料理も掃除洗濯もなんでもします。そう言ったくせに、わたくしの身体は言うことをきかず、うめさんが炊事をしているところに混ざることもできず、自分の部屋の掃除すらままならない生活を送っていました。
朝餉が出来たと伝えられてやっと布団から起き上がり、身支度も整えないまま桜燐様と食事をします。食事が終わればまた部屋に戻り、また布団に潜ったり、いくらかの元気があれば読書にふけったり、その途中でうたた寝したりするような、自分の身体に振り回される生活です。
桜燐様やうめさん、他の付き人がわたくしの自堕落な暮らし方に呆れるのではないかと、何度も起き上がろうとしましたが、うめさんはわたくしが家事をしようとするのをやんわりと止め、桜燐様はわたくしが寝転がってばかりの生活で退屈しないようにと、本を手に入れては渡してくれました。
桜燐様が与えてくれる本は、話題の作家の小説から西洋から入ってきた物語を翻訳したもの、学術書まで幅広くありました。きっと何の本か分からずに買ってきたのでしょうけれど、女に学問は要らないと言って、英介の本を読むわたくしを怒鳴ったお父様とは違いました。本を与えられるたびに、彼はわたくしの生き方を縛ることはしないのではないかと、思うようになりました。
わたくしが彼にとっての客人ではなくなっても、わたくしの意思や生き方を尊重してくれるようなところは変わらないのではないかと、そう感じました。
ある日、わたくしが昼前にうたた寝から目を覚ましますと、厨房がにわかに騒がしいことに気が付きました。うめさんは朝餉の用意の際に昼餉の用意までしてしまいますので、昼餉はいつも温めるだけで良いのですが、厨房のあたりから物音や話し声がします。
わたくしもこの誰からも虐げられず、ただ温かみだけを与えられる生活に安寧というものを見出し始めていたので、椛田の家から出てから時間が経ち始めている今では、あまり気力を必要とせずとも屋敷の中を歩くことが出来るようになっていました。
浴衣のままでしたが、部屋からそっと出て厨房に向かいます。そろそろ手伝うと言おう、料理を一緒にしようと思い、縁側を歩くと、次第にうめさんと桜燐様のやりとりが聞き取れるようになってきました。それから、日輪の料理にはない、独特の香りが漂っています。
「主様、さすがに肉が大きすぎるのではありませんか」
「しかしごろごろとした肉が食べ応えがあるのだろう?」
「そうは言いましたが、これでは匙に乗りませぬ」
「むぅ」
「肩肉ならば煮込んでいるうちに柔らかくなります。煮込み始めていますし、これはもう気合で煮込みましょう」
「俺が使ったのは肩肉だったのか」
「主様、自分で買いに行ったのではありませんでしたか」
「俺は『かれえらいす』に合う肉をくれと肉屋に言っただけで」
「あっ主様、火が強すぎます。焦げています」
「おや、良い香りというものではなかったのか」
「これは焦げている匂いです」
鍋の底をかき回そうとする桜燐様を、うめさんが慌てて止めています。
足音を殺すのは得意でしたので、そっと気が付かれないように厨房を覗き込みますと、慣れない手つきで調理をしている桜燐様と、それを見守るうめさんがいました。桜燐様は冬だというのに汗をかいていて、うめさんの表情は面に隠れていて見えませんが、きっと不安そうなのだろうということは分かります。
カレーライス、というものはわたくしも椛田の家にいた時に何度か作ったことがありましたが、よく味は覚えていません。そう言いますと食べたのが随分前のことのように聞こえるでしょうが、数か月前の話です。わたくしはただ死なないように生きることで精いっぱいだったもので、食べ物の味に心を寄せる余裕がなかったのでした。
「養生するには肉と美味いものだと、廉太郎が言っていたのに」
「味は保証が出来ないものになりましたねえ」
「そうはっきり言ってくれるな」
「翠子様、椛田の家で何を食べていたのでしょうね。弟君と同じものを食べていたらきっと美味しいカレーライスを食べていますよ」
「女中と同じだっただろうか、どうだろうな」
「あの様子だと、美味しいものを美味しいと思う余裕もなかったとは思いますが」
