翌朝。桜燐様と共に街に出ると、外は灰色に染まっていました。重く垂れさがる雲が地上の色を変えてしまったかのように、きっと灰色ではなかったと思われるものまで鈍い色に染まって見えました。
椛田の家にいた頃は外に出たいと願っていたものですが、外の世界は存外に暗く、わたくしの頭の中で想像の羽を広げすぎていたことに気が付きます。しかしそれは凛を迎えに行こうとする緊張から来ているものだと分かったので、もっと晴れた日の、何も難しいことを考えなくていい日にまた来たら、きっと街は輝いて見えるのだろうと思いました。
一歩足を踏み出せば、子どもの声がします。もう一歩足を踏み出せば、夫婦の笑い声が聞こえます。椛田の家から出た日に街を通った日と同じように、どこか遠い場所での出来事のように感じられ、どこか悲しく思いました。しかし桜燐様がわたくしの肩を叩きましたので、わたくしは首を振りました。何でもないと示すように、ぎこちなく微笑んでみせます。
「行こう。あっちだ」
桜燐様もわたくしに似て異国の人のような出で立ちなのに、頭巾を被らずとも人の目を惹くことはありませんでした。まるでそこに誰もいないかのように人は彼のことを見ないのに、彼にぶつかる人は誰もおらず、そこに透明なものがあるかのように自然と避けていくのです。それはきっと神様の力と呼ばれるものなのでしょうけれど、わたくしは異能を与えられたとはいえ人の子。頭巾を被っている人自体は珍しくないのに関わらず、頭巾の中を覗き込むように、通りかかる人は皆わたくしの顔を覗き込もうとしてきます。それはよそ者に興味を持つ人の動きに似ていて、余計にわたくしは俯いてしまうのでした。そうすると今度は前を見るのが疎かになり、人にぶつかりそうになります。その度に桜燐様はわたくしの手を引き、何も恥じることは無いとでも伝えてくるようにそっと、わたくしの背を押すのでした。
しばらく街を歩き、桜燐様は街の大通りを二本外れたところで足を止めました。そこは寂れた風な平屋で、建付けの悪くなっているらしい扉の隙間から、ほんの少し中の色が見えていました。暗い、と感じました。
桜燐様は中の様子を察したようでした。これから起こることはお前は見なくても良い、辛かったら帰りなさいとわたくしに言い、まるで幼子に言い聞かせるように頭を撫でるのです。わたくしが思わずその手を掴み、「凛はわたくしの恩人です」と返しますと、彼は困ったように笑い、それからわたくしの意を汲んだように頷くと、凛の家の横に回り、耳を澄ませてご覧とでも言うような仕草をしました。大声が響いたのは、その瞬間でした。
「この愚図」
かしゃん、陶器がぶつかる音がしました。それからどたばたという足音が聞こえ、もう一度、罵声が響きました。
「日が暮れるまで中に入ってくるんじゃないよ。やはり盗人になるだけあるね、何もできやしない」
人が地面に倒れる音と、戸が乱暴に閉められる音が同時に響きました。わたくしが耐えきれずに飛び出しますと、地面に手をついた凛がわたくしを見ました。彼女はわたくしと桜燐様との間で視線をさ迷わせた後、そっと俯き、ぎゅうとその手を握りしめるのです。彼女の唇から小さな息が零れ、「どうして来たのですか」と問うてくるのでした。
「凛のことが、心配で」
「このような惨めな姿、誰にも見られたくないのですよ」
「ごめんなさい」
どうすればいいか分からず、わたくしは凛の傍に寄りました。地面に座り込んだままの彼女の前に膝をつき、手を差し出しますと、凛は「お着物が汚れてしまいます」と慌てました。しかしわたくしは立ち上がることが出来ませんでした。凛が虐げられていることが自分のように悲しくて、またわたくしが虐げられていたことを強く思い出させるもので、視界がぼんやりと歪んでしまうのです。
わたくしが涙を流すと気が付いた桜燐様がわたくしの傍にそっと座り、人の目から隠してくれます。そしてそれは凛も同じでした。わたくしの宝石が零れ落ちるところを誰にも見られないように、幼い頃にしてくれたように、わたくしの頭を包むように抱きしめてくれました。
