全身がほっとゆるむ。
 もしかしたら私は……ずっと、この温かさが欲しかったのかもしれない。心のどこかで、椎名先輩の隣にいたいと願っていたのだ。

 終電を逃して、心細くて凍えそうだった夜が、こんなにも温かくて優しい夜に変わるなんて。
 奇跡としか思えない夜に、私は椎名先輩の肩に寄りかかったまま、しばらく目を閉じていた。



 温かなカフェオレの香り、そして心臓の音すら吸い込まれるような静けさの中で、私はようやく、深く呼吸ができた気がした。
 都会の喧騒や仕事の重圧から解き放たれ、心がすっと軽くなるのを感じる。

「……空、少しずつ明るくなってきたよ」

 椎名先輩の低く落ち着いた声が、耳元に届く。

 ゆっくりと目を開けると、カフェの窓の向こう――夜の深い藍色が、ほんのり紫がかったグラデーションを見せていた。

 気づけばもう、朝が来ようとしていたのだ。時計の針は、午前四時を少し回っている。

 もうすぐ、始発電車が動き出す頃だ。この夜が終わってしまうと思うと、急に寂しい気持ちでいっぱいになる。けれど、それと同時に、この夜がもたらしてくれた奇跡と、新たな始まりへの期待感が胸に押し寄せた。

「……そろそろ、行かないとダメですね」

 小さくつぶやくと、椎名先輩は静かに頷いた。

「そうだね。駅まで送るよ。まだ暗いし、心配だから」

 私たちはブランケットをたたみ、コートを羽織ると、カフェの扉を静かに開いた。


 外に出ると、澄んだ冷たい空気が頬を撫でる。一瞬、身体が震えたけれど、先輩が隣にいてくれるだけで不思議と寒さは感じなかった。

 雨はもうすっかり止んでいた。路面がまだ少し濡れていて、早朝の街灯に反射してキラキラと光る。

 ビルの合間から淡い光がこぼれて、街が少しずつ目を覚まそうとしている。まるで、昨夜までの冷たい世界が、少しずつ新しい息吹を帯びるようだ。

「……この街も、起きる準備をしてるんですね」

 ぼそっと呟くと、先輩が隣でくすりと笑った。

「ははっ。水瀬って、面白いこと言うね」
「やだ、先輩。からかわないでください」

 慌ててそう言ってしまった私だけれど、先輩は「冗談だよ」と言って笑ってくれた。

 こんなふうに先輩と笑い合える日が来るなんて、高校の頃は想像もできなかったな。

 信号の前で足を止めたとき、椎名先輩がふいに私の顔を覗き込んだ。
 その視線が真っ直ぐで、優しくて。でも、どこか少しだけ緊張しているようにも見えて……私の心臓は、大きく高鳴った。

「……水瀬」
「はい」
「また、カフェに遊びに来てくれる? 今度は、終電を気にせずにさ」

 先輩の言葉に、私の心はこれでもかと飛び跳ねた。

 椎名先輩に、また会える。そのことが、たまらなく嬉しい。

「……はい。ぜひまたお邪魔させてください。今度は……コーヒーに挑戦してみようかな」

 そう言うと、先輩がほっとしたように微笑んだ。

「それじゃあ、俺のおすすめのコーヒーを用意しておくよ。遥が、気に入ってくれると嬉しいんだけど」

 ――ドクン。

 えっ。先輩、今……私のこと『遥』って。

 今までずっと苗字で呼ばれていたのが、不意に名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。

 けれど、全く嫌じゃなかった。むしろ、その響きが胸に優しく残り、じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じる。

 信号が赤から青に変わり、先輩の手が自然と私の手を取ってくれた。
 彼の大きな手が、私の小さな手を優しく包み込む。その温かさが、私の心を深く満たしてくれる。

 さっきまでの夜の冷たさは、もうどこにもない。この街が新しい一日を迎えるように、私の心も静かに動き出していた。

 終電を逃したあの夜が、私にとって『最悪な日』ではなく、『今までで一番大切な夜』になる。

 椎名先輩と……暁人先輩と、手を繋いだまま歩く帰り道。これから始まる日常が、きっと少しずつ、温かい色に変わっていくだろう。彼の存在が私の世界に、確かな光と温もりをもたらしてくれると、このとき私は強く感じた。



