宝石市は、多くの人が仕事をしている頃だというのに賑わっていました。さざれ石を売る店もあれば、品質を重視した裸石の店もあり、また宝飾品を仕立てる店にも人が集まっていて、ひとの声が溢れています。未だに慣れぬ雑踏はわたくしには歩きにくく、躓きそうになる度に桜燐様の腕を掴もうとすると、彼はまるで掴まれることが分かっているように腕を差し出すのでした。

「気になる店があれば言ってくれ」

 桜燐様は朝の様子と違い、にこやかな微笑みを浮かべていました。それは穏やかで、包むような優しさがあります。彼が今だけでも、ご友人が背負った罪のことも、わたくしに恨まれたいと思っていることも忘れてくれるなら良いと思い、わたくしは何も言わないことにしました。隣を歩く彼が、あれはどうだろう、これはどうだろうと歩きながらわたくしの目を覗き込むのは、胸の奥底が温かくなるような心地がして、このひと時を大切にしたいと思いました。

「あの店に寄っても良いでしょうか」

 通りかかった店に置いてあったのは、数々の指輪でした。細やかなきらめきが生まれるように磨かれた石を簡素に飾った指輪もあれば、小さな石で花びらを象ったような飾りがついているものもあり、また、リボンを模した形の指輪も置いてあります。店の中の明かりに照らされてそれらは華やかな輝きを持ち、わたくしの胸に真っすぐ届いたのでした。
 吸い寄せられるように店の中に入ると、奥に置かれた硝子の箱の中にダイヤモンドの使われた首飾りが入れられているのが見えました。それは一歩近づくほどにきらきらとした光を放ち、わたくしの目を惹きます。

「そういえば、お母様が身に着けていたわ。ダイヤモンドの首飾り」
「嫌か?」
「いえ。確かに、お母様のことを思い出しはしますが、惹かれます」

 お母様が身に着けていたすべての装飾品は、華族が身に着けるのに恥じないような上等なものではありましたが、お父様が記念日と称して贈っていたものは、加工の際に傷がついて、価値が落ちてしまったものが多いようでした。
 特にダイヤモンドは高価に取引されているもので、身に着けていればそれはそれは羨ましがられるものです。お母様はお父様に贈られたダイヤモンドの首飾りが傷ついているとも知らず、仲間のご婦人方の前で見せびらかしていたようなのですが、事情を知っている女中には陰で笑われていました。そういった出来事はまだ生々しく記憶していますが、今は思い出さずとも良い話です。
 宝石にしろ宝飾品にしろ、すべて椛田の家にいた時の記憶が付きまとうのですから、あれを思い出すから嫌、これを思い出すから嫌、と避けるよりは、自分の心が動いたものを選ぶのが良いように思いました。

「お嬢さんもダイヤモンドが気になるかい。若い娘に限らず女は皆憧れるもんだ」
「あ、いえ、ただ、心が惹かれると。ダイヤモンドに限らず、ここの宝石は皆うつくしいです」
「そうか。旦那様も見る目があるようだし、ゆっくり見ていくと良い」

 旦那様。その言葉に、ぽうと頬が熱くなるのを感じました。桜燐様の表情をそっと伺いますと、渋い顔をしたりほんのり赤くなったりを繰り返していて、わたくしが妻になるかもしれないことを、嫌がってはいないことが伺えます。わたくしはそんな様子にちいさな満足感を覚えてしまい、彼から顔を背けて、隠れるようにして微笑みました。店の者はそんなわたくしたちの様子から、結婚したばかりの男女なのだと思ったようで、ある提案をしてきました。

「これは今街で流行りはじめているのだがな。互いを想って作った宝石を身に着けると、永遠に仲睦まじくいられる、とかな。まあ、まじないの類だがな、宝石とは人を魅了する魔術がかけられているものよ。あながち嘘でもないかもしれん」

 商人の話によると江戸の頃から、愛情表現のひとつとしての指輪の存在があったようです。また宝石には愛を表す石言葉を持つものがあり、そういった意味を含ませた指輪を恋人や夫婦の間で贈り合うことで、愛情をより確かなものにしようとするのが若人の中で流行っているとのことでした。ルビーや薄桃色の水晶を商人が紹介していく中、そっと桜燐様を見上げると、やはり顔を赤らめて、でも何でもない風を装ってそっぽを見ているのです。彼のそんな様子は、わたくしの胸の奥に眠る甘酸っぱいものを揺らして、そっとほどいていくようでした。