「凛がつらい思いをしているのは、わたくしのせいだわ」
「昨日もお伝えしましたが、あなたのせいではございません」
「いいえ。わたくしがお父様とお母様の前で泣けば良かったのよ。そうすれば凛は二人に嫁入りの面倒を見てもらえたわ。こんなふうに、ひどい目に遭わなくて良かった」
「これは私が家のために飲んだことです。あなたが私を案じてくれているだけで、十分報われます」
凛が背をさすってくれます。本当はわたくしが彼女を慰めてあげなければならない番だというのに、彼女はわたくしのことばかり想ってくれているのです。それほど優しい彼女がどうしてこうも虐げられなくてはならないのでしょう。そう思ったら悔しくて、悲しくて、余計に涙が止まらなくなってしまいました。すると桜燐様が場所を移そうと良い、わたくしと凛に手を差し出します。その手を取った時、そっと包むように握られて、ほんの少しだけ、安心しました。
桜燐様がわたくしたち二人を連れて行ったのは、個室のある料理屋でした。見るからに高級そうな外装のそれにわたくしと凛が顔を見合わせますと、桜燐様が静かに微笑みました。
「ひとまず入ってご覧」
彼に促され暖簾をくぐると、「いらっしゃいまし」と鈴の鳴るような声がしました。その声を辿り、声の主の姿を確かめた時、わたくしと凛は同時に素っ頓狂な声を上げてしまいました。
「狐の、女の子」
そこに立っていたのは、ひとの顔に狐の耳を生やした少女でした。耳は彼女の動きに合わせて、ぴょんと立ったり左右に耳を澄ませたりするように動いていて、それが作り物ではないと示しています。こころなしか少女の鼻は高く、狐の鼻のように先が黒く見えます。目を白黒させているわたくしと凛に、なんでもないことのように彼女は微笑みかけ、それから静かにお辞儀をしました。
「ええ。私は化け狐のはつと申します。人間のお二人はさぞ驚かれたでしょう」
「化け狐、って、わたくしたちの目に見えるなんて」
「ふふ。案外、人ならざるものの姿は人に見えるものなのですよ。そこにいる神様だってあなたたちの目に見えているでしょう?」
わたくしと凛は顔を見合わせて頷きました。そう、わたくしたちはそういった人ではない存在があることを知っています。それが人の傍にあることを知ってはいるのですが、まさか自分たちの目に見えるところに在ると思いはしなかったのです。桜燐様と最初に出会った時も、神様という存在が自分の目の前に現れることに驚きを感じはしたのですが、あまりにも人に近い姿をしていたものですから、それを遠い存在のように思わなかっただけなのでした。
「すまない。俺の姿に驚かなかったから、はつのことも驚かないと思った」
「まったくもう、桜燐様ってば人の心に疎いのですから、よく考えてくださいまし」
はつさんはくすくすと笑った後、わたくしたちを奥の座敷に案内してくれました。その間にすれ違った仲居も狐の姿をしていて、ここは化け狐が営む料亭なのだと気が付きました。また、他の部屋から漏れる声からは人を蔑むものも称えるものもあり、それが人でない生き物たちがしている話なのだと分かります。
どうやらここは訪れる客も人ならざる者のようです。自分たちが場違いなところにいるような気がして、凛の袖を握りますと、彼女はわたくしの手を握ってくれました。そんなわたくしたちに気が付いた桜燐様は、そっと振り返って、安心してほしいと言うように微笑みます。
「ここは薬膳料理も出す店でな。それ以外の料理も美味い。病を治すのにも、力をつけるのにも良い」
桜燐様の言葉に、わずかに凛が身を乗り出す気配を感じました。どこか治したいところでもあるのかと考えて、彼女がなかなか子どもができないでいることを思い出しました。
「あらいやだ桜燐様。薬膳料理で有名だったのももう十年前の話ですわ。もしかして、目覚められたのは最近なのですか」
「そうだ。まだ一か月経たない」