「だから美味いものを食べさせてやりたいのだが」
わたくしの名前を出されたことに驚いて、しばらく二人のやりとりをじっと聞いていたのですが、なんと、桜燐様が作っているカレーライスは、わたくしのためのものだったようです。それもきっと料理をしたことがほとんどないでしょうに、彼は一生懸命に最近日輪で食べられるようになった、まだ珍しいものを作ってくれているのです。それはわたくしが床に臥せってばかりなのを慮って、少しでも元気を出してほしいという彼の気遣いで、わたくしは思わず息を吐きました。わたくしのために何かしてくれる人がいることに驚いて、久しくして与えられたその優しさに、ほんの少しの愛おしさを覚えました。
「おや、るぅとやらが飛んだ」
「あらあら、勢いよく回しすぎですよ」
床に飛び跳ねたルゥを拭こうとうめさんがしゃがみこみ、姿を隠し損ねたわたくしと目が合いました。それからうめさんはその場で固まったように動かなくなり、それから我に返って、「翠子様」と叫びました。
「ご、ごめんなさい、覗き見してしまって」
「い、いえ、それは構わないのです。しかし、その」
きっと、わたくしの話をわたくしがいると思わずにしてしまった罪悪感からでしょう。桜燐様もぎこちない動作で振り返って、それからすまなそうに視線を下げました。しかしそのやりとりがわたくしを心配していたためにされたものだということは分かっていましたので、わたくしは特に怒ったり悲しんだりすることはありませんでした。むしろ、わたくしを驚かせるつもりで作っていたであろうものを、覗き見てしまったことに対する申し訳なさがあり、彼等を安心させるために笑おうとしました。
「その。不思議な香りがしたので」
「食べたことあるか。かれえらいす」
「ありますが、味はよく覚えていません」
はやりそうか、と言いたげに二人が一瞬顔を見合わせました。しかし彼らの顔はすぐにわたくしに向き直り、うめさんは桜燐様をつつきました。
「主様ったら、自分で作ると言ってきかないのですよ。料理ははじめてですのに」
「いや、百年前に一度したことが」
「百年前ではもう忘れているでしょうに。ねえ、私を最初から巻き込んでもらえれば翠子様に美味しいものを食べさせてあげられましたのに」
「次からはうめに最初から手伝ってもらうことにする」
「そうなさいませ」
わたくしが笑えばいいのか神妙な顔をすればいいのかと迷っておりますと、桜燐様は恥ずかしそうに微笑み、わたくしの目を見ました。笑っていいのだとわたくしが気が付いて、ぎこちなく笑みを浮かべると、彼はどこか満足そうにうなずきました。
「待たせたな」
結果として、カレーライスが出来上がったのはそれから一時間後のことでした。居間に座ったわたくしの前に運ばれたのは焦げた匂いのする、肉や野菜の大きさがひどくばらばらの、どの食材も匙に乗る大きさではない、食べにくく味も良くないことが分かるものでした。しかしわたくしはそれを美味しそうだと思いました。桜燐様の、うめさんの親切で作られたそれです。例えどれほど不味いものであっても、わたくしの心が喜ぶことは分かっていました。
「いただきます」
同じく焦げたかれえらいすを囲む桜燐様とうめさんが、わたくしの様子をじっと見つめています。彼等は自分たちがそれを食べることを忘れ、わたくしの反応を伺っているのでした。カレーライスを一口分さじにすくい、口に運びますと、まず苦い味が口の中に広がりました。続いてすぱいすの独特の香りが鼻をくすぐって、それから身体に染み渡るような、優しい甘さが広がります。たまねぎをじっくり炒めると甘くなると本で見たことを思い出して、桜燐様が手をかけてそれを作ってくれたことを知りました。
「泣くほど不味かったか。すまない」
桜燐様がしおらしく項垂れましたので、わたくしが何のことかと思い目元に手をやると、硬いものが指先を掠めました。膝の上に目をやれば、淡い桜色をした大粒の宝石や、濃い桃色をした宝石がそこに転がっています。わたくしがそれを摘まみ上げ、「わたくしは、泣いているのですか」と呟けば、桜燐様は半ば慌てたように頷きました。
