大人になるって、もっと自由で楽しいものだと思っていた。
けれど、現実は違った。私が就職したのは、いわゆるブラックな職場だった。
朝から晩まで仕事に追われ、残業しても残業代は出ない。
理不尽に怒鳴られるのは日常茶飯事で、同僚たちとも表面だけの会話しかできない。
風邪を引いて休んだ日には、「自己管理ができていない」と小言をぶつけられた。
ただ、生きるのに必死だった。
心も体もすり減って、帰ったら寝るだけの生活。
昔は好きだった裁縫も、もう何ヶ月も針を持っていない。
手を動かしている時間が、唯一落ち着ける瞬間だったのに。
今は、その余裕すらない。
「佐々木!またやらかしたのか?これ、どう説明するんだ!」
上司の声がオフィスに響き渡る。
顔を上げると、私が書類の誤りを指摘されているのかと思った。
でも違った。
「お前の確認不足で、クライアントからクレームが来てる。どう責任取るつもりだ?」
その書類は私が作ったわけじゃない。
ただ、渡された資料をそのまま転送しただけだったのに。
「それに、山下の分までこの案件もやれ。お前しかいないんだからな」
「それ私じゃ......」
何か言おうとしたら、すぐに遮られた。
「言い訳は聞きたくない。お前の仕事はこれだけじゃないんだ。もっと動け!」
上司の顔は真っ赤で、感情が爆発している。
まるで私がストレスのはけ口みたいに。
「お前がしっかりしないから、チーム全体が迷惑してるんだ。わかってるのか?」
同僚はみんな目を伏せて、誰も助けてくれない。
いつも孤立するのは私だけだった。
「はい......すみません......」
小さく繰り返しながら、押し付けられた山のような書類を受け取る。
心の奥が少しずつ崩れていくのを感じながら、私はまた夜遅くまで働くのだ。
気づけば、フロアには誰の声もしなかった。
照明は半分ほど落ち、コピー機の機械音すら止まっている。
時計を見ると、終電まであと35分。
「......間に合うよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、マウスを握る手に力が入った。
山下さんの分まで引き継いだ案件。
理不尽だとわかっていても、言い返すことができなかった。
「使えない」ってまた思われたくなかった。
頼る人なんて、もうとっくにいない。
キーボードを叩く音だけが、無機質な空間にカタカタと響いていた。
誰かが「手伝おうか」って声をかけてくれたら。
そんなこと、期待するのはもうやめた。
――ああ、間に合ってほしい。せめて、今日くらいは。
最後のファイルを添付し、メールを送信した瞬間、デスクの時計がピッと音を立てた。
終電まで、残り13分。
私は上着をつかんで席を立ち、誰もいないフロアからエレベーターへと駆け出した。
社会人になって二年目。
周りでは結婚する友達も増えてきて、休日の投稿は幸せそうな報告で埋まっていく。
私はというと、誘われることも減り、気づけばみんな、どこか遠い存在になっていた。
吐く息は白く、肩にしみる冷気が、言いようのない寂しさを煽った。
恋がしたいわけじゃない。
でも、誰かに隣にいてほしいと思う瞬間が、どうしてもある。
そのたびに、なにを求めているのか自分でもよくわからなくなる。
――愛されたいのか。
――寂しさを埋めたいだけなのか。
それさえも、もう曖昧だった。
大人になると、恋は簡単じゃなくなる。
感情だけじゃ動けないし、損得も現実も、いやでも見えてしまう。
昔は、ただ一緒にいるだけで幸せだったのに。
今は、相手の職業や年収、家族のこと、将来のこと――
好きになる前に、頭で計算してしまう自分がいる。
合コンに行けば、「どこに勤めてるの?」「ひとり暮らし? 実家?」
笑いながら交わされるそんな会話に、どこか疲れてしまう。
相手の笑顔の裏にある下心に、気づかないふりをするのも、そろそろ限界だった。
「純粋な恋愛がしたい」
そんなこと、口にしたら笑われるのがオチだ。
でも、そう思ってしまう自分が、まだ心のどこかにいる。
ちゃんと誰かを好きになって、ちゃんと想われたかった。
ただ、それだけのことが、今はとても難しい。
“好き”の気持ちだけで走れていた、あの頃が少しだけ懐かしかった。
寒さが肌を刺す。
オフィスのビルを飛び出した私は、駅までの道を息を切らしながら駆けていた。
終電まで、あと少し。
間に合うかもしれない。間に合わないかもしれない。
時間は、いつも私の都合なんて聞いてくれない。
ヒールの音がアスファルトに響く。
照明の落ちたビル群をすり抜けて、コンビニの光が一瞬、目にまぶしかった。
横断歩道の信号が、赤から青に変わるまでの時間さえ、もどかしい。
「お願い、間に合って......」
誰に届くわけでもない言葉が、白い息になって空に溶けていく。
この街は、夜になってもまるで昼のように明るいのに、私はずっと、暗いところを走っている気がしていた。
終電を逃したら、タクシーで帰るお金なんてない。
コンビニで夜を明かす? ネカフェ? それとも会社に戻る?