「桜燐様」
「何だ」
「指輪、作って貰いませんか」

 わたくしは風呂敷の中から、深い赤色の石と淡い桜色の宝石を取り出しました。あの日、カレーライスを食べさせてもらった時に生まれた宝石たちです。おそらくルベライトとピンクサファイアであるそれらを手のひらで転がすと、商人がぎょっとしたように後ずさりしました。桜燐様の目が見開かれ、もし何かあっても良いようにでしょう、その身体に力が入るのが分かりました。

「そんな一目で高価と分かるもの、君はどこの令嬢なんですか」
「どこの者でもありません。ところで、指輪を作るのはどれくらいかかるのでしょうか」

 冷や汗をかきながら商談を始めた商人を見て、桜燐様の肩から力が抜けました。

「この間のことのようになるかもしれぬとは、思わなかったのか」
「桜燐様がいますから」

 男の人とは男の人にひるむものです。わたくしと凛だけだからあの時はひどい目に遭ったのですから、桜燐様がいればそれほど怖い目に遭わないであろうことは分かっていました。それに、ここにいる商人たちからはお父様とお母様や、この前の商人といった悪だくみをする人たちと同じ匂いがしません。良い人なのではないかという、薄っすらとした予感があったのでした。そう伝えると、桜燐様は怒っているとも驚いているとも、感心しているとも分からないような顔をして、わたくしを見ます。

「お前、案外肝が据わっているな」

 そうでしょうか。わたくしが微笑むと、彼は困ったように笑いました。それからわたくしが見せる宝石を見て、それぞれを想った指輪を作ろうと誘いかけているのだと気が付いたようで、今度は戸惑ったように、曖昧に微笑みました。

「俺は翠子を捕えたくないのだ」
「わたくし」

 言いかけて、彼の袖を引きました。彼の耳元で囁けるように屈みこんでもらい、手を筒のようにして彼の耳元に当てます。商人たちには聞かれたくない言葉でした。

「わたくし、あなたになら囚われてもいいのです」

 瞬間、彼が硬直して、わたくしの手が触れている頬が不自然に動きました。わたくしが彼のすぐ傍から離れますと、彼の顔がみるみる赤くなっていくのが見えます。彼はそのまま、少しの間固まったように動きませんでしたが、やがてその場にしゃがみ込もうとするのを堪えるかのように、自らの膝に手を当てました。

「翠子、おまえ」
「ふふ。本当のことを言っただけですよ」

 彼がわたくしを妻でいさせるのを拒むのは、わたくしが他を知らぬだけだと思っているからでしょう。きっと彼からすれば他の人間を、そして他の男をほとんど知らぬわたくしが彼に一心に想いを向ける様が不思議に映るのでしょうけれど、わたくしは彼に救われたのです。例え他に男の人と知り合う機会があったとしても、桜燐様の優しく温かな手のひらが愛おしく、離れがたいと思うでしょう。それはわたくしが知らずに育った愛というものでした。
 彼がわたくしを傍に置いてくれたことで、わたくしはわたくしに育つはずのなかった情を心のうちに芽生えさせたのです。彼に与えられ彼のために育てた情は、他の誰かに渡したくありませんでした。

「いつか、後悔するぞ」
「いいえ、しません」

 わたくしの微笑みに、彼はぐぅと押し黙って、一度そっと目を閉じました。それから「どっちをお前の石にするのだ」と尋ねてきました。わたくしの頬が湯につかったように熱くなるのを感じ、彼に微笑むと、商人がすかさず石の持つ意味について話してきました。

 ルベライトには貞節や思慮深さといった意味があるそうです。またピンクサファイアには慈愛や豊かな愛情と言った意味があるようで、どちらがどちらを渡しても良いように思えました。それならばわたくしが桜燐様に対しての貞節を尽くし、彼がわたくしに愛を与えるという意味になるように、わたくしが彼にルベライトを与え、彼がわたくしにピンクサファイアを与えるのはどうかと彼に問いかけますと、彼は頷いてくれました。
 宝石を生み出したのはわたくしであり、宝飾品に仕立て上げる代金を出すのは桜燐様であり――きっと神社を管理しているのも、お金の管理をしているのも桜庭なのですが――、少々ちぐはぐであるように思えましたが、前に宝石を売った時、気が削がれて買うことのできなかった贈り物を用意することができるようで、心が躍るようでした。