「その。美味しくて」
喜びで涙が出るだなんて、十六年生きている間にありませんでした。わたくしを可愛がってくれた女中がまだ椛田の家にいた頃はあったかもしれませんが、もう記憶は薄れ、覚えていることは多くありません。少なくとも、わたくしが記憶している出来事の中ではひとつもないのです。
喜びで零れる宝石はどんなものなのだろうと光に透かすと、透き通るものが価値の高い宝石では透き通るような色を、色の濃いものが価値の高いものは色濃く鮮やかな色をしているのでした。
綺麗だな、と桜燐様が呟きます。それからわたくしがカレーライスを喜んだことに安堵し、自分も食べ始めるのでした。
宝石を生み出した後に取り上げられなかったのが初めてで戸惑っていると、桜燐様はそれに気が付いたようで、「その宝石はお前のものだ」と言いました。
「わたくしのもの、でいいのですか」
「それはお前の涙から生まれたものだ。お前が与えると決めない限りはお前のものだ」
改めてわたくしの宝石を眺めますと、ここ数年に生み出したものの中で一番うつくしいように思えました。いいえ、わたくしがこれまで生み出したものの中で最もうつくしいかもしれません。特に気に入ったおそらくルベライトであるものを見つめますと、それは鮮やかな光を放っています。それが自分のものになったのだと思うと、温かくなったこころにまた柔らかな陽が射しこまれたようで、自然と口角が上がりました。
「翠子の体調が良くなったら、宝石市に行こう。気に入ったものをひとつ、装飾品に仕立ててもらうのはどうだろう」
「良いのですか」
宝石がわたくしのものになるだけでなく、装飾品になるだなんて。今まで取り上げられていた宝石が装飾品として返ってきたことなどありませんから、わたくしは思わず聞き返していました。わたくしが目を白黒させる様子に彼はちいさく微笑んで、それから「良いとも」と頷きました。その言葉と微笑みが嬉しくて、わたくしは彼に感謝の言葉を繰り返します。
「気にするな。そうだ、温かいうちにかれえらいすを食べよう」
「はい」
また一口二口と匙を進めると、先ほどよりも美味しいかれえらいすの味が口の中に広がりました。
朝餉が出来たと伝えられてやっと布団から起き上がり、身支度も整えないまま桜燐様と食事をします。食事が終わればまた部屋に戻り、また布団に潜ったり、いくらかの元気があれば読書にふけったり、その途中でうたた寝したりするような、自分の身体に振り回される生活です。
桜燐様やうめさん、他の付き人がわたくしの自堕落な暮らし方に呆れるのではないかと、何度も起き上がろうとしましたが、うめさんはわたくしが家事をしようとするのをやんわりと止め、桜燐様はわたくしが寝転がってばかりの生活で退屈しないようにと、本を手に入れては渡してくれました。
桜燐様が与えてくれる本は、話題の作家の小説から西洋から入ってきた物語を翻訳したもの、学術書まで幅広くありました。きっと何の本か分からずに買ってきたのでしょうけれど、女に学問は要らないと言って、英介の本を読むわたくしを怒鳴ったお父様とは違いました。本を与えられるたびに、彼はわたくしの生き方を縛ることはしないのではないかと、思うようになりました。
わたくしが彼にとっての客人ではなくなっても、わたくしの意思や生き方を尊重してくれるようなところは変わらないのではないかと、そう感じました。
ある日、わたくしが昼前にうたた寝から目を覚ましますと、厨房がにわかに騒がしいことに気が付きました。うめさんは朝餉の用意の際に昼餉の用意までしてしまいますので、昼餉はいつも温めるだけで良いのですが、厨房のあたりから物音や話し声がします。
わたくしもこの誰からも虐げられず、ただ温かみだけを与えられる生活に安寧というものを見出し始めていたので、椛田の家から出てから時間が経ち始めている今では、あまり気力を必要とせずとも屋敷の中を歩くことが出来るようになっていました。
浴衣のままでしたが、部屋からそっと出て厨房に向かいます。そろそろ手伝うと言おう、料理を一緒にしようと思い、縁側を歩くと、次第にうめさんと桜燐様のやりとりが聞き取れるようになってきました。それから、日輪の料理にはない、独特の香りが漂っています。
