はつさんは事情を話すと、うめさんが来るまで待っていて良いと言ってくれました。しかしお金を払わずに料亭にいるわけにもいきませんでしたので、甘味を頼んで待っていると、はつさんの顔が突然うつくしい女の人の顔に化け、わたくしの顔を覗き込みます。

「椛田の座敷童が家を出た、って噂になっているみたい。あなたのことだって分かっている人も何人かいる。きっとそんな噂を弟君は掴んだのね。あたし噂には詳しいのよ」

 もう一人で出かけない方がいいわよ、用心しなさい。はつさんはそう言ってから、わたくしの隣に座りました。

「それより、桜燐様に接吻された気分はどう?」
「せっぷん?」
「口づけのことよぉ、くちづけ」
「なぜそれを」
「ふふん、顔色見れば分かるのよぉ」

 わたくしが慌てて額を押さえますと、からからと引き戸が空いて、うめさんが姿を現しました。面をつけた顔は表情こそ伺えませんが、「まあ、とうとう」と言うその声は心なしか楽しそうに聞こえます。
 額だったのねえ、残念。そう笑うはつさんに向かって声にならない悲鳴を上げると、うめさんも「ほっぺじゃなかったのですね」と言うのでした。

「そこは唇一択でしょ、みんな初心なんだからもう」
「はあ、そうですか。ところで翠子様を連れて帰っても宜しいですか。凛さんが心配なさっているのです」
「どうぞ。お茶だけ飲んでいってしまいなさいね」

 わたくしが慌てて饅頭を食べて立ち上がると、はつさんが笑顔で見送ってくれました。外に出る時、これから用心した方が良いというはつさんの言葉を思い出し、ほんの少し怯みますと、はつさんが面越しに笑いかけてくれたように思いました。

「桜庭は、代々異能を受け継いできた一族です。私たちは百年ほど前に主様に拾われて以来、ずっと彼に仕えております」
「百年も前から、なのですね」

 うめさんはきょろきょろと辺りを見回し、顔を覆う面をそっと外しました。その頬には桜の花びらを思わせる痣があり、瞳は紅桜のように赤々とした色を灯しています。次第にその色が燃えるような色に変わっていくのを、わたくしはどこか吸い込まれるように見つめていたのですが、うめさんは往来に人が現れると、慌てて面をつけるのでした。

 彼女がわたくしの容姿に驚かない理由が分かりました。彼女もまた、人ならざる者の力を宿して生まれたがゆえに、人と違う容姿を持って生まれた者だったのです。

「私はまだ齢十七ですが、桜庭の歴史は古いのですよ。そして私たちは異能を持つ者たち。あなた様一人お守りすることなど容易い」

 安心してくださいませ。そう言ってうめさんはわたくしに手を差し出しました。

「さっき桜燐様が、うめさんが声が聞こえるって言っていたのは」
「ええ。私は人でない者の心の声が聞こえます。廉太郎や瑠璃のように変化することはできませんが、桜燐様には幼少から面倒を見てもらっていますから、遠く離れていても命が聞こえるのですよ」

 ありがとう、そう言えばうめさんは面越しにふわりと笑ったようでした。それは受け入れられたことに対する笑みのようで、かつてのわたくしに似ています。差し出された手を取ると、守るように包まれました。

「さぁ。凛さんが待っています。そしてあなたは桜燐様を迎えなければならない」
 帰りましょう。力強い声に励まされて、わたくしは道を歩きます。歩いている間に額に触れた唇の感触を何度も思い出して、顔が火照るようでした。



「ただいま戻った」

 桜燐様が戻ったのは、わたくしが屋敷に帰ってから随分と経ってからでした。椛田の家の者に何かされなかったとずっと案じていたものでしたから、慌てて駆け寄ると、彼はなんでもないことのように笑いました。そして躊躇いながらもわたくしに真っ白な包みを見せ、「庭に埋めよう」とほんの少し悲しそうに言うのです。その包みから零れる腐臭から、それがピィ太の亡骸であることが伺えます。
 殺されてもなおこのように掘り返され、朽ちていく姿を晒されていたと思うとやるせなくなり、しかし同時に、そんな姿のピィ太を大切に運んでくれた桜燐様に対して温かい気持ちが溢れ、わたくしはその場に蹲りました。目を抑えても涙が溢れ、手首を伝って零れていきます。床には青や赤の宝石が散らばり、きらきらとした光を落としていくのでした。

