着物が出来るまでの間も、何度か菫さんやお義母様の様子を伺いに店の前を通りかかりましたが、菫さんもお義母様も店先にいることが少なく、声をかけることはなかなかできませんでした。彼女らがあの後どのようなやりとりをしたのかは想像でしか分からず、かといってそれも人というものをよく知らぬわたくしの想像でしかありませんので、実際に彼女らがどのような想いで過ごしているのかは、少しも分からなかったのです。
着物が出来たという文が届いたのは、菫さんとお義母様が屋敷に来てからさほど経たぬうちでした。最初に告げられたおおよその日付よりも随分早い出来でしたので、わたくしも桜燐様も驚きましたが、きっとお義母様がご厚意で急いで作ってくださったのでしょう。それなら早く取りにいかねばならないと思い、その日のうちに取りに行くことにしました。
指輪よりも早く出来上がるとは思わなかったものですから、随分早い仕上がりでしたねと言いながら街を歩いていたのですが、心がうきうきと弾むのと同時に、何かに不安がる気持ちがあって、時折、言葉が少なくなります。その不安は、菫さんとお義母様があの後どうなったのかを気にしているから、というのは勿論あるのですが、やはり高価なものを与えられることから来ているところもあり、どうやら、桜燐様が着物を身に着けたわたくしに微笑みかけてくれるまでは、消えることはないようでした。桜燐様もその不安にどこか気が付いたようで、きっと似合うだろうなと呟いて、隣を歩くわたくしの指にそっと触れるのです。
やはり雨宮の店がある通りの近くは薄暗く、何か悪いものが起きるとしたらここなのだろうと感じられるところがありました。しかし不思議と、今日の雨宮の店にはそのような暗さはなく、代わりにどこか淀んだ光が零れているように思えます。これが吉兆なのか悪兆なのかはまだ分かりませんでしたが、わたくしはそれが吉兆だと信じて、桜燐様の袖を握りながら店に入りました。
「翠子さん、翠子さん来たよぉ」
菫さんのお義父様が声を張り上げると、奥がにわかに騒がしくなり、お義母様が慌ただしく出てきます。呆れ顔でその後に続いてきた菫さんでしたが、わたくしを見ると顔を曇らせました。せっかく出来たのだから着て行ってちょうだい、着せてあげるから。似合う帯も帯留めもいくつか見繕いましょ。そう言って奥に連れていかれるわたくしを桜燐様が不安そうに見つめていましたが、わたくしは安心してほしいと伝えるように微笑みます。
「やっぱりお人形さんみたいだわあ。お着物の下にブラウスを合わせるといいと思うの。そうしたらジュエリーも似合うようになるわ」
お義母様はどうやら、わたくしがもうひとのものであることを、あまり気にしていないようでした。ただ、西洋人形に似たわたくしを、人形と同じように可愛がりたいという気持ちは消えていないようでして、わたくしにあれこれ身につけさせようとするのです。気が付けばわたくしはお義母様の部屋に連れていかれていて、彼女が長い間箪笥に大事に閉まっていた、ブラウスやらリボンやらを選ばされているのでした。
菫さんもわたくしを心配してなのか、お義母様がわたくしばかり気に掛けるところが気にくわないからなのか、お義母様の部屋までついてきています。そしてしきりに、わたくしがどれを選ぶのかを気にしているのでした。
「そうだ、せっかくだからこれも。これはあげられないけれど、着けてみて」
お義母様が、棚の中で大事に飾られている首飾りを取り出します。それはダイヤモンドが使われているであろう首飾りで、障子越しに差し込む陽光できらきらと輝いていました。それを見た途端、菫さんがあっと声をあげ、お義母様の手を掴もうとしました。しかし、首飾りが落ちたらいけないと思ったのか、その手は引っ込められ、代わりに悲痛な眼差しがお義母様に向けられます。
「お義母様」
菫さんがぽつりと呟きます。母様ではなく、お義母様と。
「それは、小次郎様の嫁となる方に差し上げると、そう言っていたではありませんか」
「小太郎、どうしたのよ、急によそよそしくなって」
「私は小太郎ではないのですよ。お義母様も知っているのでしょう?」
いい加減、目を覚ましてください。菫さんの心からの嘆きの声がお義母様に向けられ、お義母様が狼狽えて、首飾りを机の上に置きました。菫さんは痛々しさを含んだ目をお義母様に向け、「私は菫です」と呟きます。