「主様、さすがに肉が大きすぎるのではありませんか」
「しかしごろごろとした肉が食べ応えがあるのだろう?」
「そうは言いましたが、これでは匙に乗りませぬ」
「むぅ」
「肩肉ならば煮込んでいるうちに柔らかくなります。煮込み始めていますし、これはもう気合で煮込みましょう」
「俺が使ったのは肩肉だったのか」
「主様、自分で買いに行ったのではありませんでしたか」
「俺は『かれえらいす』に合う肉をくれと肉屋に言っただけで」
「あっ主様、火が強すぎます。焦げています」
「おや、良い香りというものではなかったのか」
「これは焦げている匂いです」
鍋の底をかき回そうとする桜燐様を、うめさんが慌てて止めています。
足音を殺すのは得意でしたので、そっと気が付かれないように厨房を覗き込みますと、慣れない手つきで調理をしている桜燐様と、それを見守るうめさんがいました。桜燐様は冬だというのに汗をかいていて、うめさんの表情は面に隠れていて見えませんが、きっと不安そうなのだろうということは分かります。
カレーライス、というものはわたくしも椛田の家にいた時に何度か作ったことがありましたが、よく味は覚えていません。そう言いますと食べたのが随分前のことのように聞こえるでしょうが、数か月前の話です。わたくしはただ死なないように生きることで精いっぱいだったもので、食べ物の味に心を寄せる余裕がなかったのでした。
「養生するには肉と美味いものだと、廉太郎が言っていたのに」
「味は保証が出来ないものになりましたねえ」
「そうはっきり言ってくれるな」
「翠子様、椛田の家で何を食べていたのでしょうね。弟君と同じものを食べていたらきっと美味しいカレーライスを食べていますよ」
「女中と同じだっただろうか、どうだろうな」
「あの様子だと、美味しいものを美味しいと思う余裕もなかったとは思いますが」
「だから美味いものを食べさせてやりたいのだが」
わたくしの名前を出されたことに驚いて、しばらく二人のやりとりをじっと聞いていたのですが、なんと、桜燐様が作っているカレーライスは、わたくしのためのものだったようです。それもきっと料理をしたことがほとんどないでしょうに、彼は一生懸命に最近日輪で食べられるようになった、まだ珍しいものを作ってくれているのです。それはわたくしが床に臥せってばかりなのを慮って、少しでも元気を出してほしいという彼の気遣いで、わたくしは思わず息を吐きました。わたくしのために何かしてくれる人がいることに驚いて、久しくして与えられたその優しさに、ほんの少しの愛おしさを覚えました。
「おや、るぅとやらが飛んだ」
「あらあら、勢いよく回しすぎですよ」
床に飛び跳ねたルゥを拭こうとうめさんがしゃがみこみ、姿を隠し損ねたわたくしと目が合いました。それからうめさんはその場で固まったように動かなくなり、それから我に返って、「翠子様」と叫びました。
「ご、ごめんなさい、覗き見してしまって」
「い、いえ、それは構わないのです。しかし、その」
きっと、わたくしの話をわたくしがいると思わずにしてしまった罪悪感からでしょう。桜燐様もぎこちない動作で振り返って、それからすまなそうに視線を下げました。しかしそのやりとりがわたくしを心配していたためにされたものだということは分かっていましたので、わたくしは特に怒ったり悲しんだりすることはありませんでした。むしろ、わたくしを驚かせるつもりで作っていたであろうものを、覗き見てしまったことに対する申し訳なさがあり、彼等を安心させるために笑おうとしました。
「その。不思議な香りがしたので」
「食べたことあるか。かれえらいす」
「ありますが、味はよく覚えていません」
はやりそうか、と言いたげに二人が一瞬顔を見合わせました。しかし彼らの顔はすぐにわたくしに向き直り、うめさんは桜燐様をつつきました。
「主様ったら、自分で作ると言ってきかないのですよ。料理ははじめてですのに」
「いや、百年前に一度したことが」