ぐるぐると考えが回って、それでも足は止まらない。
改札を抜け、ホームへ続く階段を見上げた。
足元から鼓動の音が突き上げてくる。
あと少し。あと数十秒――そう信じて、私は一段一段を全力で駆け上がった。
コートの裾がもつれて足がもつれそうになる。
バッグが肩からずれ落ちても構わなかった。
「......待って......!」
誰に向けたかも分からない声が、喉の奥から漏れた。
最後の一段を踏み出したとき、
ちょうど、電車のドアが閉まる音が響いた。
ああ、間に合わなかった。
ホームに足を踏み出したときには、車体はすでにゆっくりと動き始めていた。
窓の向こうに揺れる光。誰かの笑い声。あたたかな明かりの中に、自分の居場所だけがなかった。
走る電車を、ただ立ち尽くして見送るしかなかった。
心臓はまだドクドクと速く脈打っているのに、体の奥は妙に冷たかった。
膝が曲がって、ようやく私はその場にへたりこむ。
「......はぁ......嘘でしょ」
呼吸を整えようとするたび、悔しさと情けなさが一緒に押し寄せる。
あと数歩。ほんの数秒早ければ、きっと間に合っていた。
肩で荒い息をしながら、その場に立ち尽くす。
全身にじんわり汗がにじんでいたのに、風が吹き抜けるたび一気に冷えて、背筋がゾクリとした。
ふと、まわりを見渡す。
私だけじゃなかった。
スーツ姿の男性が、スマホを握りしめたまま「ふざけんなよ......!」と低く吐き捨てるように言い、改札の方へと踵を返していった。
他にも私と同じように、終電を逃した人たちが散らばっている。
「......明日も仕事なのに」
ぽつりとこぼれた声が、夜のホームに溶けて消えた。
寝不足のまま朝を迎えて、また理不尽に怒られて、誰にも味方されずに一日が終わる。
それを考えると、全身から力が抜けていく気がした。
ため息をひとつついて、改札へ戻ろうとしたそのときだった。
視界の端に、ベンチでうずくまる男性の姿が映った。
俯いたまま微動だにせず、まるで時間だけが彼の周りを通り過ぎているみたいだった。
何かあったのだろうか。
倒れそうに見える背中に、なぜか胸がざわついた。
こんな夜に、ひとりであんなふうに座っているなんて。
放っておけばいいのに――そう思ったはずなのに。
気づけば私は、その人のほうへ歩み寄っていた。
「......あの、大丈夫ですか?」
ベンチに座る男性は、しばらく無言のまま俯き続けていた。
声が届かなかったのかと不安になった頃、かすれたような声が返ってくる。
「......すみません。ちょっと......頭が、痛くて......」
やっぱり体調が悪いのだと、私は思わずバッグを探った。
鞄に入れていた鎮痛剤を取り出し、そっと彼に差し出した。
「よかったら、これ......使ってください。水は、自販機で買ってきます」
そう言った瞬間、彼がようやく顔を上げた。
薄暗いホームの灯りの下、その輪郭がはっきりと見えたとき――私は、息をのんだ。
――晃。
高校時代、ずっと想いを伝えられなかった、あの人だった。
名前を呼びそうになって、言葉が喉の奥で止まった。
ずっと、忘れたふりをしていた人。
でも、忘れられなかった人。
こんな夜に、こんな場所で、再開するなんて――。
晃のほうも、じっと遥の顔を見つめていた。
薄暗い照明の下で、その視線がわずかに揺れた気がした。
「......あれ......もしかして......遥香?」
数年ぶりに呼ばれた、自分の名前。
あの頃と少しだけ低くなった声。
それだけで、私の胸の奥に、何かがゆっくりとほどけていく気がした。
しばらくして、自販機で買ってきたペットボトルの水を手渡すと、晃は小さく「ありがとう」と言って薬を口にした。
それから数分、ふたりはベンチに並んで座ったまま、何も話さなかった。
ホームにはもう人影もまばらで、先ほどのざわめきもすっかり静まっている。
終電を逃したあとの駅は、妙に現実味がなくて、どこか夢の中にいるような感覚があった。
晃が、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
吐き出した息が白く浮かび上がる。
「......だいぶ、楽になった。助かったよ。ほんとに、ありがとう」
顔を横に向けて、穏やかに微笑む晃。
その笑顔を、昔、何度好きになったかわからない。
久しぶりに見るその表情に、遥は心がじわりと温かくなるのを感じた。
「よかった。あのままだったら、倒れちゃうんじゃないかと思って......」
「うん。正直、ちょっとやばかった。最近、仕事が詰まっててさ......」
晃はそう言って、苦笑する。
「遥香も仕事?」
晃が問いかける。
「うん。残業......というか、押しつけられてたら、気づいたらこんな時間で」
私は乾いた笑いを浮かべた。
それが“あるある”ではなく、笑えないほど日常になっているのが、少し悲しかった。
「ほんとさっきは驚いたよ。まさか、こんなところで会うとはな」
「高校卒業してから6年ぶりだもんね」
「遥香もずっと東京?」
「うん。大学卒業してからこっちで就職したの」
「それなら1回ぐらい会っててもおかしくないのにな」
ホームの静けさが、やけに心に響く。
晃は正面を見つめたまま、少しだけ目を細めていた。
ホームの端に灯る薄明かりが、彼の横顔をやさしく照らしている。
じんわりと指先の感覚がなくなってきた。
座っているだけなのに、足元から冷えが這い上がってくる。
さっきまで笑っていたのに、身体は正直で、こんな夜に駅のベンチで過ごすには、季節が冷たすぎた。
「......遥香は、今日はどうするだ?」
晃がぽつりとそう言ったとき、私は少し間を置いてから答えた。
「んー......どうしよう。タクシーで帰るには遠すぎるし、ネカフェもなんか抵抗あって」
私は小さく笑って答えながら、自分の手をこすった。
「だよなぁ」
晃も同じように自分のコートのポケットに手を突っ込みながら、ふと遥の顔を見た。
