大人になるって、もっと自由で楽しいものだと思っていた。
 けれど、現実は違った。私が就職したのは、いわゆるブラックな職場だった。

 朝から晩まで仕事に追われ、残業しても残業代は出ない。
 理不尽に怒鳴られるのは日常茶飯事で、同僚たちとも表面だけの会話しかできない。
 風邪を引いて休んだ日には、「自己管理ができていない」と小言をぶつけられた。

 ただ、生きるのに必死だった。
 心も体もすり減って、帰ったら寝るだけの生活。

 昔は好きだった裁縫も、もう何ヶ月も針を持っていない。
 手を動かしている時間が、唯一落ち着ける瞬間だったのに。
 今は、その余裕すらない。

佐々木(ささき)!またやらかしたのか?これ、どう説明するんだ!」

 上司の声がオフィスに響き渡る。

 顔を上げると、私が書類の誤りを指摘されているのかと思った。

 でも違った。

「お前の確認不足で、クライアントからクレームが来てる。どう責任取るつもりだ?」

 その書類は私が作ったわけじゃない。
 ただ、渡された資料をそのまま転送しただけだったのに。

「それに、山下(やました)の分までこの案件もやれ。お前しかいないんだからな」

「それ私じゃ......」

 何か言おうとしたら、すぐに遮られた。

「言い訳は聞きたくない。お前の仕事はこれだけじゃないんだ。もっと動け!」

 上司の顔は真っ赤で、感情が爆発している。
 まるで私がストレスのはけ口みたいに。

「お前がしっかりしないから、チーム全体が迷惑してるんだ。わかってるのか?」

 同僚はみんな目を伏せて、誰も助けてくれない。
 いつも孤立するのは私だけだった。

「はい......すみません......」

 小さく繰り返しながら、押し付けられた山のような書類を受け取る。

 心の奥が少しずつ崩れていくのを感じながら、私はまた夜遅くまで働くのだ。

 気づけば、フロアには誰の声もしなかった。
 照明は半分ほど落ち、コピー機の機械音すら止まっている。
 時計を見ると、終電まであと35分。

 「......間に合うよね」

 自分に言い聞かせるように呟いて、マウスを握る手に力が入った。

 山下さんの分まで引き継いだ案件。
 理不尽だとわかっていても、言い返すことができなかった。
 「使えない」ってまた思われたくなかった。
 頼る人なんて、もうとっくにいない。

 キーボードを叩く音だけが、無機質な空間にカタカタと響いていた。

 誰かが「手伝おうか」って声をかけてくれたら。
 そんなこと、期待するのはもうやめた。

 ――ああ、間に合ってほしい。せめて、今日くらいは。

 最後のファイルを添付し、メールを送信した瞬間、デスクの時計がピッと音を立てた。

 終電まで、残り13分。

 私は上着をつかんで席を立ち、誰もいないフロアからエレベーターへと駆け出した。

 社会人になって二年目。
 周りでは結婚する友達も増えてきて、休日の投稿は幸せそうな報告で埋まっていく。
 私はというと、誘われることも減り、気づけばみんな、どこか遠い存在になっていた。

 吐く息は白く、肩にしみる冷気が、言いようのない寂しさを煽った。

 恋がしたいわけじゃない。
 でも、誰かに隣にいてほしいと思う瞬間が、どうしてもある。
 そのたびに、なにを求めているのか自分でもよくわからなくなる。

 ――愛されたいのか。
 ――寂しさを埋めたいだけなのか。

 それさえも、もう曖昧だった。

 大人になると、恋は簡単じゃなくなる。
 感情だけじゃ動けないし、損得も現実も、いやでも見えてしまう。
 昔は、ただ一緒にいるだけで幸せだったのに。
 今は、相手の職業や年収、家族のこと、将来のこと――
 好きになる前に、頭で計算してしまう自分がいる。

 合コンに行けば、「どこに勤めてるの?」「ひとり暮らし? 実家?」
 笑いながら交わされるそんな会話に、どこか疲れてしまう。
 相手の笑顔の裏にある下心に、気づかないふりをするのも、そろそろ限界だった。

