「このドブ女!」
 西条(さいじょう)家の屋敷に、今日もドスの効いた怒鳴り声が響く。
 怯えながら深く頭を下げる少女を、まるで親の仇のごとく睨みつけている女性は佳代子(かよこ)
 この家の当主秀徳(ひでのり)の妻だ。
 佳代子の後ろでほくそ笑んでいるのは、娘の璃々子(りりこ)
 流行りのウェーブのかかったロングヘアに、大ぶりの柄があしらわれた高価な着物に身を包み、見るからに全身に金がかけられていることがわかる。
「ママ。ドブ女なんかほっといて、早く朝食にしましょうよ」
 そして、そんなふたりから“ドブ女”と罵られている少女の名は(いと)
 手入れされていないボサボサの鬱陶しい長い黒髪に、着物の裾からは痩せた手足が見え隠れしている。
 完璧な容姿の璃々子とは真逆のような姿をしているが、実は絃は璃々子のふたつ上の姉にあたる。
 とはいっても、血の繋がりはない。
 絃は、璃々子の父――秀徳の姉の娘。
 今から10年前に、絃はこの西条家に預けられた。
 男と駆け落ちして音信不通だった絃の母が、ある日突然絃を連れて実家の西条家に戻ってきたのだ。
 当時はまだ、秀徳と絃の母の父親である前当主が健在だったため、ふたりは情けをかけられ屋敷に置いてもらえることになった。
 しかし、絃の母は病に冒されており、それから1年もたたずして亡くなってしまう。
 残された絃は、前当主の提案により養女として秀徳の娘になった。
 表向きは西条家当主の長女ではあるが、屋敷での絃の扱いはひどいものだった。
 絃の母がいたときも肩身は狭かったが、亡くなって以降はさらに絃への当たりが強くなった。
 叔父の秀徳は前当主が勝手に決めたことだからと、絃には無関心。
 佳代子は、義姉が帰ってきたと思ったら、余計な荷物を押しつけられるかたちとなり、目障りで仕方がない。
 璃々子は、ひとりっ子で育ってきたはずが突然見ず知らずの姉ができ、絃の存在がそもそも受けつけられない。
 とくに佳代子と璃々子にかんしては、その溜まりに溜まったストレスを絃に暴言と暴力でぶつけるのだった。
 そのうちそれが日常化し、絃になにかされたわけでなくとも、憂さ晴らしとして怒りをぶつけるのを日々の快感にしていた。
「臭いのよ、ドブ女!」
 絃にこう吐き捨てると、ふたりは清々しい気持ちになる。
 絃が“ドブ女”と呼ばれる理由は、ドブネズミのように西条家に上がり込んできたことが由来。
 それだけではなく、もうひとつ理由がある。
 それは――。
「ドブ女、わかったならさっさと掃除しておきなさい」
「…わ、…わかりまし――」
「聞こえないわ。返事くらいちゃんとしなさい!」
 佳代子が罵声を浴びせた瞬間、絃の左頬に痛みが走る。
 同時にヒリヒリと頬が熱を帯びはじめる。
 呆然とした絃が左頬に手を添え見上げると、扇子を振り払うようにして腕を曲げた格好の佳代子の姿があった。
 それで絃は瞬時に理解した。
 佳代子の手に握られている竹製の扇子で打たれたのだと。
 角が当たって切れたのか、絃の口の端から血が流れる。
 だが、その血は真っ赤な色をしていない。
「うわっ…、気持ち悪い!」
「いつ見ても、同じ人間とは思えないわ」
 璃々子と佳代子は、目を細めて絃を見下ろす。
 絃の口の端から流れるのは、墨を垂らしこんだかのような黒い血。
 この血は、一部の人物にのみ流れる特別なもの。
 見た目の邪悪な色から、“呪いの血”という意味の『呪血(じゅけつ)』と呼ばれている。
 この國では血の繋がりを重んじており、生活に必要なあらゆる契約などは、すべてその体に流れる血で執り行うことになる。
 血族はランク付けされており、呪血はその中で最底辺に位置する。
 絃を忌み嫌うのは、彼女が呪血を持つ人間だからという理由に加え、佳代子たち西条家の人間は“麗血(れいけつ)”という最も高貴な血の持ち主だからだ。
 麗血の者たちはその血を絶やさないために、麗血同士の家系で結婚するのが一般的。