 数日後の午後。私は『カフェ・アールグレイ』の前に立っていた。

 駅の賑わいから少し外れた、静かな路地裏。あの夜、冷たい雨のなかで見つけた、温かな琥珀色の灯り。

 今日は晴れた昼下がりで、窓から差し込む柔らかな日差しが、店内の木のテーブルや、カウンターに並んだ色とりどりの焼き菓子を優しく照らしている。

 昼間の明るいカフェもまた、温かく心地よい空間だ。この扉の向こうに彼がいる――そう思うと、胸の奥がポカポカと温かくなる。

 右手でそっとドアノブを握ると、あの日と同じ、カラン……と、小さなカウベルの音が鳴った。

 木の香りに包まれた店内は、焼きたてのお菓子の甘く香ばしい匂いで満たされている。陽の光がショーケースのガラスに反射し、キラキラと輝く。どこか懐かしい温もりが、私を優しく包み込む。そして――

「いらっしゃいませ……って、あ」

 カウンターの奥で作業をしていた彼が、ふと顔を上げた。目が合った瞬間、ふたりして、少し照れたように微笑む。

 暁人先輩は黒のエプロン姿で、ラテアート用のスチームピッチャーを手にしていた。

 私は小さく息を吸って、口を開く。

「こんにちは。また、来ちゃいました」

 この言葉には、あの夜に伝えきれなかったたくさんの感謝と、彼への温かい想いが込められている。

「……ああ。待ってたよ、遥」

 先輩が、ニコッと優しく微笑んでくれる。

「今日は、前に話してたコーヒーで良いかな?」
「はい。お願いします」

 カウンター席に腰を下ろすと、先輩がコーヒーを淹れてくれる音が心地よく響く。

 豆を挽く音、お湯がフィルターを落ちていく静かな音。深煎りの、香ばしいアロマがゆらりと立ち上り、私の鼻腔をくすぐった。

「はい、どうぞ」

 先輩から受け取ったマグカップからは、あの夜のカフェオレとは違う、深く澄んだ香りが立ちのぼる。

 一口飲むと、舌に広がるのは、ほのかな苦みと、その奥に隠された豊かな甘み。

「美味しい……! 私、コーヒーってどちらかというと苦手だったんですけど、好きになりました」

 素直な感想を伝えると、暁人先輩は嬉しそうに目を細めた。

「ほんと? それは良かった」

 先輩の笑顔は、夜明けの光のように清々しく、私の心を温かく満たしてくれる。

 ゆっくりとコーヒーを飲みながら、私はふと、彼の横顔を見つめる。

 それは、いつもと変わらない笑顔。だけど、暁人先輩はもう「憧れの人」じゃない。高校生の頃のように、ただ遠くから見ているだけの、触れられない存在じゃないのだ。

 あの日の夜、私は先輩の温もりを確かに感じたから。今、こうして彼の隣にいられることが、何よりの幸せだ。

 あの夜、終電を逃さなければ、あの冷たい雨に打たれていなければ……この再会も、二人の始まりも、きっとなかったに違いない。
 だから、今ではあの夜すら、私にとってはかけがえのない、愛おしい思い出だ。

 暁人先輩と再会したこの場所は、私にとって特別な意味を持つカフェになった。

 この温かいコーヒーがじんわりと私の中に満ちるように、私の世界にも、静かに、そして確実に、温かい色が差し始めている。それは、凍える夜に灯った小さな光が、やがて世界を包み込むような、穏やかな変化だった。

 あの冷たい夜に感じた孤独は、もうここにはない。今の私は、先輩という眩しいほどの確かな温かさに包まれている。

 疲れた日常に灯った、新たな恋のぬくもり。この先、どんな困難があろうとも、きっとこの温かさが、私を強く支えてくれるだろう。

 暁人先輩との、かけがえのない未来が今、ここから、ゆっくりと紡がれていく。

【完】