それから1ヶ月ほどがたったころ、西条家はとある場所へと招かれていた。
そこは、この國で5本の指に入るほどの力を持つ異能家系、朝比奈家の屋敷だ。
先日、朝比奈家当主が急な病で亡くなり、急遽息子の天馬へと当主の座が引き継がれ、今日はその襲名式で各地域から有名な異能家系の当主が呼ばれていた。
招待客たちを乗せた黒塗りの車が次々に、高い塀で囲われた広大な敷地内へと入っていく。
そこにある洋風の立派な建物が、朝比奈家の屋敷だ。
また、襲名式に伴い異例の天馬の見合いも兼ねており、力ある異能家系の娘たちも招待されていた。
天馬は23歳という若さでありながら、影鬼の討伐に不可欠な軍の國防隊隊長を務める優秀な異能者。
名の知れた朝比奈家の当主となり、軍の隊長。
さらに、女性ならば思わず振り返ってしまうほどの申し分ない容姿まで持ち合わせており、招かれた娘たちは皆、天馬の妻の座を静かに狙っていた。
西条家は絃と璃々子それぞれが招待されていたが、もちろん秀徳たちは絃の出席は認めなかった。
そのため留守番の予定だったが、なぜか行きの車の中には絃の姿もあった。
というのも、璃々子がああでもないこうでもないと世話係の絃に文句をつけ、出発前の身支度が大幅に遅れてしまい、仕方なく絃も迎えの車に乗り込み、車内で璃々子に化粧を施していたのだった。
「これだから、グズのドブ女はっ」
朝比奈家に着く直前に、なんとか自分の身なりを整えさせた絃に璃々子は吐き捨てる。
「ドブ女なんて放っておきなさい。それにしても、とってもきれいよ、璃々子」
「ああ。きっと朝比奈殿も璃々子に釘付けになること間違いなしだな」
「アタシが美しいのは元からよ。天馬さまの噂は何度も耳にしたことがあるけれど、どのようなお方かしら。楽しみ!」
璃々子は勝手に天馬の顔を想像し、ぽっと頬を赤くしている。
この間までは和久の話しかしていなかったが、どうやら今はどうでもいいようだ。
「いいな、絃。終わるまで、お前は外で待っているんだぞ」
「…はい、お父さま」
出席者たちを横目に見ながら、普段着の地味な着物姿の絃は、そそくさと屋敷の敷地外へと出ていった。
3時間後にパーティーが終わり、そのときにまた迎えの車がくる。
それまで絃は、外でひとり待ちぼうけだ。
隊長と聞いて、絃は着物の懐にあの白いハンカチを忍ばせてきた。
だが、軍にもいくつかの部隊があり、朝比奈天馬という人物があのハンカチの持ち主かはわからない。
別人の可能性は十分にあるし、もし同一人物だったとしても秀徳から中に入ることを許されていない以上、顔を合わせることもできない。
「はぁ…。せめて、お名前をお聞きしておけばよかった」
絃はため息をついて、あのときの颯爽と駆けつけてきた男の姿を思い浮かべながら、ハンカチを挟んでいる着物の懐にそっと手を当てた。
そのとき、なにか違和感を感じた。
懐に、ハンカチ以外の固い感触があったからだ。
慌てて引き抜くと、蝶と花がデザインされた璃々子の一番お気に入りの簪が出てきた。
そういえば、車内で髪もやり直しさせられ、璃々子の頭についていたたたくさんの髪飾りもひとつずつ外していくハメとなった。
そのとき、この簪の置き場に困った絃は一瞬だけ自分の着物の懐に挿し込んだ。
璃々子に早くしろと急かされていたこともあり、この簪を挿し直すことをすっかり忘れていたのだった。
「どうしよう…」
簪を握った絃の手が震える。
もしかしたら、このまま気づかれずに済むかもしれないを
だが、万が一でもこのお気に入りの簪がないとわかったら――。
それならば、正直に伝えたほうがいいかもしれない。
璃々子たちが中に入ってから1時間近くが経過していた。
襲名式の最中は入れないが、そのあとに懇親会として立食パーティーが予定されており、そのときに璃々子に訳を話して簪をつけるのが一番被害を最小限に抑えられるはずだ。
絃はごくりとつばを飲み込んだ。
「どなた様でしょうか」
とても招待客とは思えない質素な格好の絃を見て、門番たちは絃を止めた。
「あ、あの…、わたしは…」
『忘れ物を届けにきただけ』と言ったところで、簡単には通してくれなさそうだ。
本当は抵抗があったが、今は早く璃々子に届けるべきだと考え、絃は仕方なくこう口にした。
「わたしは、西条家長女の絃です」
それを聞くと、門番たちはすぐさま頭を下げた。
「これは、西条家のご令嬢に対して大変失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
長女としても認めてもらえていないというのに、自分で名乗るには精神が削がれそうだった。
