正式な婚約から数日経ち、わたくしが早朝に境内の掃除をしていると、人の姿に化けたはつさんがやってきました。
「あたしここ嫌いなんだけれどね、強い結界張ってあるから。でも急ぎの用事だから来たわ」
慌てて桜燐様を境内に呼ぶと、はつさんはほっとしたように息を吐きました。そうして桜燐様にこそこそと耳打ちするのです。すると桜燐様の顔もどんどん険しくなっていき、わたくしをちらと見て、目元に手を当てました。
「そうか。やはりか」
「あたしは伝えましたからね。さっさと倒してきちゃいなさい」
何があったのですか、と問えば、はつさんは狐の耳を出し、「聞けばあたしと同じ狐になっちゃうからやめておきなさい」と言うものですから、わたくしに関わることだということは分かりました。桜燐様が倒すとすれば、きっと妖魔の類でしょうから、ひょっとすると椛田の誰かがあやかしに憑りつかれた、という話かもしれません。わたくしの不安がる様子に桜燐様は気が付いたようで、「お前は心配いらない」と淡く微笑みました。
「でも、あんた、しばらくひとりで出かけちゃだめよ。行くのも信用できるお店だけにしなさい」
「それって」
何か悪いことが起きているではありませんか。そう零すと、彼は静かに微笑んで、わたくしの唇にそっと指を置きます。それが彼なりのまじないであることに気が付き、わたくしはそれ以上、何も言わないことにしました。
「今日から数日、家を開ける。我慢してくれるか」
はつさんが去った後、彼はわたくしを抱きしめながら言いました。言い聞かせるような仕草で頭を撫でたかと思えば、うなじや唇に甘く触れ、ところかしこに愛というまじないをかけているようでした。
「わたくしのため、なのでしょう?」
「ああ」
「なら、我慢します」
彼の首に手を回し、ほんの少し背伸びをして、彼の唇をちろりと舐めました。
「無事に帰ってきてくださいませ」
桜燐様は街で一人にならないように言い聞かせて、桜庭の者を半分連れて、どこかに向かっていきました。今回はうめさんもお屋敷に残され、わたくしについてくれました。
それからはずっと、上の空でした。本を読んでも中身が入って来ず、お夕飯の支度をしても焦がしてしまい、そのくせ、夜は妙に意識がはっきりとして、寂しくて眠れませんでした。
人肌がこいしく、凛の布団に潜りこんだものですが、寂しいものが埋まることはなく、子どものようにあやしてもらったのに関わらず、眠ることができませんでした。
気晴らしに散歩に行こう、と言ったのはうめさんでした。翌日の昼、夜中に流した涙で作られた宝石を手のひらで転がしながら、御神木を見上げるわたくしに声をかけてくれたのです。
「お散歩だけ、でしたら問題ないと思いますので」
わたくしの髪の上の降る桜の花びらを、うめさんはそっと拾い、わたくしに渡しました。それをつい口に含んだわたくしに苦笑して、凛にも出かけようと声を掛けにいくのです。
「翠子様、お手紙ですよ」
凛に髪を整えてもらっている間に届いたそれは、指輪が出来たことを知らせるものでした。桜燐様とわたくしが、お互いを想って作ったジュエリーです。
桜燐様が家を開けている今、その知らせが届くということが、彼が離れた場所からでもわたくしを想っていることのように思えてしまい、ほうと胸が温かくなります。きっとそれはただの偶然なのでしょうけれど、彼が帰ってきた時に、ジュエリーを取りにいきましょうと笑って言えるのは、とても嬉しいことのように思えました。
柔らかな気持ちのまま神社の外に出ると、春の温かな空気が頬をくすぐります。桜のつぼみは膨らんでいて、もうすぐ花が咲くであろうことが伺えました。桜の花は神社では毎日咲き誇っていますから、特別珍しいものではなくなってはいるのですが、やはり季節の変化を感じられるそれは、心惹かれるものがあります。
「桜燐様と、この道を歩きたいわ」
