***
ぼやりと、視界に靄がかかる。それは見ようと思っても見えるものではなく、ただ、桜燐の視界に曖昧な色を添えるだけだ。待てばそれは景色を映すものであるのだが、それを落ち着いて見ていられるほど、今の桜燐には余裕はない。
日本刀を振るうと、あやかしの首が飛んだ。それは真っ赤な血を吹き出しはしたが、それは桜燐や桜庭の者たちにかかる前に、霧となって消える。飛び掛かってくるもう一体の心臓に刀を突き刺し、抜けば醜い悲鳴と共に、妖魔の姿が掻き消えた。その間にも視界に添えられた色はちらりちらりと形を変え、人の姿を象っていく。
桜燐が見るそれは、見守りたいと願った人間を中心に、無作為に、気まぐれに、その者の様子を見せるものだ。翠子が宝石を売ろうとして男に絡まれていた時も、凛の旦那が翠子に詰め寄った時も、たまたま、桜燐の目に映っていたのだ。しかし危機に陥ったからといって必ず教えてくれるものではなく、彼女が家に帰ってから、馬車に轢かれそうになったと話してから知ることもある。反対に、初めてあいすくりんを街で見かけたとか、聴いた琴の音が美しかったとか、そういった何気ない出来事を見せられることもあり、都合の良いものではない。
視界にうつる影が、黒髪と桜を映し出す。まだ人の顔はよく見えないが、身体が描く線や、着物の柄に、見覚えがあった。翠子だ。今回もまた何気ない出来事であってほしいと願いながら刀を振るうも、彼女が知らぬ場所に寝転がっているように見えて、落ち着かない。無事でいてくれ。無事でいてくれ。そう願いながら目の前にいる異形を薙ぎ払うも、わずかに急所を外した。
「主様ッ」
廉太郎の放った呪符が、桜燐の倒し損ねた妖魔の頭に張り付く。するとそれは形を崩し、頭から塵に変わる。面を外した廉太郎が桜燐の背に回り、「集中してないですよ」と言った。
きっと今、彼の目は蛇のように爛々と輝いているだろう。桜庭の者は、皆力を振るう時、隠して過ごしている特性が露わになる。翠子も深く尋ねてきはしないが、彼らもまた、人に生まれながら人ならざる者の力を得た者たちなのだ。人の世では生きづらい者たちばかりの一族を、もう百年も仕えさせているが、皆こうした闘いの場が、最も生き生きとしているように思う。
「本気出すんで、面外しました。なんだか急いでいるようでしたので」
「構わない。人の目はない、存分に力を振るえ」
「あいさ」
大蛇の姿に変身した彼が、妖魔を喰らっていく。ばきばきと骨の砕ける音が響くようになったが、彼のおかげで桜燐の前に立ちはだかる妖魔の数は減った。その隙に、視界に映る翠子の様子に気を配ると、彼女の手足から鎖が伸びているのが見える。鎖は彼女を寝かしている寝台に繋がれていて、揺らぐ影の外から伸びた手が、彼女の顎を掴んだ。その手は口づけを拒む翠子をもてあそび、怯えて首を振る動作を楽しんでいるようだった。
ちらと映ったその手の主は、あの義弟だ。翠子、桜燐が呟けども、やがて彼の影が翠子に覆いかぶさる。唇が、触れた。
「――お前たち、皆面を外せ。翠子が攫われた」
なに、と桜庭の者たちがざわめく。桜燐が振るった刀は、妖魔二匹の首をまとめて飛ばした。飛び散った血を頬に浴び、それを拭うと、遅れて塵へと変わる。
「うめと凛さんは」
「分からぬ。だが、翠子ひとりだけ襲われたとは思えん」
くそ、と誰かが毒づいた。ただ、こうも思うのだ。うめと凛が人質に取られているのだとしたら、彼女は二人を慮って、自ら義弟に囚われるだろう。彼女が英介に抵抗しているのなら、きっと二人は、どこか安全なところにいる。無事ではないかもしれないが。
「椛田の家の結界を早々に壊さねばならぬ。そうしなければ、誰も翠子の元へ向かない」
翠子、それまでどうか。すぐに行けなくてすまない。口の中で呟く。もし攫われたら助けに行くと言ったのに。椛田の家が企んだ悪事の根本を崩してしまえば、彼女の平穏な生活は守れると思っていた。だから、用心するように程度のことしか言わなかったのだ。それが甘かった。椛田はきっと、桜燐の想像の外にいる誰かに協力させたのだ。だから桜燐の守れないところで、彼女が恐ろしい目に遭うことになってしまった。