「純粋な恋愛がしたい」

 そんなこと、口にしたら笑われるのがオチだ。
 でも、そう思ってしまう自分が、まだ心のどこかにいる。
 ちゃんと誰かを好きになって、ちゃんと想われたかった。

 ただ、それだけのことが、今はとても難しい。

 “好き”の気持ちだけで走れていた、あの頃が少しだけ懐かしかった。

 寒さが肌を刺す。
 オフィスのビルを飛び出した私は、駅までの道を息を切らしながら駆けていた。

 終電まで、あと少し。
 間に合うかもしれない。間に合わないかもしれない。
 時間は、いつも私の都合なんて聞いてくれない。

 ヒールの音がアスファルトに響く。
 照明の落ちたビル群をすり抜けて、コンビニの光が一瞬、目にまぶしかった。
 横断歩道の信号が、赤から青に変わるまでの時間さえ、もどかしい。

「お願い、間に合って......」

 誰に届くわけでもない言葉が、白い息になって空に溶けていく。

 この街は、夜になってもまるで昼のように明るいのに、私はずっと、暗いところを走っている気がしていた。

 終電を逃したら、タクシーで帰るお金なんてない。
 コンビニで夜を明かす? ネカフェ? それとも会社に戻る?
 ぐるぐると考えが回って、それでも足は止まらない。

 改札を抜け、ホームへ続く階段を見上げた。
 足元から鼓動の音が突き上げてくる。
 あと少し。あと数十秒――そう信じて、私は一段一段を全力で駆け上がった。

 コートの裾がもつれて足がもつれそうになる。
 バッグが肩からずれ落ちても構わなかった。

「......待って......!」

 誰に向けたかも分からない声が、喉の奥から漏れた。

 最後の一段を踏み出したとき、
 ちょうど、電車のドアが閉まる音が響いた。

 ああ、間に合わなかった。

 ホームに足を踏み出したときには、車体はすでにゆっくりと動き始めていた。
 窓の向こうに揺れる光。誰かの笑い声。あたたかな明かりの中に、自分の居場所だけがなかった。

 走る電車を、ただ立ち尽くして見送るしかなかった。

 心臓はまだドクドクと速く脈打っているのに、体の奥は妙に冷たかった。
 膝が曲がって、ようやく私はその場にへたりこむ。

「......はぁ......嘘でしょ」

 呼吸を整えようとするたび、悔しさと情けなさが一緒に押し寄せる。

 あと数歩。ほんの数秒早ければ、きっと間に合っていた。

 肩で荒い息をしながら、その場に立ち尽くす。
 全身にじんわり汗がにじんでいたのに、風が吹き抜けるたび一気に冷えて、背筋がゾクリとした。

 ふと、まわりを見渡す。
 私だけじゃなかった。

 スーツ姿の男性が、スマホを握りしめたまま「ふざけんなよ......!」と低く吐き捨てるように言い、改札の方へと踵を返していった。
 他にも私と同じように、終電を逃した人たちが散らばっている。

「......明日も仕事なのに」

 ぽつりとこぼれた声が、夜のホームに溶けて消えた。

 寝不足のまま朝を迎えて、また理不尽に怒られて、誰にも味方されずに一日が終わる。
 それを考えると、全身から力が抜けていく気がした。

 ため息をひとつついて、改札へ戻ろうとしたそのときだった。

 視界の端に、ベンチでうずくまる男性の姿が映った。

 俯いたまま微動だにせず、まるで時間だけが彼の周りを通り過ぎているみたいだった。

 何かあったのだろうか。
 倒れそうに見える背中に、なぜか胸がざわついた。

 こんな夜に、ひとりであんなふうに座っているなんて。

 放っておけばいいのに――そう思ったはずなのに。
 気づけば私は、その人のほうへ歩み寄っていた。

「......あの、大丈夫ですか?」

 ベンチに座る男性は、しばらく無言のまま俯き続けていた。
 声が届かなかったのかと不安になった頃、かすれたような声が返ってくる。

「......すみません。ちょっと......頭が、痛くて......」

 やっぱり体調が悪いのだと、私は思わずバッグを探った。
 鞄に入れていた鎮痛剤を取り出し、そっと彼に差し出した。

「よかったら、これ......使ってください。水は、自販機で買ってきます」

 そう言った瞬間、彼がようやく顔を上げた。

 薄暗いホームの灯りの下、その輪郭がはっきりと見えたとき――私は、息をのんだ。

 ――(あきら)