わたくしの両隣に立つ凛とうめさんが頷き、そっと微笑みました。街は花を眺める人で溢れていて、わたくしたちもその中に混ざって、梅や桃の花を眺め、落ちた椿の花を拾います。拾った椿の花びらは触れると色が変わってしまい、それに生き物の儚さを感じていたのですが、ぼんやりとした頭に、突然、明るい声が掛けられました。
「あらあ、凛じゃない」
「お母様」
凛のお母様には、初めて会いました。もしかすると椛田の家には来た事があったのかもしれませんが、わたくしは座敷童でしたので、誰かに合わせてもらえることはありませんでしたから、凛のご家族の姿は想像することしかできなかったのです。案外というべきか、やっぱりというべきか、本物のお母様は、わたくしが思い浮かべていたお母様よりもずっと、丸みを帯びた、柔らかな顔立ちをしていました。
凛の生家は、桜燐様の助力により、新しく商売をはじめたそうです。どうやら炭鉱に関わる商いなのだそうで、大変なことも多いようですが、生活は良くなったとのことでした。
きっと彼女の柔らかな顔も、その生活の余裕から来ているのだと思います。しかし彼女は、お世話になっておりますと頭を下げるわたくしの、頭巾からわずかにはみ出した白い髪と、虹色を帯びた瞳に、どこか蔑んだような表情をしました。それはわずかな間ではありましたが、わたくしに対する侮蔑と苛立ちを含んだものだと、確かに伝わってくるのでした。
「せっかくだからお茶しましょ。凛が入れ込む女の子ってどんな人なのか、ずっと知りたかったの」
凛のお母様は、そんな醜さを交えた表情を笑顔の裏に隠して、わたくしの腕を引きました。どうして人とは、人を蔑みながらも愛するような表情を浮かべることができるのでしょう。凛は、大切にしている人には大切にしていると分かる笑顔を、そうでない人にはその場を穏やかな済ませるための笑顔を浮かべます。わたくしに向けるそれは大切にしている人に向けるものと分かるもので、だから彼女と共にいると安心するのです。しかしお母様が浮かべるそれには、慈しみが籠められていると伺えるので、内側に隠したものとのちぐはぐさに、不思議な恐ろしさを覚えるのでした。
「あそこの団子屋さん美味しいのよ。凛がよく来てたお店で」
今日は時間がないとか、あまりお金を持ってきていないとか、言い訳はしようとは思ったのですが、相手は凛のお母様です。上手な言い訳が思い浮かばず、あれよあれよという間に、団子屋さんの中に座らされてしまいました。
凛もうめさんも同じように座らされていて、凛が申し訳なさそうに肩をすくめます。凛の家もお金のために自分の子どもを売ってしまうようなお家ではありますが、凛は真っすぐに育っていることを思うと、ご両親が悪い人であるようには思えませんでした。気にしないで、と伝わるように、机の下で彼女の手を握ると、凛の手がそっと手のひらをくすぐりました。
「お茶淹れてもらいましょ。お団子も買ってくるから待ってて」
お母様が軽い足取りで厨房がある方に向かっていき、凛は小さな声で、「押しが強い母ですみません」と呟くのでした。でもお団子を食べられるのは嬉しいわ、とわたくしが言うと、彼女はますます肩を縮めて、うめさんと一緒に宥めることになりました。やがてお団子より先に緑茶が運ばれてきて、お母様との弾まない話の間を埋めるために、緑茶を飲みます。お団子はなかなか運ばれて来ず、このままではお団子が来る前にお茶がなくなってしまうと思った時、ふわり、眠気が襲ってきました。
昼すぎに眠くなることはあるのですが、これほど強い眠気は珍しく、お母様に嫌な思いをさせないように目をこすります。すると横でも凛とうめさんがあくびを噛み殺し、目をこすりと、似たような動作をしているのでした。何かがおかしい、うめさんがそう気が付き、お母様を問いただそうとしたのですが、言葉が最後まで紡がれる前に、彼女は机の上に崩れました。凛もまた机に突っ伏しており、深く眠っていることが伺えます。
二人を起こそうと思いはしたのですが、身体は眠気に支配されており、思うように動きません。目を閉じる前、その刹那に見たのは、お母様の穏やかな笑みでした。