早く、早く彼女のところへ行って、鎖を解いてやりたい。怖かっただろう、もう安心していいと言って、震える身体を抱きしめて、何も恐ろしいものがない場所で、ただ静かに、温めてやりたかった。その上で、あの男が触れたところすべてを確かめて、彼が傷つけたもの与えたものすべて、桜燐のもので埋めたかった。
翠子のことは、彼女が回復すれば手放す気でいたのに、いつの間にか、深く深く、愛してしまっていた。彼女を輿入れさせた日に、どうしていつか出て行っても良いと言えたのかと思うほど、今は彼女に支えられている。もしかしたら、初めて会った日に、そんな予感はしていたのかもしれない。だけど桜燐は自分の心にすら疎くて、強くつよく願う時が来るまで、はっきりと気が付けなかったのだ。
彼女は覚えていないだろうが、桜燐が十二年の眠りにつく前、彼女に会ったのだ。青藍との闘いに疲れ果てて、彼に一筋傷を負わせてから、天の上から落ちたことがあった。あの時は確か、人の姿に映らないように、彼との闘いだけに集中できるように、いろいろなものを削ぎ落としていたのだ。だから彼女に、ただしく人の姿に見えたかは分からない。ただ、天から落ちた先にあったのは、翠子が暮らす家の、彼女が日向ぼっこをしていた目の前で、何かが降ってきたと彼女はひっくり返った。
すぐに虹色の瞳がこちらを捉えて、慌てたように色を浮かべたのを、まだ覚えている。縁側から飛び降りた彼女の白い髪が、桜燐の頬をくすぐった。驚いたためだろうか、彼女の瞳からは涙が零れ、赤い宝石に変わった。青藍にいたずらをされた子なのだと、すぐに分かった。
『いまはりんしかいないから、おみずとってこれるの。ちょっとだけまっててね』
まるで猫か犬に向けるような声で言って、彼女は桜燐の手にぺたぺたと触れた。すると、永い永い闘いですり減っていた心に不思議と温かいものが流れ込んできて、胸をくすぐった。厨房に向かう幼い背中を見て、その時桜燐は誓ったのだ。青藍を止めた時、必ずこの子を一番先に救おうと。生まれてからずっと苦しい思いをしているであろうことは、頬に残っていた叩かれた痕からは分かった。だからせめて、この子を、一番に幸せにしてあげたいと思ったのだ。
たったそれだけのきっかけだったのに、彼女を嫁として家から連れ出していたのは、あの温かい手にもう一度触れたいと願ったからかもしれないと、今なら思う。それほど、寄り添う彼女の心は温かいのだ。こちらのこころをすべて受け止めてしまうほど大きな穴を持っているのに、その穴はこちらを引きずり込むような暗さを持たない。桜燐の心に開いた穴を重ねて、かたちが合うのだ。こぼれて、こわれた心を繋ぎ合わせて、やっとひとつの形になるように、最初からそんな形だったと錯覚するほどに、やわらかい。だから溺れる場所なんかないと知りながら、溺れた。
「うめが目を覚ましました。眠り薬を飲まされたようですが、うめと凛さんは無事。凛さんの母親に引き留められているようですが、心配らは要らぬと言っています」
「そうか。これが済んだら、喜助は様子を見に行ってやれ、念のためだ」
頭の中に浮かぶ映像がぼやけ、形をなくしていく。あの男は姉を手に入れるためならば、彼女を傷つけ、壊そうとするだろう。あれはそういう闇をもった男だ。あやかしに付け入れられやすい質だと思って用心してはいたのだが、人の目を欺いて、欲望のために忠実に生きることに関しては、彼の方が一枚上手だったようだ。
こちらの監視の目をかいくぐり、己に憑りついたあやかしを利用し、神やその配下を遠ざけるための結界を張るために、上位のあやかしに取り入ってしまうのだから、欲というものは恐ろしい。現に、英介の頼み通り椛田の家に結界を張った男を倒すために、苦戦を強いられているのだから。翠子が攫われてしまう前に、椛田が何か悪事を企む前に、結界を壊してしまおうとこうして出向いていたのが、裏目に出るとは思わなかった。
桜燐に眠り薬は効かぬ。例え気が付かずに飲んでしまったとしても、誰も囚われることなく、三人とも連れ帰ることが出来ただろう。考えが甘かった、そう唇を噛んでも、遅い。
すぐに行く。だから待っていてくれ。無事でいてくれ。そう願いながら、桜燐は刀を握りしめた。
