「ギーグ、信じられる?」
葉子は庭で小石をついばんでいたギーグに向かって、ついそうこぼした。
葉子の手には今、碧高に手渡されたお守り袋が握られている。昨夜、葉子の力が具現化する可能性があるから、常に持っているようにと碧高に言われたのだ。
昨夜の件は、碧高が他の誰にも伝わらないように揉み消してくれた。実際、葉子は彼の玉を割らなかったのだから、何も起きていないのと同じだ。
碧高は今日も軍の本部へと出向いている。しかし、今日は夕方には戻ると聞いているから、葉子は部屋で過ごしながら、彼の帰りを待っている。
ここにいれば、登喜和家の目に入ることもない。
「もしも本当に、私にまだ才があるのなら――」
葉子は、自分が華子のように術を扱い、次々に怪異を消滅させる様を脳裏に思い浮かべた。だけどすぐ、それは儚く消えてゆく。
『才なしのお姉様は、守られるしかないのよ』
隣で戦っていた華子がそう言って、自分に手を振り上げる様に変わってしまったのだ。
昨夜のことを思い出したら、ここでのんびりしていられるのもわずかだとすぐに気づく。
いつ頃になるかは分からないが、碧高の巫女の玉をまだ割ってないないと登喜和家に知られたら、自分はただではいられない。
そうなった時に、自分の身を守る術を、葉子はまだ持っていない。
(力があれば……)
そう思って、なんとなく昔に覚えた祝詞を唱えてみるけれど、何も起こらない。庭では相変わらず、ギーグが石をついばんでは吐き出すだけだ。
(どうして、踏みとどまってしまったのかしら)
葉子はため息をこぼした。複雑な胸の内も、一緒に吐き出せたらいいのにと思いながら。
碧高は選ばせてくれた。それなのに、葉子はつい、瑞祥家の者である碧高を信じてしまった。彼が、自分の味方である確証など、どこにもないのに。
のんびりと過ごしている今が、怖い。
華子に何かをされてしまうのではないかという恐怖と、一瞬でも信じてしまった碧高に裏切られるのではないかという恐怖に襲われる。
「ぎー、ぐえっ、ぐえっ!」
いつものようにギーグが変なふうに鳴き、それで気持ちが少し落ち着く。頬が少しだけ動くけれど、今日はそれだけでは笑う気持ちになれない。
西日が差し込む庭に、新緑の長い影が落ちる。かさかさと風に揺れる葉の音が不意に一瞬止まって、葉子ははっと木の上に目を向けた。
なんだか、嫌な予感がする。
「ギーグ、こっちよ」
葉子がそう言うのと、木の上から人影が降りてくるのはほぼ同時だった。葉子は慌てて庭に下り、ギーグを拾い上げ抱きしめた。
対峙したのは、全身を灰色の装束に包んだ怪しい人物だ。肌色が見えるのは目の部分のみで、しかもそこにある眼光は鋭く葉子を捉える。
「葉子殿、華子殿との約束を忘れていたわけではないだろうな」
男の声に、葉子はひどく狼狽えた。思わずギーグを抱く腕に力を込めてしまい、ギーグが「ぐえっへぇぇ!」と変な声で鳴く。
それでも、葉子は捉えられた瞳を見返すだけしかできない。脳裏では、ここに嫁げと言われたあの日の、華子の言葉が繰り返されていた。
『あの化け雄鶏は八つ裂きにして、煮て食べてやるから。割らなければ、お姉様も怪異に食べさせるわ』
ギーグの行く末を、自分の行く末を想像し、冷や汗が背を伝う。このまま、死にたくなどない。
浅くなった呼吸を繰り返していると、男はその鋭い瞳をぎらつかせ、口を開いた。
「華子殿の御慈悲だ。次の半月の夜までに実行しなければ、今度こそ――」
彼はそこまで言うと、葉子に向かって何かを投げる。
「嫌!」
葉子は咄嗟に目をつむった。すると、そこが何か、強い光を放つ。
「葉子!」