「あたしここ嫌いなんだけれどね、強い結界張ってあるから。でも急ぎの用事だから来たわ」
慌てて桜燐様を境内に呼ぶと、はつさんはほっとしたように息を吐きました。そうして桜燐様にこそこそと耳打ちするのです。すると桜燐様の顔もどんどん険しくなっていき、わたくしをちらと見て、目元に手を当てました。
「そうか。やはりか」
「あたしは伝えましたからね。さっさと倒してきちゃいなさい」
何があったのですか、と問えば、はつさんは狐の耳を出し、「聞けばあたしと同じ狐になっちゃうからやめておきなさい」と言うものですから、わたくしに関わることだということは分かりました。桜燐様が倒すとすれば、きっと妖魔の類でしょうから、ひょっとすると椛田の誰かがあやかしに憑りつかれた、という話かもしれません。わたくしの不安がる様子に桜燐様は気が付いたようで、「お前は心配いらない」と淡く微笑みました。
「でも、あんた、しばらくひとりで出かけちゃだめよ。行くのも信用できるお店だけにしなさい」
「それって」
何か悪いことが起きているではありませんか。そう零すと、彼は静かに微笑んで、わたくしの唇にそっと指を置きます。それが彼なりのまじないであることに気が付き、わたくしはそれ以上、何も言わないことにしました。
「今日から数日、家を開ける。我慢してくれるか」
はつさんが去った後、彼はわたくしを抱きしめながら言いました。言い聞かせるような仕草で頭を撫でたかと思えば、うなじや唇に甘く触れ、ところかしこに愛というまじないをかけているようでした。
「わたくしのため、なのでしょう?」
「ああ」
「なら、我慢します」
彼の首に手を回し、ほんの少し背伸びをして、彼の唇をちろりと舐めました。
「無事に帰ってきてくださいませ」
桜燐様は街で一人にならないように言い聞かせて、桜庭の者を半分連れて、どこかに向かっていきました。今回はうめさんもお屋敷に残され、わたくしについてくれました。
それからはずっと、上の空でした。本を読んでも中身が入って来ず、お夕飯の支度をしても焦がしてしまい、そのくせ、夜は妙に意識がはっきりとして、寂しくて眠れませんでした。
人肌がこいしく、凛の布団に潜りこんだものですが、寂しいものが埋まることはなく、子どものようにあやしてもらったのに関わらず、眠ることができませんでした。
気晴らしに散歩に行こう、と言ったのはうめさんでした。翌日の昼、夜中に流した涙で作られた宝石を手のひらで転がしながら、御神木を見上げるわたくしに声をかけてくれたのです。
「お散歩だけ、でしたら問題ないと思いますので」
わたくしの髪の上の降る桜の花びらを、うめさんはそっと拾い、わたくしに渡しました。それをつい口に含んだわたくしに苦笑して、凛にも出かけようと声を掛けにいくのです。
「翠子様、お手紙ですよ」
凛に髪を整えてもらっている間に届いたそれは、指輪が出来たことを知らせるものでした。桜燐様とわたくしが、お互いを想って作ったジュエリーです。
桜燐様が家を開けている今、その知らせが届くということが、彼が離れた場所からでもわたくしを想っていることのように思えてしまい、ほうと胸が温かくなります。きっとそれはただの偶然なのでしょうけれど、彼が帰ってきた時に、ジュエリーを取りにいきましょうと笑って言えるのは、とても嬉しいことのように思えました。
柔らかな気持ちのまま神社の外に出ると、春の温かな空気が頬をくすぐります。桜のつぼみは膨らんでいて、もうすぐ花が咲くであろうことが伺えました。桜の花は神社では毎日咲き誇っていますから、特別珍しいものではなくなってはいるのですが、やはり季節の変化を感じられるそれは、心惹かれるものがあります。
「桜燐様と、この道を歩きたいわ」
