そろそろ桜が咲き始めるのではないか。そんな風に人々が浮足立ち、街に桜の小物や花見の団子が並び始める頃。桜燐様の屋敷には、大量の蜜柑が積み上げられていました。なんとも、桜庭の者たちが近隣の街にあやかしの討伐に向かったそうなのですが、その時にお礼として蜜柑を渡されたとか。
もっとも、それは青藍様がいたずらで放った妖魔の残りを倒しただけであって、桜燐様としては金銭もお礼の品ももらうつもりはなかったようなのですが、妖魔に困り果てていた街の者たちは、桜燐様が遠慮するほどにお礼をしようと必死になったようです。蜜柑の他に焼き立てのパンやら饅頭やらを渡されたそうですが、蜜柑以外は桜庭の者たちの胃袋に収まったようで、屋敷に運ばれてきたのは、道中食べきれる量ではなかった蜜柑だけだった、というわけです。
「それにしても、私たちも食べてしまってよろしいのですか? 私たちは何の手伝いもしていませんのに」
凛が机の上に置かれた蜜柑を見て呟くと、うめさんがにこりと笑います。
「もちろんですよ。翠子様がいるから桜燐様もやる気が出るのですし、凛さんがいるから翠子様のお世話の心配もしなくて良いのです。ささ、二人とも食べて」
桜燐様も桜庭も、皆手が黄色くなるほど食べましたから。そう言われてわたくしと凛は顔を見合わせ、蜜柑を一つずつ手に取りました。
桜庭の者たちは半分ほどあやかし退治のために出かけ――半分は神社のために残ったようです――わたくしたちはその間待つばかりでしたので、喜んで貰おうとは思えませんでした。しかしうめさんが面の向こうに柔らかな笑みを浮かべていることは分かりましたので、その言葉に甘えて、ひとつ皮をむきます。口に運べば、柔らかな甘みとほどよい酸味が広がり、思わず「美味しい」と呟いていました。
「ふふ。桜燐様ってば、道中に食べた時、翠子様に食べさせたいと言っていたのですよ」
桜燐様は今、神社の中でひとに憑りついたあやかしを斬っているところで、屋敷にはいません。それをいいことに、うめさんがいたずらっぽい声で言うものですから、思わず顔が赤くなっていました。
「翠子様のお可愛らしいこと。ねえ凛さん?」
「ええ、本当に。桜燐様が溺愛なさるのもよく分かるわ」
「ふ、ふたりとも」
今度は恥ずかしさで顔が赤くなると、襖が開いて、桜燐様が顔を出しました。余計に赤くなるわたくしとは反対に、うめさんも凛さんも澄ました顔をするものですから、慌ててしまい、桜燐様を半分涙目になって見上げると、彼はおかしそうに笑うのです。どうやら、これまでのやりとりは彼に聞かれていたようでした。
「美味しいか、蜜柑」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「ジャム、とやらにするほどあるからな。好きなだけ食べたら良い」
そう言って桜燐様は襖を閉め、また神社の方に戻っていきます。今日はお祓いがあと何人分かあるそうで、遠出から戻ってからも、あまり休息を取られていません。移動も含めて三日ほど彼は家を開けていたため、まだゆっくりと話すことも出来ておらず、寂しい気持ちがちいさく燻っていました。
「ジャム、良いですね」
「でもまだ砂糖は高いわ」
「少量作るくらいなら、良いのではないでしょうか。街にパン屋も出来ましたし。私、パンに蜜柑ジャムをつけて食べてみたいです」
うめさんがきゃいきゃいと言います。わたくしは、何年か前に、英介がジャムパンを隣町で三つ買ってきたことを思い出しました。もちろんその三つは英介の分と、お父様の分とお母様の分です。わたくしの分はありませんでした。英介は自分の分の一部をわたくしに差し出し、食べたかったら何かするようにわたくしに求めてきたのですが、それが何だったかは、よく覚えていないのです。思い出したくなくて、封じ込めている記憶なのかもしれません。わたくしはそれらを頭から追い出すように頭を振り、桜燐様がパンにジャムをつけて食べている姿を思い浮かべました。