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ぼやりと、視界に靄がかかる。それは見ようと思っても見えるものではなく、ただ、桜燐の視界に曖昧な色を添えるだけだ。待てばそれは景色を映すものであるのだが、それを落ち着いて見ていられるほど、今の桜燐には余裕はない。
日本刀を振るうと、あやかしの首が飛んだ。それは真っ赤な血を吹き出しはしたが、それは桜燐や桜庭の者たちにかかる前に、霧となって消える。飛び掛かってくるもう一体の心臓に刀を突き刺し、抜けば醜い悲鳴と共に、妖魔の姿が掻き消えた。その間にも視界に添えられた色はちらりちらりと形を変え、人の姿を象っていく。
桜燐が見るそれは、見守りたいと願った人間を中心に、無作為に、気まぐれに、その者の様子を見せるものだ。翠子が宝石を売ろうとして男に絡まれていた時も、凛の旦那が翠子に詰め寄った時も、たまたま、桜燐の目に映っていたのだ。しかし危機に陥ったからといって必ず教えてくれるものではなく、彼女が家に帰ってから、馬車に轢かれそうになったと話してから知ることもある。反対に、初めてあいすくりんを街で見かけたとか、聴いた琴の音が美しかったとか、そういった何気ない出来事を見せられることもあり、都合の良いものではない。
視界にうつる影が、黒髪と桜を映し出す。まだ人の顔はよく見えないが、身体が描く線や、着物の柄に、見覚えがあった。翠子だ。今回もまた何気ない出来事であってほしいと願いながら刀を振るうも、彼女が知らぬ場所に寝転がっているように見えて、落ち着かない。無事でいてくれ。無事でいてくれ。そう願いながら目の前にいる異形を薙ぎ払うも、わずかに急所を外した。
「主様ッ」
廉太郎の放った呪符が、桜燐の倒し損ねた妖魔の頭に張り付く。するとそれは形を崩し、頭から塵に変わる。面を外した廉太郎が桜燐の背に回り、「集中してないですよ」と言った。
きっと今、彼の目は蛇のように爛々と輝いているだろう。桜庭の者は、皆力を振るう時、隠して過ごしている特性が露わになる。翠子も深く尋ねてきはしないが、彼らもまた、人に生まれながら人ならざる者の力を得た者たちなのだ。人の世では生きづらい者たちばかりの一族を、もう百年も仕えさせているが、皆こうした闘いの場が、最も生き生きとしているように思う。
「本気出すんで、面外しました。なんだか急いでいるようでしたので」
「構わない。人の目はない、存分に力を振るえ」
「あいさ」
大蛇の姿に変身した彼が、妖魔を喰らっていく。ばきばきと骨の砕ける音が響くようになったが、彼のおかげで桜燐の前に立ちはだかる妖魔の数は減った。その隙に、視界に映る翠子の様子に気を配ると、彼女の手足から鎖が伸びているのが見える。鎖は彼女を寝かしている寝台に繋がれていて、揺らぐ影の外から伸びた手が、彼女の顎を掴んだ。その手は口づけを拒む翠子をもてあそび、怯えて首を振る動作を楽しんでいるようだった。
ちらと映ったその手の主は、あの義弟だ。翠子、桜燐が呟けども、やがて彼の影が翠子に覆いかぶさる。唇が、触れた。
「――お前たち、皆面を外せ。翠子が攫われた」
なに、と桜庭の者たちがざわめく。桜燐が振るった刀は、妖魔二匹の首をまとめて飛ばした。飛び散った血を頬に浴び、それを拭うと、遅れて塵へと変わる。
「うめと凛さんは」
「分からぬ。だが、翠子ひとりだけ襲われたとは思えん」
くそ、と誰かが毒づいた。ただ、こうも思うのだ。うめと凛が人質に取られているのだとしたら、彼女は二人を慮って、自ら義弟に囚われるだろう。彼女が英介に抵抗しているのなら、きっと二人は、どこか安全なところにいる。無事ではないかもしれないが。
「椛田の家の結界を早々に壊さねばならぬ。そうしなければ、誰も翠子の元へ向かない」
翠子、それまでどうか。すぐに行けなくてすまない。口の中で呟く。もし攫われたら助けに行くと言ったのに。椛田の家が企んだ悪事の根本を崩してしまえば、彼女の平穏な生活は守れると思っていた。だから、用心するように程度のことしか言わなかったのだ。それが甘かった。椛田はきっと、桜燐の想像の外にいる誰かに協力させたのだ。だから桜燐の守れないところで、彼女が恐ろしい目に遭うことになってしまった。