わたくしの両隣に立つ凛とうめさんが頷き、そっと微笑みました。街は花を眺める人で溢れていて、わたくしたちもその中に混ざって、梅や桃の花を眺め、落ちた椿の花を拾います。拾った椿の花びらは触れると色が変わってしまい、それに生き物の儚さを感じていたのですが、ぼんやりとした頭に、突然、明るい声が掛けられました。
「あらあ、凛じゃない」
「お母様」
凛のお母様には、初めて会いました。もしかすると椛田の家には来た事があったのかもしれませんが、わたくしは座敷童でしたので、誰かに合わせてもらえることはありませんでしたから、凛のご家族の姿は想像することしかできなかったのです。案外というべきか、やっぱりというべきか、本物のお母様は、わたくしが思い浮かべていたお母様よりもずっと、丸みを帯びた、柔らかな顔立ちをしていました。
凛の生家は、桜燐様の助力により、新しく商売をはじめたそうです。どうやら炭鉱に関わる商いなのだそうで、大変なことも多いようですが、生活は良くなったとのことでした。
きっと彼女の柔らかな顔も、その生活の余裕から来ているのだと思います。しかし彼女は、お世話になっておりますと頭を下げるわたくしの、頭巾からわずかにはみ出した白い髪と、虹色を帯びた瞳に、どこか蔑んだような表情をしました。それはわずかな間ではありましたが、わたくしに対する侮蔑と苛立ちを含んだものだと、確かに伝わってくるのでした。
「せっかくだからお茶しましょ。凛が入れ込む女の子ってどんな人なのか、ずっと知りたかったの」
凛のお母様は、そんな醜さを交えた表情を笑顔の裏に隠して、わたくしの腕を引きました。どうして人とは、人を蔑みながらも愛するような表情を浮かべることができるのでしょう。凛は、大切にしている人には大切にしていると分かる笑顔を、そうでない人にはその場を穏やかな済ませるための笑顔を浮かべます。わたくしに向けるそれは大切にしている人に向けるものと分かるもので、だから彼女と共にいると安心するのです。しかしお母様が浮かべるそれには、慈しみが籠められていると伺えるので、内側に隠したものとのちぐはぐさに、不思議な恐ろしさを覚えるのでした。
「あそこの団子屋さん美味しいのよ。凛がよく来てたお店で」
今日は時間がないとか、あまりお金を持ってきていないとか、言い訳はしようとは思ったのですが、相手は凛のお母様です。上手な言い訳が思い浮かばず、あれよあれよという間に、団子屋さんの中に座らされてしまいました。
凛もうめさんも同じように座らされていて、凛が申し訳なさそうに肩をすくめます。凛の家もお金のために自分の子どもを売ってしまうようなお家ではありますが、凛は真っすぐに育っていることを思うと、ご両親が悪い人であるようには思えませんでした。気にしないで、と伝わるように、机の下で彼女の手を握ると、凛の手がそっと手のひらをくすぐりました。
「お茶淹れてもらいましょ。お団子も買ってくるから待ってて」
お母様が軽い足取りで厨房がある方に向かっていき、凛は小さな声で、「押しが強い母ですみません」と呟くのでした。でもお団子を食べられるのは嬉しいわ、とわたくしが言うと、彼女はますます肩を縮めて、うめさんと一緒に宥めることになりました。やがてお団子より先に緑茶が運ばれてきて、お母様との弾まない話の間を埋めるために、緑茶を飲みます。お団子はなかなか運ばれて来ず、このままではお団子が来る前にお茶がなくなってしまうと思った時、ふわり、眠気が襲ってきました。
昼すぎに眠くなることはあるのですが、これほど強い眠気は珍しく、お母様に嫌な思いをさせないように目をこすります。すると横でも凛とうめさんがあくびを噛み殺し、目をこすりと、似たような動作をしているのでした。何かがおかしい、うめさんがそう気が付き、お母様を問いただそうとしたのですが、言葉が最後まで紡がれる前に、彼女は机の上に崩れました。凛もまた机に突っ伏しており、深く眠っていることが伺えます。
二人を起こそうと思いはしたのですが、身体は眠気に支配されており、思うように動きません。目を閉じる前、その刹那に見たのは、お母様の穏やかな笑みでした。



