それから何事もなく、五日が過ぎた。夜も更けた頃、葉子は寝床から起き上がる。
今日も、碧高は軍に行っているらしい。だから、誰にも怪しまれずにあの場所へ行くことができる。
どくり、どくどく。嫌なふうに鳴る心臓を抑えつけるように、葉子は一度深く深呼吸をする。
(登喜和家のため。生きるためよ、葉子)
障子の向こうに見える満月を見上げ、やるしかないのだと、強く自分に言い聞かせた。
祠の中には、容易に忍び込めた。ひんやりとした空気が、葉子を包む。まるで自分の体温のようなそれを吸い込むと、体が凍てつくような感覚がした。
(大丈夫、私ならできるわ)
自分に言い聞かせ、葉子は懐にしまっていた簪を取り出した。
これは、表向きは嫁入りする姉を想っての妹からの贈り物。その実、碧高の巫女の玉を壊すためのものだ。
巫女の玉は、その勾玉のような丸い部分を先のとがったもので突くと、簡単に割れるのだと華子に教わった。
神棚を開け、碧高の袋に手を伸ばす。その時初めて、自分の手が震えていることに気が付いた。
それでも、やらねば。
葉子は自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出しながら、彼の袋を手に取った。
結び紐を解く。逆さにすると、コロンと小さな勾玉のようなものが葉子の手に乗った。
(割るのよ、葉子)
葉子はそれを左手に乗せると、簪を握る右手を思い切り振り上げた。
「やはり、君の目的はそれだったのか」
唐突に碧高の声が背後から聞こえ、葉子の体は硬直してしまった。振り上げた右腕すら、そのままに。
葉子は振り返ることもできずに、ただ浅い呼吸を繰り返した。自分は碧高に殺されてしまうかもしれない。そう、胸の中で思った。
だけど、彼はなぜか優しい口調で言葉を続けた。
「瑞祥は最初から君を疑っていた。君をここへ誘導するように、わざと私を留守にさせてね。証拠が欲しかったんだ。登喜和が瑞祥を、陥れようとしている証拠が」
その言葉に戸惑い、葉子は目をしばたたいた。内容と口調が、ちぐはぐだ。
そんな葉子に、碧高はそっと近寄る。だが、葉子は何もできない。
彼の足音がやたらと祠の中に響いて、葉子の心臓はおかしいくらいに高鳴った。
「だけど――」
再び碧高が口を開いた時、葉子の肩に彼の手が乗った。
心臓がひときわ大きく跳ね、葉子は生きた心地がしない。それなのに、彼は怯えたような葉子の瞳を覗き込む。
それで、葉子は振り上げていた手をつい下ろしてしまった。
「私は、君には君の価値があると信じている。その玉を割るのを止めて、私と共に生きる未来を考えてはくれないだろうか」
彼は言いながら、神棚の中からとある袋を取り出した。
「この玉にも、まだ力があるはずだ」
葉子は目を見開いた。彼の手に乗っていたものは、葉子の玉の袋だったのだ。
「そんなの嘘です!」
葉子は思わず声を張り上げた。
そんなこと、到底信じられない。今まで散々虐げられ、自分を責めて生きてきたのだ。まだ力があるなんて、ありえない。
だが、碧高は優しい笑みで葉子の瞳をじっと見つめたまま、そっと口を開いた。
「顔見世の会で君を救ったのは、誰だと思う?」
「それは、碧高様が――」
「違う。あの光は、君自身のものだ」
葉子は自分の言葉を遮って伝えられた彼の言葉に、その強い口調に瞠目した。
「私は君を、そっと自分の元に運んだだけだ。あのままでは危ないと思ったから」
「そんなこと……」
自信のない葉子の声が、こぼれ落ちる。だが、碧高は首を横に振った。
「君の才は、失われたわけじゃない。むしろ、双子の彼女と同等の力があると、私は考えている。巫女として、軍人として。帝都を怪異から守るため、君の力を貸して欲しい」
そう言うと、彼は葉子の左手からそっと自分の玉を奪い、代わりに葉子のお守り袋をそこに置いた。
「だが、これは私の独断だ。君の力の存在は、まだ私しか知らない。このまま私の玉を割るか、私の言葉を信じるか。君が選んでいい」
碧高は言いながら、手のひらに乗せた自分の玉を葉子に差し出した。
葉子はごくりと唾をのむ。同時に、左手にある自身の玉を握りしめた。
(この人は、私を必要と言ってくれる。この帝都を守るために、自身も異端だと自覚しながらも、巫女として帝に仕えるお方――)
――いや、絆されては駄目。自分は登喜和の人間だ。登喜和のために生きなければ。
胸の内の葛藤が、葉子の呼吸を浅くする。そんな葉子に、碧高は微笑んだ。
「君が力になってくれたら、私は嬉しい」
優しい笑みが、彼女の心をひどくざわつかせる。
(でも、生きるためには――)
葉子は彼の手のひらに乗る巫女の玉に狙いを定め、右手を思い切り振り上げた。だけどなぜか、その腕を振り下ろすことができない。
(私には、才なんて、力なんてないわ。そう、分かってるのに……)
込み上げてきた何かのせいで、葉子の視界がぼやける。
数分の葛藤の後、葉子は振り上げていた右手をそっと下ろした。なぜ、そうしたのかは自分でも分からない。
「ありがとう」
彼は優しい口調でそう言ったけれど、葉子はまだ彼を信頼したわけではないと言い聞かせる。
(彼は敵。私は、登喜和家の人間)