 つまり、絃の叔父にあたる西条家当主の秀徳も麗血の血筋で、その姉の絃の母も麗血だった。
 だが、絃の母が恋心を抱き駆け落ちした相手は呪血の人間だったため、生まれてきた絃も優性の呪血を受け継いだのだ。
 また血の種類により、その身に宿る特別な力“異能”を使いこなすことができる。
 異能は、この國にはびこる異形“影鬼(えいき)”を倒すのに必要な能力で、高度な異能が使える麗血の者たちはそれだけで尊い存在なのだ。
 ただ、身体の働きにおける成分は麗血も呪血もその他血族の血もなんら変わりはない。
 もちろん呪血のみに異臭がするわけでもなく、仮に匂いがしたとしても赤い血液と同じ。
 だが佳代子や璃々子は、『呪血は臭いもの』『まるでドブの汚水のようだ』という勝手な認識から、絃のことをドブ女と呼んで蔑んでいるのだ。
 絃が呪血であったとわかってから、この家においてたとえ長女であっても璃々子との扱いは天と地。
 璃々子の身の回りの世話係として、日々こき使われていた。
 西条家の人間はもちろんこと、使用人も呪血の絃を嫌い、声をかける者すらいなかった。
 そんな孤独な絃だが、唯一の話相手がいる。
 その相手は、絃の1日の仕事が終わったあとの部屋にて現れる。
「…はあ。今日はなんだか疲れちゃった」
 絃は、ベッドに腰をかけひと息つく。
 するとそのすぐそばで、ポンッとなにかが突然出現した。
 それは、ふわふわとした紅い毛並みが特徴的なずんぐりむっくりとした形の小鳥。
「ピピー!」
 絃の肩に留まると、疲労を労るように顔を擦り寄せてきた。
「いつもありがとう、ピーちゃん」
 絃はピーちゃんを手のひらに乗せ、にっこりと微笑む。
 “ピーちゃん”と名付けられたこの丸々としたフォルムの小鳥は、絃の神使(しんし)
 神使とは、異能の『口寄せ』により具現化した生き物のことを指し、影鬼を倒すにも神使の存在が不可欠だ。
 本来口寄せは、神使と血の契約を結んで力を借りることができる。
 契約は5体が限度で、利き手の指それぞれに神使を封印して、必要なときに封印している指の腹を噛み切り、流れ出た血で呪式を書くことで神使を呼び出せる。
 これが正式な口寄せの方法だが、絃はなぜかこの手順がなくてもピーちゃんが好きなときに姿を見せることができるのだ。
 麗血と比べて力が劣るというくらいで、元をたどれば皆麗血であるため、呪血の絃が異能を使えてもなんら不思議なことではない。
 ピーちゃんも異能で呼び寄せた立派な神使ではあるが、その存在は知られてはいけないと亡くなった母親から言われていたため、こうしたふたりきりのときでないとピーちゃんは出てこない。
 物心がついたときからピーちゃんは絃のそばにおり、蔑まれてきた絃にとってはピーちゃんが唯一の友達だった。

 その日は、数日続いた雨が嘘のように清々しい青空が広がる5月の上旬――。
 商いもしている西条家に、取引先の長楽(ながら)家の当主とその息子の和久(かずひさ)がやってきた。
 来年から和久に後を継がせることになったということで、その挨拶にだ。
「お母さま!あの端正な顔立ちの方はどなた?」
 部屋の窓から見えた長身で男前の和久に、璃々子はさっそく頬を赤く染めている。
「あの方は、長楽家の次期当主の和久さんよ。来年当主になられるそうよ」
「長楽家って、あの宝石商の長楽家!?そこの次期当主だなんて、あの方すごいじゃない!」
「そうね。後継ぎの息子さんがいらっしゃるとは聞いていたけど、まさかあんな立派な方だとは。それに、麗血の血筋らしいわよ」
「それならお近づきしておこうかしら。もしかしたら、将来アタシの旦那さまになられるお方かもしれないしね」
「璃々子ったらせっかちね。でもまあ、お知り合いになって損なことはないわね」
 璃々子と佳代子はいやらしく微笑んだ。
 それから璃々子は、今まさに応接室のドアをノックしようとする使用人から湯呑みが乗ったお盆を取り上げた。