早く、早く彼女のところへ行って、鎖を解いてやりたい。怖かっただろう、もう安心していいと言って、震える身体を抱きしめて、何も恐ろしいものがない場所で、ただ静かに、温めてやりたかった。その上で、あの男が触れたところすべてを確かめて、彼が傷つけたもの与えたものすべて、桜燐のもので埋めたかった。
翠子のことは、彼女が回復すれば手放す気でいたのに、いつの間にか、深く深く、愛してしまっていた。彼女を輿入れさせた日に、どうしていつか出て行っても良いと言えたのかと思うほど、今は彼女に支えられている。もしかしたら、初めて会った日に、そんな予感はしていたのかもしれない。だけど桜燐は自分の心にすら疎くて、強くつよく願う時が来るまで、はっきりと気が付けなかったのだ。
彼女は覚えていないだろうが、桜燐が十二年の眠りにつく前、彼女に会ったのだ。青藍との闘いに疲れ果てて、彼に一筋傷を負わせてから、天の上から落ちたことがあった。あの時は確か、人の姿に映らないように、彼との闘いだけに集中できるように、いろいろなものを削ぎ落としていたのだ。だから彼女に、ただしく人の姿に見えたかは分からない。ただ、天から落ちた先にあったのは、翠子が暮らす家の、彼女が日向ぼっこをしていた目の前で、何かが降ってきたと彼女はひっくり返った。
すぐに虹色の瞳がこちらを捉えて、慌てたように色を浮かべたのを、まだ覚えている。縁側から飛び降りた彼女の白い髪が、桜燐の頬をくすぐった。驚いたためだろうか、彼女の瞳からは涙が零れ、赤い宝石に変わった。青藍にいたずらをされた子なのだと、すぐに分かった。
『いまはりんしかいないから、おみずとってこれるの。ちょっとだけまっててね』
まるで猫か犬に向けるような声で言って、彼女は桜燐の手にぺたぺたと触れた。すると、永い永い闘いですり減っていた心に不思議と温かいものが流れ込んできて、胸をくすぐった。厨房に向かう幼い背中を見て、その時桜燐は誓ったのだ。青藍を止めた時、必ずこの子を一番先に救おうと。生まれてからずっと苦しい思いをしているであろうことは、頬に残っていた叩かれた痕からは分かった。だからせめて、この子を、一番に幸せにしてあげたいと思ったのだ。
たったそれだけのきっかけだったのに、彼女を嫁として家から連れ出していたのは、あの温かい手にもう一度触れたいと願ったからかもしれないと、今なら思う。それほど、寄り添う彼女の心は温かいのだ。こちらのこころをすべて受け止めてしまうほど大きな穴を持っているのに、その穴はこちらを引きずり込むような暗さを持たない。桜燐の心に開いた穴を重ねて、かたちが合うのだ。こぼれて、こわれた心を繋ぎ合わせて、やっとひとつの形になるように、最初からそんな形だったと錯覚するほどに、やわらかい。だから溺れる場所なんかないと知りながら、溺れた。
「うめが目を覚ましました。眠り薬を飲まされたようですが、うめと凛さんは無事。凛さんの母親に引き留められているようですが、心配らは要らぬと言っています」
「そうか。これが済んだら、喜助は様子を見に行ってやれ、念のためだ」
頭の中に浮かぶ映像がぼやけ、形をなくしていく。あの男は姉を手に入れるためならば、彼女を傷つけ、壊そうとするだろう。あれはそういう闇をもった男だ。あやかしに付け入れられやすい質だと思って用心してはいたのだが、人の目を欺いて、欲望のために忠実に生きることに関しては、彼の方が一枚上手だったようだ。
こちらの監視の目をかいくぐり、己に憑りついたあやかしを利用し、神やその配下を遠ざけるための結界を張るために、上位のあやかしに取り入ってしまうのだから、欲というものは恐ろしい。現に、英介の頼み通り椛田の家に結界を張った男を倒すために、苦戦を強いられているのだから。翠子が攫われてしまう前に、椛田が何か悪事を企む前に、結界を壊してしまおうとこうして出向いていたのが、裏目に出るとは思わなかった。
桜燐に眠り薬は効かぬ。例え気が付かずに飲んでしまったとしても、誰も囚われることなく、三人とも連れ帰ることが出来ただろう。考えが甘かった、そう唇を噛んでも、遅い。
すぐに行く。だから待っていてくれ。無事でいてくれ。そう願いながら、桜燐は刀を握りしめた。
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