桜燐様は週の半分ほどを朝早くに出かけます。出かける前にわたくしの手を握り、まるで赦しを請うかのように目を閉じるので、わたくしはいつも桜燐様を恨んではいないのだと伝わるように、ぎこちなくではありましたが、微笑んでいました。

 桜燐様の屋敷に来てから二週間が経ち、わたくしの病が彼のご友人によって与えられた異能だということが、彼の仕草を見ているうちに現実味を持って理解できるようになってきました。
 これまでのつらかった生活は、わたくしが奇怪な病を持って生まれたからではなく、神の力をいたずらで与えられてしまったからなのだと思えば、恨む相手が出来たため、少しだけ楽になりました。
 桜燐様はご友人のしたことを自分のことのように責めますが、不思議とわたくしには、彼が憎いと思えないのです。しかしピィ太が英介に殺された時、わたくしは彼を助けられなかった自分を責めましたので、きっと彼も同じ気持ちでいるであろうことは分かるのでした。そしてまた、彼は何十何百という罪を背負っていると思っているのでしょうから、彼が苦しみの中にいることも、そこから少しでも救われたくて、償いをしようとしていることも分かってしまうのです。

 わたくしが今ここにいるのは、彼の償いのためです。言ってしまえば、彼が救われたいがためにわたくしは椛田の家から出されたのです。きっと彼がわたくしに優しいのも同じ理由で、わたくし自身を想っているかどうかは分かりません。しかしこの場所はわたくしを虐げることはないのです。桜燐様だけでなく、うめさんや他の付き人もわたくしの病を見ても驚くことはなく、白い髪と虹色の瞳を気味悪がることもありません。それは安寧と呼ぶのに相応しいものでしたので、わたくしは彼の救いのために利用されても良いと思っていました。

 庭の掃除くらいならばすることが出来るようになりましたので、わたくしはうめさんが屋敷の掃除をしている間に庭に落ちた葉を拾い、神社の境内に落ちたごみを拾っていました。
 朝の早い時間に神社にいるのは桜庭の者たちがほとんどなのですが、特に高齢の方は朝に好んで参拝する方もいるので、白い髪を見られないように頭巾を被ります。深く被っていれば目元も見えにくく、虹色を帯びた瞳も見えにくくなりますが、参拝者が話しかけやすい雰囲気が出ないようにそっと目を伏せて、黙々と箒でちりを掃いているのでした。

 境内が綺麗になり、また立っている気力が尽き始めましたので、屋敷の中に戻ろうとすると、ちょうど境内に女性が入ってきました。彼女に道を譲ろうとすると彼女が会釈をします。その時頭巾の中から彼女の顔の半分が見えて、わたくしは思わずちいさな声を上げていました。頭巾を被っていることがもどかしくなり、慌てて取りますと、彼女もまた声を上げて、たった二歩の間を駆け寄ってくれました。

「翠子様」
「凛」

 およそ十年ぶりに再会した女中は、共に暮らしていた頃と違い随分大人びていました。いいえ、あの頃が十代の後半でしたので、今はもう立派な大人の女性です。昔と同じ柔らかな眼差しでわたくしを見つめるところは変わらないまま、ふっくらとしていた頬はすっきりと細くなっていて、それが変わらないものと変わったものを表していました。

「翠子様、外に出られたのですね」
「凛とまた会えてうれしいわ」
「私もです」

 凛がおずおずとわたくしに手を伸ばし、幼い頃にそうしてくれたように、わたくしを抱きしめてくれました。それからわたくしの背をあやすように撫で、それから零れ落ちた涙を拭いました。

「わたくしのせいで、あなたは家から追い出されてしまったから。ずっとどうしているか心配していたの」
「いいえ。嫁入りするまでの間の奉公というのが最初の約束でしたから、翠子様が気にすることではありませんよ。それよりも、私はあなたのことを案じておりました」