菫さんがやんわりとわたくしを部屋から追い出すと、途端、お義母様の叫ぶ声と菫さんの宥める声説得する声が聞こえるようになります。お義父様が騒ぎを聞いて駆けつけてきましたが、争いの内容を理解すると、ほっとしたように息を零すのでした。
「俺たちゃずっと菫に我慢させちまったからな。うちのもんはみんな無力でよ。いつか菫が爆発でもしなきゃ元に戻せねえって、諦めてたんだ」
巻き込んですまなかったな。お義父様はわたくしと目を合わせることはありませんでしたが、それでも声には労わるような調子が含まれていました。帯と帯締めはまた今度選びにおいで、旦那さんはとっくに支払いを済ませているからと言って、お義父様は喧噪の中からさっと着物を取り上げ、わたくしに渡してきます。
「わたくし、皆さまがあるべき形に戻れるように思うのです」
「菫に我慢させていた分、俺たちもこれからはやるさね」
お義父様はわたくしの背中をとんと押し、争いの間に入っていきました。わたくしが桜燐様の元に戻り、「信じましょう」と言うと、彼は静かに頷くのでした。
後日、雨宮の家から荷物が届けられました。包みにはわたくしがその日選び損ねた帯と帯締め――これは菫さんが選んでくださったようです――、お義母様の耳飾り、そして手紙が入れられています。翠子様、という文字から始まるその字は少々丸みを帯びていましたが、不思議な潔さがあり、差出人を見なくとも、菫さんからの手紙であることが伺えました。
あの日、追いだすようにして帰らせてしまった無礼、まことにお詫び申し上げます。あなたのことですから、それよりも解決できたかどうか気になされていると思いますので、結論から申し上げますと、お義母様はわたくしが小太郎ではないと、花街で買ってきた小娘だということを認めました。そこに至るまでひどい争いがあったものですが、それはまた今度会った時にお話しするとして、なぜあのジュエリーを私があなたに触られたくなかったのかをお話せねばなりません。あなたに無礼を働いてしまいましたので。
これは黙っていたことだったのですが、私は次男の小次郎様と恋仲にあるのです。恋仲といっても、許嫁ではなく、いわゆる愛人です。私が正しく彼の嫁になることは、まずあり得ません。せいぜい愛人として囲ってもらえれば良い方でしょうけれど、私はまだ小娘ですし、いつか彼も許嫁の女性を愛するようになるでしょうから、ただ今、彼が私を好いてくれている、それだけの話です。
あなたもお気づきでしょうけれど、私は宝石やジュエリーの類が好きです。私の恋は小娘がする幼稚なものでしょうけれど、それはそれは大事なものなのです。ですから、私がいつか彼と恋仲でなくなる時が来るにしろ、その証として、彼の愛する人に授けられるあの首飾りを、欲しいと思っておりました。身に着けるだけとはいえ、私でない者が先に首飾りを身に着けるのが、嫌だったのです。これが手紙に綴らなければあなたが知り得ない、あの出来事のわけでございます。それ以外の部分は、あなたが御察しの通りです。私は小太郎ではなく、菫として扱ってほしかったのです。
お義母様の思い込みの激しい部分はなかなかに難しいのですが、私は私を拾ってくれたお義母様を、家族として愛しているのです。ですから、ただそこから逃げ出すのではなく、雨宮の家で、娘として生きていくことを選びました。お義母様も、家族も、私が支えます。あなた方が償いのために来てくださったおかげで、この家は家族になれそうです。
これからはもう、あなた方の力がなくても平気でございます。しかし今度は友として、関わっていただければ幸いです。そんな言葉で締められる手紙の最後には、雨宮菫と書かれています。彼女が雨宮の娘になれたことにほっとするようで、もうわたくしたちの手がいらない寂しさと、これから友として関わっていけるかもしれないことに喜びが込み上げてきて、わたくしは隣で手紙を読んでいた彼の手を握りました。
『追記。お義母様はやはり翠子様のことがお気に入りのようです。たまに遊んでやってくださいね』
はらりと落ちた細い紙に書かれているのは、そんな茶目っ気のある言葉で、思わずふふと声が零れます。包まれていた帯と帯留めを、今身に着けている椛田の家から持ってきた帯たちと取り換え、桜の着物に合わせました。それからお義母様の耳飾りをそっとつけます。