「作りましょうか、ジャム」
その日の晩、わたくしや凛たちの夕食が済んだ後、桜燐様はやっと屋敷に戻ってきました。どうにも、最後にお祓いをした男にはよくないものが憑いていたようで、祓うのに苦労したようです。夕食もまだだろうに、彼はまっすぐにわたくし達の寝室に戻ってきて、浴衣に着替えている途中だったわたくしを抱きしめました。
背中越しに彼の熱が伝わって、寂しかったですと言うと彼は頷いて、わたくしの白い髪を梳きました。うなじに唇が落とされる感触がして、そのくすぐったさにふふと笑うと、今度は顎に手が添えられて、唇が触れ合います。
「桜燐様も、寂しかったのですね」
「ああ」
「お夕飯、今日は桜燐様の好きな鯛の煮つけです。鯛、と言っても真鯛ではありませんが。ご飯も鯛の出汁で炊いたのですよ」
桜燐様がなかなかわたくしから離れようとしないので、可愛くなってしまい、顎に添えられたままだった彼の指をとり、そっと唇を落としました。
「あと、今日は凛とうめさんとジャムを作りました。蜜柑ジャムです。パンも買いましたので、お夕飯食べたら、火鉢であぶって差し上げますから。温かいパンにジャムを塗って食べると、それはそれは美味しいのですよ」
わたくしがよく喋ってしまうのは、寂しかった気持ちを埋めるように、彼の言葉を欲しているからなのかもしれません。わたくしは幼いころから家族に受けていた仕打ちのために、いつもいつも、心に穴が開いたまま、それを塞ぐ方法を知らぬままただ生きていました。しかし彼に出会って、愛されるようになってから、その傷口がそっと花びらで埋められて、そこから少しずつ、優しさが染み込んでいったのです。やがてその優しさは、寂しさというものを愛おしく思う気持ちに変えてくれました。しかしそれも彼が傍にいるからこそで、彼がいなくなると、注がれる愛が足りなくなるのです。だから彼が数日出かけるだけで、胸が締め付けられるような思いがしたのだと思います。
一方、桜燐様は言葉の少ないまま、わたくしをただ抱きしめていました。それはまるで、わたくしの存在を確かめているようで、彼もまたわたくしが傍にいないことが、不安でたまらなかったのだと分かります。
わたくしよりもずっと長く生きているはずの神様が、わたくしと同じような気持ちを抱いてくれていることが嬉しくて、ちいさく笑みが零れました。すると彼の抱きしめる力が強くなり、頬が寄せられました。
「討伐した妖魔は、女子が好きでな。数年に一度、美しい女子を捧げさせて、いたぶってから喰らうのだ。お前の妻も喰らってやろうぞ、と言われたから、急いで殺した」
彼が出かける前、隣町のお百姓の夫婦から、どうか娘を救ってほしいと懇願されていたことを思い出しました。彼らの娘が妖魔に捧げられそうになっていたのだと合点がいき、「そうだったのですね」と呟きますと、何を思ったのか、彼は「ひとが生きているというのは、奇跡のようなのだな」と言うのでした。
「わたくしは生きていますよ。ほら、触れば温かいでしょう」
「ああ、温かい」
「桜燐様と添い遂げると決めていますから。だから、もう安心してください。今日は疲れたでしょう?」
美味しいものを食べて、ゆっくり休みましょう。そう言うと、彼はやっと抱擁を緩め、居間に向かってくれたのでした。
その日、桜燐様に抱きしめられて横になりながらも、不思議と涙が止まりませんでした。理由は、自分でもよく分かりません。もう寂しい気持ちも満たされているはずで、お夕飯もジャムも彼は喜んでくれたのに、まだどこか、心が寂しいと訴えるのです。
疲れ果てて眠たいはずなのに、桜燐様は目を開けて、わたくしの頭を撫でてくれました。それでもわたくしが泣き止まぬと知ると、優しいやさしい口づけが降ってきて、わたくしの乾いた唇をそっと濡らします。彼にすべてを捧げてしまいたいという気持ちが強くなって、浴衣の帯に手をかけると、彼はそれをやんわり止めて、「式はいつ挙げようか」と言うのでした。
「式、ですか」