 高校時代、ずっと想いを伝えられなかった、あの人だった。

 名前を呼びそうになって、言葉が喉の奥で止まった。
 ずっと、忘れたふりをしていた人。
 でも、忘れられなかった人。
 こんな夜に、こんな場所で、再開するなんて――。

 晃のほうも、じっと遥の顔を見つめていた。
 薄暗い照明の下で、その視線がわずかに揺れた気がした。

「......あれ......もしかして......遥香(はるか)?」

 数年ぶりに呼ばれた、自分の名前。
 あの頃と少しだけ低くなった声。
 それだけで、私の胸の奥に、何かがゆっくりとほどけていく気がした。

 しばらくして、自販機で買ってきたペットボトルの水を手渡すと、晃は小さく「ありがとう」と言って薬を口にした。

 それから数分、ふたりはベンチに並んで座ったまま、何も話さなかった。

 ホームにはもう人影もまばらで、先ほどのざわめきもすっかり静まっている。
 終電を逃したあとの駅は、妙に現実味がなくて、どこか夢の中にいるような感覚があった。

 晃が、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
 吐き出した息が白く浮かび上がる。

「......だいぶ、楽になった。助かったよ。ほんとに、ありがとう」

 顔を横に向けて、穏やかに微笑む晃。
 その笑顔を、昔、何度好きになったかわからない。
 久しぶりに見るその表情に、遥は心がじわりと温かくなるのを感じた。

「よかった。あのままだったら、倒れちゃうんじゃないかと思って......」

「うん。正直、ちょっとやばかった。最近、仕事が詰まっててさ......」

 晃はそう言って、苦笑する。

「遥香も仕事?」

 晃が問いかける。

「うん。残業......というか、押しつけられてたら、気づいたらこんな時間で」
 
 私は乾いた笑いを浮かべた。
 それが“あるある”ではなく、笑えないほど日常になっているのが、少し悲しかった。

「ほんとさっきは驚いたよ。まさか、こんなところで会うとはな」

「高校卒業してから6年ぶりだもんね」

「遥香もずっと東京?」

「うん。大学卒業してからこっちで就職したの」

「それなら1回ぐらい会っててもおかしくないのにな」

 ホームの静けさが、やけに心に響く。

 晃は正面を見つめたまま、少しだけ目を細めていた。
 ホームの端に灯る薄明かりが、彼の横顔をやさしく照らしている。

 じんわりと指先の感覚がなくなってきた。
 座っているだけなのに、足元から冷えが這い上がってくる。
 さっきまで笑っていたのに、身体は正直で、こんな夜に駅のベンチで過ごすには、季節が冷たすぎた。

「......遥香は、今日はどうするだ?」

 晃がぽつりとそう言ったとき、私は少し間を置いてから答えた。

「んー......どうしよう。タクシーで帰るには遠すぎるし、ネカフェもなんか抵抗あって」

 私は小さく笑って答えながら、自分の手をこすった。

「だよなぁ」

 晃も同じように自分のコートのポケットに手を突っ込みながら、ふと遥の顔を見た。

「このまま外にいるのも寒いし......どっか、店でも入るか」

 私は、一瞬戸惑った。
 けれど、寒さとこの静けさが、背中を押してくれる。

「......でも、お店開いてるかな?」

「たぶんね。探せば24時間のとこくらい、あると思う」

 そう言って、晃は立ち上がりながら私を見下ろした。

「薬のお礼も兼ねて、奢らせてよ」

 にっと笑ったその顔に、あの頃の晃が重なって見えた。
 昔から、こうやってさりげなく人を気遣うところは変わっていない。

「久しぶりにもっと話したいしさ」

 晃はそう一言付け加えた。

「じゃあ......遠慮なく」

 私もそっと笑い返す。

 夜の静かな駅をあとにして、私たちは並んで歩き出した。

 少し歩いた先に、夜通し営業しているチェーンのカフェを見つけた。
 ネオンはどこか疲れていて、入り口には寒風を防ぐためのビニールカーテンが揺れている。
 でも、その薄暗い明かりが妙に落ち着いて見えた。