突然、部屋の襖がぴしゃりと音を立てて開かれる。はっと振り返ると、軍服姿の碧高が、必死の形相でそこに立っていた。
「ちっ」
次に振り返った時、男はもうそこにはいなかった。
「怪我はないか、葉子」
碧高はそう言いながら、葉子の元へ駆け寄った。
彼に背を優しく撫でられ、張り詰めていた緊張がぷつりと切れる。葉子は腰を抜かし、その場によろよろと倒れ込んでしまった。
碧高はそんな葉子を支えながら、自分もそこに膝をつき、その上にそっと葉子を座らせた。
「ありがとうございます、碧高様」
葉子の出した声は震え、声になっていない。そんな葉子の背を、碧高は撫で続けた。
瑞祥にとって、謎の人物は不法侵入者だ。にもかかわらず、彼を追わずに自分を心配してくれる。
碧高の優しさに、葉子の心は安堵に包まれ、彼を選んで良かったと思う。
(あの時は、なぜ玉を割らなかったのか分からなかった。でも今なら分かるわ。私は、彼の優しさがとても――)
――好き。
その二文字が脳裏に浮かんだ時、葉子の胸が途端に速く打ち付けた。だけど、彼と離れたくはない。
葉子は必死に平静を装いながらも、背に感じる彼の優しさに胸をときめかせた。
しかし、それからしばらくの後。碧高は不意に視線を足元にやると、そこに落ちていた何かを拾った。青銅の、登喜和家の文様の入った小さな玉だ。
「これは……」
葉子は青ざめた。あれは、幻覚を見せる時に巫女が使う、呪術具だ。
華子は葉子に、葉子の行く末を見せようとしたのかも知れない。華子ほどの力があれば、精巧な幻覚を作るのもお茶の子さいさいだろう。
だが、呪術具というのは幻覚を見せることで、人を惑わす。そのため、現代においてはその使用は禁忌とされている。巫女であり、しかも瑞祥の末裔である碧高が、それを知らないわけがない。
「碧高様には関係ありません。これは、私の問題です」
葉子はとっさにそう言った。登喜和家の内部で起きていることに、彼を関わらせたくはない。自身の不遇な身の上を、彼に知られたくもない。
だが、碧高はすぐに口を開いた。
「関係ないわけないだろう。君は、私の妻なんだ」
そう言う碧高の顔は、声色は怒りをはらんでいる。
思わず肩を竦めると、碧高は一瞬はっとして、それから眉を八の字にした。
「すまない、君を責めたいわけじゃないんだ」
碧高はそう言うと、葉子の足をそっと撫でた。
「裸足じゃないか。痛くはないかい?」
彼は言いながら、懐から取り出した布切れで葉子の足裏を優しく拭ってくれる。彼の気遣いに、優しさに、葉子は胸を打ち付ける鼓動が早くなるのを感じた。
「布が汚れてしまいます」
「手ぬぐいというのは、汚れるためにあるんだよ」
照れ隠しにそう言ったのに、碧高はくすりと笑ってそう返す。それから、葉子を軽々と持ち上げた。
横抱きにされ、運ばれる。彼の優しく微笑む顔が近い。だけど、感じる鼓動の速さは嫌なものではなくて、だた恥ずかしくてむず痒い。
芽生えてしまった感情のせいだ。碧高の傍に、もっといたいと願ってしまう。
しかし、そう思っている間に、碧高は葉子を縁側にそっと下ろした。
葉子は胸に抱いていたギーグを庭に放した。先ほどの男も、もうこの近くにはいないだろう。
「君は、登喜和に狙われているのかい?」
「……はい」
庭に放したはずのギーグが戻ってきてしまったので、葉子はギーグを膝に乗せ、その背を撫でながら答えた。
後ろめたいことはいいたくない。だけど、この人は自分を信頼してくれている。そんな気がした。
俯いたままの葉子に、碧高は続けて聞いた。
「それは、君が私の〝巫女の玉〟を割らなかったから?」
「おそらく、そうだと思います」