絃は複雑な心境のまま、門番に会釈をして屋敷の中へと入っていった。
絃の予想どおりで、開場を覗くと少し前に襲名式が終わったようで、ガラス戸を開けた先にある広々した庭も含めての立食パーティーが開かれていた。
人が多く、この中から璃々子を探し出すのは一苦労しそうだった。
絃はそっと会場内に入り込む。
なるべく人目に触れず存在を消しておきたかったが、この場に似つかわしくない身なりの絃は逆に目立ってしまっていた。
「あの娘、もう少しマシな格好はできなかったのか」
「間違って、使用人が迷い込んだんじゃない?」
人々は嘲笑い、絃を冷ややかな目で見つめる。
そのとき――。
「え、…は?絃さん?」
突然名前を呼ばれ、絃はとっさに振り返った。
そこにいたのは、長身の端正な顔立ちの男。
「あ…、和久さん」
長楽家も襲名式に呼ばれていたようで、知っている顔があり少しほっとした絃だったが、すぐに以前の記憶が蘇る。
『やめろ!こっちへくるな!…この、バケモノが!!』
絃が呪血だと知って、途端に態度を変えた和久の顔は今でもはっきりと覚えている。
だが、そのような反応をされたのは和久が初めてというわけでもなく、悲しいが絃は慣れていた。
「せ…先日は、大変失礼いたしました」
「ああ、本当に。まさかキミがバケモノだったとはね。呪血なら呪血と、顔にそう書いておいてほしいものだよ」
和久は絃と一定の距離を取りながら鼻で笑う。
「ところで、絃さんはここでなにを?とても招待されたとは思えない格好だけれど」
「あの…、わたしは留守番なのですが、璃々子の忘れ物を届けに…」
「璃々子さんの?彼女ならさっきぼくのところへ挨拶にきてくれたから、今は朝比奈さまのところじゃないかな」
そう言って、和久は会場の中央へ目配せする。
そこでは、若い娘たちが団子のようになって異常に密集していた。
絃は和久をお礼を言って、人混みの中へと分け入っていった。
「…あ〜あ、目に入るだけでドブくさい。せっかくのうまいワインがまずくなる」
和久は小言を漏らすと、受け取ったばかりのワイングラスをボーイに交換させていた。
人だかりの中心に主役の朝比奈天馬がいるのだろうが、あまりの人の多さにその姿を見ることはできない。
絃がまごついていると、ブツブツと小言を言いながら離れていく人物がいた。
それは、他のご令嬢よりも一際派手な見た目の璃々子だ。
「なんなの、あいつらっ。自分が自分がって天馬さまに近づいて、本当に目障りだわ!」
「まあまあ、璃々子。挨拶はできたのだから、朝比奈殿もきっと覚えてくださっているよ」
「パパ、アタシが覚えられるのは当たり前でしょう!?だって、美貌も異能の力だって、あそこで団子になってる同じような顔の女たちとは比べもにならないんだから!」
璃々子は少ししか天馬と話せず、すぐ次の娘を交代させられご立腹のようだ。
そんなご機嫌斜めな璃々子を秀徳と佳代子が必死になだめる。
「璃々子、まだ時間はあるから大丈夫よ。あんなふうにしつこい女はモテないものよ」
「そうだな。ひとまず食事にしよう。パパとママが取ってくるから、璃々子は庭のベンチで休んでいるといい」
秀徳にそう言われ、璃々子はひとり庭へと移動する。
だが、設けられたテーブル付きのベンチにはすでに人がいっぱいだった。
「…チッ。西条家より下の凡人どもの分際で占領してんじゃないわよ」
璃々子は苛立っていた。
会場内には総菜料理、庭には甘いスイーツが並べられていた。
璃々子はひと口サイズに切り分けられたショートケーキに荒々しくフォークを突き刺すと、そのまま口へと運んだ。
「あら、意外とおいしいじゃない」
璃々子はペロリと口の端についたクリームを舐め取る。
「璃々子…」
そのとき、絃が声をかける。
振り返った璃々子は、絃の姿を見て驚いて目を丸くした。
「…は?なんでドブ女がここに?」
「璃々子、ごめんなさい。実は――」
「話し中、失礼する。もしかして、キミは…」
だれかに後ろからそっと肩をつかまれた絃は顔を向けた。
すぐに目に飛び込んできたのは、透き通るような碧い瞳。
「あなたは…!」
絃がつぶやいた途端に、思い切り着物を引っ張られた。
絃の前に出てきたのは璃々子だった。
「天馬さま!わたくしに会いにきてくださったのね!」
璃々子は猫なで声で天馬を見つめる。
絃はその璃々子の言葉に、この男が朝比奈家当主で國防隊隊長――。
そして、あのときハンカチを渡してくれた男だと知った。
「天馬さまからきてくださるなんてうれしいわ〜!やっぱり、初めて見たときからわたくしのことが――」