「このまま外にいるのも寒いし......どっか、店でも入るか」
私は、一瞬戸惑った。
けれど、寒さとこの静けさが、背中を押してくれる。
「......でも、お店開いてるかな?」
「たぶんね。探せば24時間のとこくらい、あると思う」
そう言って、晃は立ち上がりながら私を見下ろした。
「薬のお礼も兼ねて、奢らせてよ」
にっと笑ったその顔に、あの頃の晃が重なって見えた。
昔から、こうやってさりげなく人を気遣うところは変わっていない。
「久しぶりにもっと話したいしさ」
晃はそう一言付け加えた。
「じゃあ......遠慮なく」
私もそっと笑い返す。
夜の静かな駅をあとにして、私たちは並んで歩き出した。
少し歩いた先に、夜通し営業しているチェーンのカフェを見つけた。
ネオンはどこか疲れていて、入り口には寒風を防ぐためのビニールカーテンが揺れている。
でも、その薄暗い明かりが妙に落ち着いて見えた。
「ここにしよっか」
晃の言葉に頷いて、私はカフェのドアを押した。
深夜の店内は、数人の客が静かに時間を過ごしているだけだった。
本を読む人、パソコンを打つ人、眠そうにカップを持つ人。
その中に紛れるように、私たちは窓際の席に腰を下ろした。
「......あったかい」
コートを脱いで、椅子に体を預けると、ほっと肩の力が抜けた。
「俺、ブレンドにしようかな。遥香は?」
「......じゃあ、私もコーヒーで」
深夜のカフェに流れる、ゆるやかなBGM。
店員にオーダーを告げて、ふたり並んで座るこの感じが、なんだか不思議だった。
数年ぶりに会ったはずなのに、こんな自然に同じ空間にいられること。
沈黙すらも心地よく思えるこの時間に、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。
「なんかさ......」
晃がマグカップを両手で包みながら、ぽつりと呟いた。
「遥香、変わったよな。......いい意味でさ」
思いがけない言葉に、私はカップを持つ手を止めた。
「......変わったかな?」
「うん。大人っぽくなったっていうか......雰囲気、すごく落ち着いてる」
晃は少し照れくさそうに笑ってから、コーヒーをひと口飲んだ。
「それ、多分......社会に揉まれただけだよ」
苦笑しながら私も返す。
大人っぽくなった、なんて褒め言葉じゃなく、きっと“疲れて見える”ってことなんだろうと思いながら。
「でも、晃も変わったよ。昔より......背、伸びた?」
「いや、背はそんなに。筋トレしてるから、ちょっとガタイがよくなっただけかも」
「なるほど。あと、なんか“爽やかさ”増したよね」
そう言うと、晃が静かに頷いた。
「営業だからな。外見もそれなりに整えないと、って思って」
「昔はよく寝癖で、ボッサボサのまま学校きてたよね」
「そうそう!それで先生たちにも笑われてさ」
思い出して笑う晃に、私も思わず笑ってしまう。
「......高校のときはさ、もっと自由だったよね」
そう言うと、晃がふっと笑った。
「授業サボって保健室で寝てたりとか?」
「それ、英語の授業のときの晃じゃん」
思わずツッコミながら笑ってしまう。
だけど、その笑いの奥に、胸をくすぐるような懐かしさが残った。
「でも、なんか......大人になるって、もっと楽しいものだと思ってた」
私がぽつりとそうこぼすと、晃はカップを持ったまま、まっすぐ私の目を見た。
「ほんと、それ。思ってた理想と全然違ってて、たまに虚しくなる」
その言葉が、深く突き刺さった。
きっと彼も、同じように孤独や葛藤を抱えてここに来たんだ。
「......でも、ほんと。みんな、大人になったよね」
カップの縁に口をつけながら、目の前の晃をなんとなく見つめていた。
あの頃の晃は、クラスの中心にいる人だった。
いつも友達に囲まれて、男女問わずに人気があって、みんなに頼られてて――私は、そんな彼を、教室の端からそっと見ていた。
話すことなんて、ほとんどなかった。
でも、ある日、文化祭の実行委員を決めるとき、くじ引きで偶然ふたり一緒になった。
驚いたのを覚えている。
私のような目立たないタイプと組むの、嫌じゃないかな......なんて、ちょっと不安に思ってた。
だけど、晃は最初から、変わらなかった。
どんな子にも同じように接する、あの朗らかな態度で、私にも自然に話しかけてくれて、名前を呼んでくれて、冗談を言って笑わせてくれた。
――そのときのことを、私は今でも、よく覚えてる。
準備が大変で何度も遅くまで残ったけど、晃が一緒だったから、私にとって楽しかった。
文化祭が終わったあとも、目が合えば「おはよ!」と声をかけてくれて、それだけで一日が少し明るくなった。
たぶん、あのときからだった。
気づいたら、目で追っていて。話しかけられた日は、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
......私は、晃が好きだった。
優しくて、明るくて、誰にでも分け隔てがなくて。
たまに真剣な顔をするときの横顔も、照れた笑い方も、全部。
だけど――言えなかった。
晃はみんなに好かれていて、私みたいなのが入り込む余地なんてないと思ってた。
告白する勇気なんて、どこにもなかった。
だから、卒業してからもずっと、私はそのまま、何も言わずに終わらせた。
“好きだった”って過去形にするしかなかった。
でも時々思う。
たとえ叶わなくても、「好きだったよ」って、それだけでも言っておけばよかったなって。
「遥香、大丈夫か?」
不意に名前を呼ばれて、私は我に返る。
「あっ、ごめん。......昔のこと、考えてた」
マグカップの縁をなぞりながら、そう返すと、晃が少しだけ笑った。
「......なぁ、久しぶりに夜更かししない?」
「え?」
「どうせ帰れないんだし。なんか......久しぶりに、人とちゃんと話したくなった」
その言葉が、妙に胸に沁みた。