「薬膳料理を作っていた爺様はもうとっくに隠居しておりますの。今ではごく普通の料亭です」
はつさんはわたくしたちの靴を戸棚に仕舞い、部屋に座らせました。
「そこのお姉さん、期待させてしまってごめんなさいね。でもね、爺様の薬膳でもあなたの病は治せないわ。せめて美味しい料理で癒されていってちょうだい」
はつさんは凛をじっと見つめて言いました。すると凛が目を見開き、それから静かに肩を落とします。彼女がうつむいた時、細い髪が流れ落ちていくのが見えました。桜燐様もまた凛を見つめて、そっと息を吐きました。
「私は子の出来ぬ病なのです」
凛がぽつりと呟くのと同時に、はつさんが部屋から出ていき、襖を閉めます。しんとした静寂と共に、凛が口を開きました。
凛が語り始めたのは、これまでの生活で起きた出来事と、夫が妾を囲っているということでした。姑は息子である夫が可愛くて仕方なく、凛を敵対視し、些細なことで嫌みを言い、理由をつけては家から追い出そうとするのだそうです。
凛は子どもが欲しいのに関わらず何年経っても子どもに恵まれず、家のためにと夫は妾を持つことになり、夫と妾の間に子どもが出来たことから、凛はなおさら姑に虐げられているのだと、彼女は目にうっすらと涙を浮かべて言うのでした。凛が夫に恵まれて幸せだと言っていたのは、わたくしを傷つけないための嘘だったのです。
「逃げ出した日もありました。しかし生家に見つかって、戻されました」
凛の生家である柚木の家は、凛が今の夫と結ばれていることで利益を得ていた過去があり、今は商家は潰れているものの、利益を与えてくれた家である皐月の家に泥を塗らないためにも、凛を皐月の家に置き続けているのだそうです。
「しかし私にもなくなった家を背負いたいという、矜持があるのです。もう逃げ出してはいけないのです」
そう言って凛は静かに唇を噛みました。わたくしがそっと手巾を差し出しますと、凛がそれをどこか恭しい動作で受け取りました。せめて子どもが出来れば、その唇が小さく動きました。
「子どもが出来れば姑は私を嫌うでしょう。しかし子どもがいれば、夫が妾を持つことはありませんでした。そして何より、私は子どもが欲しい」
凛が手巾を目元に当てます。わたくしがその背をさすりますと、凛がわずかに身をよじりました。慌てて手を離すと、彼女は一瞬、申し訳なさそうにわたくしを見ました。
「凛」
「逃げませんよ」
「どうしてわたくしの言いたいことが分かるの?」
「翠子様とはずっと一緒にいますから」
そう言って、凛はそっと微笑みました。
「桜燐様の元で女中として働いても良い、と言うのでしょう?」
「そうよ、桜燐様と話をして」
「でも、私は行きません」
「でも、凛」
凛がわたくしの幼い頃にそうしてくれたように、言い聞かせるようにわたくしの頭を撫でました。これはわたくしが何を言っても、凛は頷いてくれない。そういう合図です。たまに会いにきてくれたら励みになりますよ、そう言って、そっと目を細めました。
「その話だが」
今まで静かにわたくしたちの話を聞いていた桜燐様が、静かに口を開きます。手を握りしめたのか、着物がこすれる音がしました。
「凛。お前に謝らないといけないことがある」
桜燐様は彼の「罪」を語り始めます。彼の友人がいたずらで人の運命を変えていると聞いた時、凛は「私に子が出来ないのはそのせいなのですか」と尋ねました。
「いいや。お前のそれは違う。病なのか、心の問題なのかは俺には分からない」
「そう、ですか」
「俺の友がしたのは、お前の家の経営を傾けたことだ」
すまなかった、と桜燐様は頭を下げました。そして、お前の悩みを解決してやれなくてすまないと、もう一度頭を下げました。凛はわたくしが彼にそうしたように、頭を上げるように乞い、その瞳に涙を貯めます。それは自らの苦しみが誰かのせいであったことに対する安堵と憎しみと、それをぶつける相手が目の前にいないことに対する苛立ちと、これまでに受けた仕打ちに対する、深い悲しみが滲んだもののように見えました。
