神社の外を出ると、はらはらと散る桜は雪に変わります。この地方はあまり雪が降りませんので、雪の降り方は桜が散る様子に似ていて、空気が冷たいことを除けば心が躍るものでありました。

 頭巾が取れないように頭を押さえながら、粉雪の世界を駆けてゆきます。待ち合わせの茶屋の前には凛がすでに立っていて、わたくしを待っていました。

 あの日以来、わたくしは時折凛の元を訪れるようにしました。最初の数回は凛も戸惑っていたのですが、わたくしが無理に彼女を説得することはしなかったので、彼女はやがて安心して会ってくれるようになりました。
 わたくしは待つことにしたのです。凛がわたくしとの生活を選んでくれることを。自らの意思で、彼女を傷つける空間から抜けだすことを選ぶのを。本当のことを言うと、今すぐにでも彼女を説得して、桜燐様と住む屋敷に連れ帰りたいと思っているのですが、わたくしには幸せというものがよく分かりません。苦しいことを避けたいという、寂しいものが怖いという、どこか抗いがたい叫びの声があるだけです。
 ですから、桜燐様が言っていた「ひとの幸せはその人にしか分からない」という言葉を信じ、凛の考える幸せを想ってみることにしたのです。しかし痛いことも怖いこともすべて辛いでしょうから、せめて、凛の考える幸せの中にわたくしとの生活が入ることを願うことにしたのでした。

「来てくれてありがとう。家の方は大丈夫?」
「ええ、少しお茶をするくらいでしたら。翠子様こそ、家のことは大丈夫なのですか」
「桜燐様たちの昼餉の支度はしてきたわ。桜燐様も喜んで見送ってくださったわ」

 それなら良かったと、凛は微笑みます。わたくしも次第に生きるための気力を取り戻しつつあり、うめさんが食事の用意をしているところに混ざり、手伝うことが出来るようになってきました。その変化に桜燐様はたいそう喜んでくださって、外に向かおうとするわたくしに自然な笑顔を向けてくれます。そういった変化を知った凛の表情もまた綻ぶと知っていましたので、桜燐様とのやりとりは、かいつまんでではありますが、凛にも話すようにしていました。

「それで、今日はどこに行きたいのですか」
「あのね。いつも桜燐様にお世話になっているから、お礼がしたくて。買い物に付き合ってほしいの」
「そういうことでしたら、是非」

 凛に連れられ、商店街に向かいます。自分の足で買い物をする経験に乏しいわたくしはどこに行けばいいのかが分からず、いつも凛にぴたりとくっついていくようにして買い物をしてしまいます。しかし凛は必ずと言ってもいいほど、どこに行きたいのか、どこの店が気になるのかを訪ねてくれるのでした。

「買い物の前に、宝石を買い取ってくれるところに行きたいの」

 いつも通り尋ねられた時、わたくしが意を決して告げれば、凛は驚いたように足を止めました。

 わたくしがこれまで自由に使うことができたお金は、桜庭の家が管理しているものでありましたが、今日の買い物は桜燐様への贈り物です。誰かから与えられたお金で買うのではなく、自分の力で手に入れたお金で買いたいと思ったのです。凛はわたくしが風呂敷から取り出した宝石をしげしげと眺め、「家の箪笥から出てきたことにするのですよ」と言いました。

 凛と共に商店街を歩き、「宝石の買い取り」と看板に書いてある店に向かいました。店の中は妙齢の男性がひとりいるばかりで、あとは静かな空気が漂っています。わたくしが宝石を彼に差し出しますと、彼はぎょっとした様子で宝石用の虫眼鏡を取り出し、慌てて鑑定を始めました。あちこちから道具が取り出され、様々な方法で宝石が調べられていきます。

「嬢ちゃん、これほどの上質な宝石、どこから出てきたんだい?」
「い、家の箪笥から」

 買い取りに出した宝石は、寂しくてたまらなくなった時に零れた涙から生まれたものでした。お屋敷では良くしてもらっているのに関わらず、夜にひとり布団の中に転がっていると、どうしようもないほど寂しくなる時があり、堪えようとしても涙が止まらなくなるのです。
 喜びから零れる宝石は価値が高いものではありますが、悲しみや痛みから作られる宝石は濁ったものばかりが作られます。ならば寂しさから生み出されたものも、価値の高いものではないと思ったのです。

