その帰り道は最悪だった。
 ひりついた空気の中、葉子の腕の中で雄鶏とは到底思えない生物が時折「ぐえっ」と気持ち悪い声で鳴く。
 そのたびに、華子は親指の爪をガリガリ噛んだ。
 今頃、華子は『誰もあなたには敵わないわ!』と、羨望の眼差しを浴びている予定だった。しかし現実では誰もが喋らず、それどころか眉をひそめている者もいる。
 顔見世の会で、華子は無事、帝に認められた。必要時に軍に呼ばれ、母のように巫女として活動できるのだ。
 幼年から憧れた舞台に、十八にしてやっと立てる。それでも彼女の心が荒むのは、瑞祥碧高という男巫女のせいだった。
 彼の生い立ちは、瑞祥家の主である碧高の母が直々に披露した。
 彼は男児にも関わらず、生まれ落ちたその手に〝巫女の玉〟を握っていた。だからといって男児である碧高に巫女の才があるわけないと、初めは瑞祥家も疑心暗鬼だったようだ。
 しかし、軍教育を受けさせながら、念のために巫女の教育もおこなうと、碧高はめきめきと巫女としての頭角を現したらしい。
 それで今回、軍人としても一人前を意味する伍長の位を得たからと、瑞祥家は初めて顔見世の会に彼を連れてきたという。
 軍の最高司令は帝である。つまり、軍人教育も受けてきた碧高は、帝の信頼に値する人物ということだ。さらに、巫女の才も華子と同等程度であった。
 歳は五つ離れてはいるが、そのくらいの歳の巫女でも華子に適う者はなかなかいない。
 だからこそ、顔見世の会の後も彼はもてはやされた。華子に構う者など、誰もいないほどに。
(あんなの、卑怯じゃない)
 そう思った瞬間、またギーグが「ぐえっ」と鳴いたので、華子は舌打ちをした。
 そもそも、葉子のせいでもある。
 葉子があのエセ怪異のような生物を庇ったせいで、碧高が注目を浴びてしまった。
 誇り高き名家である登喜和家の人間が、敵対する瑞祥家の人間に助けられるなんて恥でしかない。
(葉子は本当に、登喜和家の恥。ことごとく邪魔な存在よ)
 華子にとって、葉子は幼い頃からの敵だった。
『一緒に頑張ろうね』
 五歳くらいの頃だろうか。その頃には、笑顔でそう言う葉子が、もう憎くて仕方なかった。
 美貌も才も一番でありたい。母の称賛を独り占めしたいという願望は、「帝都を救う巫女になれ」という登喜和家の巫女教育のもとで、いつしか自分が帝都の一番になるという野心に変わった。
 華子は登喜和家に生まれた誇りを、帝さえも凌駕する大物の巫女になることで具現化しようとしていたのだ。
(いずれ帝都にはびこる怪異は、私がいないと倒せなくなる。人民も、軍も、帝さえも、私に乞うのよ。〝助けてください〟って)
 帝都中の人々が自分に頭を下げる様を想像する。なんて爽快な世界だろう。
(私がこの帝都の一番になるの。神になるのよ)
 だからこそ、あの男巫女という存在は華子にとって邪魔で、憎く、腹立たしい。
(そもそも、男が巫女だなんて気持ち悪い。しかも才なしをのお姉様を助けるなんて、不愉快極まりないわ)
 顔見世の会に出席した全ての者の視線を、帝の期待を向けられるのは自分だけで良かった。なのに、それはあの男巫女に向いた。なんたる屈辱だろう。
 華子は眉間に皺を寄せると同時に、ふとあの日を思い出した。巫女の玉が割れてしまったと、葉子が絶望したあの日だ。
(いいことを思いついた)
 爪をガリガリと噛んでいた彼女の口角がにやりと上がる。
(あの男巫女も〝排除〟してしまえばいいのよ。葉子と、同じように)
 華子の脳裏に、名前のように華やかな未来が思い描かれる。
 葉子も、あの男巫女も自分にひれ伏し、助けを求める未来。帝すら意のままに操り、帝都を手に入れる未来。
(帰ったら、お母様に相談してみましょう)
 葬式のような暗い雰囲気の中、華子の足取りは人知れず軽くなっていた。

 ***

 葉子は母屋で振袖を脱がされると、質素な着物に着替えさせられ、いつもと同じ小屋の中に入れられた。
 ギーグが「ぐええ」と変なふうに鳴くけれど、葉子は恐怖に震えていた。
 きっとまた叩かれる。それに、きっと今日から何日も、ご飯はなしだろう。
 顔見世の会で、広場内に飛び出した自分を救ったのは登喜和家の巫女だった。しかも、実力ある軍人の男性だ。
 あんなことになれば華子の自尊心が傷つくのは明白だし、登喜和家も体裁が悪い。罰を与えられるのは、当たり前のことだ。
 今まで何か失敗をした時に母と華子からされた仕打ちを思い出し、葉子はぶるりと震えた。
 葉子は、誰にも助けてもらえない。
 登喜和家で偉いのは現役の巫女だ。力を持たない男どもは女の言いなりであるし、女の中でも現役の巫女である母と華子がこの家のすべてだ。
 それに、華子ほどの力を持つ者は近年稀である。今では登喜和家は、全ての決定を華子がしていると言っても過言ではない。
 華子がいいと言えば全てが許され、華子が嫌だと言えば全てやり直し。それが登喜和家なのだ。