「西洋では、結婚式というものを挙げるらしいな。暁都でも真似をして、神社で式を行う者が増えているようだ」
「それって、つまり」
彼がそっと目を細め、枕元に散らばる、薄闇で淡くきらめく宝石を指でなぞりました。
「ちゃんと言ってなかったから、言う。翠子、俺の妻になってくれ」
指輪が出来たら、式を挙げよう。そう言って彼がわたくしの頬を撫で、返事をしようとして慌てるわたくしに悪戯に口づけをし、言葉を奪うのでした。やがて彼の悪戯が止むと、わたくしはやっとただしく夫婦になれるのだと気が付いて、顔を覆いました。
「わたくし、桜燐様のことをお慕いしていて。妻にしてくれるだけでなく、式も挙げてくださるのですか?」
「お前のこと、心置きなく妻だと言えるな」
「もうずっと言ってくださっていたではありませんか」
ぽろぽろと伝う涙を、彼がすくいます。今度はそれは喜びの涙だと分かりましたから、彼も薄闇の中で微笑んで、輝きを零す宝石を、愛おしそうに撫でるのでした。
このまま幸せの中、溶けてしまえればいいのに。そう思って彼の頬に触れると、ほんとうに彼とひとつになったように思えました。それはこれ以上もないほど幸福で、このまま死んでしまいたいと思うくらいでした。しかし朝になれば一つだった身体は二つに戻って、ただの一人になります。しかし朝日を浴びてきらめきを零す宝石たちの中には、ダイヤモンドがあり、わたくしたちは永遠にひとつなのだと思いました。
凛とうめさんに正式に結婚することに決めたと告げると、二人とも顔を真っ赤にして祝福してくれて――うめさんは面をつけてこそいましたが、首が赤かったので分かりました――、凛には抱きしめられました。
今日の夕食はお赤飯にしてくれるそうです。数日の疲れのために桜燐様は昼過ぎまで眠ったり起きたりを繰り返していましたが、昼過ぎに目を覚まして、白無垢を作ってもらいに行こうと言いました。
「わたくしが白無垢を着ることになるとは、思いませんでした」
「俺も、お前に着せてやれるとは思っていなかった」
「ふふ。桜燐様、ずっとわたくしが他の男のひとを好きになると思っていましたものね」
「それもあるが」
桜燐様は「もっと前」と呟きかけて、首を振りました。それから懐かしそうに目を伏せ、何を思い出したのか顔を赤らめましたので、なんだか揶揄いたくなってしまいます。彼の腕にわたくしの腕を回し、そっと頬を寄せますと、彼の体温が少し近づいたように感じられました。行き交う人々はそんなわたくしたちの様子を微笑ましそうに見たり、不思議そうに見ていたりしたものでしたが、今日は人目を恐ろしいとは思いませんでした。
「あらあら。正式な結婚はまだだったのですか」
雨宮の呉服屋に行くと、菫さんがわたくしたちを出迎えてくれました。彼女は女物の着物を着ていて、短い髪に花の飾りをつけています。てっきり帯と帯留めを選びに来たのだと思っていた彼女は、白無垢と聞いて目を丸くさせ、わたくしと桜燐様を交互に見つめるのでした。
「お義母様、お義母様。翠子さんが今度式挙げるんですって」
何ですって。飛び出してきたのはお義母様だけでなく、お義父様もでした。お義母様がドレスは? ドレスを着るの? と尋ねる横で、お義父様がにこやかに白無垢の相談を進めているのが面白くて、菫さんと一緒に笑ってしまいました。
「まあ、ドレスではなく、白無垢なのね」
「でもうちの白無垢で式を挙げてくるなんて、嬉しいことではありませんか。お義母様」
「それは、そうですけれど」
お義母様は、式には呼んでちょうだいねとしきりに言い、わたくしの結婚を祝ってくださいました。店を出る時、菫さんが店先まで追いかけてきて、わたくしの手を握ります。
「いいか。幸せにならなきゃ許さないぞ」
それは、なかなか素直になれないけれど、わたくしを案じてくれている彼女の、精一杯のお祝いの言葉でした。「わたくし、もう十分幸せです」と返せば、菫さんは「これは敵いませんね」と女子のように笑うのです。