「私は耐えるより他にないようです」
「しかしお前の家はもうない。己を殺さずとも良いのだ」
桜燐様の一言に、凛は眉を寄せました。自らの矜持を傷つけられたことに対する怒りが籠ったそれを、整った顔の裏に隠して、彼女は上品に微笑みました。
「己を殺してでも家の名誉を守りたい、というのはおかしいでしょうか」
ひとりになりたいからここで失礼します、と凛はすっくと立ちあがりました。襖を開けた時、桜燐様がいつの間にか頼んでいたらしい天ぷらが運ばれてきて、凛は申し訳なさそうに部屋を出ていきます。はつさんがあらあらとその後ろ姿を目で追い、わたくしは凛の背を追って立ち上がりました。
「また、迎えに行くから」
凛が半分だけ振り返りました。それから困ったように笑って、何も言わずに去っていきます。後に取り残されたわたくしは、追うこともできず、部屋に戻ることもできず、ただ立ち尽くしていました。やがてはつさんに部屋に戻るように促され、桜燐様に天ぷらを食べるように勧められましたが、味がよく分かりませんでした。
「どうしたら凛を救い出せるのでしょう」
その日の夜、月の見える縁側でわたくしは桜燐様に問いました。うめさんが出してくれたお菓子にわたくしが淹れたお茶を用意し、冬の寒さに負けないように毛布を抱えます。すると桜燐様はわたくしのその姿を見て、この時期の気候は人間には寒いものだと気が付いたようで、火鉢をわたくしの傍に寄せてくれました。
「どれが凛にとっての幸せなのかは、凛にしか分からないからな」
「でも、このまま凛を苦しめるわけにはいきません」
そうだな、と桜燐様は微笑みました。そして凛の真似なのでしょうか、そっとわたくしの頭を撫でました。それは凛のために懸命になっているわたくしをねぎらうような優しさがありながらも、彼の友人のせいで凛が今苦しんでいることを謝罪するような躊躇いがあり、わたくしはそっと目を閉じました。
「凛を救いたいと思うのは、間違っているのでしょうか」
問いますと、桜燐様は困ったように笑います。なんとなく凛の去り際を思い出して、寂しさが胸の内に広がりました。
「これは自分への戒めなのだが、ひとの幸せはその人にしか分からないのだよ。他の人間には理解したくても理解できないことがある」
「しかしわたくしは桜燐様に救われました。人から与えられる救いというものは、思いもしない幸福を与えるものです」
そうだな。くしゃりと顔をゆがめて、桜燐様は微笑みました。今度はわたくしの頭を撫でる手が言い聞かせるような仕草を持ち、そっと髪を梳きました。
「とはいえ、誰かの幸せは他の者が決めつけるものではないのだ。お前は急ぎすぎている」
よく凛のことを考えるのだ。桜燐様がまっすぐな目で言います。
「それでも凛をあの家から出すのが正しいと思うなら、凛と話しなさい」
今日はもう休めと言うように、桜燐様が立ち上がりました。わたくしが慌ててその背を追いますと、桜燐様は「人の子にはもう遅い時間だ」と付け足します。
「あの、これだけ」
「なんだ」
「今日、桜燐様は人の心に疎いと言われていました。ですが、わたくしは違うと思うのです」
桜燐様の背中越しに、淡い月が見えました。その穏やかな光が彼の色の薄い髪を照らし、ちいさな光を零しています。わたくしはその様子をうつくしいと思いました。このお方が持つ輝きを支えて差し上げたいという気持ちが自然と湧き上がってきて、一歩、足を踏み出します。
「桜燐様はよく人の子のことを考えてくださっています。歩み寄ろうとしてくださっています。それをわたくしは疎いと思いません」
彼は驚いたように目を見開いて、しばらくの間わたくしを見つめました。薄い色の唇の間から白い歯が覗き、そっと息が吸い込まれます。やがて唇は静かに弧を描き、柔らかく崩れました。
「そう言うのはお前くらいだ」
わずかに顔を赤らめて、桜燐様は今度こそわたくしに背を向けました。お前も早く休めと手招きする手を追い、わたくしはほんの少しの距離を走ります。薄い色の月もわたくしを追いかけ、やがて障子の影に消えました。