「百年前ではもう忘れているでしょうに。ねえ、私を最初から巻き込んでもらえれば翠子様に美味しいものを食べさせてあげられましたのに」
「次からはうめに最初から手伝ってもらうことにする」
「そうなさいませ」
わたくしが笑えばいいのか神妙な顔をすればいいのかと迷っておりますと、桜燐様は恥ずかしそうに微笑み、わたくしの目を見ました。笑っていいのだとわたくしが気が付いて、ぎこちなく笑みを浮かべると、彼はどこか満足そうにうなずきました。
「待たせたな」
結果として、カレーライスが出来上がったのはそれから一時間後のことでした。居間に座ったわたくしの前に運ばれたのは焦げた匂いのする、肉や野菜の大きさがひどくばらばらの、どの食材も匙に乗る大きさではない、食べにくく味も良くないことが分かるものでした。しかしわたくしはそれを美味しそうだと思いました。桜燐様の、うめさんの親切で作られたそれです。例えどれほど不味いものであっても、わたくしの心が喜ぶことは分かっていました。
「いただきます」
同じく焦げたかれえらいすを囲む桜燐様とうめさんが、わたくしの様子をじっと見つめています。彼等は自分たちがそれを食べることを忘れ、わたくしの反応を伺っているのでした。カレーライスを一口分さじにすくい、口に運びますと、まず苦い味が口の中に広がりました。続いてすぱいすの独特の香りが鼻をくすぐって、それから身体に染み渡るような、優しい甘さが広がります。たまねぎをじっくり炒めると甘くなると本で見たことを思い出して、桜燐様が手をかけてそれを作ってくれたことを知りました。
「泣くほど不味かったか。すまない」
桜燐様がしおらしく項垂れましたので、わたくしが何のことかと思い目元に手をやると、硬いものが指先を掠めました。膝の上に目をやれば、淡い桜色をした大粒の宝石や、濃い桃色をした宝石がそこに転がっています。わたくしがそれを摘まみ上げ、「わたくしは、泣いているのですか」と呟けば、桜燐様は半ば慌てたように頷きました。
「その。美味しくて」
喜びで涙が出るだなんて、十六年生きている間にありませんでした。わたくしを可愛がってくれた女中がまだ椛田の家にいた頃はあったかもしれませんが、もう記憶は薄れ、覚えていることは多くありません。少なくとも、わたくしが記憶している出来事の中ではひとつもないのです。
喜びで零れる宝石はどんなものなのだろうと光に透かすと、透き通るものが価値の高い宝石では透き通るような色を、色の濃いものが価値の高いものは色濃く鮮やかな色をしているのでした。
綺麗だな、と桜燐様が呟きます。それからわたくしがカレーライスを喜んだことに安堵し、自分も食べ始めるのでした。
宝石を生み出した後に取り上げられなかったのが初めてで戸惑っていると、桜燐様はそれに気が付いたようで、「その宝石はお前のものだ」と言いました。
「わたくしのもの、でいいのですか」
「それはお前の涙から生まれたものだ。お前が与えると決めない限りはお前のものだ」
改めてわたくしの宝石を眺めますと、ここ数年に生み出したものの中で一番うつくしいように思えました。いいえ、わたくしがこれまで生み出したものの中で最もうつくしいかもしれません。特に気に入ったおそらくルベライトであるものを見つめますと、それは鮮やかな光を放っています。それが自分のものになったのだと思うと、温かくなったこころにまた柔らかな陽が射しこまれたようで、自然と口角が上がりました。
「翠子の体調が良くなったら、宝石市に行こう。気に入ったものをひとつ、装飾品に仕立ててもらうのはどうだろう」
「良いのですか」
宝石がわたくしのものになるだけでなく、装飾品になるだなんて。今まで取り上げられていた宝石が装飾品として返ってきたことなどありませんから、わたくしは思わず聞き返していました。わたくしが目を白黒させる様子に彼はちいさく微笑んで、それから「良いとも」と頷きました。その言葉と微笑みが嬉しくて、わたくしは彼に感謝の言葉を繰り返します。
「気にするな。そうだ、温かいうちにかれえらいすを食べよう」
「はい」
また一口二口と匙を進めると、先ほどよりも美味しいかれえらいすの味が口の中に広がりました。



