ピィ太を殺されてから、わたくしは朝に起き上がることができなくなりました。女中に叩き起こされるまで布団の中から起き上がることが出来なくなり、なんとか起き上がっても動くのにひどく気力が要り、すぐに涙と共に蹲ってしまうのでした。
 宝石の質はどんどん悪くなっているようで、涙がたくさん流れても、お父様はため息をつき、お母様は嘆くばかりでした。英介は彼の言った通り、しばらくの間わたくしを虐げるのをやめるように皆に言ったようでしたが、だからと言ってわたくしの扱いが変わるわけではありませんでした。
 確かに手を上げられることは減りましたが、うつくしい宝石を生み出せないわたくしは、ただ気味が悪いだけの厄介者でしかないのです。英介は満足と焦りを混ぜた様子でわたくしを見つめ、時折わたくしの髪を撫でました。しかしわたくしの心に決定的な杭を打ち込んだのは彼でしたので、わたくしは顔を合わせるだけでも涙が止まらなくなるのでした。

 翠子を売る。お父様が言い出したのは、そんなある日でした。珍しくわたくしが美しい着物を女中に着せられて、家族団らんの場に押し込まれます。機嫌のよさそうなお父様とお母様の間で、英介はひとりだけ機嫌が悪そうにわたくしを睨みつけてきました。

「椛田家の座敷童が欲しいと、土地神様が仰せだそうだ」

 椛田家の座敷童とは、わたくしのことです。我が家の扱う宝石は海の外から取り寄せていることになっています。それがわたくしのような気味の悪い女から生み出されたと知られれば大騒ぎです。そのため他の家のように、奉公人に幼い子や女学校を卒業した女を預かることはほとんどせず、口の堅い大人だけを奉公人として扱っていました。
 世間にはこの家には女の子はいないことになっていますが、しかしわたくしという女子がいますので、時折外に女子の声が聞こえているようです。そのため、椛田家には座敷童がいるのだ、座敷童がいるから椛田家は栄えているのだと言われているのでした。

「土地神様が、どうして姉さんを」

 疑問を、わたくしの代わりに英介が言葉にしました。わたくしはあまりのことに頭が回らず、ただ茫然とお父様と英介のやり取りを聞いていました。

 わたくしはもう家の外に出されることはないと思っていました。わたくしがお父様とお母様にとっての生きた鉱山だからです。しかしこの鉱山からはもう採掘できないと判断されたのでしょう。残ったただの山をもう好きにしてもいいと思ったのでしょう。お父様はわたくしを捨てて、金を得ることを選んだようでした。

「詳しくは知らん。土地神様を祀る一族である桜庭が、『神が椛田家の座敷童をお求めだ』と言ったのだ」
「その座敷童は比喩でしょう。姉さんのことなわけがない」
「しかし桜庭の使いはこうも言ったぞ。『此度の件は人の女子の輿入れです。くれぐれも偽物を出すことのないよう』と。くそ、馬鹿にしおって」

 英介は話を逸らそうとしたのでしょう。なぜ桜庭は我が一族の秘密を知っているのでしょう、とお父様に向かって言いましたが、お父様は大金が手に入ることで頭がいっぱいのようでした。

「桜庭は座敷童を差し出せば、十年は遊んで暮らせる金を出すと言ってきたのだ。英介、お前の好きな活動写真も見放題だぞ、嬉しくないのか」
「金が手に入るのは嬉しいですよ、勿論。しかし父さん、姉さんの宝石を売り続ければ生涯の金になるのですよ」
「こいつの宝石はもう金にならん。要らんのだ」

 お父様は自分の決めたことに口を出されると、ひどく怒りだす質です。一触即発になりかねない雰囲気を英介は感じ取ったようで、不服そうに口を噤みました。それから机の下でわたくしの手を抓ります。その痛みでわたくしは我に返って、それからやっと、わたくしは土地神様と結婚するのだと理解しました。

 不思議な気分でした。結婚とは女子の夢です。わたくしはうつくしい殿方と結ばれる夢を幼いころから諦めていて、また、結婚という言葉を聞くだけでも虚しい思いをしていました。そのため、結婚できることに対して喜びが湧いてくるわけではなく、ただわたくしは結婚するのだと、胸の内で繰り返しただけでした。それから再びわたくしの手を抓る英介が歯ぎしりした音を聞いて、わたくしは要らなくなれば捨てられるだけの存在にしかなれなかったのだと思いました。

