「まあ、随分綺麗にしていただいたのですね」
狐の料亭で、凛はわたくしの髪を撫でました。頭巾を取ると白い髪が銀糸のように輝きを持ち、凛が触れるたびにちいさな色を灯しました。あの後うめさんが椿油を持ってきてくれて、髪に丁寧に塗り込んでくれたので、わたくしの髪は艶を帯びています。整えられた毛先を凛は撫で、彼女はほうと息を漏らしました。
「ええ。久しぶりに髪を整えてもらったわ」
凛はわたくしの髪を結びなおすと、結んだ箇所が崩れないように、そっとわたくしの頭を撫でました。その手のひらの柔らかさにほんの少しの間目を閉じると、温かさがもたらすくすぐったさに小さな笑みが零れました。彼女の手のひらの優しさは、昨日の桜燐様の髪に触れる時の手つきを思い出させるもので、嬉しいのについ、切なくなります。
「桜燐様、わたくしたちのことを、まるで自分のせいのように思っているから」
「気になるのですね」
「救っていただいたから」
呟くと同時に、襖が開けられて、はつさんが顔を覗かせました。二人分の蕎麦を持ってきた彼女は、桜燐様の話ですか、と尋ねて、それから「あのお方がねえ」とぼやきます。
「あの方、昔はもっとぶっきらぼうな方だったのよ。こんなかわいいあたしが出迎えても、ちょっとも表情が動かなくて」
「そうだったのですか。少し、信じがたいです」
「本当よぉ。何があったのかしらねえ」
はつさんはぼやきながら、襖を閉め、廊下に去っていきます。あとに残されたわたくしたちは顔を見合わせ、首を傾げました。
「桜燐様は、翠子様に対して随分優しいように見えます」
「とても良くしていただいているわ」
「信じがたいですね」
「ええ」
蕎麦をすすると、柔らかな出汁の香りが口の中に広がります。うま味がしっかりと溶けたそれは、心をときほぐすような味がして、ほっと息を吐きました。結局、桜燐様への贈り物は買えないままでしたが、自分で用意したお金で食事が出来るのは、悪くないように思えます。
「翠子様も随分元気になられて」
「まだ、身体が動かない時があるのだけど、優しい人が周りにいるから」
思えば、桜燐様の屋敷に引き取られてから一月以上が経っていました。あれほど動かなかった身体も今では家事がいくらか手伝えるほどに回復し、桜燐様とうめさんのために作った夕餉が二人に喜ばれるようにもなっていました。
作った料理が喜ばれることも、掃除をしていても邪険にされないことも、身体が動かなくて寝転んでいても誰も文句を言わないことも、わたくしという存在を尊んでくれていることのように思えて、幸せに恵まれたと思うのです。わたくしがそういった幸せを思い出して微笑みますと、凛もまた静かに微笑みました。
きっと凛も心のどこかで己の不幸が憎く、わたくしの幸福を羨ましく思っているでしょうに、わたくしの幸せを喜んでくれているのです。そんな彼女の様子は、彼女を救うというわたくしの決心を強めさせます。
「この前、活動写真の小屋の前に英介がいたわ。つい、逃げてしまったけれど」
「そう、ですか」
「女の子と歩いていたわ。英介のこと、許せないのだけれど、でもね、元気そうで良かったって思ってしまうの。家族って不思議よね、切っても切れない縁があるわ」
凛が自分の家が没落してもなお、家の矜持を捨てられない理由が、わたくしにもやっと分かりました。わたくしがどれだけ家族に虐げられても、心から彼等の不幸を願えないように、穏やかに暮らしている様を見てどこか安堵してしまうように、家族というのは血のつながり以上に何か糸で結ばれているのでしょう。ひょっとすると凛にとっては、家の体面を保つことが、家族との糸を繋いでいるのかもしれません。しかし、こうも想うのです。凛をひとりの人として尊重するのなら、彼女を虐げる環境は家族にとっても毒。彼女を想うのなら、家族だって彼女と結婚先を引き離すべきなのです。積み上げた優しさが彼女の家にもあるのなら、それが家族を結ぶ糸になるのですから。
「翠子様は優しすぎます」
「凛のおかげよ。小さい頃、あなたに可愛がってもらえなかったら、わたくしはとうに壊れていたわ」