椛田の家にいた頃は外に出たいと願っていたものですが、外の世界は存外に暗く、わたくしの頭の中で想像の羽を広げすぎていたことに気が付きます。しかしそれは凛を迎えに行こうとする緊張から来ているものだと分かったので、もっと晴れた日の、何も難しいことを考えなくていい日にまた来たら、きっと街は輝いて見えるのだろうと思いました。
一歩足を踏み出せば、子どもの声がします。もう一歩足を踏み出せば、夫婦の笑い声が聞こえます。椛田の家から出た日に街を通った日と同じように、どこか遠い場所での出来事のように感じられ、どこか悲しく思いました。しかし桜燐様がわたくしの肩を叩きましたので、わたくしは首を振りました。何でもないと示すように、ぎこちなく微笑んでみせます。
「行こう。あっちだ」
桜燐様もわたくしに似て異国の人のような出で立ちなのに、頭巾を被らずとも人の目を惹くことはありませんでした。まるでそこに誰もいないかのように人は彼のことを見ないのに、彼にぶつかる人は誰もおらず、そこに透明なものがあるかのように自然と避けていくのです。それはきっと神様の力と呼ばれるものなのでしょうけれど、わたくしは異能を与えられたとはいえ人の子。頭巾を被っている人自体は珍しくないのに関わらず、頭巾の中を覗き込むように、通りかかる人は皆わたくしの顔を覗き込もうとしてきます。それはよそ者に興味を持つ人の動きに似ていて、余計にわたくしは俯いてしまうのでした。そうすると今度は前を見るのが疎かになり、人にぶつかりそうになります。その度に桜燐様はわたくしの手を引き、何も恥じることは無いとでも伝えてくるようにそっと、わたくしの背を押すのでした。
しばらく街を歩き、桜燐様は街の大通りを二本外れたところで足を止めました。そこは寂れた風な平屋で、建付けの悪くなっているらしい扉の隙間から、ほんの少し中の色が見えていました。暗い、と感じました。
桜燐様は中の様子を察したようでした。これから起こることはお前は見なくても良い、辛かったら帰りなさいとわたくしに言い、まるで幼子に言い聞かせるように頭を撫でるのです。わたくしが思わずその手を掴み、「凛はわたくしの恩人です」と返しますと、彼は困ったように笑い、それからわたくしの意を汲んだように頷くと、凛の家の横に回り、耳を澄ませてご覧とでも言うような仕草をしました。大声が響いたのは、その瞬間でした。
「この愚図」
かしゃん、陶器がぶつかる音がしました。それからどたばたという足音が聞こえ、もう一度、罵声が響きました。
「日が暮れるまで中に入ってくるんじゃないよ。やはり盗人になるだけあるね、何もできやしない」
人が地面に倒れる音と、戸が乱暴に閉められる音が同時に響きました。わたくしが耐えきれずに飛び出しますと、地面に手をついた凛がわたくしを見ました。彼女はわたくしと桜燐様との間で視線をさ迷わせた後、そっと俯き、ぎゅうとその手を握りしめるのです。彼女の唇から小さな息が零れ、「どうして来たのですか」と問うてくるのでした。
「凛のことが、心配で」
「このような惨めな姿、誰にも見られたくないのですよ」
「ごめんなさい」
どうすればいいか分からず、わたくしは凛の傍に寄りました。地面に座り込んだままの彼女の前に膝をつき、手を差し出しますと、凛は「お着物が汚れてしまいます」と慌てました。しかしわたくしは立ち上がることが出来ませんでした。凛が虐げられていることが自分のように悲しくて、またわたくしが虐げられていたことを強く思い出させるもので、視界がぼんやりと歪んでしまうのです。
わたくしが涙を流すと気が付いた桜燐様がわたくしの傍にそっと座り、人の目から隠してくれます。そしてそれは凛も同じでした。わたくしの宝石が零れ落ちるところを誰にも見られないように、幼い頃にしてくれたように、わたくしの頭を包むように抱きしめてくれました。