「……君も、苦労人だね」
碧高は葉子の答えに小さくそう言うと、ギーグの背に手を伸ばした。彼の長く綺麗な、それでいて節くれ立った手が、そっとギーグの背を撫でる。
「ぐえー」
ギーグが気持ちよさそうな声を出したから、葉子ははっと顔を上げた。彼は優しい顔で、ギーグの背を撫で続ける。
「君の力は、この子が握っているみたいだね」
碧高がぽつりとこぼした言葉に、葉子は目をしばたたいた。
「君が力を使うときは、いつでもギーグがそばにいるだろう」
「え?」
「先ほどもそうだった。君自身が、君を守っていた」
葉子はてっきり、碧高が自分を助けてくれたのだと思っていた。
「あれは、碧高様が――」
「私は何もしていないよ。君の夫として、軍人として、不甲斐ないけどね」
言いながら、碧高は苦い笑みをこぼす。
「君がこの家にやってきた日も、君とギーグが共にいた時に、力の気配を感じた。きっと、ギーグが君の力の鍵になっている」
「そんなこと……」
あり得ないと言おうとして、葉子は膝の上のギーグに目をやる。
ギーグの背を優しくさする碧高の手が止まると、ギーグは「ぐえっ」と鳴きながら、庭の石を吐き出した。
「もしかして、ギーグ……」
葉子は懐にしまっていた、お守り袋を取り出しギーグの腹に近づけた。
その瞬間、葉子は目を見開いた。あの日手放したと思っていた、巫女の力をその手に感じたのだ。
「やはり、君の力はなくなってなんかいなかった」
碧高の声に顔を上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「おそらく、ギーグが破片を飲み込んでいるんだと思います。私の巫女の玉の欠片の一部が、ここにある」
葉子はギーグのお腹をそっと撫でた。
「幼い頃、転んで巫女の玉を割ってしまったんですけど、その時、庭にばらまいてしまったんです。全部拾ったと思っていたけれど、まさかギーグが――」
すると、碧高の纏う空気がなぜかぴりっと張り詰めた。葉子は思わず、その口を閉ざす。
すると、碧高が口を開いた。
「転んで、巫女の玉を割った? 巫女の玉は特殊な形状だから、細長いもので突くことでしか壊せないはずだけれど」
「え?」
葉子は思わず固まった。
「君は、巫女の玉の壊し方を知っているものだと思っていた。でも、そうではないみたいだね」
碧高の言葉に、嫌な記憶が蘇った。
憎いものを見るように、自分に腕を振り上げる妹。登喜和家のためだと、それを容認し蔑むように私を見る母。
巫女の玉が割れたのが事故でないならば、葉子の玉は、誰かに割られたということになる。そして、華子は葉子に巫女の玉の割り方を教えてくれた。
(もしかしたら、私の玉は華子が――)
だけど、葉子はその答えを出すのが怖くてかぶりを振った。まさか華子に、最初から仕組まれていたなんて思いたくない。
顔をそっと上げると、碧高の鋭い眼光が空を睨みつけている。
「君の才は、消されかけた。だけど――」
碧高はそこまで言うと、こちらを向いた。その瞳は、真剣で鋭い。
だけど彼のまとう空気は幾分柔らかく、葉子はその瞳から目が離せない。
「――消えなかった。きっと、君の力が必要だと、神が思ったんだよ。そして、私もそう思っている」
碧高はそこまで言うと、葉子の手に自身の手を重ねた。
「私は男だが巫女として、帝の右腕として怪異と戦い帝都に和平をもたらしたいと思っている。君となら、それができると思っている」
そう言う碧高の手に力がこもり、葉子の手が包まれる。
「これからは、瑞祥の人間として。巫女として、生きてはくれないかな? 葉子」