蕎麦を飲み込み、微笑みかければ、凛はどこか照れたように笑いました。それから、あなたの成長した姿を見られて良かったと、小さくつぶやくのでした。
蕎麦を食べ終わり、わたくしたちは店の外に出ました。はつさんが店先まで見送ってくれたのですが、外はあいにく、小雨が降り始めていました。
この後は凛と買い物をする予定だったのですが、朝はよく晴れていたので、二人とも傘を持っていませんでした。はつさんのすすめで一度料亭の中に戻ろうと踵を返した時、ぬかるみはじめた地面をぱしゃぱしゃ、ぐちゃりぐちゃりと音を立てて走ってくる人物がいました。
「旦那様」
凛がぽつりと呟きます。その顔がほんのわずかに強張って、それから、作り笑いの裏に恐怖と諦念と、悲しさが隠されました。わたくしが思わず彼女の手を握りますと、その指先にほんの少し力が入って、わたくしの手の甲に柔らかく触れて、わたくしを傷つけないような静かな動作で振りほどかれました。
「凛」
「翠子様は、静かに」
凛の旦那様は本の挿絵に書かれているような、華やかな恰好をしていました。黒地の着物には裾に紅の薔薇の刺繍がされていて、帯は薔薇の色に合わせているのでしょう、紅の色をしていました。着物の下は舶来の品であろうブラウスが合わせられていて、不思議な存在感を作り出しています。わたくしが彼のその独特な存在感に気圧されておりますと、彼は真っすぐにわたくしに向かって歩いてきて、凛の静止を押し切ってわたくしの肩を掴みました。
「椛田の座敷童だろう、お前」
「旦那様、やめてください」
「お前は黙ってろ」
凛の旦那様が凛を突き飛ばし、騒ぎを聞きつけたはつさんに抱き留められました。凛、呼べば彼女はわたくしを安心させるように微笑んで、それからすぐにわたくしを案じる色を添えました。彼女の目が旦那様に向けられて、睨むような細いものに変わります。
「椛田の家は徐々に没落している。一月以上前から座敷童の声が聞こえなくなったという。友達もいないこの馬鹿がつるむとしたら椛田の者しかいないだろう?」
わたくしの腕を掴む彼の力がいっそう強くなり、指が食い込みます。凛に助けを求めたいのに恐ろしさからわたくしは動けず、口をはくはくと動かすことしかできません。
「質屋が言っていた通り、お前、気味の悪い外見をしているな。人ではないのだろう?」
彼はどこか恍惚とした笑みを浮かべて、わたくしに語り掛けます。曰く、人ならざる者であるわたくしが椛田の家にいたことで椛田に富が生まれていたに違いないと。椛田の座敷童でなくなったのなら、自分の家に来るが良いと。年頃も丁度いい、妻になって、富を運んでくれと。
わたくしが椛田の家に仕入れをせずとも良い宝石を与えていたのですから、いくら質が悪くなっていたとはいえ、椛田を栄えさせていたのがわたくしだというのは間違いではありません。しかし、わたくしは人の子です。椛田の家でそうであったように、物として扱われるのは、もう嫌なのです。
「わたくしにはもう、将来を捧げた相手がおります。それに、あなたの奥方はここにいるではありませんか」
声が震え、足も震えます。しかしわたくしは精一杯彼を見上げます。
「わたくしは物ではありません。生きたひとです。わたくしは、温かいひとたちの元で生きていたい」
座敷童のくせに、女のくせに生意気だな。彼はそう吐き捨てました。
「そこにいる馬鹿は、家を援助してくれと言われたから貰ってやっただけだ。なのに家も没落、価値がない。しかしお前には価値がある。どうやって富を運んでいたかは知らんが、宝石だって山ほど持っているのだろう? お前がいれば椛田に負けない富を築くことができる」
来い、来るんだ。そう言って彼はわたくしを引っ張ろうとします。わたくしがどうにか踏ん張ろうとしても、男の人の力は強く、わたくしはいとも簡単に引きずられてしまいます。こちらのことをはらはらと見つめていた凛と、目が合います。すると、瞬間、凛が弾かれたように背筋を伸ばしました。真っすぐに彼女は旦那様に向かって走り、えいと体当たりしました。わたくしも一緒に転びましたが、彼の手から逃れることは叶いました。
「翠子様は、わたくしの大切な人でございます。貴方のような人の心も持たぬ人に渡すわけにはいきませぬ。り、離縁、離縁でございます」