商店街を祝い酒や料理の相談をしながら歩くと、普段特段輝かしくは見えない青空が、うつくしく澄んでいるように見えました。桜燐様もまた空を見上げ、ほんの少し悲しそうに目を伏せ、祈るようにわたくしの手を握ります。わたくしがその手をそっと握り返すと、彼はぽつりと呟きました。
「あれにひとつ感謝しているのは、お前に会わせてくれたことだ」
「わたくしもです」
「あれが悪さをしなければ、俺もお前も苦しまなくて済んだのにな」
ひとつでも良いことがあって良かったと、彼が零します。そうですね、とわたくしは頷きました。
わたくしの家は、ひとを虐げ支配することに愉悦を感じる人ばかりです。例えわたくしが奇怪な病を持って生まれなくとも、何かをきっかけに、両親にも使用人にも虐げられ、義弟に支配される生活になっていたかもしれません。そう思うと、桜燐様といううつくしく優しいお方に救われ、愛されるようになった今の人生で良かったと思うのです。ここにわたくしの生きる意味があるのですから。
「うめたちが赤飯を用意してくれるようだし、何か買って帰るか」
「あいすくりん、は溶けてしまいますし。あら、あそこの大福はどうでしょう」
「良いな。寄るか」
和菓子屋に寄ろうと思い、人通りの中を動くと、こちらをじっと見られているような感覚がしました。はつさんに出かける時は気をつけなさいと言われたのを思い出し、辺りを見回すと、前方から、鋭い視線がこちらを捕えているのに気が付きました。英介です。目は合いましたが、わたくしは曖昧に微笑むだけで、話しかけようとは思いませんでした。
きっと彼はわたくしの結婚を最後まで許さないでしょう。往来の中でわたくしに、ずっと飼われていれば良かったのにと言うくらいですから、わたくしを一生家という檻に繋いでおかねば気が済まなかったのだと思います。わたくしは桜燐様と手を繋いでいるところが分かるように、絡めた手を少し振りました。それから彼の腕にわたくしの腕を絡めて、仲睦まじい様子を彼に見せつけたのです。桜燐様も英介に気が付き、軽く会釈をしました。
「姉さん」
彼はすれ違う間際までわたくしを睨み、やがて人込みに消えていきました。
もっとも、それは青藍様がいたずらで放った妖魔の残りを倒しただけであって、桜燐様としては金銭もお礼の品ももらうつもりはなかったようなのですが、妖魔に困り果てていた街の者たちは、桜燐様が遠慮するほどにお礼をしようと必死になったようです。蜜柑の他に焼き立てのパンやら饅頭やらを渡されたそうですが、蜜柑以外は桜庭の者たちの胃袋に収まったようで、屋敷に運ばれてきたのは、道中食べきれる量ではなかった蜜柑だけだった、というわけです。
「それにしても、私たちも食べてしまってよろしいのですか? 私たちは何の手伝いもしていませんのに」
凛が机の上に置かれた蜜柑を見て呟くと、うめさんがにこりと笑います。
「もちろんですよ。翠子様がいるから桜燐様もやる気が出るのですし、凛さんがいるから翠子様のお世話の心配もしなくて良いのです。ささ、二人とも食べて」
桜燐様も桜庭も、皆手が黄色くなるほど食べましたから。そう言われてわたくしと凛は顔を見合わせ、蜜柑を一つずつ手に取りました。
桜庭の者たちは半分ほどあやかし退治のために出かけ――半分は神社のために残ったようです――わたくしたちはその間待つばかりでしたので、喜んで貰おうとは思えませんでした。しかしうめさんが面の向こうに柔らかな笑みを浮かべていることは分かりましたので、その言葉に甘えて、ひとつ皮をむきます。口に運べば、柔らかな甘みとほどよい酸味が広がり、思わず「美味しい」と呟いていました。
「ふふ。桜燐様ってば、道中に食べた時、翠子様に食べさせたいと言っていたのですよ」
桜燐様は今、神社の中でひとに憑りついたあやかしを斬っているところで、屋敷にはいません。それをいいことに、うめさんがいたずらっぽい声で言うものですから、思わず顔が赤くなっていました。