「俺は指輪の意匠とやらは分からんぞ」
「そのために我々職人がいるのです。旦那様の奥様を想う気持ちが分かれば、こちらもジュエリーを作れるというもの」

 鹿鳴館の頃ほどの洋装に対する流行はありませんが、やはり上流階層では洋装に合う指輪を作ることが多いようです。お母様は舶来の意匠を模したものばかり好んでいましたが、あれも出かける際は洋装を着ることが多かったことに関わりがあるのでしょう。聞けば、指輪自体着物に合わせやすいのだそうで、桜燐様は神様ですし、生涯の多くを着物で過ごすのではないかと思い、特に着物に馴染む指輪に仕立てて欲しいと職人に伝えました。
 桜燐様はどんな指輪が良いのか随分と悩んでいるようでしたが、やがてわたくしの目を盗むようにして職人に耳打ちし、あとは任せると口にしたのでした。

 指輪が出来上がるのは数か月後だと伝えられ、わたくしたちは店の外に出ました。澄み渡る空には白い雲がぽかりと浮かんでいて、ゆっくりと風に流されていきます。その様子に心地よさを覚えて、桜燐様を見上げると、彼はまだ顔を赤くしたままそっぽを向いているのでした。

「指輪、ありがとうございます」
「ああ」

 躊躇いながらも彼の手が伸びて、わたくしの頭に触れました。撫でる動作には慈しみが籠められていて、思わず目を閉じたくなります。しかし人込みの中ですので、彼にたしなめられ、わたくしは代わりに彼の服の裾を掴みました。頭を撫でる手が降り、わたくしに腕を差し出します。その腕にわたくしの腕を絡ませ、往来を歩いていると、わたくしたちが結ばれた間柄であるように感じられました。

「まあ、素敵な飴細工」
「買っていくか?」
「先ほどジュエリーを作っていただいたばかりです」
「なら、うめと凛の土産にするか」

 飴細工が売られている露店に近づくと、宝石市で売られているものらしく、研磨された宝石を思わせる形のものがいくつも置かれていました。他にも猫や犬を表したものなど、可愛らしいものも多く、ついつい時間をかけて眺めていますと、後ろから聞き慣れた声がしました。

「姉さん」

 さっと全身の血が凍りつくような気がしました。振り返るのも恐ろしく、その場で縮こまっていると、わたくしの様子がおかしいことに気が付いた桜燐様が、わたくしを半ば抱えるようにして様子を訪ねてきますが、首を振ることしかできません。
 もう一度「姉さん」と呼ばれ、わたくしの肩が震えます。その時、桜燐様も後ろにいるのがわたくしの義弟だと気が付いたようでした。行こう、と背をさすられます。しかし聞き慣れた下駄の音は容赦なく近づき、静止しようとする桜燐様の手をかいくぐってわたくしの頭巾を奪いました。

「洒落た格好なんかして」

 この日わたくしは、凛に髪を結ってもらっていました。街で流行り始めているマガレイトという髪型です。出かける際は頭巾を被ってしまいはしますが、桜燐様と二人で出かけることが嬉しくて、浮かれていたのです。
 凛は少しでもわたくしが容姿に自信を持てるようにと、誰かに見てもらうためのものでなくても身だしなみを整えてくれるのですが、今日が特別な一日になるようにと願いを込めて、凝った髪型にしてくれていたのでした。髪に結われたリボンが解かれ、彼の手に握られました。桜燐様がわたくしを隠すように前に立ちはだかりましたが、英介の目が桜燐様の身体越しにわたくしを睨みつけているように思われます。

「姉さんはずっと、僕に」

 飼われていればよかったのに。そう、言われたような気がしました。嗚呼、小さな声が零れました。

 わたくしは生まれてからずっと、家というものに飼われていました。犬のように首輪をつけずとも行く場所もありませんでしたので、わたくしは家から逃げ出そうとしたことすらありませんでした。そんな不自由な家の中で、逃げることすらできないわたくしに首輪をつけようとしてきたのが英介でした。

 英介はわたくしが八歳の時に、二人目の子どもに恵まれない椛田の家のために、お父様の弟の家から貰われてきた子どもでした。その当時はまだ六歳で、純粋な子どもだったと記憶しています。わたくしが叩かれればやめてと泣き、食事を抜かれれば自分の食事を分け与えようとする優しい子でした。しかし彼は義母と義父の二人に、わたくしへの仕打ちは愛情なのだと教えられたようでした。愛があるから厳しくしているのだと、女だから英介と扱いが違うのだと、説得されたようです。彼もまた己が家の繁栄のために貰われた子である経験から、さほどしないうちに人とは支配し支配される関係なのだと学んでしまったようでした。
 二年ほど経ったある日、彼はわたくしが庭で大事に守っていた花を、わたくしの前で踏みつぶしました。やめてと泣くわたくしの涙をすくい、好奇心のまま舌の上に載せた彼は、至高の甘味を口に含んだかのように、うっとりと表情をころがすのでした。それが八歳の子どもがする顔ではないことはすぐり分かりました。人を支配することに喜びを見出す様はひとの持つ醜い姿そのものです。しかしそれは子どもの顔をして、無邪気な風を装ってわたくしに近づいたのでした。