「なんだと――」
「家の体裁よりも、私はお嬢様の方が大切です。貴方の家よりも、ずっと」
「凛」
「逃げましょう、翠子様」
立ち上がったばかりのわたくしの手を掴み、凛は走り始めました。向かう先は桜燐様の屋敷です。傘も持たぬわたくしたちは雨に濡れ、ぬかるみはじめた土に着物の裾を汚しながら道を進みましたが、どこか心は晴れ晴れとしていました。
「ねえ、凛。良かったの? 後悔はしない?」
「分かりません。例え間違いだったとしても、あなたを選んだことだけは、悔いることはないでしょう」
「それじゃあ、桜燐様の屋敷で一緒に暮らしましょう。これで幼いころと一緒だわ」
「素敵ですね」
ぱしゃん、水たまりを踏むと水滴が跳ねました。それは泥を含んではいましたが、祝福のように柔らかな音を奏でます。
「桜燐様に挨拶しに行かねばなりませんね」
「今日は出かけると言っていたわ」
それなら屋敷で待つべきかとわたくしが思っていると、道の角を曲がったところに、見慣れた羽織が見えました。彼は自分の傘以外にも二つ傘を持ち、わたくしたちを待っているのです。その姿にほっと笑みがこぼれて、「桜燐様」と呼ぶと、彼は「二人とも無事かい?」とわたくしたちの姿を観察するのでした。
「凛。よく決意してくれた。そして、ようこそ」
「まあ。桜燐様、見えていたのですか?」
わたくしが拗ねたような態度を取りますと、彼はほんの少し眉を下げ、傘をわたくしたちに渡しました。その瞬間触れた指先の表面は冷たく、長く外にいたことが分かります。しかし、わたくしはその内側が温かいことを知っていました。
「俺の助けがなくとも、二人は飛び出してこられただろう?」
「その通りですが」
ぷうぷう頬をふくらますわたくしの頬を、凛がつつきます。空気がぷぅと口から抜けて、わたくしは思わずくすりと笑いました。
「さ、二人とも早く屋敷で温まろう。美味い茶を買ったんだ」
色違いの傘が、雨の中で揺れます。もうすぐ晴れるかしら。そんなわたくしの呟きに、桜燐様は「きっとそうだ」と返しました。
狐の料亭で、凛はわたくしの髪を撫でました。頭巾を取ると白い髪が銀糸のように輝きを持ち、凛が触れるたびにちいさな色を灯しました。あの後うめさんが椿油を持ってきてくれて、髪に丁寧に塗り込んでくれたので、わたくしの髪は艶を帯びています。整えられた毛先を凛は撫で、彼女はほうと息を漏らしました。
「ええ。久しぶりに髪を整えてもらったわ」
凛はわたくしの髪を結びなおすと、結んだ箇所が崩れないように、そっとわたくしの頭を撫でました。その手のひらの柔らかさにほんの少しの間目を閉じると、温かさがもたらすくすぐったさに小さな笑みが零れました。彼女の手のひらの優しさは、昨日の桜燐様の髪に触れる時の手つきを思い出させるもので、嬉しいのについ、切なくなります。
「桜燐様、わたくしたちのことを、まるで自分のせいのように思っているから」
「気になるのですね」
「救っていただいたから」
呟くと同時に、襖が開けられて、はつさんが顔を覗かせました。二人分の蕎麦を持ってきた彼女は、桜燐様の話ですか、と尋ねて、それから「あのお方がねえ」とぼやきます。
「あの方、昔はもっとぶっきらぼうな方だったのよ。こんなかわいいあたしが出迎えても、ちょっとも表情が動かなくて」
「そうだったのですか。少し、信じがたいです」
「本当よぉ。何があったのかしらねえ」
はつさんはぼやきながら、襖を閉め、廊下に去っていきます。あとに残されたわたくしたちは顔を見合わせ、首を傾げました。
「桜燐様は、翠子様に対して随分優しいように見えます」
「とても良くしていただいているわ」
「信じがたいですね」
「ええ」
蕎麦をすすると、柔らかな出汁の香りが口の中に広がります。うま味がしっかりと溶けたそれは、心をときほぐすような味がして、ほっと息を吐きました。結局、桜燐様への贈り物は買えないままでしたが、自分で用意したお金で食事が出来るのは、悪くないように思えます。
「翠子様も随分元気になられて」
「まだ、身体が動かない時があるのだけど、優しい人が周りにいるから」