「桜庭の迎えはもう来ている。翠子よ、失せろ」

 後ろに控えていた女中がわたくしを引っ張り立たせ、廊下を引きずりました。
 わたくしに立つ気力が残っていないと知られてから、わたくしは何度か縁側を引きずられましたが、今日ほど惜しまれるような運び方は初めてでした。彼女らはわたくしがいなくなった後もお給金がきちんと支払われるのだろうかと考えて、もう関係がないのだと気が付きます。わたくしはもう、この家の者ではなくなるのですから。

 庭を歩かされている間、わたくしはピィ太の墓を見つめました。ピィ太、守ってあげられなくてごめんね。何度呟いたか分からない言葉をまた墓に向かって投げかけて、彼の墓が掘り起こされないか不安に思いました。

 門から先は、初めて出ました。人通りの少ない通りに面しているため、人の声はありませんでしたが、どこか家の中と空気が違うように感じました。それは解放感と言うよりは不安感という方が正しく、わたくしは桜庭の者に気が付かれないように、ひとつ息を吐きます。

 桜庭の使いは、皆狐の面をつけていました。そして駕籠を背負ってわたくしを待っていました。てっきり、英介が学友と出かける時のように人力車で迎えに来るのか、お父様が出かける時のように車で迎えに来るのだろうと思っていたのですが、人力車も車も周りの人に眺められるものですし、車にいたっては乗る作法を背筋を伸ばすことの他知りません。
 戸のついた駕籠ならばわたくしの姿を隠すことができますし、身を隠している間に目的の地につくことができます。そう思うと、駕籠はわたくしのために用意されたもののように思えるのでした。わたくしが駕籠をしげしげと眺めているうちに戸が開けられ、桜庭がわたくしに目配せをします。もちろん面をつけていますので、目配せされたように感じたのは気のせいというものなのかもしれませんが、わたくしのために戸が開けられたことは確かでした。

 駕籠に乗りこむ時、庭の真ん中で英介がこちらを睨んでいることに気が付きましたが、わたくしは気が付かないふりをしました。

 駕籠に揺られて少しもしないうちに、大通りに出たようで、ひとの話し声が駕籠越しに聞こえました。そこは宝石市なのでしょう。宝石の原石を売る者、研磨された宝石や装飾品を売る者がいて、それらを買う声がしました。

「明日は記念日だ。きっと君に素敵な指輪を買ってあげよう」
「まあ、嬉しいわ」
「おかーさん、これとってもきれー。お小づかい足りるかな」
「へい、らっしゃい。今日は良い仕入れがあったからな、どうぞ見ていってくれ」

 声は様々で、その多さに酔いそうでした。しかしそれらの声はどこか温かみに溢れていて、わたくしが長年与えられなかったものがそこにあると教えてきました。ここの市に訪れる人の多くは、その温かい気持ちや愛というものを知っている人なのでしょう。だからこそ自分や相手を美しく飾ろうとし、価値のあるものを自分のものにしようとするのです。そんな声に囲まれていると、わたくしは愛というものを思い出すだけでも苦労する、何もない女なのだと嫌でも気が付いてしまいます。
 孤独だけがわたくしを取り囲み、降り積もります。駕籠の外は明るいのに、駕籠の中だけが湿った暗い場所にあるようでした。しかし耳を塞ごうとする気力はありませんでした。

 暁都において女の仕事とは、結婚をして相手の家に愛され、夫に尽くすことにあります。しかしわたくしは愛というものがよく分かりません。かろうじて愛の一切を知らぬ子にならずに済んだだけです。家事をさせられていたのだって、花嫁修業のためではありません。虐げる理由を作りたかったお母様や女中にそう命じられていただけです。
 容姿だって人と違っていて醜く、旦那様となる土地神様に好かれるとは思えませんでした。しかしそれでも、愛し愛されなければならないのです。それは途方もないことのように思えて、涙が溢れてきて、止まらなくなりました。

 生まれた濁った色の宝石を手で転がしながら駕籠に揺られ、しばらく経つと駕籠は止まりました。すぐに慎重に戸が開けられ、それから外から手が差し伸べられました。

「お前が翠子だな」

 堅苦しい口調に反して、声は柔らかく、澄んでいました。立てるか、声は問います。手を取るのを躊躇って、それから自分の顔に泣いた痕が残っているであろうことを思い出し、慌てて袖で顔を隠しますと、今度は彼は駕籠の中に転がったたくさんの宝石に気が付いたようで、「泣いていたのだな」と呟きました。
 差し伸べられた手は一度引っ込み、それから手巾を持って戻ってきます。わたくしがそれを袖と指の隙間から見つめていますと、彼はそっと笑って、「もう宝石に変わってしまっただろうか」と呟きました。その声にどこか惹かれるものを感じて、顔を覆っていた袖を下ろしますと、彼はわたくしの目元に水滴が残っているのに気が付いたようでした。そっと涙が拭われ、手巾は彼の懐に消えます。