よく似合っている。そう微笑む桜燐様に、わたくしもそっと笑みを返しました。
着物が出来たという文が届いたのは、菫さんとお義母様が屋敷に来てからさほど経たぬうちでした。最初に告げられたおおよその日付よりも随分早い出来でしたので、わたくしも桜燐様も驚きましたが、きっとお義母様がご厚意で急いで作ってくださったのでしょう。それなら早く取りにいかねばならないと思い、その日のうちに取りに行くことにしました。
指輪よりも早く出来上がるとは思わなかったものですから、随分早い仕上がりでしたねと言いながら街を歩いていたのですが、心がうきうきと弾むのと同時に、何かに不安がる気持ちがあって、時折、言葉が少なくなります。その不安は、菫さんとお義母様があの後どうなったのかを気にしているから、というのは勿論あるのですが、やはり高価なものを与えられることから来ているところもあり、どうやら、桜燐様が着物を身に着けたわたくしに微笑みかけてくれるまでは、消えることはないようでした。桜燐様もその不安にどこか気が付いたようで、きっと似合うだろうなと呟いて、隣を歩くわたくしの指にそっと触れるのです。
やはり雨宮の店がある通りの近くは薄暗く、何か悪いものが起きるとしたらここなのだろうと感じられるところがありました。しかし不思議と、今日の雨宮の店にはそのような暗さはなく、代わりにどこか淀んだ光が零れているように思えます。これが吉兆なのか悪兆なのかはまだ分かりませんでしたが、わたくしはそれが吉兆だと信じて、桜燐様の袖を握りながら店に入りました。
「翠子さん、翠子さん来たよぉ」
菫さんのお義父様が声を張り上げると、奥がにわかに騒がしくなり、お義母様が慌ただしく出てきます。呆れ顔でその後に続いてきた菫さんでしたが、わたくしを見ると顔を曇らせました。せっかく出来たのだから着て行ってちょうだい、着せてあげるから。似合う帯も帯留めもいくつか見繕いましょ。そう言って奥に連れていかれるわたくしを桜燐様が不安そうに見つめていましたが、わたくしは安心してほしいと伝えるように微笑みます。
「やっぱりお人形さんみたいだわあ。お着物の下にブラウスを合わせるといいと思うの。そうしたらジュエリーも似合うようになるわ」
お義母様はどうやら、わたくしがもうひとのものであることを、あまり気にしていないようでした。ただ、西洋人形に似たわたくしを、人形と同じように可愛がりたいという気持ちは消えていないようでして、わたくしにあれこれ身につけさせようとするのです。気が付けばわたくしはお義母様の部屋に連れていかれていて、彼女が長い間箪笥に大事に閉まっていた、ブラウスやらリボンやらを選ばされているのでした。
菫さんもわたくしを心配してなのか、お義母様がわたくしばかり気に掛けるところが気にくわないからなのか、お義母様の部屋までついてきています。そしてしきりに、わたくしがどれを選ぶのかを気にしているのでした。
「そうだ、せっかくだからこれも。これはあげられないけれど、着けてみて」
お義母様が、棚の中で大事に飾られている首飾りを取り出します。それはダイヤモンドが使われているであろう首飾りで、障子越しに差し込む陽光できらきらと輝いていました。それを見た途端、菫さんがあっと声をあげ、お義母様の手を掴もうとしました。しかし、首飾りが落ちたらいけないと思ったのか、その手は引っ込められ、代わりに悲痛な眼差しがお義母様に向けられます。
「お義母様」
菫さんがぽつりと呟きます。母様ではなく、お義母様と。
「それは、小次郎様の嫁となる方に差し上げると、そう言っていたではありませんか」
「小太郎、どうしたのよ、急によそよそしくなって」
「私は小太郎ではないのですよ。お義母様も知っているのでしょう?」
いい加減、目を覚ましてください。菫さんの心からの嘆きの声がお義母様に向けられ、お義母様が狼狽えて、首飾りを机の上に置きました。菫さんは痛々しさを含んだ目をお義母様に向け、「私は菫です」と呟きます。
菫さんがやんわりとわたくしを部屋から追い出すと、途端、お義母様の叫ぶ声と菫さんの宥める声説得する声が聞こえるようになります。お義父様が騒ぎを聞いて駆けつけてきましたが、争いの内容を理解すると、ほっとしたように息を零すのでした。