思えば、桜燐様の屋敷に引き取られてから一月以上が経っていました。あれほど動かなかった身体も今では家事がいくらか手伝えるほどに回復し、桜燐様とうめさんのために作った夕餉が二人に喜ばれるようにもなっていました。
作った料理が喜ばれることも、掃除をしていても邪険にされないことも、身体が動かなくて寝転んでいても誰も文句を言わないことも、わたくしという存在を尊んでくれていることのように思えて、幸せに恵まれたと思うのです。わたくしがそういった幸せを思い出して微笑みますと、凛もまた静かに微笑みました。
きっと凛も心のどこかで己の不幸が憎く、わたくしの幸福を羨ましく思っているでしょうに、わたくしの幸せを喜んでくれているのです。そんな彼女の様子は、彼女を救うというわたくしの決心を強めさせます。
「この前、活動写真の小屋の前に英介がいたわ。つい、逃げてしまったけれど」
「そう、ですか」
「女の子と歩いていたわ。英介のこと、許せないのだけれど、でもね、元気そうで良かったって思ってしまうの。家族って不思議よね、切っても切れない縁があるわ」
凛が自分の家が没落してもなお、家の矜持を捨てられない理由が、わたくしにもやっと分かりました。わたくしがどれだけ家族に虐げられても、心から彼等の不幸を願えないように、穏やかに暮らしている様を見てどこか安堵してしまうように、家族というのは血のつながり以上に何か糸で結ばれているのでしょう。ひょっとすると凛にとっては、家の体面を保つことが、家族との糸を繋いでいるのかもしれません。しかし、こうも想うのです。凛をひとりの人として尊重するのなら、彼女を虐げる環境は家族にとっても毒。彼女を想うのなら、家族だって彼女と結婚先を引き離すべきなのです。積み上げた優しさが彼女の家にもあるのなら、それが家族を結ぶ糸になるのですから。
「翠子様は優しすぎます」
「凛のおかげよ。小さい頃、あなたに可愛がってもらえなかったら、わたくしはとうに壊れていたわ」
蕎麦を飲み込み、微笑みかければ、凛はどこか照れたように笑いました。それから、あなたの成長した姿を見られて良かったと、小さくつぶやくのでした。
蕎麦を食べ終わり、わたくしたちは店の外に出ました。はつさんが店先まで見送ってくれたのですが、外はあいにく、小雨が降り始めていました。
この後は凛と買い物をする予定だったのですが、朝はよく晴れていたので、二人とも傘を持っていませんでした。はつさんのすすめで一度料亭の中に戻ろうと踵を返した時、ぬかるみはじめた地面をぱしゃぱしゃ、ぐちゃりぐちゃりと音を立てて走ってくる人物がいました。
「旦那様」
凛がぽつりと呟きます。その顔がほんのわずかに強張って、それから、作り笑いの裏に恐怖と諦念と、悲しさが隠されました。わたくしが思わず彼女の手を握りますと、その指先にほんの少し力が入って、わたくしの手の甲に柔らかく触れて、わたくしを傷つけないような静かな動作で振りほどかれました。
「凛」
「翠子様は、静かに」
凛の旦那様は本の挿絵に書かれているような、華やかな恰好をしていました。黒地の着物には裾に紅の薔薇の刺繍がされていて、帯は薔薇の色に合わせているのでしょう、紅の色をしていました。着物の下は舶来の品であろうブラウスが合わせられていて、不思議な存在感を作り出しています。わたくしが彼のその独特な存在感に気圧されておりますと、彼は真っすぐにわたくしに向かって歩いてきて、凛の静止を押し切ってわたくしの肩を掴みました。
「椛田の座敷童だろう、お前」
「旦那様、やめてください」
「お前は黙ってろ」
凛の旦那様が凛を突き飛ばし、騒ぎを聞きつけたはつさんに抱き留められました。凛、呼べば彼女はわたくしを安心させるように微笑んで、それからすぐにわたくしを案じる色を添えました。彼女の目が旦那様に向けられて、睨むような細いものに変わります。
「椛田の家は徐々に没落している。一月以上前から座敷童の声が聞こえなくなったという。友達もいないこの馬鹿がつるむとしたら椛田の者しかいないだろう?」
わたくしの腕を掴む彼の力がいっそう強くなり、指が食い込みます。凛に助けを求めたいのに恐ろしさからわたくしは動けず、口をはくはくと動かすことしかできません。