「翠子様のお可愛らしいこと。ねえ凛さん?」
「ええ、本当に。桜燐様が溺愛なさるのもよく分かるわ」
「ふ、ふたりとも」
今度は恥ずかしさで顔が赤くなると、襖が開いて、桜燐様が顔を出しました。余計に赤くなるわたくしとは反対に、うめさんも凛さんも澄ました顔をするものですから、慌ててしまい、桜燐様を半分涙目になって見上げると、彼はおかしそうに笑うのです。どうやら、これまでのやりとりは彼に聞かれていたようでした。
「美味しいか、蜜柑」
「ええ、とても。ありがとうございます」
「ジャム、とやらにするほどあるからな。好きなだけ食べたら良い」
そう言って桜燐様は襖を閉め、また神社の方に戻っていきます。今日はお祓いがあと何人分かあるそうで、遠出から戻ってからも、あまり休息を取られていません。移動も含めて三日ほど彼は家を開けていたため、まだゆっくりと話すことも出来ておらず、寂しい気持ちがちいさく燻っていました。
「ジャム、良いですね」
「でもまだ砂糖は高いわ」
「少量作るくらいなら、良いのではないでしょうか。街にパン屋も出来ましたし。私、パンに蜜柑ジャムをつけて食べてみたいです」
うめさんがきゃいきゃいと言います。わたくしは、何年か前に、英介がジャムパンを隣町で三つ買ってきたことを思い出しました。もちろんその三つは英介の分と、お父様の分とお母様の分です。わたくしの分はありませんでした。英介は自分の分の一部をわたくしに差し出し、食べたかったら何かするようにわたくしに求めてきたのですが、それが何だったかは、よく覚えていないのです。思い出したくなくて、封じ込めている記憶なのかもしれません。わたくしはそれらを頭から追い出すように頭を振り、桜燐様がパンにジャムをつけて食べている姿を思い浮かべました。
「作りましょうか、ジャム」
その日の晩、わたくしや凛たちの夕食が済んだ後、桜燐様はやっと屋敷に戻ってきました。どうにも、最後にお祓いをした男にはよくないものが憑いていたようで、祓うのに苦労したようです。夕食もまだだろうに、彼はまっすぐにわたくし達の寝室に戻ってきて、浴衣に着替えている途中だったわたくしを抱きしめました。
背中越しに彼の熱が伝わって、寂しかったですと言うと彼は頷いて、わたくしの白い髪を梳きました。うなじに唇が落とされる感触がして、そのくすぐったさにふふと笑うと、今度は顎に手が添えられて、唇が触れ合います。
「桜燐様も、寂しかったのですね」
「ああ」
「お夕飯、今日は桜燐様の好きな鯛の煮つけです。鯛、と言っても真鯛ではありませんが。ご飯も鯛の出汁で炊いたのですよ」
桜燐様がなかなかわたくしから離れようとしないので、可愛くなってしまい、顎に添えられたままだった彼の指をとり、そっと唇を落としました。
「あと、今日は凛とうめさんとジャムを作りました。蜜柑ジャムです。パンも買いましたので、お夕飯食べたら、火鉢であぶって差し上げますから。温かいパンにジャムを塗って食べると、それはそれは美味しいのですよ」
わたくしがよく喋ってしまうのは、寂しかった気持ちを埋めるように、彼の言葉を欲しているからなのかもしれません。わたくしは幼いころから家族に受けていた仕打ちのために、いつもいつも、心に穴が開いたまま、それを塞ぐ方法を知らぬままただ生きていました。しかし彼に出会って、愛されるようになってから、その傷口がそっと花びらで埋められて、そこから少しずつ、優しさが染み込んでいったのです。やがてその優しさは、寂しさというものを愛おしく思う気持ちに変えてくれました。しかしそれも彼が傍にいるからこそで、彼がいなくなると、注がれる愛が足りなくなるのです。だから彼が数日出かけるだけで、胸が締め付けられるような思いがしたのだと思います。
一方、桜燐様は言葉の少ないまま、わたくしをただ抱きしめていました。それはまるで、わたくしの存在を確かめているようで、彼もまたわたくしが傍にいないことが、不安でたまらなかったのだと分かります。