たしかに私も、誰かとこんなふうに向き合って会話をするのは、いつ以来だろう。
仕事では怒られてばかり、友達ともなかなか予定が合わず、家ではただ眠るだけ。
息をつく暇なんてなかったはずなのに、今夜はどうしてか、呼吸が少しだけ楽だった。
「......じゃあ、覚悟してね。私、けっこう愚痴あるよ」
「上等。俺も負けないくらい溜めてる」
ふたりで小さく笑い合いながら、深夜の空気がほんの少し、温かくなる。
「うちの上司ね、とにかく感情で怒るタイプなの。私がやってないことでも“確認不足だ”って決めつけてくるし、資料の間違いがあったら、“見抜けなかったお前の責任”って」
「......あー、それわかるわ。こっちはちゃんと報告してても、“聞いてない”の一点張り。で、言い返すと“反抗的だ”って言われる。もう何も言えないよな」
「そう! しかも私、後輩のフォローまで押し付けられてて、残業代も出ないし......なのに“気が利かない”って、意味わかんないでしょ?」
「俺なんか、成績良くても『たまたまだ』って言われる」
マグカップの中のコーヒーはもう冷めているけれど、ふたりの言葉はどこか熱を帯びていた。
誰かにわかってほしかったことを、晃が何気なく言葉にしてくれる。
仕事の愚痴なんて、いつもは誰に話してもスッキリなんてしないのに、晃に話すと、不思議と心が軽くなる。
「......ねえ晃、なんかさ、こんな夜って、あったんだね」
「うん。逃した終電も、たまには悪くないかもな」
笑いながらそう言った晃の横顔は、あの頃と同じで、でも少し大人びていて。
「向いてないのかなって思うこともある。営業って、もっと人と関わるのが得意なやつがやるもんだろ? 俺、そんなに器用でもないし......」
その言葉に、私は小さく首を振った。
「......そんなことないよ」
晃が顔を上げる。
私は、まっすぐ彼を見つめた。
「晃はちゃんと話を聞いてくれるし、相手の言葉をちゃんと受け止めてくれる。さっきも、私の話、全部真剣に聞いてくれたじゃん。そういうの、簡単にできることじゃないよ」
晃は、一瞬だけ黙って、目を伏せた。
「器用じゃないとか、自信ないとか、きっと誰だって思ってる。でも、それでもちゃんと人のために動ける人って、私はすごいと思う。......少なくとも、私はそういう晃が好きだったし、今も変わらないと思うよ」
言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
“好きだった”なんて言葉を使うつもりじゃなかったのに、口から出てしまっていた。
晃は、一瞬だけ驚いたように私を見つめ、それからふっと優しく笑った。
「......ありがとな、遥香」
その笑顔は、どこか救われたようで、見ているこっちまであたたかくなるようだった。
気づけば、空の色がほんのりと滲みはじめていた。
カフェの大きな窓から見えるビルの影が、淡く輪郭を溶かしていく。
「......もう、こんな時間か」
晃がそう呟いて、窓を見上げた。
私もそっと背伸びをした。いつの間にか話し続けて、外はもう夜明けだ。
「なんか......ずっと話してたね」
「うん。でも、不思議と全然疲れてない。......なんでだろうな」
晃の言葉に、私も笑って頷いた。
店を出ると、ひんやりした早朝の空気が頬を撫でた。
街はまだ目覚めていない。通りも駅も、ひっそりとしていて、まるで時間だけが静かに前に進んでいるみたいだった。
並んで歩く足音が、舗道に控えめに響く。
それが、なんだか心地よかった。
「......夜明けって、こんなに静かなんだね」
「朝が来るのが、ちょっともったいないなって思っちゃうの、初めてかも」
晃がそう言って、少しだけ私の顔を見た。
その目が優しくて、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「......今日も仕事?」
「うん。たぶん、眠くて死ぬ」
「遥香は?このあと、どうすんの?」
晃がそう聞いてくる。
私は眠い目をこすりながら、少しだけ苦笑いした。
「いったん家に帰って、お風呂入って......そのまま出勤、かな」
「寝ないんだ?」
「寝たら終わる気がして......絶対起きられない」
晃が「だよな」と笑って頷く。
「俺も一回帰って、スーツだけ着替えて会社行くわ。顔、死んでそうだけど」
「お互い、がんばろ」
そう言いながら、私は心の中でそっと願っていた。
この時間が、たまたまじゃなくなればいいと。
もう一度、会える理由ができたらいいと。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
ホームにはまだ数人しか人がいない。
静かな構内に、電光掲示板の音が鳴り、機械的なアナウンスが響いた。
「まもなく、一番線に電車が到着します――」
私の電車だった。
「......じゃあ、またね」
そう言って、改札に手を振ろうとしたそのときだった。
「遥香!」
不意に呼び止められて、私は振り返る。
その声に、心臓が跳ねた。
朝焼けの光が差し込む中、晃が少し息を切らしながら言った。
「俺、実は......高校のとき、遥香のこと、好きだったんだ」
電車の音が近づく中、ぽつりと放たれたその言葉に、時が止まったような気がした。
「高校のときは、言えなかった。今さらって思うかもしれないけど......今夜、久しぶりに会って、やっぱり思ったんだ」
私は言葉が出せずに、ただ見つめ返す。
「俺、まだ遥香のこと好きだ」
私が驚いた顔をすると、晃は少しだけ照れくさそうでもまっすぐと私を見ていた。
「......よかったら、また会いたい。今度は、ちゃんと時間を作って。俺、もうあのときみたいに後悔したくないから」
ドアが開き、電車が音を立てて滑り込んでくる。
私は目を見開いたまま、言葉が出てこなかった。
でも、胸の奥が温かくて、なぜか泣きたくなるくらい嬉しかった。
