黴臭い物置小屋の中、葉子は茣蓙の上に座り込んでいた。
『私が一番なのに!』
目の前で、双子の妹である華子が叫んだ。その形相は、怨恨に満ちている。
彼女は金色の刺繍の施された白い小袖に緋袴をはき、大ぶりな緋色の布で結った美しい髪を揺らしながら、右手を振り上げる。
ぱちんっ!
乾いた音ともに、葉子の頬を鋭い痛みが襲った。
華子は帝都を守る巫女の名家、登喜和家の跡継ぎだ。彼女は美貌もさることながら、巫女としての才にも恵まれた。
巫女は大地を操り怪異を消滅させる能力を持ち、軍と結託してこの帝都を守る。その能力が、巫女の才だ。
しかし今日、彼女は帝に認められなかった。
『あんたのせいよ!』
華子の振り上げた手が、再び葉子の左頬を叩く。葉子は自身の手で頬をかばいながら、出来の良すぎる妹を見上げた。
昔は葉子も華子と同じく優秀な巫女だった。あの事件が、起こるまでは。
『この帝都を護るのは誰⁉』
『もちろん、華子様です』
葉子はそう言ったけれど、華子は目を吊り上げた。葉子の声が小さかったからだ。
『それしかあり得ないわ!』
華子は言いながら、再び右腕を振り上げる。
『才なしのくせに! 何もできないくせに!』
ぱちん、ぱちんと、何度も葉子の頬を叩く音が、小屋の中に響いた。
彼女の後ろでは、実母も葉子を睨みつけている。
『ありがたいことよ、葉子。才を失ってもなお、こうやって登喜和家の役に立てるんだから』
眉間に皺を寄せた母が、冷たい声でそう言い放つ。
だが、葉子はもう、痛みなど感じていない。光を失った目で、ただ才にあふれた妹と母親を見つめ返すだけだ。
葉子ははっと起きあがった。それから、土埃の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「嫌な夢を見たわ」
ゆっくりと息を吐き出して、心臓を落ち着けた。
胸に手をやる。痛かったのは、頬じゃない。
「ぎーっ、ぐぐ」
隣にいた雄鶏のギーグが鳴く。葉子はくすりと笑みをもらした。つらい毎日でも、ギーグがいるから葉子は笑顔を忘れないでいられる。
「また石を食べていたの? 駄目って言ったじゃない」
するとギーグはしゃっくりをするように石を吐き出し、首を傾げた。
葉子がいるのは、登喜和家の中でも最も暗い北側の物置小屋だ。
あの事件以来、巫女の力を失った葉子は、この薄暗く埃っぽい漆喰壁の物置小屋に幽閉されている。
〝あの事件〟というのは、葉子が自身の巫女の力を司る〝巫女の玉〟を割ってしまったことだ。
巫女の家に生まれし女児は、皆〝巫女の玉〟を持って生まれてくる。巫女の玉は、力を使うとき以外は神棚に捧げられ、神聖なものとして扱う。
葉子ももちろん持っていたのだけれど、そそっかしい性格の葉子は六才の頃、お守り袋に入れていたそれを転んだ拍子に割ってしまった。
怪異の出現の増えた帝都は、巫女の力がなければ崩壊してしまうと言われる現代。一人前の巫女である母も、何日も軍と共に戦いに出向き、帰ってこない日もある。
そんな中、自分の玉を割るなど巫女としての自覚を欠いた行為だと咎められ、母は葉子をここに幽閉した。その時に、巫女の力も失ってしまった。
『あんたは妹の足を引っ張ることしかできないの⁉』
激昂した母の青筋が立つ顔は、思い出すだけでうら恐ろしい。
だけど――。
「私は登喜和家の恥だもの」
葉子はぽつりとつぶやいた。
先ほどの夢は、一年前の、顔見世の会の後の出来事だ。
年に一度、巫女の家系の者は顔見世の会に呼ばれる。その家の巫女の能力を帝が確かめ、軍とともに戦えるかどうかを判断する会だ。
昨年、華子は見事に巫女の才を操り、帝も驚いていた。しかし昨年は、華子は帝の右腕となることは叶わなかった。
華子が苛立つと、葉子はいつも小屋の中で叩かれる。それが、葉子の登喜和家での役割だ。
「華子は才にも運にも恵まれて、本当にすごい子。何もできない私とは違うわ」
華子の鬱憤を晴らすことでしか役に立てない自分とは大違いだ。ため息を零すと、小屋内に再び土埃が舞った。
質素な小屋の中は床板すらなく、葉子に与えられているのは寝転がれるほどの小さな茣蓙だけだ。
十分な食事も与えられないが、葉子はここで生きていることを恨んだりはしなかった。
全ては自分のせい。
むしろここで、登喜和家は自分を守ってくださっている。それに、ギーグがいるから寂しくはない。
