──どうしよう、これはもう、絶体絶命。

夜の空気は、生ぬるくて少し苦い。
私は居酒屋の壁にもたれかかりながら、スマホの画面を睨んでいた。

23時30分。
着信履歴は、すでに二十八件を超えている。すべて──母から。

「……ぜったい、怒られる……」

指先が震える。心臓の音ばかりが耳に響いて、手足から体温が抜けていくようだった。

大学に入ってからもずっと守ってきた「22時門限」を、今夜、初めて破ってしまった。

背後では、乾いた笑い声が波のように重なり合っている。
金髪の男子が、どこか演技がかった調子で立ち上がった。

「改めまして~!インカレサークル、Miracles☆にようこそ~~!」

店内の拍手と歓声が、一斉に沸き上がる。
ジョッキを打ち鳴らす音。甲高い笑い声。床に落ちた氷の破片が、ぴちゃりと音を立てた。

みんな、まだ飲み足りなさそうにしてる。
門限とか、親の目とか、そんなものはこの場に存在しないみたいだった。

──どうして、私だけ、取り残されたみたいな気持ちになるんだろう。

体が動かない。早く帰らなきゃいけないのに、焦りだけが、喉の奥に積もっていく。

「もうお開きの時間だよ~!」
「まだまだいけるってば~!」
「やめとけ、バカ~!」

酔った声たちが宙を舞うなか、私はずっとスマホを握りしめていた。

そのとき。

さっきまで場を盛り上げていた金髪の男子が、ひょいと私の前に現れた。

近くで見ると、まぶしさを孕んだような顔立ちだった。
グレーのフーディにだぼだぼのパンツ。耳にはピアスが五つ。だけど、その声は驚くほどやわらかかった。

「ねぇ、大丈夫? 終電、まだ間に合う?」

ふいに胸の奥がぎゅっとなった。

「えっと……たぶん、もう……まずいです」

「じゃあ、行こ。帰ろ」

彼は軽やかにそう言って、出入口を指差した。
笑ったその横顔が、不思議なくらい澄んで見えた。

「……ありがとうございます」

そう言って頭を下げると、彼の表情がすっと真剣になる。

「この時間、女の子がひとりで歩くのは危ないよ。送ってく」

「えっ……そんな、でも──」

「いいから」

その瞬間、背中越しにからかうような声が飛んできた。

「俊、また抜け駆けかよ~!」 「お持ち帰り〜?」

一瞬で顔が熱くなって、心臓がばくんと大きく鳴った。

だけどその「俊」と呼ばれた彼は、振り返らずに言った。

「ちげーし」

そのまま、私の手首を軽く引いて、夜の街へと歩き出した。