誰にも邪魔されない、時間だけが静かに流れていた。
明かりがほの暗く、街のざわめきが遠くに消えたその中で、言葉は自然と柔らかくなり、胸の奥に押し込んでいた感情がぽろぽろと零れ落ちる。
普段なら照れて隠してしまう弱さも、不意に見せてしまう素顔も、今だけは許される気がした。
――まさか、この言葉を聞ける日が来るなんて。
「......うん。私も、また会いたい」
声がかすれてしまったけど、それでも晃にはちゃんと届いたらしく、彼はふっと笑った。
ドアが開き、私は電車に乗り込む。
笑った彼の顔が、ほんの少しだけ、あの頃の晃に重なって見えた。
私は電車に乗り込む。ドアが閉まり、車両がゆっくり動き出す。
窓の外に広がる朝の光の中、彼の姿が小さくなっていく。
――終電を逃さなければ、きっと出会えなかった夜だった。
たった一晩の再会で、すべてが変わるわけじゃない。
でも、それでもいい。
心の奥で止まっていた時計が、ほんの少しだけ、動き始めた気がした。
けれど、現実は違った。私が就職したのは、いわゆるブラックな職場だった。
朝から晩まで仕事に追われ、残業しても残業代は出ない。
理不尽に怒鳴られるのは日常茶飯事で、同僚たちとも表面だけの会話しかできない。
風邪を引いて休んだ日には、「自己管理ができていない」と小言をぶつけられた。
ただ、生きるのに必死だった。
心も体もすり減って、帰ったら寝るだけの生活。
昔は好きだった裁縫も、もう何ヶ月も針を持っていない。
手を動かしている時間が、唯一落ち着ける瞬間だったのに。
今は、その余裕すらない。
「佐々木!またやらかしたのか?これ、どう説明するんだ!」
上司の声がオフィスに響き渡る。
顔を上げると、私が書類の誤りを指摘されているのかと思った。
でも違った。
「お前の確認不足で、クライアントからクレームが来てる。どう責任取るつもりだ?」
その書類は私が作ったわけじゃない。
ただ、渡された資料をそのまま転送しただけだったのに。
「それに、山下の分までこの案件もやれ。お前しかいないんだからな」
「それ私じゃ......」
何か言おうとしたら、すぐに遮られた。
「言い訳は聞きたくない。お前の仕事はこれだけじゃないんだ。もっと動け!」
上司の顔は真っ赤で、感情が爆発している。
まるで私がストレスのはけ口みたいに。
「お前がしっかりしないから、チーム全体が迷惑してるんだ。わかってるのか?」
同僚はみんな目を伏せて、誰も助けてくれない。
いつも孤立するのは私だけだった。
「はい......すみません......」
小さく繰り返しながら、押し付けられた山のような書類を受け取る。
心の奥が少しずつ崩れていくのを感じながら、私はまた夜遅くまで働くのだ。
気づけば、フロアには誰の声もしなかった。
照明は半分ほど落ち、コピー機の機械音すら止まっている。
時計を見ると、終電まであと35分。
「......間に合うよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、マウスを握る手に力が入った。
山下さんの分まで引き継いだ案件。
理不尽だとわかっていても、言い返すことができなかった。
「使えない」ってまた思われたくなかった。
頼る人なんて、もうとっくにいない。
キーボードを叩く音だけが、無機質な空間にカタカタと響いていた。
誰かが「手伝おうか」って声をかけてくれたら。
そんなこと、期待するのはもうやめた。
――ああ、間に合ってほしい。せめて、今日くらいは。
最後のファイルを添付し、メールを送信した瞬間、デスクの時計がピッと音を立てた。
終電まで、残り13分。
私は上着をつかんで席を立ち、誰もいないフロアからエレベーターへと駆け出した。
社会人になって二年目。
周りでは結婚する友達も増えてきて、休日の投稿は幸せそうな報告で埋まっていく。
私はというと、誘われることも減り、気づけばみんな、どこか遠い存在になっていた。
吐く息は白く、肩にしみる冷気が、言いようのない寂しさを煽った。
恋がしたいわけじゃない。
でも、誰かに隣にいてほしいと思う瞬間が、どうしてもある。
そのたびに、なにを求めているのか自分でもよくわからなくなる。
――愛されたいのか。
――寂しさを埋めたいだけなのか。
それさえも、もう曖昧だった。
大人になると、恋は簡単じゃなくなる。
感情だけじゃ動けないし、損得も現実も、いやでも見えてしまう。
昔は、ただ一緒にいるだけで幸せだったのに。
今は、相手の職業や年収、家族のこと、将来のこと――
好きになる前に、頭で計算してしまう自分がいる。
合コンに行けば、「どこに勤めてるの?」「ひとり暮らし? 実家?」
笑いながら交わされるそんな会話に、どこか疲れてしまう。
相手の笑顔の裏にある下心に、気づかないふりをするのも、そろそろ限界だった。
「純粋な恋愛がしたい」
そんなこと、口にしたら笑われるのがオチだ。
でも、そう思ってしまう自分が、まだ心のどこかにいる。
ちゃんと誰かを好きになって、ちゃんと想われたかった。
ただ、それだけのことが、今はとても難しい。
“好き”の気持ちだけで走れていた、あの頃が少しだけ懐かしかった。
寒さが肌を刺す。
オフィスのビルを飛び出した私は、駅までの道を息を切らしながら駆けていた。
終電まで、あと少し。
間に合うかもしれない。間に合わないかもしれない。
時間は、いつも私の都合なんて聞いてくれない。
ヒールの音がアスファルトに響く。
照明の落ちたビル群をすり抜けて、コンビニの光が一瞬、目にまぶしかった。
横断歩道の信号が、赤から青に変わるまでの時間さえ、もどかしい。
「お願い、間に合って......」
誰に届くわけでもない言葉が、白い息になって空に溶けていく。
この街は、夜になってもまるで昼のように明るいのに、私はずっと、暗いところを走っている気がしていた。
終電を逃したら、タクシーで帰るお金なんてない。
コンビニで夜を明かす? ネカフェ? それとも会社に戻る?