「移動の間寒かったろう。まずは中に入りなさい。部屋は暖かくしてある」

 今度こそ差し伸べられた手のひらに、自分の手を重ねます。すると労わるような動作でそっと握られて、ゆっくりと外に導いてくれました。

 駕籠の外には柔らかい陽が射していました。椛田の家を出る時には射していなかった、温かな日差しです。しかしここは神の領域だからなのでしょうか、青く澄み渡る空からは穏やかな光が降り注いでいて、咲き始めるには随分早い桜がその花びらを舞わせているのでした。はらはらと散る花びらが一枚、握られた手の上に落ちます。

「来て貰えて良かった。椛田の翠子よ」
「あなたは、土地神様」
「桜燐だ」
「おうりん、様」

 桜燐様はわたくしの手を離し、それから神社の裏に構えられた屋敷に手招きしました。先ほどまで桜燐様の手で包まれていたわたくしの手はさみしさを訴えていて、わたくしが彼の手を温かいと思っていたことに気が付きました。

「うめ、茶を用意してくれ」

 居間は最低限の家具があるだけの殺風景な場所でした。椛田家のように舶来の品が並べられている豪奢な場所ではなく、生活が出来ればそれで良いというような、静かな場所です。しかし家具の端々には使い込んだような痕や傷があり、彼がそれを大事に使っていたことが分かるのでした。机の上につけられた傷をなぞりますと、彼の視線がわたくしの指を追います。

 桜燐様はうつくしい薄茶色の瞳をしていました。その瞳は桜色が混ざったような淡い色合いをしていて、わたくしを見つめるたびに揺れて、惑います。髪もまた瞳と同じように、異国から来た人のような透き通る色をしていました。髪はうなじのあたりでゆるくまとめられ、毛先にかけて桜色に変わっていくそれが肩から流れ落ちています。

「今朝うめが市で見つけたものだ。美味い、らしい」

 うめと呼ばれた付き人――面をつけていることから、彼女もまた桜庭の人間なのでしょう――が小さく礼をして、居間から去っていきます。わたくしを駕籠に乗せてきた者たちも廊下の奥に消え、居間にはわたくしと桜燐様のみが残されました。

「翠子よ」
「はい」

 桜燐様が目を伏せ、唇がちいさく引き結ばれました。彼の肩から力が抜けたり、逆に入りすぎたりします。わたくしはその様子を眺めているうちに、わたくしとの結婚は何かの誤りだったのではないか、これから椛田の家に戻されるのではないかと不安になってきました。
 なにせわたくしは椛田家の座敷童です。輿入れなんて話が来ること自体おかしいのです。そうは思えども自分から言葉を発することもできず、ただじっと桜燐様の姿を見つめておりますと、やがて桜燐様が机を回ってわたくしの前に膝をつきました。
 これはきっと椛田の家に帰されるに違いないとわたくしが目を半分つぶった時、彼は畳に手をついて、深々と頭を下げてきました。

「すまないことをした」

 思わず瞬きをしました。わたくしと桜燐様が会うのは初めてですし、当然謝られるようなことをされた覚えはありません。顔を上げてくださいまし、そう言いますと、彼は首を振りました。

「俺が友を止められなかったばかりに、お前がつらい思いをした」

 一体なんのことでしょう。わたくしが躊躇いつつも彼の肩を揺すりますと、桜燐様はわずかに顔を上げ、桜色の髪の隙間からわたくしを見つめました。彼の唇がわずかに震え、それから言葉が零されます。

「お前のその病は、俺の友人が与えたものなのだ」

 彼の言葉の後、沈黙が流れます。それは彼が嘘を言っていないことを表していて、また、わたくしがそれを受け入れていないことを彼に伝えるものでした。

「わたくしの病は、生まれつきです」
「胎に宿った時に、俺の親友が与えた」
「わたくしは、この病のために虐げられてきました」
「早く、救いたかった」

 悲しみなのか、やるせなさなのか。それとも救いたかった、という言葉に込められた憐憫が、わたくしの心を裂いたからなのでしょうか。わたくしの目からはうっすらと涙が零れて静かに頬を伝いました。彼の手が宙を惑いながらわたくしの頬に伸びて、宝石に変わりかけている涙をすくいます。