「桜燐様」
「うむ」
「ありがとう、ございます」

 このくらい構わない。そう彼が呟いたように聞こえました。彼に促されて立ち上がり、庭に出ると、風に運ばれてきた桜の花弁が一か所に集まっていて、山のように膨れ上がっています。それはまるで意思を持ち、ここに亡骸を埋めるように伝えてくるようでした。
 花弁をかき分けて土を掘り、そこに包みごと亡骸を埋めます。花弁を元の場所に戻せば、それらは墓の上で動かなくなり、封のようになりました。それは桜燐様がわたくしに祈りを込めて額に口づけた時のような、穏やかではあれども何か強い意志を宿したもののように見えます。わたくしが彼を見上げますと、彼は「ここならば平気だろう」と微笑むのでした。

 その日の晩、わたくしはひどく苦しい夢を見ました。夢の中では時がピィ太が英介に踏みつけられた時に戻っていて、わたくしは腐臭のするピィ太の身体を、英介から取り返そうと必死になっているのでした。
 わたしくはピィ太の腐った身体を見ておりません。見なくてはならないような気はしたのですが、桜燐様にやんわりと止められました。きっと大きな傷になるだろうから、見ない方が良いと、彼がそう言ったのです。しかし不思議な事に、夢の光景はまるでピィ太の遺体を見たかのように、腐り落ちた身体がそこにあるのです。彼によって再び踏みつけられ、翼がもぎ取られようとしている彼を、わたくしは跪いて懇願することで、なんとかして救おうとしているのでした。

『姉さんの言う通り、返してあげる。でもその代わり――して』

 彼がピィ太を解放する代わりに何を要求してきたのか、最初は聞き取れませんでした。しかしわたくしは哀れな小鳥を救い出すために、理解できないまま頷きました。すると英介はわたくしに目線を合わせて屈みこんで、わたくしの頬を伝おうとしていた宝石をすくいとります。
 彼はそれを口に含んでからうっとりと目元を綻ばせ、わたくしの唇に顔を近づけました。唇伝いに、口の中に宝石が転がり込んできます。ころころと転がるそれに口づけられたのだと気が付いた時、意識が浮かび上がってくるような感覚があり、目が覚めました。

 浴衣の下ではじっとりと汗をかいていました。身体に張り付いたそれが心地悪く、一度汗を拭わなければ眠れそうにありませんでした。そして何より、夢の中での出来事のはずなのに、唇に触れた柔らかいものの感触と、口の中に転がり込んだ宝石の舌触りは生々しく、ただの夢であるかのようには思えません。それはわたくしの恐れているものを継ぎはぎにしているものだったからかもしれませんが、湧き上がってくる嫌悪感は他に例えられるものがないのでした。

 身体を少しでも拭こうと思い、手ぬぐいを濡らしに廊下に出ました。春が近づいているとはいえ夜の空気はまだ冷たく、布団の外は凍えるほどの冷たさがあります。そんな中を震えながら歩いていると、近くの部屋から呻くような声がしました。その声があまりにも苦しそうだったので、何が起きたのかと思い声の元を探すと、それは桜燐様の部屋から聞こえてくるのでした。

「桜燐様」

 そっと襖を開けますと、布団の中で彼が魘されています。青藍、せいらん。すまない、ゆるしてくれ。そう寝言を零す彼を放っておけず、駆け寄って彼の肩を揺すれば、彼の手がわたくしの腕を掴みました。いったいどんな夢を見ていたのか、つよい力で引き倒され、彼とわたくしの身体が反対に返ります。布団の上に転がされたわたくしの首に、彼の手が添えられました。その様子を見て、わたくしは彼がどうして魘されていたのか、どうしてわたくしにご友人のことを話してくださらないのかを理解しました。
 彼はご友人を手に掛けたのでしょう。きっとこうして彼の手で、縊り殺したのでしょう。だからこうして今わたくしの首に手をかけようとしているのです。