「アタシがお出しするわ!あんたは下がっていいわよ」
「ですが――」
「聞こえなかった!?アタシが“いい”って言ってるの!口ごたえするんじゃないわよ、クビにするわよ!」
「も…申し訳ございません!」
 萎縮し、顔を引きつらせてはけていく使用人の後ろ姿に向かって、璃々子はチッと舌打ちをした。
 これまで来客にお茶を出すことなど一切したことのなかった璃々子だが、このときばかりは張り切っていた。
「お話中、失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
 応接室に入ってきたに美しい璃々子の姿に、長楽家のふたりは頬を緩ませる。
「噂通りの美人の娘さんですな」
「ふふふ、自慢の娘です。それに、璃々子は異能の才にも恵まれ、4体の神使を扱えるのです」
「ほう、その歳で。優秀ですな」
 神使との契約には血のほかに異能の力も必要であることから、どんな神使を何体扱えるかによって異能者の力量がわかる。
 まだ16歳で4体もの神使と契約を交わしているということは鼻高々に自慢できることだ。
 だが、長楽家のふたりを前にした今は謙遜し、驕り高ぶるような態度は控えている。
「璃々子さんがいるだけで、華やかになりますな。もしよろしければ同席していただけますか」
「まあ!よろしいのですか!」
 璃々子の思ったとおりに事が運び、着物の袖で口元を隠しながらニンマリと微笑む。
 絃はというと、廊下に四つん這いになって拭き掃除をしていた。
 絃がふと時計に目を向けると、璃々子が応接室に入ってから1時間ほどがたっていた。
 そろそろお茶を交換したほうがよいのでは。
 そう思った絃は、忙しそうに屋敷の掃除をする使用人に代わり、お茶の用意をすると応接室へと向かった。
 中からは、璃々子の楽しそうな笑い声が聞こえる。
「失礼いたします。新しいお茶をお持ちいたしました」
 絃が応接室に入ると、秀徳はあからさまに機嫌を悪くした。
 よりにもよって、どうしてお前がきたんだと言いたそうな表情をしている。
 璃々子も和久との会話を邪魔され、一瞬顔をしかめる。
「こちらの方は?」
 使用人専用の着物を着用していない絃を見て、長楽家当主はキョトンとしている。
「ああ、まあ…長女の絃です。姉の子で、事情があってうちで養女として迎えたのです」
「そうでしたか。それなら、絃さんも今からどうですかな」
 長楽家当主に尋ねられ、絃は困ったように首をかしげる。
「近くにバラ園があると聞きまして、今から和久と璃々子さんが向かうところだったのです。なので、よかったら絃さんもごいっしょに」
 突然の誘いに絃は目を見開く。
「い、いえ…!わたしは…」
 横から、痛いくらいの璃々子の視線を感じた絃はすぐに断ろうとした。
 だが、今度は別方向からの視線が突き刺さる。
 それは、璃々子の隣に座る秀徳だ。
 得意先である長楽家当主からのお誘いを断るつもりか。
 絃には秀徳がそう言っているように感じた。
 断っても断らなくても、絃にはよくない未来しか想像できなかった。
「父さんもこう言ってることですし、せっかくですから絃さんも」
 和久も言ってくるものだからますます断れなくなった絃は、仕方なくこくんとうなずくしかなかった。
 和久、璃々子、絃の3人は、屋敷近くのバラ園にやってきた。
 ちょうど見頃で、様々な品種のバラが咲き乱れていた。
 普段は市民が散歩でやってくるような場所であるが、今日は軍服を着た軍人の姿も所々に見え、なんだか物々しい雰囲気がした。
 そのわけは、数日前に影鬼がこのバラ園周辺に複数現れる事件が発生した。
 秀徳やその他異能者の活躍により影鬼は消滅したが、他にもまだいないかとこうして軍がパトロールをしているのだった。
 国民の過半数は異能とは無縁の、影鬼を倒すことのできないか弱き者たち。
 影鬼からの傷を追うと感染し、その者は新たな影鬼になることも確認されているため、二次被害が出ないようにこうして徹底した調査が必要なのだ。