「俺の友人は人の運命を操る力を持った神だった」

 彼が静かに語り始めるのは、彼の大切なご友人が、人の運命を捻じ曲げる悦びに目覚め、次々に人々を陥れていったということでした。彼の話は何度も迷い、行き来しましたが、わたくしにどう話すか何度も悩んだのでしょう。なぜわたくしが嫁に取られたのかはか分かりやすく伝わってきました。
 つまるところ、わたくしは彼の親友によって運命を曲げられた者のひとりなのです。彼の友人が人の子に人ならざる者の力、それも富を与えるものを授けたらどうなるのだろうといった好奇心の元、お母様の胎にいたわたくしに神の力を与えたというのです。

「彼を止めることはできたが、そのために俺は力尽きてしまったのだ。十二年の眠りについて、目が覚めたのが一週間前だった」

 目覚めた桜燐様がはじめたのは、彼の友人に運命を曲げられた者たちに償いをすることだったようです。わたくしは償いのために彼に見つけられ、そしてあの家から出すために輿入れを選ばれたようでした。わたくしが聞かされた話が飲み込み切れず、呆然としていますと、再び彼は頭を下げて、「すまなかった」と言いました。

「顔を上げてくださいませ」

 わたくしがぽつりと呟くと、彼はおそるおそる顔を上げました。それから目を伏せて、「お前を家から出さねばならぬと思ったのだ。出ていきたかったら、出て行って良い」と弱々しい声で言うのです。その姿は神と聞いて思い浮かぶ威厳の姿からかけ離れていて、ただの人のようでした。しかし彼がひとのように見えた分、これまでの話が現実であることが突きつけられたように思えて、私はほとんど反射的に叫んでいました。

「わたくしが出ていったとして、行くところはありません」

 浮かんだ腰を元の場所に戻し、わたくしは言葉を探しました。これまで自分の考えを伝えようとしてもすべてなかったことにされていましたので、わたくしは自分の意見を伝えようとすることを、諦めていました。そのため何をどう話せばいいのかわからなくなり、恥ずかしさと焦りで、顔に熱がのぼり、涙がこぼれそうになります。

「そんなこと言わずに、わたくしをここに置いてくださいませんか」

 料理ならばできます。掃除洗濯もなんでもします。女中の扱いでもいいですから、わたくしをここに置いてください。今度はわたくしが頼み込む番でした。
 わたくしを長年虐げ、鉱山や玩具のように扱い、ピィ太を殺したあの家に戻ることはできないのです。お父様に謝る時と同じように手をついて、畳に額をこすりつける勢いで彼に頭を下げますと、彼が狼狽えました。

「追い出したいわけではない。すまない、もし他に居場所が出来たらそこに移っても良い、と言いたかったのだ。ここでお前は羽を休めていいのだ」

 彼に起こされ、正面から向き直りました。すると顔を青くしたり赤くしたりする彼と目が合って、泣けばいいのか喜べばいいのか分からなくなりました。

「しかし、俺は、これまでの分、お前を幸せにしてやりたいと思っている」

 彼がわずかに目を伏せて、ぽつりと呟きます。きっと彼は、女の幸せは結婚であると誰かに教えられたのでしょう。わたくしへの償いに、せめて幸せを掴ませてやろうと結婚という選択肢を持ち出したようでした。
 街で流行り始めているらしい自由結婚というものは多くの者にとっては遠い話で、親に決められた相手と結婚するのが当たり前の頃です。わたくしの場合それが親に決められた結婚だったのではなく、土地神様の償いのために決められた結婚だったというだけです。幸せのために相手を決められたという点においては、暁都にいる他の女子と変わりません。わたくしが結婚で幸せになれるかどうかはともかく、彼が人並の幸せをわたくしに与えようとしてくれたのだと思うと、なんだか胸が温かくなるようで、同時にわたくしは与えられなければ幸せを掴めない生き物なのだと思って、悲しくなりました。

「わたくしは桜燐様の素敵な奥様にはなれません」
「それでも、俺は」
「それでもわたくしは、居場所が欲しいのです」

 彼がわたくしの手を両手で包み、そっと温めます。わたくしの手がひどく冷えていたことに気が付いて、彼の手はどうしてこれほど温かいのだろうと不思議に思いました。

「輿入れするか、他の場所に行くかは後から考えたら良い」
「はい」
「今は俺の客人だ。ゆっくり休んだら良い」

 頷きますと、彼はそっと微笑みました。微笑み返そうと思いましたが、わたくしは長い生活の間で笑うことを忘れていたようで、ぎこちなく口角が上がっただけでした。すると彼はわたくしのそんな様子にすら愛おしさを感じたようで、ふっと表情が崩れます。その笑い方は長年愛している人に向けるものなのではないかと思いましたが、わたくしと彼は今日初めて出会ったのです。そんなはずはないと、心の中で小さく首を振りました。