「ここにしよっか」

 晃の言葉に頷いて、私はカフェのドアを押した。

 深夜の店内は、数人の客が静かに時間を過ごしているだけだった。
 本を読む人、パソコンを打つ人、眠そうにカップを持つ人。
 その中に紛れるように、私たちは窓際の席に腰を下ろした。

「......あったかい」
 
 コートを脱いで、椅子に体を預けると、ほっと肩の力が抜けた。

「俺、ブレンドにしようかな。遥香は?」

「......じゃあ、私もコーヒーで」

 深夜のカフェに流れる、ゆるやかなBGM。
 店員にオーダーを告げて、ふたり並んで座るこの感じが、なんだか不思議だった。

 数年ぶりに会ったはずなのに、こんな自然に同じ空間にいられること。
 沈黙すらも心地よく思えるこの時間に、どこまで踏み込んでいいのかわからなかった。

「なんかさ......」

 晃がマグカップを両手で包みながら、ぽつりと呟いた。

「遥香、変わったよな。......いい意味でさ」

 思いがけない言葉に、私はカップを持つ手を止めた。

「......変わったかな?」

「うん。大人っぽくなったっていうか......雰囲気、すごく落ち着いてる」

 晃は少し照れくさそうに笑ってから、コーヒーをひと口飲んだ。

「それ、多分......社会に揉まれただけだよ」

 苦笑しながら私も返す。
 大人っぽくなった、なんて褒め言葉じゃなく、きっと“疲れて見える”ってことなんだろうと思いながら。

「でも、晃も変わったよ。昔より......背、伸びた?」

「いや、背はそんなに。筋トレしてるから、ちょっとガタイがよくなっただけかも」

「なるほど。あと、なんか“爽やかさ”増したよね」

 そう言うと、晃が静かに頷いた。

「営業だからな。外見もそれなりに整えないと、って思って」

「昔はよく寝癖で、ボッサボサのまま学校きてたよね」

「そうそう!それで先生たちにも笑われてさ」

 思い出して笑う晃に、私も思わず笑ってしまう。

「......高校のときはさ、もっと自由だったよね」

 そう言うと、晃がふっと笑った。

「授業サボって保健室で寝てたりとか?」

「それ、英語の授業のときの晃じゃん」

 思わずツッコミながら笑ってしまう。
 だけど、その笑いの奥に、胸をくすぐるような懐かしさが残った。

「でも、なんか......大人になるって、もっと楽しいものだと思ってた」

 私がぽつりとそうこぼすと、晃はカップを持ったまま、まっすぐ私の目を見た。

「ほんと、それ。思ってた理想と全然違ってて、たまに虚しくなる」

 その言葉が、深く突き刺さった。
 きっと彼も、同じように孤独や葛藤を抱えてここに来たんだ。

「......でも、ほんと。みんな、大人になったよね」

 カップの縁に口をつけながら、目の前の晃をなんとなく見つめていた。

 あの頃の晃は、クラスの中心にいる人だった。
 いつも友達に囲まれて、男女問わずに人気があって、みんなに頼られてて――私は、そんな彼を、教室の端からそっと見ていた。

 話すことなんて、ほとんどなかった。
 でも、ある日、文化祭の実行委員を決めるとき、くじ引きで偶然ふたり一緒になった。
 驚いたのを覚えている。
 私のような目立たないタイプと組むの、嫌じゃないかな......なんて、ちょっと不安に思ってた。

 だけど、晃は最初から、変わらなかった。
 どんな子にも同じように接する、あの朗らかな態度で、私にも自然に話しかけてくれて、名前を呼んでくれて、冗談を言って笑わせてくれた。

 ――そのときのことを、私は今でも、よく覚えてる。

 準備が大変で何度も遅くまで残ったけど、晃が一緒だったから、私にとって楽しかった。
 文化祭が終わったあとも、目が合えば「おはよ!」と声をかけてくれて、それだけで一日が少し明るくなった。