ぐるぐると考えが回って、それでも足は止まらない。
改札を抜け、ホームへ続く階段を見上げた。
足元から鼓動の音が突き上げてくる。
あと少し。あと数十秒――そう信じて、私は一段一段を全力で駆け上がった。
コートの裾がもつれて足がもつれそうになる。
バッグが肩からずれ落ちても構わなかった。
「......待って......!」
誰に向けたかも分からない声が、喉の奥から漏れた。
最後の一段を踏み出したとき、
ちょうど、電車のドアが閉まる音が響いた。
ああ、間に合わなかった。
ホームに足を踏み出したときには、車体はすでにゆっくりと動き始めていた。
窓の向こうに揺れる光。誰かの笑い声。あたたかな明かりの中に、自分の居場所だけがなかった。
走る電車を、ただ立ち尽くして見送るしかなかった。
心臓はまだドクドクと速く脈打っているのに、体の奥は妙に冷たかった。
膝が曲がって、ようやく私はその場にへたりこむ。
「......はぁ......嘘でしょ」
呼吸を整えようとするたび、悔しさと情けなさが一緒に押し寄せる。
あと数歩。ほんの数秒早ければ、きっと間に合っていた。
肩で荒い息をしながら、その場に立ち尽くす。
全身にじんわり汗がにじんでいたのに、風が吹き抜けるたび一気に冷えて、背筋がゾクリとした。
ふと、まわりを見渡す。
私だけじゃなかった。
スーツ姿の男性が、スマホを握りしめたまま「ふざけんなよ......!」と低く吐き捨てるように言い、改札の方へと踵を返していった。
他にも私と同じように、終電を逃した人たちが散らばっている。
「......明日も仕事なのに」
ぽつりとこぼれた声が、夜のホームに溶けて消えた。
寝不足のまま朝を迎えて、また理不尽に怒られて、誰にも味方されずに一日が終わる。
それを考えると、全身から力が抜けていく気がした。
ため息をひとつついて、改札へ戻ろうとしたそのときだった。
視界の端に、ベンチでうずくまる男性の姿が映った。
俯いたまま微動だにせず、まるで時間だけが彼の周りを通り過ぎているみたいだった。
何かあったのだろうか。
倒れそうに見える背中に、なぜか胸がざわついた。
こんな夜に、ひとりであんなふうに座っているなんて。
放っておけばいいのに――そう思ったはずなのに。
気づけば私は、その人のほうへ歩み寄っていた。
「......あの、大丈夫ですか?」
ベンチに座る男性は、しばらく無言のまま俯き続けていた。
声が届かなかったのかと不安になった頃、かすれたような声が返ってくる。
「......すみません。ちょっと......頭が、痛くて......」
やっぱり体調が悪いのだと、私は思わずバッグを探った。
鞄に入れていた鎮痛剤を取り出し、そっと彼に差し出した。
「よかったら、これ......使ってください。水は、自販機で買ってきます」
そう言った瞬間、彼がようやく顔を上げた。
薄暗いホームの灯りの下、その輪郭がはっきりと見えたとき――私は、息をのんだ。
――晃。
高校時代、ずっと想いを伝えられなかった、あの人だった。
名前を呼びそうになって、言葉が喉の奥で止まった。
ずっと、忘れたふりをしていた人。
でも、忘れられなかった人。
こんな夜に、こんな場所で、再開するなんて――。
晃のほうも、じっと遥の顔を見つめていた。
薄暗い照明の下で、その視線がわずかに揺れた気がした。
「......あれ......もしかして......遥香?」
数年ぶりに呼ばれた、自分の名前。
あの頃と少しだけ低くなった声。
それだけで、私の胸の奥に、何かがゆっくりとほどけていく気がした。
しばらくして、自販機で買ってきたペットボトルの水を手渡すと、晃は小さく「ありがとう」と言って薬を口にした。
それから数分、ふたりはベンチに並んで座ったまま、何も話さなかった。
ホームにはもう人影もまばらで、先ほどのざわめきもすっかり静まっている。
終電を逃したあとの駅は、妙に現実味がなくて、どこか夢の中にいるような感覚があった。
晃が、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
吐き出した息が白く浮かび上がる。
「......だいぶ、楽になった。助かったよ。ほんとに、ありがとう」
顔を横に向けて、穏やかに微笑む晃。
その笑顔を、昔、何度好きになったかわからない。
久しぶりに見るその表情に、遥は心がじわりと温かくなるのを感じた。
「よかった。あのままだったら、倒れちゃうんじゃないかと思って......」
「うん。正直、ちょっとやばかった。最近、仕事が詰まっててさ......」
晃はそう言って、苦笑する。
「遥香も仕事?」
晃が問いかける。
「うん。残業......というか、押しつけられてたら、気づいたらこんな時間で」
私は乾いた笑いを浮かべた。
それが“あるある”ではなく、笑えないほど日常になっているのが、少し悲しかった。
「ほんとさっきは驚いたよ。まさか、こんなところで会うとはな」
「高校卒業してから6年ぶりだもんね」
「遥香もずっと東京?」
「うん。大学卒業してからこっちで就職したの」
「それなら1回ぐらい会っててもおかしくないのにな」
ホームの静けさが、やけに心に響く。
晃は正面を見つめたまま、少しだけ目を細めていた。
ホームの端に灯る薄明かりが、彼の横顔をやさしく照らしている。
じんわりと指先の感覚がなくなってきた。
座っているだけなのに、足元から冷えが這い上がってくる。
さっきまで笑っていたのに、身体は正直で、こんな夜に駅のベンチで過ごすには、季節が冷たすぎた。
「......遥香は、今日はどうするだ?」
晃がぽつりとそう言ったとき、私は少し間を置いてから答えた。
「んー......どうしよう。タクシーで帰るには遠すぎるし、ネカフェもなんか抵抗あって」
私は小さく笑って答えながら、自分の手をこすった。
「だよなぁ」
晃も同じように自分のコートのポケットに手を突っ込みながら、ふと遥の顔を見た。
「このまま外にいるのも寒いし......どっか、店でも入るか」
私は、一瞬戸惑った。
けれど、寒さとこの静けさが、背中を押してくれる。
「......でも、お店開いてるかな?」
「たぶんね。探せば24時間のとこくらい、あると思う」