「凛がつらい思いをしているのは、わたくしのせいだわ」
「昨日もお伝えしましたが、あなたのせいではございません」
「いいえ。わたくしがお父様とお母様の前で泣けば良かったのよ。そうすれば凛は二人に嫁入りの面倒を見てもらえたわ。こんなふうに、ひどい目に遭わなくて良かった」
「これは私が家のために飲んだことです。あなたが私を案じてくれているだけで、十分報われます」
凛が背をさすってくれます。本当はわたくしが彼女を慰めてあげなければならない番だというのに、彼女はわたくしのことばかり想ってくれているのです。それほど優しい彼女がどうしてこうも虐げられなくてはならないのでしょう。そう思ったら悔しくて、悲しくて、余計に涙が止まらなくなってしまいました。すると桜燐様が場所を移そうと良い、わたくしと凛に手を差し出します。その手を取った時、そっと包むように握られて、ほんの少しだけ、安心しました。
桜燐様がわたくしたち二人を連れて行ったのは、個室のある料理屋でした。見るからに高級そうな外装のそれにわたくしと凛が顔を見合わせますと、桜燐様が静かに微笑みました。
「ひとまず入ってご覧」
彼に促され暖簾をくぐると、「いらっしゃいまし」と鈴の鳴るような声がしました。その声を辿り、声の主の姿を確かめた時、わたくしと凛は同時に素っ頓狂な声を上げてしまいました。
「狐の、女の子」
そこに立っていたのは、ひとの顔に狐の耳を生やした少女でした。耳は彼女の動きに合わせて、ぴょんと立ったり左右に耳を澄ませたりするように動いていて、それが作り物ではないと示しています。こころなしか少女の鼻は高く、狐の鼻のように先が黒く見えます。目を白黒させているわたくしと凛に、なんでもないことのように彼女は微笑みかけ、それから静かにお辞儀をしました。
「ええ。私は化け狐のはつと申します。人間のお二人はさぞ驚かれたでしょう」
「化け狐、って、わたくしたちの目に見えるなんて」
「ふふ。案外、人ならざるものの姿は人に見えるものなのですよ。そこにいる神様だってあなたたちの目に見えているでしょう?」
わたくしと凛は顔を見合わせて頷きました。そう、わたくしたちはそういった人ではない存在があることを知っています。それが人の傍にあることを知ってはいるのですが、まさか自分たちの目に見えるところに在ると思いはしなかったのです。桜燐様と最初に出会った時も、神様という存在が自分の目の前に現れることに驚きを感じはしたのですが、あまりにも人に近い姿をしていたものですから、それを遠い存在のように思わなかっただけなのでした。
「すまない。俺の姿に驚かなかったから、はつのことも驚かないと思った」
「まったくもう、桜燐様ってば人の心に疎いのですから、よく考えてくださいまし」
はつさんはくすくすと笑った後、わたくしたちを奥の座敷に案内してくれました。その間にすれ違った仲居も狐の姿をしていて、ここは化け狐が営む料亭なのだと気が付きました。また、他の部屋から漏れる声からは人を蔑むものも称えるものもあり、それが人でない生き物たちがしている話なのだと分かります。
どうやらここは訪れる客も人ならざる者のようです。自分たちが場違いなところにいるような気がして、凛の袖を握りますと、彼女はわたくしの手を握ってくれました。そんなわたくしたちに気が付いた桜燐様は、そっと振り返って、安心してほしいと言うように微笑みます。
「ここは薬膳料理も出す店でな。それ以外の料理も美味い。病を治すのにも、力をつけるのにも良い」
桜燐様の言葉に、わずかに凛が身を乗り出す気配を感じました。どこか治したいところでもあるのかと考えて、彼女がなかなか子どもができないでいることを思い出しました。
「あらいやだ桜燐様。薬膳料理で有名だったのももう十年前の話ですわ。もしかして、目覚められたのは最近なのですか」
「そうだ。まだ一か月経たない」
「薬膳料理を作っていた爺様はもうとっくに隠居しておりますの。今ではごく普通の料亭です」