 たぶん、あのときからだった。
 気づいたら、目で追っていて。話しかけられた日は、胸の奥がふわっとあたたかくなる。

 ......私は、晃が好きだった。

 優しくて、明るくて、誰にでも分け隔てがなくて。
 たまに真剣な顔をするときの横顔も、照れた笑い方も、全部。

 だけど――言えなかった。
 晃はみんなに好かれていて、私みたいなのが入り込む余地なんてないと思ってた。
 告白する勇気なんて、どこにもなかった。

 だから、卒業してからもずっと、私はそのまま、何も言わずに終わらせた。
 “好きだった”って過去形にするしかなかった。

 でも時々思う。
 たとえ叶わなくても、「好きだったよ」って、それだけでも言っておけばよかったなって。

「遥香、大丈夫か?」

 不意に名前を呼ばれて、私は我に返る。

「あっ、ごめん。......昔のこと、考えてた」

 マグカップの縁をなぞりながら、そう返すと、晃が少しだけ笑った。

「......なぁ、久しぶりに夜更かししない?」

「え?」

「どうせ帰れないんだし。なんか......久しぶりに、人とちゃんと話したくなった」

 その言葉が、妙に胸に沁みた。

 たしかに私も、誰かとこんなふうに向き合って会話をするのは、いつ以来だろう。
 仕事では怒られてばかり、友達ともなかなか予定が合わず、家ではただ眠るだけ。
 息をつく暇なんてなかったはずなのに、今夜はどうしてか、呼吸が少しだけ楽だった。

「......じゃあ、覚悟してね。私、けっこう愚痴あるよ」

「上等。俺も負けないくらい溜めてる」

 ふたりで小さく笑い合いながら、深夜の空気がほんの少し、温かくなる。

「うちの上司ね、とにかく感情で怒るタイプなの。私がやってないことでも“確認不足だ”って決めつけてくるし、資料の間違いがあったら、“見抜けなかったお前の責任”って」

「......あー、それわかるわ。こっちはちゃんと報告してても、“聞いてない”の一点張り。で、言い返すと“反抗的だ”って言われる。もう何も言えないよな」

「そう! しかも私、後輩のフォローまで押し付けられてて、残業代も出ないし......なのに“気が利かない”って、意味わかんないでしょ?」

「俺なんか、成績良くても『たまたまだ』って言われる」

 マグカップの中のコーヒーはもう冷めているけれど、ふたりの言葉はどこか熱を帯びていた。

 誰かにわかってほしかったことを、晃が何気なく言葉にしてくれる。

 仕事の愚痴なんて、いつもは誰に話してもスッキリなんてしないのに、晃に話すと、不思議と心が軽くなる。

「......ねえ晃、なんかさ、こんな夜って、あったんだね」

「うん。逃した終電も、たまには悪くないかもな」

 笑いながらそう言った晃の横顔は、あの頃と同じで、でも少し大人びていて。

「向いてないのかなって思うこともある。営業って、もっと人と関わるのが得意なやつがやるもんだろ? 俺、そんなに器用でもないし......」

 その言葉に、私は小さく首を振った。

「......そんなことないよ」

 晃が顔を上げる。
 私は、まっすぐ彼を見つめた。

「晃はちゃんと話を聞いてくれるし、相手の言葉をちゃんと受け止めてくれる。さっきも、私の話、全部真剣に聞いてくれたじゃん。そういうの、簡単にできることじゃないよ」

 晃は、一瞬だけ黙って、目を伏せた。

「器用じゃないとか、自信ないとか、きっと誰だって思ってる。でも、それでもちゃんと人のために動ける人って、私はすごいと思う。......少なくとも、私はそういう晃が好きだったし、今も変わらないと思うよ」