空は、朱が藍色がかってゆく。木の葉がざわめき、葉子の髪が揺れた。
葉子は庭で小石をついばんでいたギーグに向かって、ついそうこぼした。
葉子の手には今、碧高に手渡されたお守り袋が握られている。昨夜、葉子の力が具現化する可能性があるから、常に持っているようにと碧高に言われたのだ。
昨夜の件は、碧高が他の誰にも伝わらないように揉み消してくれた。実際、葉子は彼の玉を割らなかったのだから、何も起きていないのと同じだ。
碧高は今日も軍の本部へと出向いている。しかし、今日は夕方には戻ると聞いているから、葉子は部屋で過ごしながら、彼の帰りを待っている。
ここにいれば、登喜和家の目に入ることもない。
「もしも本当に、私にまだ才があるのなら――」
葉子は、自分が華子のように術を扱い、次々に怪異を消滅させる様を脳裏に思い浮かべた。だけどすぐ、それは儚く消えてゆく。
『才なしのお姉様は、守られるしかないのよ』
隣で戦っていた華子がそう言って、自分に手を振り上げる様に変わってしまったのだ。
昨夜のことを思い出したら、ここでのんびりしていられるのもわずかだとすぐに気づく。
いつ頃になるかは分からないが、碧高の巫女の玉をまだ割ってないないと登喜和家に知られたら、自分はただではいられない。
そうなった時に、自分の身を守る術を、葉子はまだ持っていない。
(力があれば……)
そう思って、なんとなく昔に覚えた祝詞を唱えてみるけれど、何も起こらない。庭では相変わらず、ギーグが石をついばんでは吐き出すだけだ。
(どうして、踏みとどまってしまったのかしら)
葉子はため息をこぼした。複雑な胸の内も、一緒に吐き出せたらいいのにと思いながら。
碧高は選ばせてくれた。それなのに、葉子はつい、瑞祥家の者である碧高を信じてしまった。彼が、自分の味方である確証など、どこにもないのに。
のんびりと過ごしている今が、怖い。
華子に何かをされてしまうのではないかという恐怖と、一瞬でも信じてしまった碧高に裏切られるのではないかという恐怖に襲われる。
「ぎー、ぐえっ、ぐえっ!」
いつものようにギーグが変なふうに鳴き、それで気持ちが少し落ち着く。頬が少しだけ動くけれど、今日はそれだけでは笑う気持ちになれない。
西日が差し込む庭に、新緑の長い影が落ちる。かさかさと風に揺れる葉の音が不意に一瞬止まって、葉子ははっと木の上に目を向けた。
なんだか、嫌な予感がする。
「ギーグ、こっちよ」
葉子がそう言うのと、木の上から人影が降りてくるのはほぼ同時だった。葉子は慌てて庭に下り、ギーグを拾い上げ抱きしめた。
対峙したのは、全身を灰色の装束に包んだ怪しい人物だ。肌色が見えるのは目の部分のみで、しかもそこにある眼光は鋭く葉子を捉える。
「葉子殿、華子殿との約束を忘れていたわけではないだろうな」
男の声に、葉子はひどく狼狽えた。思わずギーグを抱く腕に力を込めてしまい、ギーグが「ぐえっへぇぇ!」と変な声で鳴く。
それでも、葉子は捉えられた瞳を見返すだけしかできない。脳裏では、ここに嫁げと言われたあの日の、華子の言葉が繰り返されていた。
『あの化け雄鶏は八つ裂きにして、煮て食べてやるから。割らなければ、お姉様も怪異に食べさせるわ』
ギーグの行く末を、自分の行く末を想像し、冷や汗が背を伝う。このまま、死にたくなどない。
浅くなった呼吸を繰り返していると、男はその鋭い瞳をぎらつかせ、口を開いた。
「華子殿の御慈悲だ。次の半月の夜までに実行しなければ、今度こそ――」
彼はそこまで言うと、葉子に向かって何かを投げる。
「嫌!」
葉子は咄嗟に目をつむった。すると、そこが何か、強い光を放つ。