そう言って、晃は立ち上がりながら私を見下ろした。
「薬のお礼も兼ねて、奢らせてよ」
にっと笑ったその顔に、あの頃の晃が重なって見えた。
昔から、こうやってさりげなく人を気遣うところは変わっていない。
「久しぶりにもっと話したいしさ」
晃はそう一言付け加えた。
「じゃあ......遠慮なく」
私もそっと笑い返す。
夜の静かな駅をあとにして、私たちは並んで歩き出した。
少し歩いた先に、夜通し営業しているチェーンのカフェを見つけた。
ネオンはどこか疲れていて、入り口には寒風を防ぐためのビニールカーテンが揺れている。
でも、その薄暗い明かりが妙に落ち着いて見えた。
「ここにしよっか」
晃の言葉に頷いて、私はカフェのドアを押した。
深夜の店内は、数人の客が静かに時間を過ごしているだけだった。
本を読む人、パソコンを打つ人、眠そうにカップを持つ人。
その中に紛れるように、私たちは窓際の席に腰を下ろした。
「......あったかい」
コートを脱いで、椅子に体を預けると、ほっと肩の力が抜けた。
「俺、ブレンドにしようかな。遥香は?」
「......じゃあ、私もコーヒーで」
深夜のカフェに流れる、ゆるやかなBGM。
店員にオーダーを告げて、ふたり並んで座るこの感じが、なんだか不思議だった。
数年ぶりに会ったはずなのに、こんな自然に同じ空間にいられること。
沈黙すらも心地よく思えるこの時間に、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。
「なんかさ......」
晃がマグカップを両手で包みながら、ぽつりと呟いた。
「遥香、変わったよな。......いい意味でさ」
思いがけない言葉に、私はカップを持つ手を止めた。
「......変わったかな?」
「うん。大人っぽくなったっていうか......雰囲気、すごく落ち着いてる」
晃は少し照れくさそうに笑ってから、コーヒーをひと口飲んだ。
「それ、多分......社会に揉まれただけだよ」
苦笑しながら私も返す。
大人っぽくなった、なんて褒め言葉じゃなく、きっと“疲れて見える”ってことなんだろうと思いながら。
「でも、晃も変わったよ。昔より......背、伸びた?」
「いや、背はそんなに。筋トレしてるから、ちょっとガタイがよくなっただけかも」
「なるほど。あと、なんか“爽やかさ”増したよね」
そう言うと、晃が静かに頷いた。
「営業だからな。外見もそれなりに整えないと、って思って」
「昔はよく寝癖で、ボッサボサのまま学校きてたよね」
「そうそう!それで先生たちにも笑われてさ」
思い出して笑う晃に、私も思わず笑ってしまう。
「......高校のときはさ、もっと自由だったよね」
そう言うと、晃がふっと笑った。
「授業サボって保健室で寝てたりとか?」
「それ、英語の授業のときの晃じゃん」
思わずツッコミながら笑ってしまう。
だけど、その笑いの奥に、胸をくすぐるような懐かしさが残った。
「でも、なんか......大人になるって、もっと楽しいものだと思ってた」
私がぽつりとそうこぼすと、晃はカップを持ったまま、まっすぐ私の目を見た。
「ほんと、それ。思ってた理想と全然違ってて、たまに虚しくなる」
その言葉が、深く突き刺さった。
きっと彼も、同じように孤独や葛藤を抱えてここに来たんだ。
「......でも、ほんと。みんな、大人になったよね」
カップの縁に口をつけながら、目の前の晃をなんとなく見つめていた。
あの頃の晃は、クラスの中心にいる人だった。
いつも友達に囲まれて、男女問わずに人気があって、みんなに頼られてて――私は、そんな彼を、教室の端からそっと見ていた。
話すことなんて、ほとんどなかった。
でも、ある日、文化祭の実行委員を決めるとき、くじ引きで偶然ふたり一緒になった。
驚いたのを覚えている。
私のような目立たないタイプと組むの、嫌じゃないかな......なんて、ちょっと不安に思ってた。
だけど、晃は最初から、変わらなかった。
どんな子にも同じように接する、あの朗らかな態度で、私にも自然に話しかけてくれて、名前を呼んでくれて、冗談を言って笑わせてくれた。
――そのときのことを、私は今でも、よく覚えてる。
準備が大変で何度も遅くまで残ったけど、晃が一緒だったから、私にとって楽しかった。
文化祭が終わったあとも、目が合えば「おはよ!」と声をかけてくれて、それだけで一日が少し明るくなった。
たぶん、あのときからだった。
気づいたら、目で追っていて。話しかけられた日は、胸の奥がふわっとあたたかくなる。
......私は、晃が好きだった。
優しくて、明るくて、誰にでも分け隔てがなくて。
たまに真剣な顔をするときの横顔も、照れた笑い方も、全部。
だけど――言えなかった。
晃はみんなに好かれていて、私みたいなのが入り込む余地なんてないと思ってた。
告白する勇気なんて、どこにもなかった。
だから、卒業してからもずっと、私はそのまま、何も言わずに終わらせた。
“好きだった”って過去形にするしかなかった。
でも時々思う。
たとえ叶わなくても、「好きだったよ」って、それだけでも言っておけばよかったなって。
「遥香、大丈夫か?」
不意に名前を呼ばれて、私は我に返る。
「あっ、ごめん。......昔のこと、考えてた」
マグカップの縁をなぞりながら、そう返すと、晃が少しだけ笑った。
「......なぁ、久しぶりに夜更かししない?」
「え?」
「どうせ帰れないんだし。なんか......久しぶりに、人とちゃんと話したくなった」
その言葉が、妙に胸に沁みた。
たしかに私も、誰かとこんなふうに向き合って会話をするのは、いつ以来だろう。
仕事では怒られてばかり、友達ともなかなか予定が合わず、家ではただ眠るだけ。
息をつく暇なんてなかったはずなのに、今夜はどうしてか、呼吸が少しだけ楽だった。
「......じゃあ、覚悟してね。私、けっこう愚痴あるよ」
「上等。俺も負けないくらい溜めてる」
ふたりで小さく笑い合いながら、深夜の空気がほんの少し、温かくなる。
「うちの上司ね、とにかく感情で怒るタイプなの。私がやってないことでも“確認不足だ”って決めつけてくるし、資料の間違いがあったら、“見抜けなかったお前の責任”って」