はつさんはわたくしたちの靴を戸棚に仕舞い、部屋に座らせました。
「そこのお姉さん、期待させてしまってごめんなさいね。でもね、爺様の薬膳でもあなたの病は治せないわ。せめて美味しい料理で癒されていってちょうだい」
はつさんは凛をじっと見つめて言いました。すると凛が目を見開き、それから静かに肩を落とします。彼女がうつむいた時、細い髪が流れ落ちていくのが見えました。桜燐様もまた凛を見つめて、そっと息を吐きました。
「私は子の出来ぬ病なのです」
凛がぽつりと呟くのと同時に、はつさんが部屋から出ていき、襖を閉めます。しんとした静寂と共に、凛が口を開きました。
凛が語り始めたのは、これまでの生活で起きた出来事と、夫が妾を囲っているということでした。姑は息子である夫が可愛くて仕方なく、凛を敵対視し、些細なことで嫌みを言い、理由をつけては家から追い出そうとするのだそうです。
凛は子どもが欲しいのに関わらず何年経っても子どもに恵まれず、家のためにと夫は妾を持つことになり、夫と妾の間に子どもが出来たことから、凛はなおさら姑に虐げられているのだと、彼女は目にうっすらと涙を浮かべて言うのでした。凛が夫に恵まれて幸せだと言っていたのは、わたくしを傷つけないための嘘だったのです。
「逃げ出した日もありました。しかし生家に見つかって、戻されました」
凛の生家である柚木の家は、凛が今の夫と結ばれていることで利益を得ていた過去があり、今は商家は潰れているものの、利益を与えてくれた家である皐月の家に泥を塗らないためにも、凛を皐月の家に置き続けているのだそうです。
「しかし私にもなくなった家を背負いたいという、矜持があるのです。もう逃げ出してはいけないのです」
そう言って凛は静かに唇を噛みました。わたくしがそっと手巾を差し出しますと、凛がそれをどこか恭しい動作で受け取りました。せめて子どもが出来れば、その唇が小さく動きました。
「子どもが出来れば姑は私を嫌うでしょう。しかし子どもがいれば、夫が妾を持つことはありませんでした。そして何より、私は子どもが欲しい」
凛が手巾を目元に当てます。わたくしがその背をさすりますと、凛がわずかに身をよじりました。慌てて手を離すと、彼女は一瞬、申し訳なさそうにわたくしを見ました。
「凛」
「逃げませんよ」
「どうしてわたくしの言いたいことが分かるの?」
「翠子様とはずっと一緒にいますから」
そう言って、凛はそっと微笑みました。
「桜燐様の元で女中として働いても良い、と言うのでしょう?」
「そうよ、桜燐様と話をして」
「でも、私は行きません」
「でも、凛」
凛がわたくしの幼い頃にそうしてくれたように、言い聞かせるようにわたくしの頭を撫でました。これはわたくしが何を言っても、凛は頷いてくれない。そういう合図です。たまに会いにきてくれたら励みになりますよ、そう言って、そっと目を細めました。
「その話だが」
今まで静かにわたくしたちの話を聞いていた桜燐様が、静かに口を開きます。手を握りしめたのか、着物がこすれる音がしました。
「凛。お前に謝らないといけないことがある」
桜燐様は彼の「罪」を語り始めます。彼の友人がいたずらで人の運命を変えていると聞いた時、凛は「私に子が出来ないのはそのせいなのですか」と尋ねました。
「いいや。お前のそれは違う。病なのか、心の問題なのかは俺には分からない」
「そう、ですか」
「俺の友がしたのは、お前の家の経営を傾けたことだ」
すまなかった、と桜燐様は頭を下げました。そして、お前の悩みを解決してやれなくてすまないと、もう一度頭を下げました。凛はわたくしが彼にそうしたように、頭を上げるように乞い、その瞳に涙を貯めます。それは自らの苦しみが誰かのせいであったことに対する安堵と憎しみと、それをぶつける相手が目の前にいないことに対する苛立ちと、これまでに受けた仕打ちに対する、深い悲しみが滲んだもののように見えました。
「私は耐えるより他にないようです」
「しかしお前の家はもうない。己を殺さずとも良いのだ」