「これはベニトアイトだ。しかも宝石質。まだ原石だが、磨けば高値で取引される」

 商人はベニトアイトを丁寧に箱に仕舞いました。かちん、鍵の閉まる音がします。

「こんな軽々しく売りに来る宝石ではないぞ? どこの令嬢なんだい?」

 家が没落したんかい? それとも世間知らずなだけかい? 他にもあるんだろう、俺が見てやろう――。そういった言葉と共に彼がじりじりと迫ってきます。凛はこの状況が危険であると素早く気が付き、わたくしの手を掴みました。しかしわたくしの足はかちこちに固まって動かないのです。
 足にまとわりつくのは恐怖でした。家族以外の悪意を一身に浴びたことのなかったわたくしにとって、ひとが明確に悪意を持って迫ってくるのは、どうしようもないほど恐ろしいことだったのです。

「お嬢様ッ」

 凛が悲鳴を上げます。わたくしの名を商人に知られぬようにしてくれたことが分かりますが、それでもわたくしの足は動きませんでした。

 助けて。知らずのうちにわたくしのこころは叫んでいました。でも助けてって、誰に?
 心の中で問うた時、がらりと扉が開きました。からん、からん。下駄の音がして、わたくしの身体が急に動くようになりました。

「桜燐様」

 撫子色の羽織がわたくしの前に立ちました。細いけれど大きな背中がわたくしと商人の前に立ち、どこか険しい表情をうつします。わたくしが彼の羽織にしがみつきますと、柔らかな手が一瞬袖に触れ、また固く戻っていきました。

「俺の妻に何か用か」

 わたくしには桜燐様の後ろ姿しか見えませんでしたが、声に籠った怒気から、彼の表情が伺えるようでした。凛はほっとしたようにわたくしの頭を撫で、ゆっくりと争いの場からわたくしを引き離します。

「俺は何もしとらん、宝石を買い取ろうとしただけだ。それをこの女が勝手に」
「ただ買い取ろうとしただけならば、なぜこのように妻が怯えるのだ? 離れたところにいた俺にも伝わってきたぞ」

 商人は口論が得意ではないようでした。いいえ、桜燐様のおそろしさに気圧されているかもしれません。ともかく、商人はぐっと押し黙って、じっと桜燐様の後ろに隠れているわたくしを睨みつけた後、ベニトアイトを閉まっていた箱をもう一度開けました。それから渋々といった様子で代金を取り出し、桜燐様に押し付けます。わたくしに渡されたそれの額を確認しますと、贈り物を選ぶには十分すぎるほどのお金が入っているのでした。

「二人とも、行こう」

 桜燐様に促され、わたくしと凛は店の外に出ようとしました。戸をくぐるとまた柔らかな雪が降っていて、わたくしの手のひらをちいさく染めます。その光景のうつくしさに、空気の冷たさにほっと息を吐いた時、髪を強く引っ張られるような心地がしました。髪を掴まれたのは一瞬の出来事でしたが、頭巾をはがすのには十分な時間があり、わたくしはちいさく悲鳴を上げました。
 頭巾を取り返すために後ろを向くと、驚いたことに、桜燐様が商人の手を捻りあげようとしています。彼を止めなければ商人が怪我をしてしまうと思い、慌てて桜燐様の羽織を引きますが、桜燐様は頷いてくれません。そうしている間にも商店街を歩く人の目が昼間から起きている喧嘩に向けられ、それからわたくしの白い髪に向けられます。
 気味が悪い、そんな声が聞こえ、わたくしは自分の頭を抱えました。誰かの下駄が立てる音すら心地が悪く、しゃがみこんで耳を塞ぎますが、音はくぐもるばかりで消えてくれません。商人はそんなわたくしの様子を見たようで、彼もまた醜い女だと口にします。凛がわたくしの頭を隠し、桜燐様が商人から取り上げた頭巾を持ってわたくしの傍に座りますが、涙を堪えるのがやっとで、彼等の言葉がよく聞こえないのでした。

