「よう、祈りにきてやったぞ」

 何日か経った後、境内の掃除をしていますと、菫さんが手をひらひらと振りながら近づいてきました。その態度からして、きっとお義母様が近くにいるのだろうと思い、境内に繋がる階段を見下ろすと、息を切らしながらお義母様が階段を登っているところでした。

「小太郎、やっぱりこの荷物を持っておくれぇ、あたくしもう疲れてしまったわ」
「だから言っただろ、おれが持つってよ」

 菫さんがたっと駆け出し、階段を下っていきます。そしてお義母様が抱えていた風呂敷を持ち、彼女を支えるようにして階段を登ってくるのです。わたくしも手伝おうかと思い声を掛けましたが、菫さんはにこりと笑って「平気」と言うのでした。

 お義母様は息を整えながらわたくしを嬉しそうに見つめ、菫さんに急かされてお祈りをしました。それからわたくしの方に戻ってきて、どこか少女のようにはしゃぎながら風呂敷を開くのです。中身はどうやら細々したもののようでしたので、落としたら大変だと思いお屋敷に上がってもらいますと、目元に皺のできた少女はやはり顔を輝かせて、風呂敷の中のものを一つひとつ見せてくるのでした。

「これはあたくしが鹿鳴館で踊っていた時に身に着けていたものなのよ」
「鹿鳴館で、ですか」
「もうその頃は、英吉利も独逸のものもみんなしっちゃかめっちゃかに身に着けていたものだから、外国の人からすればおかしかったのかもしれないのだけれど、あたくしたちみんな、外国のものが珍しくて綺麗で、身に着けたがったものなのよ」

 あたくしはその頃がいちばん綺麗でね、いろんな男性からいろんな贈り物をされたのよ。これは英吉利の首飾りね、これは仏蘭西のレースね、それから――。高価な首飾りや宝石たちが包みからいくつもいくつも取り出され、わたくしと菫さんが目を白黒させていると、彼女はそれらをうっとり眺めた後、「どれが良い?」と尋ねてくるのです。わたくしが思わず聞き返すと、お義母様はふふと笑って、「ドールのようなあなたが一番似合うわ」と笑うのでした。

「そ、そんな、いただけません」
「でもきっと似合うわよ? ほら、こっちにいらっしゃい。この耳飾り、きっと色の薄い人のために作られているのよ。黒髪のあたくしよりも、銀色の髪のあなたに似合うわ」

 わたくしの髪は長年の生活のために艶が少なく、光に当てても銀色のようには見えません。椿油を塗ればいくらか艶のあるように見えはするのですが、生憎今日は特別な手入れをしていない日です。しかし彼女はわたくしの容姿について、異国の人のようで良いという贔屓目で見ているのか、実際よりも綺麗に見えてしまうようでした。
 お義母様は、似合う人が身に着ける方がジュエリーたちが喜ぶと思っているのかもしれませんが、わたくしが身に着けても、それらが喜ぶようには思えません。それに元々、それらは彼女のために殿方が選んだものでしょうから、わたくしがいただくわけにはいかないのです。菫さんに助けを求めると、彼女もまたお義母様がそれらを手放そうとしていることに驚いていて、彼女の袖をそっと引っ張っているところでした。

「良いのよ、だって人間、いつか死んでしまうのだもの」

 お義母様がにこりと微笑み、「娘たちが宝石に興味があればそのままあげたのだけれどねえ」と呟きます。その言葉に菫さんがわずかに表情を歪め、そっと俯いたのには彼女は気が付かなかったようで、彼女は菫さんに、わたくしに与える耳飾りを選ぶように言うのでした。

「どれでもいいだろ、別に」

 菫さんがまるで宝石に興味がないかのような返事をするのに、お義母様は「これだから男の子はもう」と言うのですが、菫さんの言葉は興味がない故ではないのでしょう。ほんとうは菫さんは、自身のことも宝飾品で着飾りたいのでしょう。異国から運ばれてきた数々の美しいものに目を輝かせていたことは、机を挟んで座るわたくしには見えていましたし、それらを手放そうとするお義母様を止めているのも、それが惜しいからであるからのように見えました。
 きっと菫さんは、雨宮の家の中で、唯一宝飾品に興味のある女子なのでしょう。しかし男の子が女物のそれらを欲しがることはあまり聞かない話ですし、お義母様は菫さんを実の息子だと思い込んでいるわけですから、そういった女の子らしい趣味を表に出すわけにもいかず、羨ましい気持ちで揺れる声を、興味がないかのように装ってみせたに違いありませんでした。

「ねえお嬢さん。貰うのが嫌なら小太郎のお嫁さんになったらいいわ。そうしたら気にならないでしょう。小次郎はもうお嫁が決まっているのに、小太郎ってばまだなのよ。あなたならお嫁に歓迎よ」