「悪いが、少し静かにしていてくれないか」
天馬の鋭い視線に、璃々子は思わず口をつぐんだ。
「あのっ、先日は助けていただき、ありがとうございました…!」
「そうか、やはりキミだったか。さっき、似ている女性を見かけたような気がして、とっさに追いかけてきてしまった」
深く頭を下げる絃を見て、天馬はやさしく微笑む。
「…はっ!?追いかけた…!?なんで天馬さまがドブ女をっ。それに、ふたりはどうして顔見知りなの…!?」
璃々子は心の中でつぶやいたつもりだったが、周りには聞こえないくらいの小声として勝手に漏れていた。
「もう傷は大丈夫か」
「はい、小さいころから丈夫なところだけは取り柄なので。お気遣いいただきありがとうございます」
「それならよかった」
「…あっ。それで、実は今日――」
そう言って、絃はハンカチを忍ばせている着物の懐に手をやった。
しかし、表情を曇らせた絃はその手をゆっくりと下げた。
もし次会うことがあったらと思って、洗濯したハンカチをいつも持ち歩いていたが、いざ本人を目の前にすると躊躇ってしまった。
一度は呪血で汚れたハンカチを返されたところで迷惑に思われるかもしれない。
「…すみません、なんでもございません」
「そうか。ちなみに、よければ名前を聞いてもいいだろうか」
「えっ、は…はい。わたしは、西条絃です」
「あの西条家か。西条家は優秀な異能者が多いから、影鬼討伐時には我々國防隊もつい頼ってしまうよ」
「ですよね、天馬さま!わたくしもきっとおそばで天馬さまを支えられるはずですわ!」
突然璃々子が割って入ってきたため、天馬はぽかんとしている。
「…えっと。キミは…だれだっただろう」
「なっ、なにをご冗談を…!わたくしですよ、わ・た・く・し!先ほどご挨拶させていただいたじゃないですか、西条璃々子です!」
「あ…。あ〜、そうか。キミも西条家のご令嬢だったか」
キミ“も”…!?
微笑みながらも璃々子の目尻がピクリと動く。
「一度に顔と名前を覚えるのがどうも苦手なんだ。すまない」
「い、いえ!たくさんの方にお声がけされたら、さすがの天馬さまも疲れちゃいますよね」
「本当にすまない。結婚相手は自分で探すと母には話していたのだが、襲名式にかこつけて各家のご令嬢まで呼びつけてしまったんだ」
天馬の話からすると、親睦会が見合いも兼ねていると知ったのはつい最近のことのようだ。
「料理は、代々朝比奈家に仕える料理人たちが腕によりをかけて作ったものばかりだ。絃、最後まで楽しんでくれ」
「は、はい…!」
名前を呼ばれた絃はとっさに返事をした。
天馬が絃たちのもとを離れると、すぐさま待ってましたと言わんばかりにご令嬢たちが群がっていた。
絃はほんのり頬を赤く染めながら、天馬の後ろ姿を見つめていた。
「…お姉ちゃーん」
しかし、すぐに背後から恐ろしい殺気を感じて絃は体が固まってしまった。
「待って待って。なんでお姉ちゃんが天馬さまに口を利いてるわけ?自分の身分わかってる?」
「ご…ごめんなさい。この前、バラ園でお会いしたことがあったから、つい…」
「は?バラ園?それに、そもそもこの場にお姉ちゃんがいるのがおかしいんじゃないの?」
「そう…なんだけど…。璃々子に簪を挿し忘れたのに気がついて、それで…」
「簪?」
璃々子は、絃の着物の懐から現れた簪を見て鬼の形相に変わった。
「返して!!どうしてお姉ちゃんが持ってるのよ!」
「だ、だから、車で璃々子の髪を整えるときに外して――」
「もしかして、盗んだの!?」
璃々子の怒号が庭に響き、驚いた他の招待客たちは一斉に目を向けた。
「璃々子、いったい何事だ」
「どうしたの、璃々子」
そこへ、料理を盛った皿を両手に抱えた秀徳と佳代子が戻ってきた。
そして、璃々子のそばにいた絃を見て顔をしかめる。
「…絃!?どうしてここに…!」
「ふたりとも、ひとまずこっちにくるんだ!」
西条家は人目を避けるようにして、庭の隅へと場を移した。
「絃、なぜ言いつけのひとつも守れない!?」
「…ごめんなさい。でも、璃々子に――」
「言い訳するつもり!?見苦しい!」
佳代子は思いきり絃を頬を引っ叩いた。
「やめなさい、佳代子。このようなところで。帰ってからでもいいだろう」
「だけど、あなた…!」
「それに、こんなみすぼらしい格好の絃を見られるだけで西条家の恥だ。今は一刻も早く、絃をここから追い出すことが先だ」
秀徳は絃に鋭い視線を送る。
「絃、その茂みを越えて塀を伝うようにして行けば門までたどり着くはずだ。さっさと行きない。間違っても、屋敷の中に入ろうなどと考えるな」