 わたくしはひとと同じ容姿を持つことができず、凛が何度も綺麗と言ってくれたのに関わらず、それを信じることの出来ない女です。母に罵られ、義弟にあざ笑われ、使用人に無造作に切られた髪。人間のものとは思えない、父に目を合わせて話すことを許されなかった瞳。それらはわたくしという存在の曖昧さをより一層際立て、異常なものに仕立て上げます。
 わたくしは己の容姿を憎んでいるというよりも、恐れていました。わたくしが正しくひとに生まれなかったことの証明のひとつであるからです。わたくしは外に出てはいけない存在なのだと改めて思い、「帰りたい」と呟きますと、凛が手早くわたくしに頭巾を被せ、桜燐様がわたくしを抱き上げました。

 うつくしいと思っていたはずの雪が、今は濁って見えました。


「翠子、うめが饅頭を買ってきてくれたぞ。食べるか」
「今は要りません」
「そうか」

 人々に髪と瞳を見られてから、わたくしは凛と別れ、桜燐様に抱えられたまま屋敷に戻ってきました。凛はわたくしのことを随分気にかけてくれていましたが、彼女は決まった時間までに帰らなければ虐げられてしまいます。わたくしのことはいい、と意地を張り、桜燐様の屋敷に戻ってから泣きました。桜燐様はその間ずっとわたくしの隣に座っていて、時折背をさすってくれたり、わたくしの瞳から生まれた宝石を撫でたり、なんでもないことのように静かに座っていたりしました。
 わたくしは彼が何も言わずに、わたくしの悲しみを受けいれてくれることにほっとして、また泣きました。そうしてわたくしが泣き止むと、彼はわたくしを安堵させるための笑顔を浮かべて、どこかに去っていきました。
 夜になり、桜燐様は屋敷に帰ってきたようでした。わたくしに食欲がないと知ると、迷ったように廊下を行き来して、今度は包みを抱えて部屋を訪れてきます。

「ひとは髪を美しく切り揃えることをする、らしいな」

 彼が抱えていたのは、先の細い鋏と桜の模様が彫られた櫛でした。どちらも上等なものと一目でわかるほど洗練された輝きを持つもので、わたくしがそれに驚いていますと、彼はおそるおそるわたくしの髪の先に触れました。
 ほどいた髪は毛先がばらばらに切られていて、あちこちが痛んで千切れています。それはわたくしのこれまでの生活を表すもので、羞恥と心の痛みに俯きますと、彼は「切ってもいいか」と慎重に訪ねてくるのでした。

「しかし、髪は女の命とも聞くしな。切らない方がいいのか?」
「いいえ。命とは磨くものでございましょう。桜燐様がしたいようになされば良い」

 そうか。桜燐様が呟き、切った髪が散らばらないように、下に紙が敷かれました。それから彼が鋏を握り、ちいさく息を吐きました。ばらばらの長さの毛先に鋏の刃が当てられ、ちゃきりと音が響きます。
 ちゃき、じょき、ちょきり。彼は慎重に、時に大胆に毛先を整えていきます。きっと髪を切ることを仕事にしている人間からすれば、危なっかしい手つきなのでしょうけれど、わたくしは自分の髪がひとの手によって整えられていくことに、感動に近いものを覚えていました。整えるために髪を切られるのは、幼いころ凛にしてもらって以来、ずっとなかったのです。鏡に手を伸ばせば、腰のあたりで髪は揃えて切られていて、つややかな光を零していました。

「昼間、つい、お前のことを『妻』と言ってしまったが、忘れてくれ」
「なぜですか」
「お前がどこかに行きたいと思った時に、行けなくなってしまう」

 後ろ髪を切り終わったのでしょう。一度鋏が置かれ、桜燐様がわたくしの前に回ってきました。それから目を閉じるように言われ、わたくしの前髪に手がかけられます。

「わたくしはどこにもいけぬ小鳥です。折れた翼をひとが癒してくれるのなら、優しいひとの場所が良い」

 ちょきり。鋏の音が響きます。

「桜燐様。あなたの手のひらは温かいのです。翼が折れていても、あなたの元でならもう一度羽ばたく夢を見られます」

 ちゃき。手元が狂わないように、彼が力んだのが分かりました。桜燐様は「そうか」とだけ呟いて、今度は何も語らずに、黙々と前髪を切ります。やがて彼はわたくしに目を開けるように言い、鏡を渡して去っていきました。どこか照れたような、悔いるような後ろ姿にお礼を言うと、桜燐様は半身で振り返って、視線だけわたくしに寄越すと、迷ったように自分の部屋に戻っていくのでした。