桜燐様の一言に、凛は眉を寄せました。自らの矜持を傷つけられたことに対する怒りが籠ったそれを、整った顔の裏に隠して、彼女は上品に微笑みました。
「己を殺してでも家の名誉を守りたい、というのはおかしいでしょうか」
ひとりになりたいからここで失礼します、と凛はすっくと立ちあがりました。襖を開けた時、桜燐様がいつの間にか頼んでいたらしい天ぷらが運ばれてきて、凛は申し訳なさそうに部屋を出ていきます。はつさんがあらあらとその後ろ姿を目で追い、わたくしは凛の背を追って立ち上がりました。
「また、迎えに行くから」
凛が半分だけ振り返りました。それから困ったように笑って、何も言わずに去っていきます。後に取り残されたわたくしは、追うこともできず、部屋に戻ることもできず、ただ立ち尽くしていました。やがてはつさんに部屋に戻るように促され、桜燐様に天ぷらを食べるように勧められましたが、味がよく分かりませんでした。
「どうしたら凛を救い出せるのでしょう」
その日の夜、月の見える縁側でわたくしは桜燐様に問いました。うめさんが出してくれたお菓子にわたくしが淹れたお茶を用意し、冬の寒さに負けないように毛布を抱えます。すると桜燐様はわたくしのその姿を見て、この時期の気候は人間には寒いものだと気が付いたようで、火鉢をわたくしの傍に寄せてくれました。
「どれが凛にとっての幸せなのかは、凛にしか分からないからな」
「でも、このまま凛を苦しめるわけにはいきません」
そうだな、と桜燐様は微笑みました。そして凛の真似なのでしょうか、そっとわたくしの頭を撫でました。それは凛のために懸命になっているわたくしをねぎらうような優しさがありながらも、彼の友人のせいで凛が今苦しんでいることを謝罪するような躊躇いがあり、わたくしはそっと目を閉じました。
「凛を救いたいと思うのは、間違っているのでしょうか」
問いますと、桜燐様は困ったように笑います。なんとなく凛の去り際を思い出して、寂しさが胸の内に広がりました。
「これは自分への戒めなのだが、ひとの幸せはその人にしか分からないのだよ。他の人間には理解したくても理解できないことがある」
「しかしわたくしは桜燐様に救われました。人から与えられる救いというものは、思いもしない幸福を与えるものです」
そうだな。くしゃりと顔をゆがめて、桜燐様は微笑みました。今度はわたくしの頭を撫でる手が言い聞かせるような仕草を持ち、そっと髪を梳きました。
「とはいえ、誰かの幸せは他の者が決めつけるものではないのだ。お前は急ぎすぎている」
よく凛のことを考えるのだ。桜燐様がまっすぐな目で言います。
「それでも凛をあの家から出すのが正しいと思うなら、凛と話しなさい」
今日はもう休めと言うように、桜燐様が立ち上がりました。わたくしが慌ててその背を追いますと、桜燐様は「人の子にはもう遅い時間だ」と付け足します。
「あの、これだけ」
「なんだ」
「今日、桜燐様は人の心に疎いと言われていました。ですが、わたくしは違うと思うのです」
桜燐様の背中越しに、淡い月が見えました。その穏やかな光が彼の色の薄い髪を照らし、ちいさな光を零しています。わたくしはその様子をうつくしいと思いました。このお方が持つ輝きを支えて差し上げたいという気持ちが自然と湧き上がってきて、一歩、足を踏み出します。
「桜燐様はよく人の子のことを考えてくださっています。歩み寄ろうとしてくださっています。それをわたくしは疎いと思いません」
彼は驚いたように目を見開いて、しばらくの間わたくしを見つめました。薄い色の唇の間から白い歯が覗き、そっと息が吸い込まれます。やがて唇は静かに弧を描き、柔らかく崩れました。
「そう言うのはお前くらいだ」
わずかに顔を赤らめて、桜燐様は今度こそわたくしに背を向けました。お前も早く休めと手招きする手を追い、わたくしはほんの少しの距離を走ります。薄い色の月もわたくしを追いかけ、やがて障子の影に消えました。