「は…、はい」
絃はきゅっと唇を噛んでうなずいた。
「ひとまず、璃々子はお腹が空いただろう。パパたちは他の招待客の方々に挨拶してくるから、璃々子はひとりで食べていてくれるか?」
「ええ。平気よ、パパ」
「ほんと璃々子はえらいわね。待つことすらできないドブ女とは大違いだわ」
秀徳と佳代子になじられる絃を見て、璃々子はうれしそうに微笑んでいた。
しかし、璃々子の溜まったうっぷんはそれくらいでは晴れなかった。
親しげに天馬と話す、さっきの絃の幸せそうな顔が脳裏に焼きついて離れなかったのだ。
璃々子は右手の小指の腹を噛み切ると、左の手のひらに血で呪式を書いた。
すると、そこから無数の蜂が現れた。
「ドブ女にちょっとイタズラしちゃって」
絃の口寄せによって出現した神使の蜂たちは、一斉に後ろ姿を向ける絃に攻撃を仕掛けた。
「…痛っ!なに…?」
出ていこうとしていた絃を蜂たちが襲う。
「見えるところはダメよ〜?髪や着物で隠れているところを狙うのよ」
璃々子の命令に蜂たちは従う。
「や、やめて…璃々子!」
「フフフ、いい気味。あんたが悪いんだから」
振り払っても追いかけてくる蜂に絃は逃げ惑う。
絃が招待客たちのほうへ逃げていくものだから、璃々子は仕方なく口寄せを解いた。
「なに…この子!?」
突然、奇妙な動きをして飛び込んできた絃に周りは騒然となる。
「お姉ちゃん、こっちにきたらまたパパとママに叱られるわよ〜?」
クスクスと笑いながら顔を近づけてくる璃々子。
すると、そんな璃々子の頬をなにかが突ついた。
「イタッ!」
顔をしかめる璃々子をつぶらな瞳で睨みつけるのは、絃の神使のピーちゃんだった。
「は?団子?」
「ピー!」
怒ったピーちゃんが璃々子のスネを突つく。
「ダメ!ピーちゃん!」
人前には姿を見せてはいけない約束のため、絃は慌ててピーちゃんを抱きかかえる。
だが、ピーちゃんはさすがに我慢できなかったようだ。
「もしかして、あんたの神使?口寄せが使えたの?…まあ、呪血でも異能が使えないわけじゃないものね」
突然のピーちゃんの出現に璃々子はぽかんとしている。
「だったとしても、ドブ女にふさわしいみっともない鳥ね!こんな団子みたいなブサイクな鳥、見たことないわ!」
璃々子は絃からピーちゃんを奪い取ると、仕返しに指で弾いてもて遊ぶ。
「やめて!ピーちゃんを返して!」
ピーちゃんを取り返そうと絃が手を伸ばす。
そして、ピーちゃんは無事に奪還できたが、目を向けるとなぜか璃々子が食事が並ぶテーブルに思いきり体を打ちつけていた。
ガッシャーン!!
取り分け用に積まれていた皿が地面に落ち、けたたましい音が庭に響き渡る。
もちろんその場にいた客たちは一斉に目を向けた。
「だ…だれか、助けて!お姉ちゃんに突き飛ばされたの!」
璃々子が泣き叫ぶ。
絃は呆然と突っ立っていた。
ピーちゃんを取り返す際、璃々子には少し触れはしたが突き飛ばすようなことは一切していない。
それに、ニヤリと微笑みながら璃々子が自分からテーブルに倒れ込む姿も絃ははっきりと覚えていた。
「西条家の娘さんよね?」
「長女は養女らしいわよ。だから、妹を疎ましく思ってたんじゃないかしら」
「そうだったとしても、突き飛ばすなんてひどい姉だわ…!」
璃々子の企みにより、一瞬にして絃が悪者にされてしまった。
騒ぎを聞きつけた秀徳と佳代子も璃々子のもとへ駆けつける。
「璃々子!」
「…パパ〜!ママ〜!」
「あなた、大変!璃々子がケガをしてるわ…!」
ケガといっても腕にちょっとした擦り傷をつくったくらいだった。
それよりも、絃の着物に隠れた蜂の刺し傷のほうが重傷だ。
「いったい何事だ」
そこに天馬も駆けつけ、璃々子たちと絃に交互に目を向ける。
「天馬さま聞いてください!姉がわたくしを突き飛ばして…!」
だれが見ても、絃が璃々子に危害を加えたと思い込む状況。
絃は言い訳する気力もなく黙り込んでいた。
すると――。
「すぐに手当てをしよう」
璃々子には目もくれず、素通りして天馬が向かったのは絃のもとだった。
そして、天馬は絃を軽々と抱きかかえる。
「…まっ、待ってください!ひとりで歩けます…!」
「無理するな」
恥ずかしがる絃を見て、天馬は余裕の笑みを浮かべる。
「お待ちください、天馬さま!」
そんな天馬を呼び止めたのは璃々子だった。
「どうして姉を!?わたくしのほうがケガをしているというのに…!」
璃々子は着物の袖をめくり、擦り傷をこれでもかと見せつけてくる。
天馬は「はぁ…」とため息をつくと、璃々子に吐き捨てた。
「そんなケガ、ツバでもつけていろ」