 翠子はわたくしの涙から作られた宝石を見て、その美しさにちいさな息を漏らしました。肉眼で見た限りではありますが、傷や内包物が少なく大粒であるそれは、磨けばうつくしい宝石として扱われることでしょう。しかしそれはわたくしという存在に価値がまだあることを表していましたので、凛が怪訝な顔をしました。
 どうして椛田の家がわたくしを手放したのかが分からない、と思っていることがわたくしにも伝わってきます。

 凛を屋敷の中に招き、うめさんと一緒にお茶とお菓子を用意しました。わたくしは凛の近況を聞きたかったのですが、凛は旦那様に恵まれ、今は幸せに暮らしているとのことです。それなら良かったと安堵して、凛に急かされて、わたくしに何があったのかを話すことにしました。

「この神社に祀られている神様に、嫁入りしたの」

 凛はしばらくの間目を白黒させて、それを誤魔化すようにお茶を飲んでいました。やがて嫁入りと言われたことを理解して、「嫁入り?」と聞き返してきます。
 さすがに突拍子もない話ですので、椛田の家でひどく虐げられてきたことやうつくしい宝石が作れなくなったこと、不要とされた頃に桜燐様に迎えられ、今は客人として過ごしていることを話しますと、しばしの沈黙の後に、凛は「随分苦労なさって」と呟きました。

「私は奥様に何度も申し上げました。翠子様が特に美しい宝石を作るのは、良いことがあって涙を流した時だと」
「そうだったの?」

 お母様と凛が何か言い合いをしていることは思い出せるのですが、その内容までは思い出せません。それがわたくしに関することだったとすると、凛は大きな勇気をもってお母様に立ち向かってくれたことになります。

 凛はわたくしの宝石を取り上げるために雇われた女中でした。女学校を卒業してから嫁入りの間に、花嫁修業として子どもの面倒を見るという約束でわたくしの傍に置かれたようですが、お父様とお母様が求めたのは、わたくしの面倒ではなく宝石の面倒でした。しかし凛は、わたくしの面倒をよく見てくれたのです。
 お父様とお母様のように叩いて怒鳴ることで泣かせようとするのではなく、楽しいことや嬉しいことで流す涙を作ろうと努力し、感動する話でひとりで涙を流せるように、わたくしがもう叩かれることのないように、文字を教えてくれました。料理も掃除も褒めてくれるのは凛だけで、抱きしめてくれるのも、頭を撫でてくれるのも凛だけでした。

「思い出してみてください。先ほどの宝石は美しかったでしょう? きっと桜燐様に迎えられた時もそうだったのではありませんか」
「確かに、カレーライスを食べさせてくれた時の涙は美しかったわ」
「翠子様が幼い頃。私に料理を褒められたと、そう涙を流した時に作られた宝石がいっとう美しいものでした」

 凛がそう呟いた時、瞬間、わたくしの頭の中をひとつの思い出が駆け巡りました。厨房に立つには幼すぎる頃、作った煮魚を焦がしてお母様に叩かれ、わたくしは必死になって凛に料理を教えてほしいと頼んだことがあります。
 凛はわたくしが火傷をしないようにはらはらしながら厨房でわたくしを見守り、料理を教え、それから作ったものを「美味しい」と褒めてくれたのでした。どうして忘れていたのかと思うほど、わたくしの中で大切に抱えていたはずの、温かな思い出でした。

「思い出したわ」
「私は忘れたことはございません。その頃から、翠子様をお守りせねばと思っておりました」

 良い思い出は、苦しい時には薬にもなりますが毒にもなります。きっとわたくしはその思い出が自分を苦しめると思って、すぐには思い出せぬところに、記憶を追いやったのかもしれません。凛も同じことを思ったのかは分かりませんが、彼女は悔しそうに顔を歪め、それを飲み込むようにお茶をすすりました。わたくしも何を言えばいいか分からなくなり、菓子を摘まみます。

