宝珠の花嫁と償いの花婿 ――虐げられた乙女は哀傷した神に愛される――

 凛とうめさんが時折慎重にわたくしと桜燐様を交互に見つめてくる中、朝食が始まりました。いずれわたくしは桜燐様の妻となる心づもりでいます。夫婦とは同じ部屋で眠るものでしょうから、特段驚くべきことでもないと思うのですが、二人にとっては何か一大事だったようでした。

「鯖が少々焦げてしまいまして」

 うめさんが面の向こうでしおれて言うので、なんだかおかしな気持ちになり、わたくしは朗らかに「食べましょう」と言うのでした。

「桜燐様、お願いがあるのです」

 朝餉も終わりに近づいた頃、隣に座る桜燐様を見上げました。わたくしが彼に自分からお願いするのは初めてでしたので、彼はいくらかきょとんとした様子でこちらを見ます。
 お願い、というものをするのは自分の我儘ではないのか、迷惑ではないのかと考えてしまうもので、その先の言葉を口にするのにいくらか躊躇いがありました。思い切って息を吸い、最後の勇気にと湯呑のお茶を飲み干します。

「桜燐様の、『償い』の手伝いをさせてほしいのです」

 どうやら彼はどこかに買い物に行きたいとか、何かが欲しいとか、そういう可愛らしいお願いを想像していたようです。しばらくの間彼は黙ってわたくしの顔を見ていましたが、やがて昨夜の出来事を思い出して合点がいったのでしょう。ちいさく息を吐き、わたくしの手にそっと触れました。それから短いようで長い沈黙が流れ、「途方もないほどあるぞ」と呟きました。それはわたくしの提案を受け入れたというよりも、困惑している響きを持ち、わたくしの上に降ります。

「俺はお前にも償いをしている最中なのだ。手伝ってもらうようでは」
「もう十分償っていただきました。わたくしはあなたの力になりたい」

 凛とうめさんがこちらのやりとりを固唾を飲んで見守っています。固い空気の張りつめる中、桜燐様がわたくしの目を覗き込み、やがて諦めたように目を閉じました。

「俺は人間という生き物のことが分からぬ。お前がいてくれた方が、いいのかもしれない」
「それなら」
「今日、行きたい場所がある。一緒に来てくれるか」
「ええ、もちろんです」

 わたくしが腰を浮かせかけると同時に、凛とうめさんがほっと胸を撫でおろすのが見えました。凛が良かったですねと伝えてくるように微笑みかけるので、わたくしも微笑みを返し、それから桜燐様の手を取りました。
 わたくしはこれまでの人生のほとんどを家に閉じ込められて過ごしましたので、わたくしの方が桜燐様よりも人のことを理解しているとは思いません。涙が宝石に変わるという異能を与えられたことを除けば、なんの力も持たない人間でしかないのですから、特に何か役に立てるとも思いません。しかし、たったひとりで途方もない数の人に償いをするのは、あまりにも寂しく、苦しいことなのだと思うのです。わたくしが彼の傍にいることで、少しでも彼の気が安らぐなら、その方が良いと思ったのでした。

「朝食が済んだら出る。良いな」

 彼は困惑の表情を仕舞いこみはしませんでしたが、その上にほんの少し、ほっとしたような様子を浮かべます。彼もたったひとりで償いをするのが心細いと自覚していたようだと気が付き、少しだけ嬉しくなりました。



 神社の外に出ると、通りかかった道に植えられた木から甘い香りがします。桜が咲くにはまだ早い時分ですが、それは桜によく似ていて、本に書いてあった梅の花なのだろうと検討をつけました。
 こうして今まで本の中に書かれていた文字でしかなかったものが、こうして形を持って目の前に現れるのは、心が温かくなります。ただ文字ばかり浮かぶ世界に色がつき、形が現れ、次第に動き出していくのは、これまでのわたくしの生活では考えられないことでした。

「梅、持ち帰るか」
「いいえ。枝を折れば梅の木も痛がるでしょう」
「木は痛いとは言わないぞ」
「ですが、木も生き物ですから」

 桜燐様がふふと笑います。何がおかしいのか分からず、わたくしが唇を尖らせますと、彼は優しく表情を崩して、わたくしの頬をつつきました。

 先ほどまで桜燐様は、ひどく張りつめたような表情をしていました。今日向かう先は、まだ幼子だった子を青藍様の力で喪ってしまった家庭とのことで、桜燐様が以前頭を下げに向かったようでしたが、当然受け入れられるわけもなく、突っぱねられてしまったようです。しかしその一家は大きな問題を抱えており、桜燐様は放っておくことができず、彼等の家に気が重い中向かっているのでした。
 よほどこっぴどく突っぱねられたのか、それともその一家の抱える問題があまりにも複雑なのか、まだ詳細を伝えられていないわたくしには分かりません。しかしあまりにも桜燐様が怯えと躊躇いを含んだ顔をしていたものですから、彼がわたくしの言葉に少しでも笑ってくれたことに安堵しました。