そうして、絃を抱きかかえた天馬はその場を去った。
そこは、この國で5本の指に入るほどの力を持つ異能家系、朝比奈家の屋敷だ。
先日、朝比奈家当主が急な病で亡くなり、急遽息子の天馬へと当主の座が引き継がれ、今日はその襲名式で各地域から有名な異能家系の当主が呼ばれていた。
招待客たちを乗せた黒塗りの車が次々に、高い塀で囲われた広大な敷地内へと入っていく。
そこにある洋風の立派な建物が、朝比奈家の屋敷だ。
また、襲名式に伴い異例の天馬の見合いも兼ねており、力ある異能家系の娘たちも招待されていた。
天馬は23歳という若さでありながら、影鬼の討伐に不可欠な軍の國防隊隊長を務める優秀な異能者。
名の知れた朝比奈家の当主となり、軍の隊長。
さらに、女性ならば思わず振り返ってしまうほどの申し分ない容姿まで持ち合わせており、招かれた娘たちは皆、天馬の妻の座を静かに狙っていた。
西条家は絃と璃々子それぞれが招待されていたが、もちろん秀徳たちは絃の出席は認めなかった。
そのため留守番の予定だったが、なぜか行きの車の中には絃の姿もあった。
というのも、璃々子がああでもないこうでもないと世話係の絃に文句をつけ、出発前の身支度が大幅に遅れてしまい、仕方なく絃も迎えの車に乗り込み、車内で璃々子に化粧を施していたのだった。
「これだから、グズのドブ女はっ」
朝比奈家に着く直前に、なんとか自分の身なりを整えさせた絃に璃々子は吐き捨てる。
「ドブ女なんて放っておきなさい。それにしても、とってもきれいよ、璃々子」
「ああ。きっと朝比奈殿も璃々子に釘付けになること間違いなしだな」
「アタシが美しいのは元からよ。天馬さまの噂は何度も耳にしたことがあるけれど、どのようなお方かしら。楽しみ!」
璃々子は勝手に天馬の顔を想像し、ぽっと頬を赤くしている。
この間までは和久の話しかしていなかったが、どうやら今はどうでもいいようだ。
「いいな、絃。終わるまで、お前は外で待っているんだぞ」
「…はい、お父さま」
出席者たちを横目に見ながら、普段着の地味な着物姿の絃は、そそくさと屋敷の敷地外へと出ていった。
3時間後にパーティーが終わり、そのときにまた迎えの車がくる。
それまで絃は、外でひとり待ちぼうけだ。
隊長と聞いて、絃は着物の懐にあの白いハンカチを忍ばせてきた。
だが、軍にもいくつかの部隊があり、朝比奈天馬という人物があのハンカチの持ち主かはわからない。
別人の可能性は十分にあるし、もし同一人物だったとしても秀徳から中に入ることを許されていない以上、顔を合わせることもできない。
「はぁ…。せめて、お名前をお聞きしておけばよかった」
絃はため息をついて、あのときの颯爽と駆けつけてきた男の姿を思い浮かべながら、ハンカチを挟んでいる着物の懐にそっと手を当てた。
そのとき、なにか違和感を感じた。
懐に、ハンカチ以外の固い感触があったからだ。
慌てて引き抜くと、蝶と花がデザインされた璃々子の一番お気に入りの簪が出てきた。
そういえば、車内で髪もやり直しさせられ、璃々子の頭についていたたたくさんの髪飾りもひとつずつ外していくハメとなった。
そのとき、この簪の置き場に困った絃は一瞬だけ自分の着物の懐に挿し込んだ。
璃々子に早くしろと急かされていたこともあり、この簪を挿し直すことをすっかり忘れていたのだった。
「どうしよう…」
簪を握った絃の手が震える。
もしかしたら、このまま気づかれずに済むかもしれないを
だが、万が一でもこのお気に入りの簪がないとわかったら――。
それならば、正直に伝えたほうがいいかもしれない。
璃々子たちが中に入ってから1時間近くが経過していた。
襲名式の最中は入れないが、そのあとに懇親会として立食パーティーが予定されており、そのときに璃々子に訳を話して簪をつけるのが一番被害を最小限に抑えられるはずだ。
絃はごくりとつばを飲み込んだ。
「どなた様でしょうか」
とても招待客とは思えない質素な格好の絃を見て、門番たちは絃を止めた。
「あ、あの…、わたしは…」
『忘れ物を届けにきただけ』と言ったところで、簡単には通してくれなさそうだ。
本当は抵抗があったが、今は早く璃々子に届けるべきだと考え、絃は仕方なくこう口にした。
「わたしは、西条家長女の絃です」
それを聞くと、門番たちはすぐさま頭を下げた。
「これは、西条家のご令嬢に対して大変失礼いたしました。どうぞ、お通りください」
長女としても認めてもらえていないというのに、自分で名乗るには精神が削がれそうだった。
絃は複雑な心境のまま、門番に会釈をして屋敷の中へと入っていった。