そう思うのに、葉子の目尻からは、大粒の涙があふれ出した。
今日も、碧高は軍に行っているらしい。だから、誰にも怪しまれずにあの場所へ行くことができる。
どくり、どくどく。嫌なふうに鳴る心臓を抑えつけるように、葉子は一度深く深呼吸をする。
(登喜和家のため。生きるためよ、葉子)
障子の向こうに見える満月を見上げ、やるしかないのだと、強く自分に言い聞かせた。
祠の中には、容易に忍び込めた。ひんやりとした空気が、葉子を包む。まるで自分の体温のようなそれを吸い込むと、体が凍てつくような感覚がした。
(大丈夫、私ならできるわ)
自分に言い聞かせ、葉子は懐にしまっていた簪を取り出した。
これは、表向きは嫁入りする姉を想っての妹からの贈り物。その実、碧高の巫女の玉を壊すためのものだ。
巫女の玉は、その勾玉のような丸い部分を先のとがったもので突くと、簡単に割れるのだと華子に教わった。
神棚を開け、碧高の袋に手を伸ばす。その時初めて、自分の手が震えていることに気が付いた。
それでも、やらねば。
葉子は自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出しながら、彼の袋を手に取った。
結び紐を解く。逆さにすると、コロンと小さな勾玉のようなものが葉子の手に乗った。
(割るのよ、葉子)
葉子はそれを左手に乗せると、簪を握る右手を思い切り振り上げた。
「やはり、君の目的はそれだったのか」
唐突に碧高の声が背後から聞こえ、葉子の体は硬直してしまった。振り上げた右腕すら、そのままに。
葉子は振り返ることもできずに、ただ浅い呼吸を繰り返した。自分は碧高に殺されてしまうかもしれない。そう、胸の中で思った。
だけど、彼はなぜか優しい口調で言葉を続けた。
「瑞祥は最初から君を疑っていた。君をここへ誘導するように、わざと私を留守にさせてね。証拠が欲しかったんだ。登喜和が瑞祥を、陥れようとしている証拠が」
その言葉に戸惑い、葉子は目をしばたたいた。内容と口調が、ちぐはぐだ。
そんな葉子に、碧高はそっと近寄る。だが、葉子は何もできない。
彼の足音がやたらと祠の中に響いて、葉子の心臓はおかしいくらいに高鳴った。
「だけど――」
再び碧高が口を開いた時、葉子の肩に彼の手が乗った。
心臓がひときわ大きく跳ね、葉子は生きた心地がしない。それなのに、彼は怯えたような葉子の瞳を覗き込む。
それで、葉子は振り上げていた手をつい下ろしてしまった。
「私は、君には君の価値があると信じている。その玉を割るのを止めて、私と共に生きる未来を考えてはくれないだろうか」
彼は言いながら、神棚の中からとある袋を取り出した。
「この玉にも、まだ力があるはずだ」
葉子は目を見開いた。彼の手に乗っていたものは、葉子の玉の袋だったのだ。
「そんなの嘘です!」
葉子は思わず声を張り上げた。
そんなこと、到底信じられない。今まで散々虐げられ、自分を責めて生きてきたのだ。まだ力があるなんて、ありえない。
だが、碧高は優しい笑みで葉子の瞳をじっと見つめたまま、そっと口を開いた。
「顔見世の会で君を救ったのは、誰だと思う?」
「それは、碧高様が――」
「違う。あの光は、君自身のものだ」
葉子は自分の言葉を遮って伝えられた彼の言葉に、その強い口調に瞠目した。
「私は君を、そっと自分の元に運んだだけだ。あのままでは危ないと思ったから」
「そんなこと……」
自信のない葉子の声が、こぼれ落ちる。だが、碧高は首を横に振った。
「君の才は、失われたわけじゃない。むしろ、双子の彼女と同等の力があると、私は考えている。巫女として、軍人として。帝都を怪異から守るため、君の力を貸して欲しい」
そう言うと、彼は葉子の左手からそっと自分の玉を奪い、代わりに葉子のお守り袋をそこに置いた。
「だが、これは私の独断だ。君の力の存在は、まだ私しか知らない。このまま私の玉を割るか、私の言葉を信じるか。君が選んでいい」
碧高は言いながら、手のひらに乗せた自分の玉を葉子に差し出した。
葉子はごくりと唾をのむ。同時に、左手にある自身の玉を握りしめた。
(この人は、私を必要と言ってくれる。この帝都を守るために、自身も異端だと自覚しながらも、巫女として帝に仕えるお方――)
――いや、絆されては駄目。自分は登喜和の人間だ。登喜和のために生きなければ。
胸の内の葛藤が、葉子の呼吸を浅くする。そんな葉子に、碧高は微笑んだ。
「君が力になってくれたら、私は嬉しい」
優しい笑みが、彼女の心をひどくざわつかせる。
(でも、生きるためには――)
葉子は彼の手のひらに乗る巫女の玉に狙いを定め、右手を思い切り振り上げた。だけどなぜか、その腕を振り下ろすことができない。
(私には、才なんて、力なんてないわ。そう、分かってるのに……)
込み上げてきた何かのせいで、葉子の視界がぼやける。
数分の葛藤の後、葉子は振り上げていた右手をそっと下ろした。なぜ、そうしたのかは自分でも分からない。
「ありがとう」
彼は優しい口調でそう言ったけれど、葉子はまだ彼を信頼したわけではないと言い聞かせる。
(彼は敵。私は、登喜和家の人間)
そう思うのに、葉子の目尻からは、大粒の涙があふれ出した。