「質屋が言っていた通り、お前、気味の悪い外見をしているな。人ではないのだろう?」
彼はどこか恍惚とした笑みを浮かべて、わたくしに語り掛けます。曰く、人ならざる者であるわたくしが椛田の家にいたことで椛田に富が生まれていたに違いないと。椛田の座敷童でなくなったのなら、自分の家に来るが良いと。年頃も丁度いい、妻になって、富を運んでくれと。
わたくしが椛田の家に仕入れをせずとも良い宝石を与えていたのですから、いくら質が悪くなっていたとはいえ、椛田を栄えさせていたのがわたくしだというのは間違いではありません。しかし、わたくしは人の子です。椛田の家でそうであったように、物として扱われるのは、もう嫌なのです。
「わたくしにはもう、将来を捧げた相手がおります。それに、あなたの奥方はここにいるではありませんか」
声が震え、足も震えます。しかしわたくしは精一杯彼を見上げます。
「わたくしは物ではありません。生きたひとです。わたくしは、温かいひとたちの元で生きていたい」
座敷童のくせに、女のくせに生意気だな。彼はそう吐き捨てました。
「そこにいる馬鹿は、家を援助してくれと言われたから貰ってやっただけだ。なのに家も没落、価値がない。しかしお前には価値がある。どうやって富を運んでいたかは知らんが、宝石だって山ほど持っているのだろう? お前がいれば椛田に負けない富を築くことができる」
来い、来るんだ。そう言って彼はわたくしを引っ張ろうとします。わたくしがどうにか踏ん張ろうとしても、男の人の力は強く、わたくしはいとも簡単に引きずられてしまいます。こちらのことをはらはらと見つめていた凛と、目が合います。すると、瞬間、凛が弾かれたように背筋を伸ばしました。真っすぐに彼女は旦那様に向かって走り、えいと体当たりしました。わたくしも一緒に転びましたが、彼の手から逃れることは叶いました。
「翠子様は、わたくしの大切な人でございます。貴方のような人の心も持たぬ人に渡すわけにはいきませぬ。り、離縁、離縁でございます」
「なんだと――」
「家の体裁よりも、私はお嬢様の方が大切です。貴方の家よりも、ずっと」
「凛」
「逃げましょう、翠子様」
立ち上がったばかりのわたくしの手を掴み、凛は走り始めました。向かう先は桜燐様の屋敷です。傘も持たぬわたくしたちは雨に濡れ、ぬかるみはじめた土に着物の裾を汚しながら道を進みましたが、どこか心は晴れ晴れとしていました。
「ねえ、凛。良かったの? 後悔はしない?」
「分かりません。例え間違いだったとしても、あなたを選んだことだけは、悔いることはないでしょう」
「それじゃあ、桜燐様の屋敷で一緒に暮らしましょう。これで幼いころと一緒だわ」
「素敵ですね」
ぱしゃん、水たまりを踏むと水滴が跳ねました。それは泥を含んではいましたが、祝福のように柔らかな音を奏でます。
「桜燐様に挨拶しに行かねばなりませんね」
「今日は出かけると言っていたわ」
それなら屋敷で待つべきかとわたくしが思っていると、道の角を曲がったところに、見慣れた羽織が見えました。彼は自分の傘以外にも二つ傘を持ち、わたくしたちを待っているのです。その姿にほっと笑みがこぼれて、「桜燐様」と呼ぶと、彼は「二人とも無事かい?」とわたくしたちの姿を観察するのでした。
「凛。よく決意してくれた。そして、ようこそ」
「まあ。桜燐様、見えていたのですか?」
わたくしが拗ねたような態度を取りますと、彼はほんの少し眉を下げ、傘をわたくしたちに渡しました。その瞬間触れた指先の表面は冷たく、長く外にいたことが分かります。しかし、わたくしはその内側が温かいことを知っていました。
「俺の助けがなくとも、二人は飛び出してこられただろう?」
「その通りですが」
ぷうぷう頬をふくらますわたくしの頬を、凛がつつきます。空気がぷぅと口から抜けて、わたくしは思わずくすりと笑いました。
「さ、二人とも早く屋敷で温まろう。美味い茶を買ったんだ」
色違いの傘が、雨の中で揺れます。もうすぐ晴れるかしら。そんなわたくしの呟きに、桜燐様は「きっとそうだ」と返しました。