絃の予想どおりで、開場を覗くと少し前に襲名式が終わったようで、ガラス戸を開けた先にある広々した庭も含めての立食パーティーが開かれていた。
人が多く、この中から璃々子を探し出すのは一苦労しそうだった。
絃はそっと会場内に入り込む。
なるべく人目に触れず存在を消しておきたかったが、この場に似つかわしくない身なりの絃は逆に目立ってしまっていた。
「あの娘、もう少しマシな格好はできなかったのか」
「間違って、使用人が迷い込んだんじゃない?」
人々は嘲笑い、絃を冷ややかな目で見つめる。
そのとき――。
「え、…は?絃さん?」
突然名前を呼ばれ、絃はとっさに振り返った。
そこにいたのは、長身の端正な顔立ちの男。
「あ…、和久さん」
長楽家も襲名式に呼ばれていたようで、知っている顔があり少しほっとした絃だったが、すぐに以前の記憶が蘇る。
『やめろ!こっちへくるな!…この、バケモノが!!』
絃が呪血だと知って、途端に態度を変えた和久の顔は今でもはっきりと覚えている。
だが、そのような反応をされたのは和久が初めてというわけでもなく、悲しいが絃は慣れていた。
「せ…先日は、大変失礼いたしました」
「ああ、本当に。まさかキミがバケモノだったとはね。呪血なら呪血と、顔にそう書いておいてほしいものだよ」
和久は絃と一定の距離を取りながら鼻で笑う。
「ところで、絃さんはここでなにを?とても招待されたとは思えない格好だけれど」
「あの…、わたしは留守番なのですが、璃々子の忘れ物を届けに…」
「璃々子さんの?彼女ならさっきぼくのところへ挨拶にきてくれたから、今は朝比奈さまのところじゃないかな」
そう言って、和久は会場の中央へ目配せする。
そこでは、若い娘たちが団子のようになって異常に密集していた。
絃は和久をお礼を言って、人混みの中へと分け入っていった。
「…あ〜あ、目に入るだけでドブくさい。せっかくのうまいワインがまずくなる」
和久は小言を漏らすと、受け取ったばかりのワイングラスをボーイに交換させていた。
人だかりの中心に主役の朝比奈天馬がいるのだろうが、あまりの人の多さにその姿を見ることはできない。
絃がまごついていると、ブツブツと小言を言いながら離れていく人物がいた。
それは、他のご令嬢よりも一際派手な見た目の璃々子だ。
「なんなの、あいつらっ。自分が自分がって天馬さまに近づいて、本当に目障りだわ!」
「まあまあ、璃々子。挨拶はできたのだから、朝比奈殿もきっと覚えてくださっているよ」
「パパ、アタシが覚えられるのは当たり前でしょう!?だって、美貌も異能の力だって、あそこで団子になってる同じような顔の女たちとは比べもにならないんだから!」
璃々子は少ししか天馬と話せず、すぐ次の娘を交代させられご立腹のようだ。
そんなご機嫌斜めな璃々子を秀徳と佳代子が必死になだめる。
「璃々子、まだ時間はあるから大丈夫よ。あんなふうにしつこい女はモテないものよ」
「そうだな。ひとまず食事にしよう。パパとママが取ってくるから、璃々子は庭のベンチで休んでいるといい」
秀徳にそう言われ、璃々子はひとり庭へと移動する。
だが、設けられたテーブル付きのベンチにはすでに人がいっぱいだった。
「…チッ。西条家より下の凡人どもの分際で占領してんじゃないわよ」
璃々子は苛立っていた。
会場内には総菜料理、庭には甘いスイーツが並べられていた。
璃々子はひと口サイズに切り分けられたショートケーキに荒々しくフォークを突き刺すと、そのまま口へと運んだ。
「あら、意外とおいしいじゃない」
璃々子はペロリと口の端についたクリームを舐め取る。
「璃々子…」
そのとき、絃が声をかける。
振り返った璃々子は、絃の姿を見て驚いて目を丸くした。
「…は?なんでドブ女がここに?」
「璃々子、ごめんなさい。実は――」
「話し中、失礼する。もしかして、キミは…」
だれかに後ろからそっと肩をつかまれた絃は顔を向けた。
すぐに目に飛び込んできたのは、透き通るような碧い瞳。
「あなたは…!」
絃がつぶやいた途端に、思い切り着物を引っ張られた。
絃の前に出てきたのは璃々子だった。
「天馬さま!わたくしに会いにきてくださったのね!」
璃々子は猫なで声で天馬を見つめる。
絃はその璃々子の言葉に、この男が朝比奈家当主で國防隊隊長――。
そして、あのときハンカチを渡してくれた男だと知った。
「天馬さまからきてくださるなんてうれしいわ〜!やっぱり、初めて見たときからわたくしのことが――」
「悪いが、少し静かにしていてくれないか」