「葉子!」
突然、部屋の襖がぴしゃりと音を立てて開かれる。はっと振り返ると、軍服姿の碧高が、必死の形相でそこに立っていた。
「ちっ」
次に振り返った時、男はもうそこにはいなかった。
「怪我はないか、葉子」
碧高はそう言いながら、葉子の元へ駆け寄った。
彼に背を優しく撫でられ、張り詰めていた緊張がぷつりと切れる。葉子は腰を抜かし、その場によろよろと倒れ込んでしまった。
碧高はそんな葉子を支えながら、自分もそこに膝をつき、その上にそっと葉子を座らせた。
「ありがとうございます、碧高様」
葉子の出した声は震え、声になっていない。そんな葉子の背を、碧高は撫で続けた。
瑞祥にとって、謎の人物は不法侵入者だ。にもかかわらず、彼を追わずに自分を心配してくれる。
碧高の優しさに、葉子の心は安堵に包まれ、彼を選んで良かったと思う。
(あの時は、なぜ玉を割らなかったのか分からなかった。でも今なら分かるわ。私は、彼の優しさがとても――)
――好き。
その二文字が脳裏に浮かんだ時、葉子の胸が途端に速く打ち付けた。だけど、彼と離れたくはない。
葉子は必死に平静を装いながらも、背に感じる彼の優しさに胸をときめかせた。
しかし、それからしばらくの後。碧高は不意に視線を足元にやると、そこに落ちていた何かを拾った。青銅の、登喜和家の文様の入った小さな玉だ。
「これは……」
葉子は青ざめた。あれは、幻覚を見せる時に巫女が使う、呪術具だ。
華子は葉子に、葉子の行く末を見せようとしたのかも知れない。華子ほどの力があれば、精巧な幻覚を作るのもお茶の子さいさいだろう。
だが、呪術具というのは幻覚を見せることで、人を惑わす。そのため、現代においてはその使用は禁忌とされている。巫女であり、しかも瑞祥の末裔である碧高が、それを知らないわけがない。
「碧高様には関係ありません。これは、私の問題です」
葉子はとっさにそう言った。登喜和家の内部で起きていることに、彼を関わらせたくはない。自身の不遇な身の上を、彼に知られたくもない。
だが、碧高はすぐに口を開いた。
「関係ないわけないだろう。君は、私の妻なんだ」
そう言う碧高の顔は、声色は怒りをはらんでいる。
思わず肩を竦めると、碧高は一瞬はっとして、それから眉を八の字にした。
「すまない、君を責めたいわけじゃないんだ」
碧高はそう言うと、葉子の足をそっと撫でた。
「裸足じゃないか。痛くはないかい?」
彼は言いながら、懐から取り出した布切れで葉子の足裏を優しく拭ってくれる。彼の気遣いに、優しさに、葉子は胸を打ち付ける鼓動が早くなるのを感じた。
「布が汚れてしまいます」
「手ぬぐいというのは、汚れるためにあるんだよ」
照れ隠しにそう言ったのに、碧高はくすりと笑ってそう返す。それから、葉子を軽々と持ち上げた。
横抱きにされ、運ばれる。彼の優しく微笑む顔が近い。だけど、感じる鼓動の速さは嫌なものではなくて、だた恥ずかしくてむず痒い。
芽生えてしまった感情のせいだ。碧高の傍に、もっといたいと願ってしまう。
しかし、そう思っている間に、碧高は葉子を縁側にそっと下ろした。
葉子は胸に抱いていたギーグを庭に放した。先ほどの男も、もうこの近くにはいないだろう。
「君は、登喜和に狙われているのかい?」
「……はい」
庭に放したはずのギーグが戻ってきてしまったので、葉子はギーグを膝に乗せ、その背を撫でながら答えた。
後ろめたいことはいいたくない。だけど、この人は自分を信頼してくれている。そんな気がした。
俯いたままの葉子に、碧高は続けて聞いた。
「それは、君が私の〝巫女の玉〟を割らなかったから?」