 うきうきとした様子で話すお義母様を、かあさま、と菫さんが遮ります。その声に悲痛な色が滲んでいると気が付いた時、襖が開いて、桜燐様が顔を覗かせました。

「ただいま帰った、翠子。――客人が来ていると聞いて、挨拶をしに来たのだが、どうも妻が誘惑されているようだな」

 誘惑という言葉が正しいのかはともかくとして、彼の声には穏やかさがありましたが、その目にはどこか冷ややかな光が宿っていました。これは少々怒っているらしい、とわたくしと菫さんはすぐに気が付いたのですが、お義母様は分からなかったのか、構わず話続けています。
 とっても可愛らしいのだもの、憧れていた西洋人形みたい。お嫁さんに来てくれたら嬉しいわ。そう語る彼女に、桜燐様の目がだんだん険しくなり、やがてすとんとわたくしの隣に座りました。そしてわたくしの肩を抱き寄せ、「彼女は俺の妻です」とはっきり言ったのです。
 少し前まで、わたくしを妻と呼ぶことに躊躇いのあった彼が、わたくしが盗られそうになって本気で焦り怒っているのだと思うと、いくらかの驚きはあったのですが、彼から口づけをしてくれたあの時から、こういった気持ちはあったのだと思います。そう思うと彼が可愛らしく思えてくるのですが、今は菫さんとお義母さんの前ですので、口づけたい気持ちは抑え込みました。

「まあ、あらまあ、すでにお嫁さんだったのかい」

 しばらくの間が空いて、やがてお義母様が呆けたように言いました。菫さんが何度も言ってるだろとぼやいているのが聞こえましたが、お義母様はまるで初めて聞いたかのような態度です。それからしおらしく項垂れて、あたくしの大事なものを受け取ってくれる人はいないのねえ、と言うのです。瞬間、菫さんが鋭い目をして虚空を見つめましたが、やがてそれは冷ややかな笑顔に隠されました。

「母様、帰ろう」

 でも、とお義母様が言います。それに対して菫さんはもう一度、帰ろうと強く言います。それはどこか有無を言わさぬ強さがあり、お義母様だけでなく、わたくしも桜燐様も、菫さんの方をじっと見つめました。
 お義母様は、菫さんに連れられて帰っていきました。宝飾品を包みなおすのはわたくしも手伝ったのですが、菫さんがあまりにも手早く包んでいくものですから、早く立ち去りたいのだということはすぐに理解できましたので、誰も言葉を話すことはありませんでした。


「あの者が翠子を諦めなければどうしようかと思った」

 菫さんたちが境内を出たであろう頃、桜燐様がぽつりと呟きました。わたくしが二人に出したお茶の片づけをしている間、わたくしの傍を離れようとしない様子は、まるで子犬のようです。

「お義母様はそこまでする人ではないでしょうけれど、例え、わたくしは脅されようとも攫われようとも、あなたの元に戻ってきますよ」
「そうなったら、俺も、助けに行くのだが」
「まあ。でもわたくし、桜燐様と共に過ごすためなら、どんなことでも乗り越えられそうなのですよ」

 洗い物をするわたくしに、後ろから彼が手を回してきます。頬を摺り寄せるように抱きしめてくるものですから、なんだかくすぐったくなって、彼の頬に手を伸ばすと、彼の息が手にかかりました。手のひらに柔らかく唇が押し付けられると、愛おしさが込み上げてきて、たまらなくなりました。

「お前を盗られたくない」
「でも雨宮の家に償いをしたいのでしょう」
「そうなのだが」
「わたくしなら大丈夫ですよ」

 お前は自分の美しさを少しも理解していないのだ。わたくしの言葉に、彼が小さく呟きます。首を振ろうとすると、彼の細い指がわたくしの顎を捕えました。

「わたくしは美しくありませんよ」
「見た目も美しい。だが、それよりも、心だ。お前ほど美しい心の持ち主はそうそういない」
「わたくしは家族に愛されなかったために、捻じれた心を持っています」

 そんなことはない。彼が強く言いました。彼が言葉を荒げることは滅多にありませんので、驚いていると、途端に彼がしおらしくなります。こちらを抱きしめる力が弱くなり、彼の方を向くと、薄い色の瞳の奥に不安と寂しさを抱えて、わたくしを見つめているのでした。

「わたくし、思うのです。きっと菫さんがあの家を強くしてくれると」

 なぜそう思ったのかは、わたくしも分かってはいません。ただ、怒りや悲しみ、そこから抜け出したいと願う気持ちは人を動かしますから、菫さんもまた、そんな気持ちに動かされて、何かを変えるのではないかと思うのです。

「ひとはちっぽけではありますが、ただ弱いだけの存在ではありませんよ」

 微笑みかけ、そっと口づけると、彼は「そうか」と呟いて、わたくしをぎゅうと抱きしめました。それは納得しているというよりも、そう信じたいと願っているような弱々しさがあり、わたくしは幼子をあやすように彼の背を撫でるのでした。