 宝石市から通りを二本離れた場所は、宝石市と違って寂しい場所でした。こちらも様々な店が並ぶ場所であるのに変わりはないのですが、桜台の名物である宝石や宝飾品が並ぶ場所ではないからか、人通りが随分少ないように見えます。心なしか頭上に広がる空も暗く感じられるような、そういうどこか廃れた印象がありました。
 桜燐様の横に並び街を歩くも、頭巾を被っている異様な姿をじろじろ眺める者は少ないのですが、すれ違う際に鋭い視線を向けられることが何度かあり、ここに住む人には生活に余裕があまりないのではないか、ということが伺えました。

 ある茶屋の前で立ち止まると、中からほっそりとした小柄な少女が出てきました。歳はわたくしより少し幼いくらいだと思うのですが、おかしなことに、男物の着流しを着ているのです。
 すっと通った鼻筋も凛とした目元も、この頃の女子には期待のされぬ勇ましさを感じさせるものではあるのですが、丸みのある輪郭も薄い肩も、明らかに少女のものなのです。しかし短く切られた髪も腰のあたりで結ばれた帯も、男でなければしないものだったので、わたくしはしばしの間唖然として彼女のことを見てしまいました。すると彼女はその勇ましい目元にわずかに怒りと悲しみを含ませて、「お待ちしておりました」と言うのでした。

「奥様でしたか」

 少女は菫と名乗りました。そして小太郎と呼ばれていることを明かし、恥ずかしそうに俯きました。茶屋で桜燐様が頼んだお茶に手をつけることもなく、ふくらみはじめた胸元が着流しの形と合っていないことを気にしているようです。
 わたくしが先ほどじろじろ見てしまったことを謝ると、彼女は「慣れていますから」とぎこちなく笑いました。その笑い方がかつてのわたくしに似ていたので、思わず桜燐様を見上げると、机の下で彼はわたくしの手を握りました。

「前に桜燐様が我が家に訪れてから、いろいろと考えました。しかし神のいたずら、というのは信じがたいものですね」

 菫さんは元は孤児だったようです。生きるために盗みを繰り返していたようですが、ある日人さらいに捕まったそうで。そうして売られた先が、今彼女が住んでいる雨宮の家だったようです。

 雨宮の長男は、青藍様のいたずらにより幼くして亡くなっていました。馬車に轢かれて亡くなったそうなのですが、彼のお母様は息子の死を受け入れられず、彼が生きている妄想に取りつかれていたようです。そんな時に出会ったのが、離れた場所にある花街で売られていた菫さんでした。目元が似ている、きっと馬車に轢かれて死んだのではなく人さらいにあったのだ、そんな都合の良い想像をしてしまったお母様は、菫さんに小太郎と名乗らせ、雨宮の家に置くことにしたようです。

「お義母様は、私を男として育てているのではなく、私を男だと、小太郎だと思っているのです」

 女の身体に変わりつつある菫さんをお義母様は受け入れず、せめて晒を巻こうとすれば、そんなものは要らないだろうと剝ぎ取られてしまうのだと言います。まだ身体の変化がわずかな頃のようで、姿勢によっては身体の特徴は分かりにくくなりますが、じきに隠せなくなるでしょう。それまでにどうにかお義母様との関係を良くするか、家を出たいのだと菫さんは言いました。

 どうやら菫さんは、青藍様が運命を捻じ曲げた者ではなく、いたずらをされた他人によって人生を狂わされた人のようでした。桜燐様の本来の目的は青藍様によって被害を与えられた人に償いをすることですから、菫さんのような人はその対象ではないはずです。しかし彼はこうして放っておけずに、声をかけて話を聞いているのです。
 優しいお方なのだと思い、机の下で握られたままだった手を撫でますと、彼の手がどこか安心したように力が抜けました。思えば、ピィ太を埋葬してくれたのも、すべてわたくしのためなのではなく、わたくしという存在のために命を潰された彼を憐れんだからなのかもしれません。そんな彼の慈悲深い様は神というよりも、人に近いような気がしました。

「桜燐様は神様なのでしょう? 祈れば解決してくれるのですよね?」

 菫さんの一言に、桜燐様は言葉を詰まらせました。彼はあくまで桜を通じて生まれた神であり、さほど特別な力を持ちはしません。少々植物を操れる程度でしょう。彼のする償いは人の心を聞き、望みに寄り添うものですから、西洋由来のおとぎ話のように、祈れば魔女が魔法をかけてくれるものではないのです。
 桜燐様はしばし沈黙の後、やっと「それは出来ないのだ」と呟きました。すると菫さんはその凛々としたかんばせに明らかな落胆の色を浮かべて、「そう」と零しました。