「おそらく、そうだと思います」
「……君も、苦労人だね」
碧高は葉子の答えに小さくそう言うと、ギーグの背に手を伸ばした。彼の長く綺麗な、それでいて節くれ立った手が、そっとギーグの背を撫でる。
「ぐえー」
ギーグが気持ちよさそうな声を出したから、葉子ははっと顔を上げた。彼は優しい顔で、ギーグの背を撫で続ける。
「君の力は、この子が握っているみたいだね」
碧高がぽつりとこぼした言葉に、葉子は目をしばたたいた。
「君が力を使うときは、いつでもギーグがそばにいるだろう」
「え?」
「先ほどもそうだった。君自身が、君を守っていた」
葉子はてっきり、碧高が自分を助けてくれたのだと思っていた。
「あれは、碧高様が――」
「私は何もしていないよ。君の夫として、軍人として、不甲斐ないけどね」
言いながら、碧高は苦い笑みをこぼす。
「君がこの家にやってきた日も、君とギーグが共にいた時に、力の気配を感じた。きっと、ギーグが君の力の鍵になっている」
「そんなこと……」
あり得ないと言おうとして、葉子は膝の上のギーグに目をやる。
ギーグの背を優しくさする碧高の手が止まると、ギーグは「ぐえっ」と鳴きながら、庭の石を吐き出した。
「もしかして、ギーグ……」
葉子は懐にしまっていた、お守り袋を取り出しギーグの腹に近づけた。
その瞬間、葉子は目を見開いた。あの日手放したと思っていた、巫女の力をその手に感じたのだ。
「やはり、君の力はなくなってなんかいなかった」
碧高の声に顔を上げると、彼は優しく微笑んでいた。
「おそらく、ギーグが破片を飲み込んでいるんだと思います。私の巫女の玉の欠片の一部が、ここにある」
葉子はギーグのお腹をそっと撫でた。
「幼い頃、転んで巫女の玉を割ってしまったんですけど、その時、庭にばらまいてしまったんです。全部拾ったと思っていたけれど、まさかギーグが――」
すると、碧高の纏う空気がなぜかぴりっと張り詰めた。葉子は思わず、その口を閉ざす。
すると、碧高が口を開いた。
「転んで、巫女の玉を割った? 巫女の玉は特殊な形状だから、細長いもので突くことでしか壊せないはずだけれど」
「え?」
葉子は思わず固まった。
「君は、巫女の玉の壊し方を知っているものだと思っていた。でも、そうではないみたいだね」
碧高の言葉に、嫌な記憶が蘇った。
憎いものを見るように、自分に腕を振り上げる妹。登喜和家のためだと、それを容認し蔑むように私を見る母。
巫女の玉が割れたのが事故でないならば、葉子の玉は、誰かに割られたということになる。そして、華子は葉子に巫女の玉の割り方を教えてくれた。
(もしかしたら、私の玉は華子が――)
だけど、葉子はその答えを出すのが怖くてかぶりを振った。まさか華子に、最初から仕組まれていたなんて思いたくない。
顔をそっと上げると、碧高の鋭い眼光が空を睨みつけている。
「君の才は、消されかけた。だけど――」
碧高はそこまで言うと、こちらを向いた。その瞳は、真剣で鋭い。
だけど彼のまとう空気は幾分柔らかく、葉子はその瞳から目が離せない。
「――消えなかった。きっと、君の力が必要だと、神が思ったんだよ。そして、私もそう思っている」
碧高はそこまで言うと、葉子の手に自身の手を重ねた。
「私は男だが巫女として、帝の右腕として怪異と戦い帝都に和平をもたらしたいと思っている。君となら、それができると思っている」
そう言う碧高の手に力がこもり、葉子の手が包まれる。
「これからは、瑞祥の人間として。巫女として、生きてはくれないかな? 葉子」
空は、朱が藍色がかってゆく。木の葉がざわめき、葉子の髪が揺れた。