 凛が結婚を待たずに椛田の家から追い出されたのは、わたくしがお父様とお母様の前で泣かぬようになったからです。お父様たちの前では涙を堪え、凛の元でだけ泣き、慰めてもらっていました。しかし私を泣かせて宝石を取ることばかり考えているお父様とお母様は、自分たちの前で泣かぬようになったわたくしと、わたくしを慰めて、泣き止ませる凛が気に食わなかったようです。
 そこで凛が宝石を盗んだという嘘をついて騒ぎ立て、有無を言わせずに彼女を追いだしてしまいました。少ない荷物を背負った凛が、「守ってあげられなくてごめんなさい」と言って、悲しそうにわたくしの頭を撫でたことばかり、覚えています。

「椛田の家は、翠子様をずっと可愛がるべきでした」
「そうやって言ってくれたのは、凛だけだったわ」

 わたくしの返事に彼女は一度瞬きをして、それから静かに微笑みました。

「今は、そう言う人が他にいるのですね。桜燐様、でしょうか」
「どうかしら。でも、そう思ってくれているんじゃないかしら」

 迷いながら答えますと、凛は満足したようにお茶を飲みほし、それからもうそろそろ去らなければならないと告げて、立ち上がりました。わたくしと彼女は玄関で別れ、また会おうと約束しました。

「翠子様。また会えたことを嬉しく思います」
「また来てくれる?」
「ええ」

 彼女は神社で参拝してから帰ると言って、わたくしに背を向けました。しかしその背がひどく悲しそうなものに見えて、なんだか気がかりでした。



 その日。夜遅くに桜燐様は帰ってきました。わたくしはとうに食事を済ませた後でしたが、食事を摂る彼の近くに座り、彼に乞われるまま今日の出来事を話していました。

「そうか。お前に良くしてくれた人に会えたのだな」
「はい。とても嬉しかったです」

 桜燐様はとても疲れているようでした。微笑みかける動作は今朝よりもゆったりとしていて、笑おうとして笑っていることが分かります。瞳に混ぜられた桜色は影が落ちると濃くなったようにも茶色に溶けてしまったかのようにも見えますが、わたくしと凛との再会を心から喜んでくれているようでした。

「元気にしていたか?」
「今では旦那様に恵まれて、幸せに暮らしているそうです」

 桜燐様は「良かったな」と表情を緩めましたが、しかしその後に怪訝そうな顔をしました。それから何か合点のいったように表情を繕い、元のように微笑みます。わたくしにはそれが彼が何かを隠していることのように思えました。頭の中を、今日の凛の後ろ姿がよぎります。

「凛のことで何か?」
「いや、何でもない」

 彼は視線を下げましたが、その仕草がわたくしに何か隠している動作であることは分かってしまいます。もう一度同じ問いを繰り返し、「もしや桜燐様の償いに関係があるのではありませんか」と尋ねますと、彼は首を振りました。

「彼女は頻繁に参拝に来る者なのだ」
「彼女の願い事は何でしょう」

 まだ輿入れもしていなければ、彼にとって親しい人にもなりきれていない、ただの客人のわたくしが神様にこうも意見するのはおかしなことのように思えますが、凛はわたくしの恩人です。彼女が困っているとしたら、今度こそ力にならねばと思うのです。つい身体に力が入り、座りながらも少し腰が浮きました。

「凛はわたくしの家を盗人として追い出されました。何もしてないのに関わらず、です。きっとその後に影響もしたのでしょう」

 凛がそのために苦労しているのだとしたら、それはわたくしのせいなのです。たくさん優しくしてもらった分、彼女に返さなければなりません。そう告げれば、彼は観念したように項垂れました。

「実を言うと、凛にも償わなければならないことがあるのだ」

 彼が語り出したのは、凛の生家である商家が、彼の友人のいたずらで経営が傾いてしまった、ということでした。いたずらで傾けられた経営は人の力で戻すのは難しかったようで、数年かけてじわりじわりと状況が悪くなっていったようです。
 あっという間に崩れなかったのは凛のお父様の手腕と言うべきなのでしょうけれど、盗人として椛田の家を追い出された凛は、生家に戻るとすぐに金持ちの商家に嫁に出されてしまったそうです。わたくしと同じように、お金のために。