わたくしよりもずっと長く生きているはずの神様が、わたくしと同じような気持ちを抱いてくれていることが嬉しくて、ちいさく笑みが零れました。すると彼の抱きしめる力が強くなり、頬が寄せられました。
「討伐した妖魔は、女子が好きでな。数年に一度、美しい女子を捧げさせて、いたぶってから喰らうのだ。お前の妻も喰らってやろうぞ、と言われたから、急いで殺した」
彼が出かける前、隣町のお百姓の夫婦から、どうか娘を救ってほしいと懇願されていたことを思い出しました。彼らの娘が妖魔に捧げられそうになっていたのだと合点がいき、「そうだったのですね」と呟きますと、何を思ったのか、彼は「ひとが生きているというのは、奇跡のようなのだな」と言うのでした。
「わたくしは生きていますよ。ほら、触れば温かいでしょう」
「ああ、温かい」
「桜燐様と添い遂げると決めていますから。だから、もう安心してください。今日は疲れたでしょう?」
美味しいものを食べて、ゆっくり休みましょう。そう言うと、彼はやっと抱擁を緩め、居間に向かってくれたのでした。
その日、桜燐様に抱きしめられて横になりながらも、不思議と涙が止まりませんでした。理由は、自分でもよく分かりません。もう寂しい気持ちも満たされているはずで、お夕飯もジャムも彼は喜んでくれたのに、まだどこか、心が寂しいと訴えるのです。
疲れ果てて眠たいはずなのに、桜燐様は目を開けて、わたくしの頭を撫でてくれました。それでもわたくしが泣き止まぬと知ると、優しいやさしい口づけが降ってきて、わたくしの乾いた唇をそっと濡らします。彼にすべてを捧げてしまいたいという気持ちが強くなって、浴衣の帯に手をかけると、彼はそれをやんわり止めて、「式はいつ挙げようか」と言うのでした。
「式、ですか」
「西洋では、結婚式というものを挙げるらしいな。暁都でも真似をして、神社で式を行う者が増えているようだ」
「それって、つまり」
彼がそっと目を細め、枕元に散らばる、薄闇で淡くきらめく宝石を指でなぞりました。
「ちゃんと言ってなかったから、言う。翠子、俺の妻になってくれ」
指輪が出来たら、式を挙げよう。そう言って彼がわたくしの頬を撫で、返事をしようとして慌てるわたくしに悪戯に口づけをし、言葉を奪うのでした。やがて彼の悪戯が止むと、わたくしはやっとただしく夫婦になれるのだと気が付いて、顔を覆いました。
「わたくし、桜燐様のことをお慕いしていて。妻にしてくれるだけでなく、式も挙げてくださるのですか?」
「お前のこと、心置きなく妻だと言えるな」
「もうずっと言ってくださっていたではありませんか」
ぽろぽろと伝う涙を、彼がすくいます。今度はそれは喜びの涙だと分かりましたから、彼も薄闇の中で微笑んで、輝きを零す宝石を、愛おしそうに撫でるのでした。
このまま幸せの中、溶けてしまえればいいのに。そう思って彼の頬に触れると、ほんとうに彼とひとつになったように思えました。それはこれ以上もないほど幸福で、このまま死んでしまいたいと思うくらいでした。しかし朝になれば一つだった身体は二つに戻って、ただの一人になります。しかし朝日を浴びてきらめきを零す宝石たちの中には、ダイヤモンドがあり、わたくしたちは永遠にひとつなのだと思いました。
凛とうめさんに正式に結婚することに決めたと告げると、二人とも顔を真っ赤にして祝福してくれて――うめさんは面をつけてこそいましたが、首が赤かったので分かりました――、凛には抱きしめられました。
今日の夕食はお赤飯にしてくれるそうです。数日の疲れのために桜燐様は昼過ぎまで眠ったり起きたりを繰り返していましたが、昼過ぎに目を覚まして、白無垢を作ってもらいに行こうと言いました。
「わたくしが白無垢を着ることになるとは、思いませんでした」
「俺も、お前に着せてやれるとは思っていなかった」
「ふふ。桜燐様、ずっとわたくしが他の男のひとを好きになると思っていましたものね」
「それもあるが」