「......あー、それわかるわ。こっちはちゃんと報告してても、“聞いてない”の一点張り。で、言い返すと“反抗的だ”って言われる。もう何も言えないよな」
「そう! しかも私、後輩のフォローまで押し付けられてて、残業代も出ないし......なのに“気が利かない”って、意味わかんないでしょ?」
「俺なんか、成績良くても『たまたまだ』って言われる」
マグカップの中のコーヒーはもう冷めているけれど、ふたりの言葉はどこか熱を帯びていた。
誰かにわかってほしかったことを、晃が何気なく言葉にしてくれる。
仕事の愚痴なんて、いつもは誰に話してもスッキリなんてしないのに、晃に話すと、不思議と心が軽くなる。
「......ねえ晃、なんかさ、こんな夜って、あったんだね」
「うん。逃した終電も、たまには悪くないかもな」
笑いながらそう言った晃の横顔は、あの頃と同じで、でも少し大人びていて。
「向いてないのかなって思うこともある。営業って、もっと人と関わるのが得意なやつがやるもんだろ? 俺、そんなに器用でもないし......」
その言葉に、私は小さく首を振った。
「......そんなことないよ」
晃が顔を上げる。
私は、まっすぐ彼を見つめた。
「晃はちゃんと話を聞いてくれるし、相手の言葉をちゃんと受け止めてくれる。さっきも、私の話、全部真剣に聞いてくれたじゃん。そういうの、簡単にできることじゃないよ」
晃は、一瞬だけ黙って、目を伏せた。
「器用じゃないとか、自信ないとか、きっと誰だって思ってる。でも、それでもちゃんと人のために動ける人って、私はすごいと思う。......少なくとも、私はそういう晃が好きだったし、今も変わらないと思うよ」
言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
“好きだった”なんて言葉を使うつもりじゃなかったのに、口から出てしまっていた。
晃は、一瞬だけ驚いたように私を見つめ、それからふっと優しく笑った。
「......ありがとな、遥香」
その笑顔は、どこか救われたようで、見ているこっちまであたたかくなるようだった。
気づけば、空の色がほんのりと滲みはじめていた。
カフェの大きな窓から見えるビルの影が、淡く輪郭を溶かしていく。
「......もう、こんな時間か」
晃がそう呟いて、窓を見上げた。
私もそっと背伸びをした。いつの間にか話し続けて、外はもう夜明けだ。
「なんか......ずっと話してたね」
「うん。でも、不思議と全然疲れてない。......なんでだろうな」
晃の言葉に、私も笑って頷いた。
店を出ると、ひんやりした早朝の空気が頬を撫でた。
街はまだ目覚めていない。通りも駅も、ひっそりとしていて、まるで時間だけが静かに前に進んでいるみたいだった。
並んで歩く足音が、舗道に控えめに響く。
それが、なんだか心地よかった。
「......夜明けって、こんなに静かなんだね」
「朝が来るのが、ちょっともったいないなって思っちゃうの、初めてかも」
晃がそう言って、少しだけ私の顔を見た。
その目が優しくて、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「......今日も仕事?」
「うん。たぶん、眠くて死ぬ」
「遥香は?このあと、どうすんの?」
晃がそう聞いてくる。
私は眠い目をこすりながら、少しだけ苦笑いした。
「いったん家に帰って、お風呂入って......そのまま出勤、かな」
「寝ないんだ?」
「寝たら終わる気がして......絶対起きられない」
晃が「だよな」と笑って頷く。
「俺も一回帰って、スーツだけ着替えて会社行くわ。顔、死んでそうだけど」
「お互い、がんばろ」
そう言いながら、私は心の中でそっと願っていた。
この時間が、たまたまじゃなくなればいいと。
もう一度、会える理由ができたらいいと。
東の空が、少しずつ明るくなっていく。
ホームにはまだ数人しか人がいない。
静かな構内に、電光掲示板の音が鳴り、機械的なアナウンスが響いた。
「まもなく、一番線に電車が到着します――」
私の電車だった。
「......じゃあ、またね」
そう言って、改札に手を振ろうとしたそのときだった。
「遥香!」
不意に呼び止められて、私は振り返る。
その声に、心臓が跳ねた。
朝焼けの光が差し込む中、晃が少し息を切らしながら言った。
「俺、実は......高校のとき、遥香のこと、好きだったんだ」
電車の音が近づく中、ぽつりと放たれたその言葉に、時が止まったような気がした。
「高校のときは、言えなかった。今さらって思うかもしれないけど......今夜、久しぶりに会って、やっぱり思ったんだ」
私は言葉が出せずに、ただ見つめ返す。
「俺、まだ遥香のこと好きだ」
私が驚いた顔をすると、晃は少しだけ照れくさそうでもまっすぐと私を見ていた。
「......よかったら、また会いたい。今度は、ちゃんと時間を作って。俺、もうあのときみたいに後悔したくないから」
ドアが開き、電車が音を立てて滑り込んでくる。
私は目を見開いたまま、言葉が出てこなかった。
でも、胸の奥が温かくて、なぜか泣きたくなるくらい嬉しかった。
誰にも邪魔されない、時間だけが静かに流れていた。
明かりがほの暗く、街のざわめきが遠くに消えたその中で、言葉は自然と柔らかくなり、胸の奥に押し込んでいた感情がぽろぽろと零れ落ちる。
普段なら照れて隠してしまう弱さも、不意に見せてしまう素顔も、今だけは許される気がした。
――まさか、この言葉を聞ける日が来るなんて。
「......うん。私も、また会いたい」
声がかすれてしまったけど、それでも晃にはちゃんと届いたらしく、彼はふっと笑った。
ドアが開き、私は電車に乗り込む。
笑った彼の顔が、ほんの少しだけ、あの頃の晃に重なって見えた。
私は電車に乗り込む。ドアが閉まり、車両がゆっくり動き出す。
窓の外に広がる朝の光の中、彼の姿が小さくなっていく。
――終電を逃さなければ、きっと出会えなかった夜だった。
たった一晩の再会で、すべてが変わるわけじゃない。
でも、それでもいい。
心の奥で止まっていた時計が、ほんの少しだけ、動き始めた気がした。