「璃々子さん、安心してください。万が一影鬼が出現しても、ぼくが守りますから。なかなかいい神使がいるんですよ」
「まあ!頼もしいですわ、和久さん」
 和久も3体の神使と契約を交わす優秀な異能者だ。
 同じ麗血であり、璃々子好みの容姿も兼ね合わせた和久の存在は大きい。
 だからこそ、この機会に和久と親密になりたかった。
 この場だって本来ならふたりきりになるはずだったが、長楽家当主の空気の読めない発言により、よりにもよってドブ女の絃までもくることになった。
 和久は礼儀として、一応絃にもなるべく同じように接している。
 それが余計に、璃々子をいらつかせた。
「璃々子さん、絃さん。こちらのバラなら持ち帰っていいそうですよ」
 和久が見つけたのは、来園者がハサミでバラを切って持ち帰ることができる特別に整備された花壇だった。
「わー、素敵!わたくしは赤がいいわ!」
「璃々子さんは赤ですね。危ないからぼくが切りますね」
「ありがとうございます、和久さま」
 和久のちょっとしたやさしさに、璃々子は頬を赤く染める。
「絃さんは?いいのありましたか?」
「それじゃあ、わたしはこのピンク色のを――痛っ…」
 そうつぶやきながらピンクのバラに手を伸ばした絃だったが、不注意にもトゲで指を刺してしまう。
「大丈夫ですか、絃さん!」
 ちょうどその現場を目撃した和久は、とっさに絃に駆け寄る。
「ぼくに見せてください!」
「…いえっ、たいしたことはないので――」
 と言って、ケガをした手を引っ込める絃だったが、その手を和久が包み込む。
「自慢できるほとではないですが、治癒の異能も使えるんです。だから、小さな傷くらいならすぐに治せます」
 和久は、世にも珍しい治癒の異能を持っていた。
 たまたま周りにいた見物客たちも、ふと聞こえた“治癒の異能”という言葉を聞き、興味深そうに視線を向ける。
 和久は、この視線がほしかった。
 きっと璃々子も絃もあっと驚くに違いない。
 想像するだけで勝手に頬が緩む和久だったが――。
「和久さま!姉に触れてはいけないわ…!」
 突然、背後から璃々子が叫んだ。
 キョトンとして振り返った和久に、璃々子はニヤリと口角を上げて微笑む。
「だって、絃お姉ちゃんは“呪血”だもの」
 璃々子の言葉を聞いた和久は、一瞬ぽかんとしていた。
 そして、恐る恐る絃の手を包みこんでいた自分の手に視線を移すと、そこにはほんのわずかだか黒い液体が付着していた。
 それを目にした和久は、またたく間に血相を変える。
「う…、うわぁぁぁぁああああ!!なんだこれはぁ!?!?」
 震えながら叫び声を上げ、絃のわずかな血がついた手のひらを何度もスーツのジャケットにこすりつける。
「キモチワルイ!キモチワルイ!キモチワルイ!!」
 和久は急いでジャケットを脱ぐと、荒々しく地面に投げつけた。
「か、和久さま、申し訳ございません…!わたしが早く言っておけば――」
「やめろ!こっちへくるな!…この、バケモノが!!」
 思いきり和久に突き飛ばされた絃はバランスを崩し、そのままバラの花壇の中へと倒れ込んだ。
 無数のトゲが絃の白い肌を傷つけ、黒い血を流す。
「…見て!本当に呪血よ」
「噂には聞いていたけれど、なんて邪悪な血なのかしら…」
 周囲いた人々も汚いものを見るような目で絃を見下し、ケガをしている絃に手を貸そうとする者はだれひとりとしていなかった。
「和久さん、不快な姉で申し訳ございません…。わたくしが代わりに心よりお詫び申し上げますわ」
「どうして璃々子さんが謝るんだ。彼女は、秀徳さんのお姉さんの子なんだろう?西条家も呪血の娘を押しつけられて大変だったね」
「…お察しいただけますか?姉も麗血であるわたくしのことが疎ましいのか、父と母のいないところではわたくしを…」
 涙声でうつむく璃々子を和久はそっと抱き寄せる。