天馬の鋭い視線に、璃々子は思わず口をつぐんだ。
「あのっ、先日は助けていただき、ありがとうございました…!」
「そうか、やはりキミだったか。さっき、似ている女性を見かけたような気がして、とっさに追いかけてきてしまった」
深く頭を下げる絃を見て、天馬はやさしく微笑む。
「…はっ!?追いかけた…!?なんで天馬さまがドブ女をっ。それに、ふたりはどうして顔見知りなの…!?」
璃々子は心の中でつぶやいたつもりだったが、周りには聞こえないくらいの小声として勝手に漏れていた。
「もう傷は大丈夫か」
「はい、小さいころから丈夫なところだけは取り柄なので。お気遣いいただきありがとうございます」
「それならよかった」
「…あっ。それで、実は今日――」
そう言って、絃はハンカチを忍ばせている着物の懐に手をやった。
しかし、表情を曇らせた絃はその手をゆっくりと下げた。
もし次会うことがあったらと思って、洗濯したハンカチをいつも持ち歩いていたが、いざ本人を目の前にすると躊躇ってしまった。
一度は呪血で汚れたハンカチを返されたところで迷惑に思われるかもしれない。
「…すみません、なんでもございません」
「そうか。ちなみに、よければ名前を聞いてもいいだろうか」
「えっ、は…はい。わたしは、西条絃です」
「あの西条家か。西条家は優秀な異能者が多いから、影鬼討伐時には我々國防隊もつい頼ってしまうよ」
「ですよね、天馬さま!わたくしもきっとおそばで天馬さまを支えられるはずですわ!」
突然璃々子が割って入ってきたため、天馬はぽかんとしている。
「…えっと。キミは…だれだっただろう」
「なっ、なにをご冗談を…!わたくしですよ、わ・た・く・し!先ほどご挨拶させていただいたじゃないですか、西条璃々子です!」
「あ…。あ〜、そうか。キミも西条家のご令嬢だったか」
キミ“も”…!?
微笑みながらも璃々子の目尻がピクリと動く。
「一度に顔と名前を覚えるのがどうも苦手なんだ。すまない」
「い、いえ!たくさんの方にお声がけされたら、さすがの天馬さまも疲れちゃいますよね」
「本当にすまない。結婚相手は自分で探すと母には話していたのだが、襲名式にかこつけて各家のご令嬢まで呼びつけてしまったんだ」
天馬の話からすると、親睦会が見合いも兼ねていると知ったのはつい最近のことのようだ。
「料理は、代々朝比奈家に仕える料理人たちが腕によりをかけて作ったものばかりだ。絃、最後まで楽しんでくれ」
「は、はい…!」
名前を呼ばれた絃はとっさに返事をした。
天馬が絃たちのもとを離れると、すぐさま待ってましたと言わんばかりにご令嬢たちが群がっていた。
絃はほんのり頬を赤く染めながら、天馬の後ろ姿を見つめていた。
「…お姉ちゃーん」
しかし、すぐに背後から恐ろしい殺気を感じて絃は体が固まってしまった。
「待って待って。なんでお姉ちゃんが天馬さまに口を利いてるわけ?自分の身分わかってる?」
「ご…ごめんなさい。この前、バラ園でお会いしたことがあったから、つい…」
「は?バラ園?それに、そもそもこの場にお姉ちゃんがいるのがおかしいんじゃないの?」
「そう…なんだけど…。璃々子に簪を挿し忘れたのに気がついて、それで…」
「簪?」
璃々子は、絃の着物の懐から現れた簪を見て鬼の形相に変わった。
「返して!!どうしてお姉ちゃんが持ってるのよ!」
「だ、だから、車で璃々子の髪を整えるときに外して――」
「もしかして、盗んだの!?」
璃々子の怒号が庭に響き、驚いた他の招待客たちは一斉に目を向けた。
「璃々子、いったい何事だ」
「どうしたの、璃々子」
そこへ、料理を盛った皿を両手に抱えた秀徳と佳代子が戻ってきた。
そして、璃々子のそばにいた絃を見て顔をしかめる。
「…絃!?どうしてここに…!」
「ふたりとも、ひとまずこっちにくるんだ!」
西条家は人目を避けるようにして、庭の隅へと場を移した。
「絃、なぜ言いつけのひとつも守れない!?」
「…ごめんなさい。でも、璃々子に――」
「言い訳するつもり!?見苦しい!」
佳代子は思いきり絃を頬を引っ叩いた。
「やめなさい、佳代子。このようなところで。帰ってからでもいいだろう」
「だけど、あなた…!」
「それに、こんなみすぼらしい格好の絃を見られるだけで西条家の恥だ。今は一刻も早く、絃をここから追い出すことが先だ」
秀徳は絃に鋭い視線を送る。
「絃、その茂みを越えて塀を伝うようにして行けば門までたどり着くはずだ。さっさと行きない。間違っても、屋敷の中に入ろうなどと考えるな」
「は…、はい」
絃はきゅっと唇を噛んでうなずいた。