「姉さんが小鳥を埋めていたところ、母さんが掘り返していたよ」

 きっと姉さんが宝石を一緒に埋めているに違いないと思ったそうだよ。そう言って彼は薄く笑いました。

「ピィ太しか出てこなかったでしょう」
「腐りかけた身体しか出てこなかったよ。母さんが汚いって叫んでさ、大変だったんだ」
「酷い」

 椛田の家を出る時から、ピィ太の墓を掘り返えされるのではないかと心配していました。しかし彼等は涙から生まれる宝石が欲しいがためにわたくしを虐げていたのですから、わたくしがいなくなれば大切にしていたものを傷つけることもないだろうとも思っていました。お母様が宝石を探すためだけにピィ太の墓を掘り返すとは考えもしなかったので、わたくしの考えの甘さを、お母様の浅ましさを恨めしく思いました。
 これほどお母様を憎らしく思ったのも初めてで、同時に、それをわざわざわたくしに伝えてくる英介にも憎らしさが浮かび上がってきて、わたくしは桜燐様の手を後ろからぎゅっと掴みます。彼の温かな手に触れて、少しでも安心したいと思ったのです。

「あれの腐った身体、まだ庭で放っておかれているよ。埋めに帰っておいでよ」
「そんな、で、でも」

 あの家に、掘り返された小鳥の亡骸を再び埋めようとする者がいるとは思えません。腐ったいきものが臭いから、死体を喰らおうとする別の鳥がやってくるからはやく処分してほしいと、互いが互いに仕事を押し付けようとするだけでしょう。そんな中、何に傷つけられるかもわからないピィ太が放っておかれていると思うと、可哀そうでなりませんでした。しかしわたくしは優しい人に大切にされる喜びと幸せを、知ってしまったのです。もう二度と、あの悪意には耐えられません。
 わたくしが再び美しい宝石を作れるようになった今、知られればあの家に連れ戻され、虐げられる生活が訪れることは容易に想像ができます。あの家に戻ってはいけないと本能は叫びます。しかしピィ太をそのままにするのも嫌で、涙が薄っすらと滲みました。

 桜燐様がわたくしに握られていない方の手を後ろに回し、わたくしの手を撫でました。わたくしがそれにほっと息を吐いたのもつかの間、彼の背中越しに伝わる英介の視線が鋭くなったように思えて、わたくしは縮こまります。

「母さんが掘り返したのも今日だからさ。今ならまだ鳥には荒らされてないよ」

 隠れていないで出ておいでよ。彼が甘く囁きます。それはわたくしの髪を撫でる時の声に似ていました。

「俺が行こう」

 わずかな沈黙の後、桜燐様が静かに告げました。え、とわたくしが声を漏らせば、桜燐様がわたくしの方を向き、そっと微笑みます。それはわたくしを安心させるために作った笑顔だと分かりましたが、どうしてか泣きたくなるほど優しいものでした。

「遺体を引き取ってこよう。そうしたら屋敷の庭に埋めてあげられる」
「良いの、ですか」
「もちろん」

 彼がわたくしの手を優しく撫でます。それからわたくしを静かに抱き寄せ、露わになったままだった髪を隠すように、彼の襟巻を頭にかけてくれました。それから躊躇いながらもわたくしの肩を添え、ほんの少し屈んで、わたくしの額にそっと唇を落とします。それは愛を伝えるものというよりも、何か祈りを捧げるような仕草に似ていました。

「うめに迎えを頼もう。あれは俺の声が聞こえる者だ。はつのところで待っていろ」

 祈られる対象である神様が祈るだなんて不思議だわ。そうぼんやりしていたわたくしでしたが、遅れて口づけられたのだと気が付きました。恥ずかしがれば良いのか喜べば良いのか、彼を案じれば良いのか分からず、ただ手で額を抑えていると、その様子に彼はそっと表情を崩すのでした。

「英介、だったか。それで良いな」

 やがて彼はわたくしを再び背に隠し、英介に問いかけました。桜燐様の問いに英介は小さく舌打ちをし、渋々と「分かった」と言います。

「姉さん。随分綺麗な宝石が作れるようになったそうじゃないか。父さんと母さんが知ったらどうなるか分かるでしょ」

 今のうちに僕の言うことを聞いておいた方いいよ。今日は諦めてあげるけれど。彼はそう言い残して、桜燐様を連れて去っていきました。人込みに隠れる前、桜燐様がこちらを振り返ってくれたことが、小さな救いでした。