「しかし相手が悪くてな。子さえできれば何でも良いという主人と、息子を嫁に取られたくないという姑がいるのだ」
「凛もまた、虐げられているのですか」
「なかなか子に恵まれないようでな。今は子が出来ないという理由で姑に虐げられているようだが、子が宿ればもっとひどくなるだろう」

 凛が参拝していた理由が分かりました。彼女もまた、救いを求めてこの神社に来たのです。願い事は姑から解放されたい、ということかもしれませんし、子が出来ないように、というものかもしれません。凛はきっと子どもが好きでしょうから、どうにかして子どもが欲しい、というものかもしれません。子を授かっても授からなくても、義家族から厳しく当たられる彼女が気の毒でなりません。どうにかしてあげられませんか、と桜燐様に問いますと、彼は眉を顰めました。

「凛が逃げようとも、旦那に捨てさせようとも、汚名を被るのは凛だ。俺の力では時を巻き戻すこともできない」
「ですが」
「しかし、幸いというべきかなんと言うべきか、もう彼女の生家は商家を畳んでいる。彼女が守る家はもうない」

 凛の生家にも償いをせねばならんな。彼はそう呟き、味噌汁を口に含みました。一瞬、彼の顔が安心したように緩みます。

「彼女が逃げたとしても、傷つく家はもうないのだ」

 そうですか。わたくしはそう呟くほかにありませんでした。一度旦那様から逃げた花嫁に、再び嫁入りする先はあるのでしょうか。嫁入りせずにひとりで生きていくとして、女の働き先など限られています。そう考えると、凛がひとりで生きていくのは、簡単なことではないように思えてきます。

「せめて、住み込みの女中を求めているところがあれば」

 わたくしの呟きに、桜燐様は「あるぞ」と微笑みました。

「ちょうどお前付きの女中を探そうと思っていたところだ。凛がもし行く場所がないと言うのなら、この屋敷に来て貰うこともできる」
「本当ですか」
「ああ」
「ありがとうございます」

 桜燐様に深々と頭を下げると、彼は何でもないことのように笑みを浮かべます。これで凛に行く先を示すことが出来ます。無鉄砲に手を取るように言っても、彼女が家を守る定めを背負っていたのなら、決して頷いてくれることはないでしょう。しかし彼女の生きる道が他にあるのなら。わたくしが椛田の家から出してもらえたように、凛を家というしがらみから解き放つことが出来るのなら、それはきっと悪いことではないと思うのです。

「しかし桜燐様。あなたが救いたい人は他にもたくさんいるはずです。わたくしの時もそうでしたが、救いたい人を拾っては嫁や女中にしていたら、きりがないのではありませんか」

 わたくしの問いに、桜燐様は一瞬、目を見開きました。それから先ほどと同じ微笑みに表情を戻して、「ただお前に償いをするためだけに、輿入れさせようとしたわけではない」と言うのです。わたくしがそれに首を傾げますと、彼はお茶をもう一杯くれとうめさんに言い、話を逸らしてしまいました。
 彼がほんの少し目を伏せたのを見て、それはきっと彼がまだ秘密にしていたいことなのだと思い、わたくしは何も言わないことにしました。それがわたくしにとって必要なことならば、いつかきっと彼は話してくれるに違いないと、これまで彼を見ていて思うのです。

「拾うのは、わたくしと凛だけでしょうか」
「拾う、というのは語弊があるな」
「では、なんと」

 問いますと、桜燐様は困ったように眉を寄せました。それからしばらくの間黙り込んでしまい、「なんだろうな」と呟きます。それはきっと彼の中でも言葉にしがたいものだったようですが、「拾うのはお前たちだけだ」と付け足しましたので、それを信じることにしました。