「ぎー、ぐえっ」
鶏らしからぬ声でギーグが鳴く。それにちょっとだけ心が和んで、葉子はギーグを抱きしめた。
ギーグは葉子の、大切な友だ。
「まだその雄鶏、大切にしてるのね」
小屋の中に光が差すと同時に、華子の声が飛んできた。
「空腹に耐えかねて、いつか食べてしまうと思っていたのに」
ひっと肩を吊り上げながら、葉子は恐る恐る口を開いた。
「雄鶏を食べるだなんて、神に背く禁忌のひとつですから」
言いながら、叩かれても良いようにうつむきながら前へ出た。
ギーグは後ろ手に抱きしめた。華子がギーグを良く思っていないことを、葉子は知っているからだ。
雄鶏は本来、神に仕える神聖な生き物である。
しかしギーグは石を食べる変な癖があるし、鳴き声も他の鶏とは違う。本来はぴんと立っている尾の毛も、ギーグの場合は右左に散らかり、まるで萎れた葦のようだ。
本来、巫女でいなければならないのにそうできない葉子と、雄鶏らしからぬギーグは似ている。
「それは、神に見放された阿呆よ」
華子は鼻でふんっと笑うと、「ああ、そうだったわ」と本題を切り出した。
「今日は顔見世の日よ。早く準備して」
華子はそれだけ言うと、踵を返し行ってしまった。
手を挙げられなかったことにほっと息をついたが、同時に胸がどくりと嫌なふうに震えた。
華子はきっとこれから、巫女の装束に身を包み、立派に巫女の才を出現させ周りを圧倒するだろう。
だけどまた、今回も帝に認められなかったら。今朝見た夢を思い出し、葉子は恐怖に縮み上がった。
だけど、顔見世の会に出席しないわけにはいかない。巫女の力を失ってもなお彼女を大切にしているという、登喜和家の慈悲深さを印象づけるため、母に出席は絶対だと言われているのだ。
この日ばかりは、葉子も振袖に身を包み、しゃんとして顔見世の会に臨まなければならない。今はもう才を発揮しない、散り散りになった巫女の玉も身につけて。
「ギーグ、行ってきます。勝手にどこかへ行っては駄目よ。それから、石を食べるのも」
母屋に向かう時、ギーグにそう声をかけた。だけど、ギーグは首を傾げて「ぐえ?」と鳴くだけだった。
『私が一番なのに!』
目の前で、双子の妹である華子が叫んだ。その形相は、怨恨に満ちている。
彼女は金色の刺繍の施された白い小袖に緋袴をはき、大ぶりな緋色の布で結った美しい髪を揺らしながら、右手を振り上げる。
ぱちんっ!
乾いた音ともに、葉子の頬を鋭い痛みが襲った。
華子は帝都を守る巫女の名家、登喜和家の跡継ぎだ。彼女は美貌もさることながら、巫女としての才にも恵まれた。
巫女は大地を操り怪異を消滅させる能力を持ち、軍と結託してこの帝都を守る。その能力が、巫女の才だ。
しかし今日、彼女は帝に認められなかった。
『あんたのせいよ!』
華子の振り上げた手が、再び葉子の左頬を叩く。葉子は自身の手で頬をかばいながら、出来の良すぎる妹を見上げた。
昔は葉子も華子と同じく優秀な巫女だった。あの事件が、起こるまでは。
『この帝都を護るのは誰⁉』
『もちろん、華子様です』
葉子はそう言ったけれど、華子は目を吊り上げた。葉子の声が小さかったからだ。
『それしかあり得ないわ!』
華子は言いながら、再び右腕を振り上げる。
『才なしのくせに! 何もできないくせに!』
ぱちん、ぱちんと、何度も葉子の頬を叩く音が、小屋の中に響いた。
彼女の後ろでは、実母も葉子を睨みつけている。
『ありがたいことよ、葉子。才を失ってもなお、こうやって登喜和家の役に立てるんだから』
眉間に皺を寄せた母が、冷たい声でそう言い放つ。
だが、葉子はもう、痛みなど感じていない。光を失った目で、ただ才にあふれた妹と母親を見つめ返すだけだ。
葉子ははっと起きあがった。それから、土埃の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「嫌な夢を見たわ」
ゆっくりと息を吐き出して、心臓を落ち着けた。
胸に手をやる。痛かったのは、頬じゃない。
「ぎーっ、ぐぐ」
隣にいた雄鶏のギーグが鳴く。葉子はくすりと笑みをもらした。つらい毎日でも、ギーグがいるから葉子は笑顔を忘れないでいられる。
「また石を食べていたの? 駄目って言ったじゃない」