 桜燐様になら殺されても良い。そんな思いが湧き上がりましたが、彼を置いて死んでしまうことは、とても虚しいことのように思いました。そして何より、わたくしに時折心を開いてくれる彼をひとりにしてしまうのは、さみしいことのように思いました。
 桜燐様、桜燐様。首を絞める力が強くなる前に声を零せば、彼ははっとしたようにわたくしから離れました。それから咳き込むわたくしを助け起こし、背をさすり、首に優しく触れ、何ともないかと尋ねるのです。暗がりで表情はよく見えませんでしたが、彼が今にも泣きだしそうな顔をしていることは分かりました。
 すまなかった、怖かっただろう、すまなかった。そう繰り返す彼の頬に触れて、なんともないと伝えるように微笑んでみせます。そして、おかしいことかもしれませんが、なんだかそうしたくなって、彼の唇にそっと口づけました。涙の味がしました。

「ご友人の名前、青藍様というのですね」

 しばしの沈黙の後、桜燐様は「そうだ」と呟きました。それからわたくしを抱き寄せて肩に顔をうずめ、静かに静かに、涙を零し始めるのです。

 彼等「神様」は人が神になってできた存在もあれば、世の中にぼんやりとある概念が、人の世に人の形となって降りてきたものもあるのだそうです。桜燐様は桜を信仰する人々の想いが桜の木を通じて人の姿をとったもの、ご友人の青藍様は青空に想いを馳せる人々の願いが神を生み出してできた存在なのだそうで。樹齢の長い桜の木とそれから生まれた神を土地神として崇める人々により、桜燐様は存在を確かにした百年前から、神社に祀られていたようです。二十年ほど経った頃、ある日突然降ってきたのが青藍様だったのだと、彼は言いました。

「青空という概念は、この土地の人間が祀るには大きすぎたようだ。暮らす場所がないというから、しばらく泊めてやることにした」

 その頃すでに桜燐様は、桜庭の者たちを傍に置いていたようでしたが、人とは生まれては死んでいくもの。人とは違い永久を生きる神という存在が、傍にいるようになったことが、彼はとても嬉しかったようです。

「あれは天真爛漫というか、無邪気な男でな。見目は俺と変わらぬ大人の姿だというのに、子どものような性格だった」

 ただの友と呼ぶには長すぎる時を、二人は過ごしたそうです。青藍様を祀る神社はいつまでも作られないまま、ただ存在だけを確かにする彼は、人の輪に混ざっては受け入れられ、時に遠ざけられていたとのことでした。
 閉じていた国を開き、欧米から様々な技術が入ってきたために、古来より人々が大切にしていた神秘というものが軽んじられてきた時分です。人によっては神というものなど、ただの伝統でしかないのかもしれません。だから人の形をとって人の輪に混ざる神は、新しい時を生きる人々にとっては「嘘を吐く人間」でしかなかったのでしょう。しかし桜燐様は違いました。桜燐様は神社を通してひとからの信仰を得ている神様です。彼が人の姿で現れても、敬うひとの方が多かったようです。だから二人の間には少しずつ、溝が生まれていきました。
 青藍様がもう少々大人びた性格であれば二人は拗れなかったのかもしれませんが、生まれた亀裂は元に戻ることはなかったようです。

「あの男は元々、人の世に混ざるには力が強すぎたのだ」

 子どもは無邪気に虫を殺してしまうことがあります。善悪のつかない子どもとは、理性や常識というもので行動を抑えられないものです。きっと彼もそうだったのでしょう。もっと自分という存在を認めてほしいと願った彼は、自分の力を使ってひとに「いたずら」をすることにしたようです。もっとも、そのいたずらは人の生を左右してしまうほどに強いものでしたが、やはり人ならざる者であるからでしょうか、彼にはそれが理解できなかったようです。
 彼は次第に人の生が狂っていくことに愉悦を見出し、人々が彼にひれ伏すようになってからも人の運命を曲げ続けたようです。子を喪った親、わたくしのように異能を与えられた者、事故に遭った者。どれほど桜燐様が彼を叱っても運命を変えられる者の数は減らず、とうとう桜燐様は彼を殺めることを決めたとのことでした。