桜燐様は「もっと前」と呟きかけて、首を振りました。それから懐かしそうに目を伏せ、何を思い出したのか顔を赤らめましたので、なんだか揶揄いたくなってしまいます。彼の腕にわたくしの腕を回し、そっと頬を寄せますと、彼の体温が少し近づいたように感じられました。行き交う人々はそんなわたくしたちの様子を微笑ましそうに見たり、不思議そうに見ていたりしたものでしたが、今日は人目を恐ろしいとは思いませんでした。
「あらあら。正式な結婚はまだだったのですか」
雨宮の呉服屋に行くと、菫さんがわたくしたちを出迎えてくれました。彼女は女物の着物を着ていて、短い髪に花の飾りをつけています。てっきり帯と帯留めを選びに来たのだと思っていた彼女は、白無垢と聞いて目を丸くさせ、わたくしと桜燐様を交互に見つめるのでした。
「お義母様、お義母様。翠子さんが今度式挙げるんですって」
何ですって。飛び出してきたのはお義母様だけでなく、お義父様もでした。お義母様がドレスは? ドレスを着るの? と尋ねる横で、お義父様がにこやかに白無垢の相談を進めているのが面白くて、菫さんと一緒に笑ってしまいました。
「まあ、ドレスではなく、白無垢なのね」
「でもうちの白無垢で式を挙げてくるなんて、嬉しいことではありませんか。お義母様」
「それは、そうですけれど」
お義母様は、式には呼んでちょうだいねとしきりに言い、わたくしの結婚を祝ってくださいました。店を出る時、菫さんが店先まで追いかけてきて、わたくしの手を握ります。
「いいか。幸せにならなきゃ許さないぞ」
それは、なかなか素直になれないけれど、わたくしを案じてくれている彼女の、精一杯のお祝いの言葉でした。「わたくし、もう十分幸せです」と返せば、菫さんは「これは敵いませんね」と女子のように笑うのです。
商店街を祝い酒や料理の相談をしながら歩くと、普段特段輝かしくは見えない青空が、うつくしく澄んでいるように見えました。桜燐様もまた空を見上げ、ほんの少し悲しそうに目を伏せ、祈るようにわたくしの手を握ります。わたくしがその手をそっと握り返すと、彼はぽつりと呟きました。
「あれにひとつ感謝しているのは、お前に会わせてくれたことだ」
「わたくしもです」
「あれが悪さをしなければ、俺もお前も苦しまなくて済んだのにな」
ひとつでも良いことがあって良かったと、彼が零します。そうですね、とわたくしは頷きました。
わたくしの家は、ひとを虐げ支配することに愉悦を感じる人ばかりです。例えわたくしが奇怪な病を持って生まれなくとも、何かをきっかけに、両親にも使用人にも虐げられ、義弟に支配される生活になっていたかもしれません。そう思うと、桜燐様といううつくしく優しいお方に救われ、愛されるようになった今の人生で良かったと思うのです。ここにわたくしの生きる意味があるのですから。
「うめたちが赤飯を用意してくれるようだし、何か買って帰るか」
「あいすくりん、は溶けてしまいますし。あら、あそこの大福はどうでしょう」
「良いな。寄るか」
和菓子屋に寄ろうと思い、人通りの中を動くと、こちらをじっと見られているような感覚がしました。はつさんに出かける時は気をつけなさいと言われたのを思い出し、辺りを見回すと、前方から、鋭い視線がこちらを捕えているのに気が付きました。英介です。目は合いましたが、わたくしは曖昧に微笑むだけで、話しかけようとは思いませんでした。
きっと彼はわたくしの結婚を最後まで許さないでしょう。往来の中でわたくしに、ずっと飼われていれば良かったのにと言うくらいですから、わたくしを一生家という檻に繋いでおかねば気が済まなかったのだと思います。わたくしは桜燐様と手を繋いでいるところが分かるように、絡めた手を少し振りました。それから彼の腕にわたくしの腕を絡めて、仲睦まじい様子を彼に見せつけたのです。桜燐様も英介に気が付き、軽く会釈をしました。
「姉さん」
彼はすれ違う間際までわたくしを睨み、やがて人込みに消えていきました。



