「これから、どうする? ネカフェかカラオケなら深夜もやってるけど」

「ネカフェは……行ったことがないので、怖いから……カラオケにします」

思わずそう言ってしまった私に、俊さんはくすっと笑って言った。

「真央ちゃん、もしかして……お嬢様?」

「ち、ちがいますっ」

ぶんぶんと首を振ったけれど、否定すればするほど、なんだか自分が浮いているような気がしてしまう。

でも、笑いながら歩く彼の後ろ姿が、どこか頼もしくて。
私はそっとその背中を追いかけた。



カラオケの受付で「フリータイムでお願いします」と言う彼に、どきりとする。

朝5時まで、フリータイム。
入店時刻は、00時20分。
長時間、ふたりきり……ってこと……?

喉の奥がひゅっとなって、変な汗が出る。
密室。ふたり。長時間。

変なこと、されないよね……? いや、そんな人じゃないと思うけど……!

ドキドキしながら通された部屋は、狭くて薄暗くて、それなのにやけに明るく感じた。

彼がリモコンをいじっているあいだ、私はそっと検索欄に指をのばす。

……入れたのは、back ya loserの『バカやろう』。

さっきまでの自分を、ぶん殴ってやりたいくらい、叫びたかったから。

曲が始まってすぐ、隣で彼が目を丸くした。

「えっ、それ好きなの?」

「え……はい。たまたま聴いて、なんか、元気でるので……」

「真央ちゃん、案外ロックだな」

いたずらっぽく笑った彼が、マイクを片手にこぶしを突き上げる。

「じゃ、一緒に歌おうぜ」

「えっ、えっ、ちょっと……!」

戸惑う間もなく、前奏が始まった。

割れるようなドラムの音。からだの奥まで、振動が伝わっていく。

そして──音楽に合わせて、ふたりの声が重なった。

「バカやろう!!」

叫んだ声が響いた瞬間、なんだか心がふわっと軽くなった。

「……真央ちゃん、やるじゃん」

「俊さんこそ」

 私たちは視線を合わせて、けらけらと笑った。

 音程もリズムもめちゃくちゃだったけど、それでよかった。

 私たちは、自由だった。

「じゃ、次は……『アホンダラ』行くか!」

リモコンを操る彼の指先が、やけにスムーズで笑ってしまった。

交互に曲を入れては、ふたりで熱唱して、時々笑って、ハモったりして──

気づけば、私は歌うことよりも、彼の笑顔ばかり見ていた。

……眠いな、と思ったときには、もう意識が遠のいていた。



はっと目を覚ましたとき、部屋は薄暗いままだった。
画面には、再生が終わったままのカラオケの待機画面。
時計は、4時30分を指していた。

「……わ、寝ちゃってた……!すみません!」

慌てて体を起こすと、肩にかけられていた上着がふわりと落ちる。

俊さんの、だった。

「よく眠れた?……気持ち良さそうだったよ」

そう言って微笑む彼の顔が、あまりにやさしくて、私はまた顔が熱くなる。

「……すみません……」

「謝らなくていいのに」

そして、ぽつりとつぶやくように言った。

「俺、真央ちゃんが終電逃してくれて、よかったかも」

心臓が、どくんと弾む。

「……え……?」

言葉がうまく出てこない。そんな私に、彼は静かに語り出した。

「俺さ、高校まで男子校だったんだ。校則も厳しくて、門限もガチガチ。でも、大学で上京してきて、ぜんぶ自由になった。最初は戸惑ったけど、……楽しかったよ、世界が広がるのって」

その横顔は、どこか懐かしさを帯びていて、まるで過去の自分に話しかけているようだった。

「真央ちゃんの世界も、これからもっと広がると思う。でも、できればさ、俺にもその世界、ちょっと見せてよ。……俺も、真央ちゃんが知ってる世界、知りたいし」

その言葉があたたかすぎて、胸の奥がじん、とした。

「……はい。私でよければ……!」

そう答える声が、わずかに震えていたのは、たぶん気のせいじゃなかった。



5時。

カラオケを出ると、外はまだ真っ暗だった。
けれど駅の案内表示には、「始発運行中」の文字。

「帰れるね」

私が言うと、俊さんは空を見上げて、ふっと言った。

「……どうせなら、さ。日の出も一緒に見ない?」

「え……」

お母さんに怒られる。まっさきに、そう思った。
でも、そのあとすぐに「いいかも」と思った自分がいた。

「……はい。見たいです」

歩道橋へとふたりで登る。
だんだんと明るくなる空の下、言葉はなくても、不思議と寂しくなかった。


5時55分。

水平線の向こう、夜が音もなくほどけていく。
赤く染まりはじめた空が、ゆっくりと世界を照らし出す。

風の匂いも、鳥の声も、車の音も、ぜんぶが少しずつ動き出していて──その光景が、どうしようもなく、胸に染みた。

今まで見たどんな景色より、眩しかった。

たった一晩だけの自由が、こんなにやさしいなんて、知らなかった。

気づいたときには、涙がひとしずく、頬をすべっていた。

私は息を吸い込んで、背筋を伸ばす。

「……いろんなこと、楽しめました。ありがとうございました」

そう言って、ぺこりと頭を下げると──

俊さんが、肩越しに小さく笑った。

「……過去形? これからも一緒に楽しもうよ」

朝日を背にしたその笑顔は、どこまでも透明で、
まるで新しい朝そのものみたいだった。