「俺は争いのための力をさほど持たぬ神だ。あれを殺すのに何年も何年もかかった」

 わたくしは彼が永い時を、大切なご友人を殺めるために神経をすり減らしていたという事実に心を寄せました。それはわたくしの想像では足りないほど苦しく、悲しい時だったのでしょう。わたくしが何か言葉にしても、彼をすくうには足りないと分かってしまいますから、わたくしはただ彼に抱き寄せられたまま、彼の背を撫でました。少しでも彼にこの気持ちが届いてほしいと願って、手のひらに想いをのせます。

「最後は縊り殺した。しかし神というものは、人の想いがある限りはまた生まれ落ちるものだ。あれはまた俺の前に現れる。俺はそれが恐ろしい」

 桜燐様はご友人を殺めたことでひどく傷ついているのに、また彼を殺さないといけなくなるかもしれないと怯えているのです。先ほどわたくしの首を絞めようとしたのは、蘇った青藍様の姿を見ていたからなのかもしれません。
 苦しめるには十分な力はあれども、殺すためには随分力が弱かったのは、躊躇いというものがあったからなのでしょう。そう思うと彼の持つ痛みが自分の痛みのように思えてきて、たまらなくなりました。

「わたくしが、神と同じように永く生きられればよかったのに」
「なぜ、そう思う」
「永く生きれば、あなたと青藍様が再び出会う時、共に過ごすとき、お傍にいて差し上げられます」
「滅多なことを言うんじゃない。何度も置いて行かれる苦しみ、お前は味わうな」

 わたくしを抱きしめる力がぎゅうと強くなり、彼の身体から汗の香りが漂いました。わたくしも嫌な夢のために汗をかいていたことを思い出しましたが、彼の匂いと混ざっていくようで、悪くないことのように思えます。彼の薄い色の髪は暗がりの中だと黒色と相違ないように見えましたが、わたくしはそれがきらめいていることを想像し、そっと梳いてみました。

「ならばせめて、長生きせねばなりませんね」
「そうしてくれ」
「わたくしも怖い夢を見ました。生き物の死とは、ひとのこころの脆い部分にどうしてこうも刃を立てるのでしょうね」

 お前はどんな夢を見たのだ、彼が問います。わたくしが義弟に籠絡されそうになる夢だったと答えますと、彼が抱擁を緩め、わたくしの顔を覗き込みます。どうやらわたくしの瞳にまだ恐怖や不安が残っているのに気が付いたようで、「すまなかった」と項垂れるのでした。

「お前も苦しかった時に、すまない」
「いいえ。こんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、わたくしは嬉しいのです。あなたの心に触れたいと願っていましたから」

 そうか、と零す彼を今度はわたくしが抱きしめます。彼の身体は細く見えるのに、抱きしめると男の人らしいかたちをしていました。それに胸がとくりと音を立てるのに気が付きましたが、胸の奥底に押し込めました。

 その日わたくしは桜燐様と共に眠りました。なんとなく、離れるのが恐ろしかったのです。二人でまた暗闇のような夢を見ることに怯えて、抱きしめる腕を、どちらからも解くことができませんでした。同じ褥の中に横になり、ひとつの掛布の中にくるまって、お互いの身体がはみ出さないように身を寄せ合って眠ることで、安寧を見出そうとしたのです。やがて穏やかな眠気がやってきて、気が付けば朝になっていました。

 わたくしを起こしに行ったであろう凛が、わたくしの部屋の布団がもぬけの殻になっていることを訝しみ、着替えもせずにどこに行ったのだろうと案じたのでしょう。廊下を歩く彼女の足音で、わたくしは目を覚ましました。
 隣で眠る桜燐様を起こさぬようにそっと布団から抜け出そうとすると、彼がとろりとろりと目を覚まします。瞳をふちどる薄い色の睫毛がわずかに震える様子に愛おしさを覚えて、彼の瞼に触れると、彼が驚いてわたくしを見上げ、それから静かに微笑みました。

 桜燐様の部屋から出てきたわたくしに凛は随分と動揺していましたが、どうにも良からぬ勘違いをされているようでしたので、ただ布団に潜りこんだだけだと説明すると、彼女はほっとしたような、また驚いたような、不思議な表情をして家事に戻っていきました。わたくしもまた家事をするために一度部屋に戻り、身支度をして厨房に向かいました。