「かわいそうに…。憎むべきは自身の血であるはずなのに、璃々子さんに当たるなんて性根が腐っている」
「…違います!わたしは――」
「口を開くな、バケモノ。実に汚らわしい」
 和久は冷たい視線を絃に落とし、その和久の胸で嘘泣きをしていた璃々子はこれでもかというほどにニンマリと笑っていた。
 ――そのとき。
「なんの騒ぎだ」
 遠くからだれかがやってくるのが見えた。
「…だれかくる。璃々子さん、面倒にならないように屋敷へ戻ろう」
「そうですわね、和久さん」
 ふたりは絃をその場に残して去っていった。
 絃は花壇の中でもがくが、着物が引っかかってなかなか抜け出せない。
 その間もトゲが肌に食い込むが、周囲は見て見ぬふりだ。
「…大丈夫か!」
 絃のもとへ現れたのは、長身の軍服の男。
 黒髪の短髪に鼻筋の通った整った顔には、まるで(みどり)色の宝石が埋め込まれているかのような瞳が光っていた。
 男は、茨の中でもがき苦しむ絃に迷うことなく手を伸ばした。
「軍人さん、やめたほうがいいですよ!」
「そうですよ。だって、その子は呪血ですから」
 傍観していた人々は軍服の男に声をかけるが、周囲の冷ややかな視線を一掃するように男は睨みつける。
「血族で差別する者たちがまだこんなにもいるのか。いつまでそんな古い考えを持っているつもりだ」
 男は絃を助け出すと、そっと自分の胸へと抱き寄せた。
「いったいどうしたというんだ。だれかに突き飛ばされたのか」
「…いえ。自分で転んだだけです」
 そのとき、絃ははっとして我に返ると瞬時に男から離れた。
「大事な軍服がわたしの血で汚れてしまいます…!」
 その拍子にバランスを崩し、地面に尻もちをつく。
 そんな絃の前へ、男は跪いた。
「麗血だろうと呪血だろうと、色が違うだけで流れる血は同じだ」
 そのまっすぐと見つめてくる男の視線に、絃は思わず胸の中があたたかくなった。
 そんな言葉をかけられたのは初めてだったからだ。
「だが、差別が根強く残っているのも…また事実。このような肩身の狭い國で申し訳ない」
 男は申し訳なさそうに表情を崩すと、ゆっくりと頭を下げた。
「…か、顔をお上げください!」
 呪血である自分なんかのために、軍人が頭を下げるとは思わず絃は戸惑う。
「今の俺にはこれしかしてあげることができないが…」
 そう言って、男は服のポケットからハンカチを取り出すと、バラのトゲによって絃の頬から流れる血を拭い取った。
 真っ白なハンカチに黒いシミが浮かび、絃はぎょっとして目を見開く。
「…いけません!このようなもので、わたしの血を拭うなんて…!」
「なにを言っている。さっきも言っただろう?流れる血は同じだと」
「ですが――」
 きめ細かいシンクのハンカチが自分の黒い血で染まっていくことに、絃は申し訳なさと抵抗感しかなかった。
 そのとき、後ろからもうひとりの軍人が駆け寄ってくる。
「隊長、新たに影鬼を見つけました!」
「わかった。すぐに行く」
 男はスッと立ち上がると、帽子を深く被り直した。
「俺は行かねばならないが、ひとりで大丈夫か」
「は、はい。助けていただき、ありがとうございました」
 絃の返事を聞くと、男はにっこりと微笑み立ち去った。
 しばらくその場でぽかんとしていた絃だったが、自分の手に白いハンカチが握りしめられていたままだということに気づく。
「…どうしよう。お返しし忘れてしまった…」
 と一瞬つぶやくも、こんな黒い血で汚れたハンカチを返されるだけ迷惑だと自分に言い聞かせる。
 どうやら軍の隊長という立派な方ではあるようだが、名前もなにも聞いていない。
 それに地位が違いすぎて、顔を合わすことはもう二度とないだろう。
 そうとはわかっていても、絃は屋敷に帰ってから白いシルクのハンカチを丁寧に丁寧に手洗いするのだった。
 もしなにかの偶然で再び会うことがあったら、お返しできるようにと。

 ところが、ふたりが再会をはたすのはそう遠い未来ではなかった。