 言ってから、少しだけ頬が熱くなった。
 “好きだった”なんて言葉を使うつもりじゃなかったのに、口から出てしまっていた。

 晃は、一瞬だけ驚いたように私を見つめ、それからふっと優しく笑った。

「......ありがとな、遥香」

 その笑顔は、どこか救われたようで、見ているこっちまであたたかくなるようだった。

 気づけば、空の色がほんのりと滲みはじめていた。
 カフェの大きな窓から見えるビルの影が、淡く輪郭を溶かしていく。

「......もう、こんな時間か」

 晃がそう呟いて、窓を見上げた。
 私もそっと背伸びをした。いつの間にか話し続けて、外はもう夜明けだ。

「なんか......ずっと話してたね」

「うん。でも、不思議と全然疲れてない。......なんでだろうな」

 晃の言葉に、私も笑って頷いた。

 店を出ると、ひんやりした早朝の空気が頬を撫でた。
 街はまだ目覚めていない。通りも駅も、ひっそりとしていて、まるで時間だけが静かに前に進んでいるみたいだった。

 並んで歩く足音が、舗道に控えめに響く。
 それが、なんだか心地よかった。

「......夜明けって、こんなに静かなんだね」

「朝が来るのが、ちょっともったいないなって思っちゃうの、初めてかも」

 晃がそう言って、少しだけ私の顔を見た。
 その目が優しくて、なぜか胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「......今日も仕事?」

「うん。たぶん、眠くて死ぬ」

「遥香は?このあと、どうすんの?」

 晃がそう聞いてくる。

 私は眠い目をこすりながら、少しだけ苦笑いした。

「いったん家に帰って、お風呂入って......そのまま出勤、かな」

「寝ないんだ?」

「寝たら終わる気がして......絶対起きられない」

 晃が「だよな」と笑って頷く。

「俺も一回帰って、スーツだけ着替えて会社行くわ。顔、死んでそうだけど」

「お互い、がんばろ」

 そう言いながら、私は心の中でそっと願っていた。
 この時間が、たまたまじゃなくなればいいと。
 もう一度、会える理由ができたらいいと。

 東の空が、少しずつ明るくなっていく。

 ホームにはまだ数人しか人がいない。
 静かな構内に、電光掲示板の音が鳴り、機械的なアナウンスが響いた。

「まもなく、一番線に電車が到着します――」

 私の電車だった。

「......じゃあ、またね」

 そう言って、改札に手を振ろうとしたそのときだった。

「遥香!」

 不意に呼び止められて、私は振り返る。
 その声に、心臓が跳ねた。

 朝焼けの光が差し込む中、晃が少し息を切らしながら言った。

「俺、実は......高校のとき、遥香のこと、好きだったんだ」

 電車の音が近づく中、ぽつりと放たれたその言葉に、時が止まったような気がした。

「高校のときは、言えなかった。今さらって思うかもしれないけど......今夜、久しぶりに会って、やっぱり思ったんだ」

 私は言葉が出せずに、ただ見つめ返す。

「俺、まだ遥香のこと好きだ」

 私が驚いた顔をすると、晃は少しだけ照れくさそうでもまっすぐと私を見ていた。

「......よかったら、また会いたい。今度は、ちゃんと時間を作って。俺、もうあのときみたいに後悔したくないから」

 ドアが開き、電車が音を立てて滑り込んでくる。

 私は目を見開いたまま、言葉が出てこなかった。
 でも、胸の奥が温かくて、なぜか泣きたくなるくらい嬉しかった。

 誰にも邪魔されない、時間だけが静かに流れていた。
 明かりがほの暗く、街のざわめきが遠くに消えたその中で、言葉は自然と柔らかくなり、胸の奥に押し込んでいた感情がぽろぽろと零れ落ちる。

 普段なら照れて隠してしまう弱さも、不意に見せてしまう素顔も、今だけは許される気がした。

 ――まさか、この言葉を聞ける日が来るなんて。

「......うん。私も、また会いたい」

 声がかすれてしまったけど、それでも晃にはちゃんと届いたらしく、彼はふっと笑った。

 ドアが開き、私は電車に乗り込む。

 笑った彼の顔が、ほんの少しだけ、あの頃の晃に重なって見えた。

 私は電車に乗り込む。ドアが閉まり、車両がゆっくり動き出す。
 窓の外に広がる朝の光の中、彼の姿が小さくなっていく。

 ――終電を逃さなければ、きっと出会えなかった夜だった。

 たった一晩の再会で、すべてが変わるわけじゃない。
でも、それでもいい。

 心の奥で止まっていた時計が、ほんの少しだけ、動き始めた気がした。