 しかし、それから何日も、思っていたような仕打ちはなかった。
 小屋には朝晩、いつものように登喜和家の女中がご飯を運んでくる。
 おかしいなと思いながらも心穏やかに、今日も薄暗い小屋の中でギーグと過ごしていた時、華子は唐突にやってきた。
 外側からしか開かない小屋の扉を開け、美しい笑みを浮かべた彼女は、葉子を見るとそのつややかな唇を開く。
「お姉様、お母様が母屋でお待ちよ」
「お母様が?」
 叩かれると身構えていた葉子は、思わずそう聞き返してしまった。
 だけどすぐ、体を縮こませる。『身の程を弁えろ』と叩かれると思ったのだ。
 しかし、痛みは訪れない。それどころか、華子はきれいな笑みを浮かべていた。
「ええ、早くしてちょうだい。ああ、その薄汚い怪物は連れて行っては駄目よ」
 華子の声色は優しい。しかし、ギーグを見る瞳はひどく冷たい。
 そのちぐはぐさに、やはり華子は華子なのだと思い知る。
 これから、一体どうされてしまうのだろう。葉子は自身の身を案じ、ごくりと唾をのむ。だけど、ギーグに何かあってはいけない。
「ギーグ、ここから出ては駄目よ」
 葉子はそっとギーグに告げると、華子に連れられ母屋へと向かった。
 母の部屋に入るなんて何年ぶりだろう。あの小屋に幽閉されてからは初めてだ。だから葉子はひどく緊張し、のどのあたりが苦しく落ち着かない。
「失礼します」
 頭を下げ、襖の前で深く頭を下げる。巫女の玉を割ってしまったあの日以降、葉子は母の姿を見るのが怖くて仕方ない。
「頭を上げなさい、葉子」
 母の声色は思いのほか優しくて、葉子はゆっくりと顔を上げた。
「はい」
 手招きをされ、母の部屋に体を引きずるように恐る恐る入る。体の全部が入り切ると、後ろで華子が襖をぴしゃりと閉めた。
 その勢い余る音に、葉子はひっと息をのむ。
 何か、とんでもないことを言われる。葉子はそう直感し、肩を吊り上げた。
 一度落ち着いたはずの鼓動が再び嫌なふうに高鳴る。  
 そのままじっと母を見つめていると、無表情な彼女の唇がそっと動いた。
「葉子、あの男巫女に嫁ぎなさい」
 葉子は思わず目を見開いた。
(敵対している瑞祥家に、私が嫁ぐですって?)
 神に仕える巫女は、一般人とは結婚できない。だから、巫女の家の者同士が婚姻を結ぶのはよくあることだ。
 だが、瑞祥家に嫁ぐということは、登喜和家の一員が瑞祥家の元に下るということ。プライドの高い母が、そんなことを言うとは思いもしなかった。
 目を見開いたままの葉子に、母は優しく口角を上げる。それは一見、葉子の結婚を慶ぶようだが、葉子には勝利を慶んでいるように見えた。
「あの、それは――」
「もう、決まったことよ」
 口を挟んだのは華子だった。彼女は優雅にほくそ笑み、続けた。
「瑞祥家も喜んで受け入れてくれたわ。登喜和(うち)と組めば、より偉大な巫女が生まれるって。そんなこと、あるはずないのに」
 華子は嫌らしく頬を緩ませる。しかしすぐ、鋭い視線を葉子に向けた。
「葉子。あの男巫女の、巫女の玉を割るのよ」
 華子の言葉に、葉子は肩を揺らした。脳裏に、あの日粉々に砕け散った自分の〝巫女の玉〟が思い浮かんだのだ。
「巫女の玉は、その家の神棚にある。あの男の巫女の玉を割れるのは、あの家の神棚に触れられる者だけ。瑞祥家の者だけなのよ」
 瑞祥家に嫁げば、葉子は瑞祥家の神棚に触れられるようになる。だから結婚し、神棚から彼の巫女の玉を盗んで砕き、彼の力を失わせろ、ということらしい。
「ですが、そんなことをしたら――」
 巫女の力は、貴重で偉大だ。巫女の才をなくした葉子は、そのことをよく知っている。
 しかし、途中で口を噤んだ。華子のねめつけるような視線に、怖気づいてしまったのだ。
「口答えなんて、才のないお姉様がよくできるわね」
 華子はそう言うと、表情を和らげた。だけどそれは悪意に満ちた、葉子を蔑む笑みだった。
「登喜和家に生まれたくせに、お姉様は自ら価値を失った。だけど今回、やっと登喜和家の役に立てるのよ? 誉れじゃない」
 華子はそういいながら、葉子にそっと忍び寄る。それから、葉子の耳元でそっと告げた。
「拒否すれば、あの化け雄鶏は八つ裂きにして、煮て食べてやる。割らなければ、お姉様も怪異に食われてもらうわ。知っているでしょう? 巫女の能力を使えば――」
「怪異を、呼び寄せることもできる」
 だからこそ、巫女の家は特別な階級を与えられ、裕福に暮らせるのだ。
 葉子は自分の言葉に、ぞくりと背が粟立つのを感じた。華子ほどの力を持つ巫女なら、怪異を呼び出すことも容易にできるに違いない。
 華子が乾いた笑みを浮かべ、葉子から離れる。
「お姉様だって、登喜和家の人間だもの。瑞祥のこと、憎くて仕方ないでしょう?」
「……はい、華子様、お母様」
 葉子はそう言って、頭を下げた。
「うまくやるのよ、葉子」
 母の声は、感情が読み取れないほど淡々としている。
(やるしかないわ)
 葉子はそっと、震える両手を握りしめた。