「ひとまず、璃々子はお腹が空いただろう。パパたちは他の招待客の方々に挨拶してくるから、璃々子はひとりで食べていてくれるか?」
「ええ。平気よ、パパ」
「ほんと璃々子はえらいわね。待つことすらできないドブ女とは大違いだわ」
秀徳と佳代子になじられる絃を見て、璃々子はうれしそうに微笑んでいた。
しかし、璃々子の溜まったうっぷんはそれくらいでは晴れなかった。
親しげに天馬と話す、さっきの絃の幸せそうな顔が脳裏に焼きついて離れなかったのだ。
璃々子は右手の小指の腹を噛み切ると、左の手のひらに血で呪式を書いた。
すると、そこから無数の蜂が現れた。
「ドブ女にちょっとイタズラしちゃって」
絃の口寄せによって出現した神使の蜂たちは、一斉に後ろ姿を向ける絃に攻撃を仕掛けた。
「…痛っ!なに…?」
出ていこうとしていた絃を蜂たちが襲う。
「見えるところはダメよ〜?髪や着物で隠れているところを狙うのよ」
璃々子の命令に蜂たちは従う。
「や、やめて…璃々子!」
「フフフ、いい気味。あんたが悪いんだから」
振り払っても追いかけてくる蜂に絃は逃げ惑う。
絃が招待客たちのほうへ逃げていくものだから、璃々子は仕方なく口寄せを解いた。
「なに…この子!?」
突然、奇妙な動きをして飛び込んできた絃に周りは騒然となる。
「お姉ちゃん、こっちにきたらまたパパとママに叱られるわよ〜?」
クスクスと笑いながら顔を近づけてくる璃々子。
すると、そんな璃々子の頬をなにかが突ついた。
「イタッ!」
顔をしかめる璃々子をつぶらな瞳で睨みつけるのは、絃の神使のピーちゃんだった。
「は?団子?」
「ピー!」
怒ったピーちゃんが璃々子のスネを突つく。
「ダメ!ピーちゃん!」
人前には姿を見せてはいけない約束のため、絃は慌ててピーちゃんを抱きかかえる。
だが、ピーちゃんはさすがに我慢できなかったようだ。
「もしかして、あんたの神使?口寄せが使えたの?…まあ、呪血でも異能が使えないわけじゃないものね」
突然のピーちゃんの出現に璃々子はぽかんとしている。
「だったとしても、ドブ女にふさわしいみっともない鳥ね!こんな団子みたいなブサイクな鳥、見たことないわ!」
璃々子は絃からピーちゃんを奪い取ると、仕返しに指で弾いてもて遊ぶ。
「やめて!ピーちゃんを返して!」
ピーちゃんを取り返そうと絃が手を伸ばす。
そして、ピーちゃんは無事に奪還できたが、目を向けるとなぜか璃々子が食事が並ぶテーブルに思いきり体を打ちつけていた。
ガッシャーン!!
取り分け用に積まれていた皿が地面に落ち、けたたましい音が庭に響き渡る。
もちろんその場にいた客たちは一斉に目を向けた。
「だ…だれか、助けて!お姉ちゃんに突き飛ばされたの!」
璃々子が泣き叫ぶ。
絃は呆然と突っ立っていた。
ピーちゃんを取り返す際、璃々子には少し触れはしたが突き飛ばすようなことは一切していない。
それに、ニヤリと微笑みながら璃々子が自分からテーブルに倒れ込む姿も絃ははっきりと覚えていた。
「西条家の娘さんよね?」
「長女は養女らしいわよ。だから、妹を疎ましく思ってたんじゃないかしら」
「そうだったとしても、突き飛ばすなんてひどい姉だわ…!」
璃々子の企みにより、一瞬にして絃が悪者にされてしまった。
騒ぎを聞きつけた秀徳と佳代子も璃々子のもとへ駆けつける。
「璃々子!」
「…パパ〜!ママ〜!」
「あなた、大変!璃々子がケガをしてるわ…!」
ケガといっても腕にちょっとした擦り傷をつくったくらいだった。
それよりも、絃の着物に隠れた蜂の刺し傷のほうが重傷だ。
「いったい何事だ」
そこに天馬も駆けつけ、璃々子たちと絃に交互に目を向ける。
「天馬さま聞いてください!姉がわたくしを突き飛ばして…!」
だれが見ても、絃が璃々子に危害を加えたと思い込む状況。
絃は言い訳する気力もなく黙り込んでいた。
すると――。
「すぐに手当てをしよう」
璃々子には目もくれず、素通りして天馬が向かったのは絃のもとだった。
そして、天馬は絃を軽々と抱きかかえる。
「…まっ、待ってください!ひとりで歩けます…!」
「無理するな」
恥ずかしがる絃を見て、天馬は余裕の笑みを浮かべる。
「お待ちください、天馬さま!」
そんな天馬を呼び止めたのは璃々子だった。
「どうして姉を!?わたくしのほうがケガをしているというのに…!」
璃々子は着物の袖をめくり、擦り傷をこれでもかと見せつけてくる。
天馬は「はぁ…」とため息をつくと、璃々子に吐き捨てた。
「そんなケガ、ツバでもつけていろ」
そうして、絃を抱きかかえた天馬はその場を去った。