するとギーグはしゃっくりをするように石を吐き出し、首を傾げた。
葉子がいるのは、登喜和家の中でも最も暗い北側の物置小屋だ。
あの事件以来、巫女の力を失った葉子は、この薄暗く埃っぽい漆喰壁の物置小屋に幽閉されている。
〝あの事件〟というのは、葉子が自身の巫女の力を司る〝巫女の玉〟を割ってしまったことだ。
巫女の家に生まれし女児は、皆〝巫女の玉〟を持って生まれてくる。巫女の玉は、力を使うとき以外は神棚に捧げられ、神聖なものとして扱う。
葉子ももちろん持っていたのだけれど、そそっかしい性格の葉子は六才の頃、お守り袋に入れていたそれを転んだ拍子に割ってしまった。
怪異の出現の増えた帝都は、巫女の力がなければ崩壊してしまうと言われる現代。一人前の巫女である母も、何日も軍と共に戦いに出向き、帰ってこない日もある。
そんな中、自分の玉を割るなど巫女としての自覚を欠いた行為だと咎められ、母は葉子をここに幽閉した。その時に、巫女の力も失ってしまった。
『あんたは妹の足を引っ張ることしかできないの⁉』
激昂した母の青筋が立つ顔は、思い出すだけでうら恐ろしい。
だけど――。
「私は登喜和家の恥だもの」
葉子はぽつりとつぶやいた。
先ほどの夢は、一年前の、顔見世の会の後の出来事だ。
年に一度、巫女の家系の者は顔見世の会に呼ばれる。その家の巫女の能力を帝が確かめ、軍とともに戦えるかどうかを判断する会だ。
昨年、華子は見事に巫女の才を操り、帝も驚いていた。しかし昨年は、華子は帝の右腕となることは叶わなかった。
華子が苛立つと、葉子はいつも小屋の中で叩かれる。それが、葉子の登喜和家での役割だ。
「華子は才にも運にも恵まれて、本当にすごい子。何もできない私とは違うわ」
華子の鬱憤を晴らすことでしか役に立てない自分とは大違いだ。ため息を零すと、小屋内に再び土埃が舞った。
質素な小屋の中は床板すらなく、葉子に与えられているのは寝転がれるほどの小さな茣蓙だけだ。
十分な食事も与えられないが、葉子はここで生きていることを恨んだりはしなかった。
全ては自分のせい。
むしろここで、登喜和家は自分を守ってくださっている。それに、ギーグがいるから寂しくはない。
「ぎー、ぐえっ」
鶏らしからぬ声でギーグが鳴く。それにちょっとだけ心が和んで、葉子はギーグを抱きしめた。
ギーグは葉子の、大切な友だ。
「まだその雄鶏、大切にしてるのね」
小屋の中に光が差すと同時に、華子の声が飛んできた。
「空腹に耐えかねて、いつか食べてしまうと思っていたのに」
ひっと肩を吊り上げながら、葉子は恐る恐る口を開いた。
「雄鶏を食べるだなんて、神に背く禁忌のひとつですから」
言いながら、叩かれても良いようにうつむきながら前へ出た。
ギーグは後ろ手に抱きしめた。華子がギーグを良く思っていないことを、葉子は知っているからだ。
雄鶏は本来、神に仕える神聖な生き物である。
しかしギーグは石を食べる変な癖があるし、鳴き声も他の鶏とは違う。本来はぴんと立っている尾の毛も、ギーグの場合は右左に散らかり、まるで萎れた葦のようだ。
本来、巫女でいなければならないのにそうできない葉子と、雄鶏らしからぬギーグは似ている。
「それは、神に見放された阿呆よ」
華子は鼻でふんっと笑うと、「ああ、そうだったわ」と本題を切り出した。
「今日は顔見世の日よ。早く準備して」
華子はそれだけ言うと、踵を返し行ってしまった。
手を挙げられなかったことにほっと息をついたが、同時に胸がどくりと嫌なふうに震えた。
華子はきっとこれから、巫女の装束に身を包み、立派に巫女の才を出現させ周りを圧倒するだろう。
だけどまた、今回も帝に認められなかったら。今朝見た夢を思い出し、葉子は恐怖に縮み上がった。
だけど、顔見世の会に出席しないわけにはいかない。巫女の力を失ってもなお彼女を大切にしているという、登喜和家の慈悲深さを印象づけるため、母に出席は絶対だと言われているのだ。
この日ばかりは、葉子も振袖に身を包み、しゃんとして顔見世の会に臨まなければならない。今はもう才を発揮しない、散り散りになった巫女の玉も身につけて。
「ギーグ、行ってきます。勝手にどこかへ行っては駄目よ。それから、石を食べるのも」
母屋に向かう時、ギーグにそう声をかけた。だけど、ギーグは首を傾げて「ぐえ?」と鳴くだけだった。



