あれから何日かが過ぎた。
 碧高は軍の仕事を休み、葉子に付きっきりで稽古をつけた。しかし、葉子の力はなかなか現れないし、稽古のたびにギーグは変なふうに鳴いて庭を飛び出す。
『大丈夫、はじめのうちはそんなものさ』
『ギーグも苦しいのかもしれないね』
 碧高は優しい言葉をかけ続けてくれたけれど、それが返って重圧になる。葉子はどんどん、自信を失っていた。

 葉子と碧高の部屋の中に、淡い月の光が差し込む。
 優しい碧高の期待に応えられない自分に嫌気が差し、葉子は眠れずにいた。
 ギーグは日中はあんなに逃げ出すのに、夜はいつも気持ちよさそうに丸まって葉子の隣で寝る。
「あなたも、がんばっているのよね」
 葉子は親友の背を、ごめんねと優しく撫でた。つらいのはギーグも同じだ。
 すると、ギーグが身じろぐ。それで、葉子の視界に碧高の横顔が目に入った。綺麗な仰向けで、おだやかな寝息を立てている。
 この人も、かつては苦しんだのだろう。だからこその優しくしてくれるのだろうけれど、何も出来ない自分がつらい。
 ため息をこぼしながら、葉子は障子の外に目を向けた。ちょうど半分欠けた青い月が、覗いている。
「今日は半月――」
 そこまで言って、はっとした。灰装束の男に言われたことを、思い出したのだ。
 その時、突如現れた誰かと目が合った。灰装束に身を包んだ、謎の人物が中庭に立っていた。
 あの男だ。直感的に悟ったが、ぎろりと睨まれ、葉子の体は硬直した。
〝期日を延ばしてやったのに、なぜ実行しないのか〟
 華子に言われているようで、葉子の背筋が震える。
〝やらなければ、()る〟
 強く訴えてくるその瞳に、葉子はそろりと起き上がった。
(巫女の玉を砕いたって、才が無くなるわけじゃない。華子は、それを知らないけれど)
 葉子はそう自分に言い聞かせ、簪を手にした。
 才がなくならないのなら、彼の玉を砕くのも砕かないのも同じことだ。幸い、葉子をいつでも守れるようにと、碧高はこのところ巫女の玉を常に身に着けている。
 葉子は、布団の横の碧高の着物にそっと手を伸ばした。お守り袋を探し当て、紐を解き、逆さにする。布団の上に、碧高の巫女の玉がころんと転がり落ちた。
 一度縁側に目をやる。睨むようにこちらを見ていた男と目が合い、慌てて目線を元に戻した。
 どくり、どくり。耳元で打ちつける脈の音が、大きくなる。
(大丈夫、ちょっと割るだけよ)
 そう、自分に言い聞かせる。腕を振り上げ、簪を構えた。
(でも、彼も力を失ってしまったら? 彼の力が、二度と戻らなくなってしまったら?)
 葉子に力が戻ったのだって何かの手違いかも知れない。もしかしたら、碧高が勝手に力が戻ったと思っているだけで、本当は戻っていないのかも知れない。
 ためらっている間に、ふと男と反対側から視線を感じ、振り返った。目を覚ました碧高が、こちらをじっと見つめていた。
 慌てて縁側の方を見る。灰装束の男は、もういなくなっていた。
 葉子は振り上げていた手を力なく下ろし、同時に泣き崩れた。
「ごめんなさい、碧高様」
 弱い自分でいたくなかった。碧高は、自分を強くしようとしてくれた。
 それでも、無能な自分は弱いままだ。
「私が弱いから。どっちつかずな自分が嫌で仕方ありません」
 巫女としての力があれば、悩まなくて良かったのに。何もできない自分が、不甲斐ない。
「君は弱くなんてない。君は悩んで、答えを出してくれたんだろう?」
 優しい声色に、葉子はそっと布団に目を向けた。
 碧高は起き上がり、葉子の前に転がっていた自分の巫女の玉を手に取る。
「君の優しさを、君の想いを、受け取った。私は、君から逃げたりしない。最後まで守り抜くよ。だから、共に戦おう」
 碧高はそう言うと、まだ視界のぼやけたままの葉子を見つめる。
「私は、二度もあなたを裏切ろうとしました」
 許されるべきじゃない。そう思ったのに、目元を拭い顔を上げた先の碧高は、柔らかな笑みを浮かべていた。
「でも君は、裏切らなかった。それが、君の思いなんだろう?」
 碧高は言いながら、巫女の玉を袋に戻し、自身の手の中に閉じ込めた。
「私は、君を信じるよ」
「碧高様……」
 許すだけでなく、信じると言う。彼はどこまで、心の広いお方なのだろう。
 そう思っていると、碧高はまだ涙の跡の残る葉子の頬に、そっと触れた。
「君は私の妻なんだ。君はもう、瑞祥の人間なんだ。登喜和の言い成りに、ならなくていい。私の元に、ずっといなさい」
 言いながら、碧高は目尻にたまった涙をぬぐってくれる。
 大きな手の温もりを頬に感じ、葉子の胸が高鳴る。同時に安堵し、ぬぐってもらったはずの涙が再びあふれ出した。
「こんな私で、よろしいのですか?」
「君だから、いいんだよ」
 碧高の言葉が、優しさが、心にすとんと落ちてくる。
(もう、苦しまなくていいのなら。彼が、守ってくださるのなら)
「おそばに、いさせてください」
 葉子は自身も彼のために生きるのだと、胸に誓いながらそう紡ぐ。
 頬に触れた彼の優しい体温が、どきどきと葉子の胸を高鳴らせ、同時に安心感をくれた。
(私も、碧高様を信じる)
 決意のままに彼と見つめ合っていると、いつの間にか起きたらしいギーグが「ぐへっ」と鳴いた。
 思わずくすりと笑ってしまう。碧高も、同時に吹き出した。
 だけど二人して、同時にギーグをまじまじと見つめてしまった。ギーグの体が、ほのかに青白い光を放っていたのだ。
「ギーグ?」
 思わずそう問いかけたが、ギーグはいつもと同じように首を傾げてこちらを見るだけだ。
「君の力が、強くなっているみたいだ」
 碧高の言葉に、葉子は自身の巫女の玉を手に取った。それもギーグに共鳴するように、ほのかに光を放っている。
(本当に、私が……?)
「君なら、きっと」
 脳裏に抱いた疑問に答えるように、碧高がそう言って葉子を見つめる。その曇りのない瞳に、葉子はこくりと頷いた。
(そうよ、きっと。私も、碧高様を信じると決めたんだから)
 葉子は巫女の玉を握る手に、ぐっと力を入れた。しかし、その時。
「碧高様、副官様がお呼びです」
 ばたばたと足音を立ててやってきた女中の声が、襖の向こうから聞こえた。
「わかった、ありがとう」
 碧高はそれだけ言うと、さっと立ち上がった。
「最近、帝都に怪異が出現する回数が増えていてね。ここ数日は落ち着いていたんだけど、どうやらまた現れたみたいだ」
 彼はこれから軍人として、男巫女として、帝都で怪異と戦うのだろう。
 お見送りをしなければと、葉子は姿勢をしゃんと正した。しかし、そんな葉子に向かって、碧高は口を開いた。
「君のことも、守ると決めた。私と一緒に、来てくれないか?」
 じっと見つめられ、葉子は戸惑った。
 行くだけでは駄目だ。とっさに、そう思ったのだ。
(私にも、力はある……)
 葉子はギーグを抱きしめ、巫女の玉の袋を握り、碧高を見返した。それから、意を決して口を開く。
「ならば、私も一緒に戦います」