「なあにが、話がしたい、だ」

 菫さんが立ち上がりました。そして鋭い目で桜燐様を見つめ、それから黙ってついてくるだけだったわたくしを睨みます。

「菫さん」
「うるさい、あんたには分からないだろうけれど、あたしは、神のせいなら、神に祈れば救われるって思っちまったんだ」

 お茶代だけ置いて、菫さんは走り去っていきました。わたくしが慌ててその後を追おうとすると、彼女が巾着を忘れていったことに気が付きます。それを取りに戻ったのは良いのですが、彼女がどこに向かったのかはさっぱり分からなくなっていました。
 桜燐様はおろおろとするわたくしの横で座り込んでいて、追いかけたいとわたくしが言うと、彼ははっとしたように顔を上げます。その目元に戸惑いと悲しみの色が浮かんでいるのに気が付き、わたくしは彼の隣に座りなおしました。今は彼に寄り添わねばならぬ時だと、そう感じました。

「人とは、難しいな。想像よりもずっと脆い」
「まあ。桜燐様は、人のことに随分詳しいのだとばかり」
「今朝も言ったが、それは違うのだ」

 桜燐様がわたくしを見上げます。それから戸惑いをさらに浮彫にした目を伏せ、ちいさく息を吐きました。その様子を見て、彼は菫さんの反応に傷ついて座り込んでいるのではなく、本当にどうしたらいいか分からず、追いかけられなかったのだと気が付きました。
 もしかすると彼は、人がこういう時にどんなことをするのかということをぼんやり知っているだけで、その行動の意味を正しく理解していないのではないでしょうか。いえ、おそらく分かりたいとは願っているのでしょう。だからわたくしが抱える寂しさや恐れに寄り添うことができるのでしょうし、ピィ太の亡骸を引き取ってくることも、凛を女中としてわたくしの傍に置くことを許してくれているのだと思うのです。ただ、人ですらどうすればいいのか悩むようなことは、彼にとっては複雑怪奇な問題なのかもしれませんでした。
 彼は寿命が長いうえに、人のしがらみから外れたところに暮らしています。人が生涯かけて苦しむようなことも、本来彼にとっては些細な問題なのでしょう。ですからほんとうは、わたくしが生家で虐げられていたことも、凛が嫁ぎ先で冷遇されていたことも、菫さんが今苦しんでいることも、神という存在にとっては数多に転がる人の悩みでしかないのかもしれません。それでもご友人の罪を償うために彼はひとを理解しようとしているのです。それは彼が備え、かつ育てた優しさというものなのだと思うのです。

「桜燐様は不器用なだけです。あなたは誰よりも優しいお方だと、わたくしは思います」

 彼は困ったようにわたくしを見ました。淡い色合いの虹彩にわたくしが映りこんでいることに確かな満足感を覚える自分がいることに気が付きましたが、今はそれを深く考えぬように、彼に見つからないように手を身体の後ろに隠して、そっと握りました。

「人ですら、人に詳しくなり得ることは難しいのです。理解したいという気持ち、それが一番大切なのではありませんか」

 ずっと家に閉じ込められていたわたくしが彼にこのようなことを語るのは、少々恥ずかしいような気がしましたが、彼に何か伝わってほしいという気持ちが勝りました。あなたに出会えたことを嬉しく思います。そう彼の瞳をまっすぐに見て言えば、薄い色のそれが惑うように揺れて、わたくしの袖を掴みました。

「さ、菫さんの忘れ物を届けに行きましょう」

 桜燐様の背をそっと押し、店を出ました。彼に案内してもらい菫さんがいる場所であろう雨宮が営む呉服屋に行くと、彼女は店のすぐ外で腕組みをして立っていたのでした。目が合うと彼女は自分がわたくしたちを待っていたと思われるのが嫌だったようで、他の客を待っていたのだと言い訳するので、いくらかの可愛らしさを覚えて、つい微笑んでしまいます。すると彼女は不貞腐れて、わたくしが渡す巾着をぶっきらぼうに受け取るのでした。

「『小太郎』さん」

 お義母様が近くにいるようでしたので、敢えて小太郎さんと呼ばせてもらったのですが、彼女は分かりやすく顔をしかめました。どうやら本来、彼女は気持ちが態度に出やすい人のようです。

「着物を仕立てる時は、この店に来ても良いですか」
「好きにしろよ」
「ふふ。ではそうさせていただきますね」

 先ほど彼女を失望させてしまったばかりでしたので、わたくしたちは今日は去ることにしました。去り際、彼女のお義母様が「あの可愛らしい子はだあれ? お前の嫁に良いんじゃないかい」と菫さんに話しかけているのが聞こえ、歩きながら目を伏せました。