「俺たちゃずっと菫に我慢させちまったからな。うちのもんはみんな無力でよ。いつか菫が爆発でもしなきゃ元に戻せねえって、諦めてたんだ」
巻き込んですまなかったな。お義父様はわたくしと目を合わせることはありませんでしたが、それでも声には労わるような調子が含まれていました。帯と帯締めはまた今度選びにおいで、旦那さんはとっくに支払いを済ませているからと言って、お義父様は喧噪の中からさっと着物を取り上げ、わたくしに渡してきます。
「わたくし、皆さまがあるべき形に戻れるように思うのです」
「菫に我慢させていた分、俺たちもこれからはやるさね」
お義父様はわたくしの背中をとんと押し、争いの間に入っていきました。わたくしが桜燐様の元に戻り、「信じましょう」と言うと、彼は静かに頷くのでした。
後日、雨宮の家から荷物が届けられました。包みにはわたくしがその日選び損ねた帯と帯締め――これは菫さんが選んでくださったようです――、お義母様の耳飾り、そして手紙が入れられています。翠子様、という文字から始まるその字は少々丸みを帯びていましたが、不思議な潔さがあり、差出人を見なくとも、菫さんからの手紙であることが伺えました。
あの日、追いだすようにして帰らせてしまった無礼、まことにお詫び申し上げます。あなたのことですから、それよりも解決できたかどうか気になされていると思いますので、結論から申し上げますと、お義母様はわたくしが小太郎ではないと、花街で買ってきた小娘だということを認めました。そこに至るまでひどい争いがあったものですが、それはまた今度会った時にお話しするとして、なぜあのジュエリーを私があなたに触られたくなかったのかをお話せねばなりません。あなたに無礼を働いてしまいましたので。
これは黙っていたことだったのですが、私は次男の小次郎様と恋仲にあるのです。恋仲といっても、許嫁ではなく、いわゆる愛人です。私が正しく彼の嫁になることは、まずあり得ません。せいぜい愛人として囲ってもらえれば良い方でしょうけれど、私はまだ小娘ですし、いつか彼も許嫁の女性を愛するようになるでしょうから、ただ今、彼が私を好いてくれている、それだけの話です。
あなたもお気づきでしょうけれど、私は宝石やジュエリーの類が好きです。私の恋は小娘がする幼稚なものでしょうけれど、それはそれは大事なものなのです。ですから、私がいつか彼と恋仲でなくなる時が来るにしろ、その証として、彼の愛する人に授けられるあの首飾りを、欲しいと思っておりました。身に着けるだけとはいえ、私でない者が先に首飾りを身に着けるのが、嫌だったのです。これが手紙に綴らなければあなたが知り得ない、あの出来事のわけでございます。それ以外の部分は、あなたが御察しの通りです。私は小太郎ではなく、菫として扱ってほしかったのです。
お義母様の思い込みの激しい部分はなかなかに難しいのですが、私は私を拾ってくれたお義母様を、家族として愛しているのです。ですから、ただそこから逃げ出すのではなく、雨宮の家で、娘として生きていくことを選びました。お義母様も、家族も、私が支えます。あなた方が償いのために来てくださったおかげで、この家は家族になれそうです。
これからはもう、あなた方の力がなくても平気でございます。しかし今度は友として、関わっていただければ幸いです。そんな言葉で締められる手紙の最後には、雨宮菫と書かれています。彼女が雨宮の娘になれたことにほっとするようで、もうわたくしたちの手がいらない寂しさと、これから友として関わっていけるかもしれないことに喜びが込み上げてきて、わたくしは隣で手紙を読んでいた彼の手を握りました。
『追記。お義母様はやはり翠子様のことがお気に入りのようです。たまに遊んでやってくださいね』
はらりと落ちた細い紙に書かれているのは、そんな茶目っ気のある言葉で、思わずふふと声が零れます。包まれていた帯と帯留めを、今身に着けている椛田の家から持ってきた帯たちと取り換え、桜の着物に合わせました。それからお義母様の耳飾りをそっとつけます。
よく似合っている。そう微笑む桜燐様に、わたくしもそっと笑みを返しました。



