それは春の気配がほんの少しずつ近づいてきた、ある日のことでした。
凛は桜燐様の屋敷で働くことにも少しずつ慣れ始めていたようで、朝日よりも早く起きて、うめさんと共に食事の準備をしています。わたくしも彼女に起こされ、今日は庭の掃除の当番であったことを思い出し、薄っすら白み始めた空の下で、箒を手に、ちりを掃いていました。
わたくしがこの屋敷に住むようになってからしばらく経ちましたが、桜の花びらは散り続けています。桜の大木は葉桜になることを知らぬように、毎日花びらを散らし、地面を桜色に染め上げているのです。その花弁をちりと一緒に掃いてしまうのも勿体なく思い、わたくしはいつも花びらを避けて掃除をしているのですが、おかげで地面はふかふかしはじめ、足を一歩踏み出せば下駄が花弁で柔らかく包まれるようになっていました。
「朝から精が出るな」
庭から境内に出ようと思った時、桜燐様の声が聞こえました。見上げれば、萌葱色の羽織に肩掛けを持った彼が、静かに微笑んで立っていました。
「もうお出かけですか?」
「いや、桜の木の様子を見に来た」
彼が木の周りに設けられている柵をひょいと乗り越え、軽い足音を立ててそこに立ちました。ほんの少し、境内の中の空気が変わります。
「これは俺の依り代だ。この木があるから、俺は現世にいられる」
「うつくしい木です」
「よく聞いてくれ。この木が倒れれば、俺はこの世には留まれない」
「桜の木は病気に脆いと聞きます。守らねばなりませんね」
わたくしの答えに、彼はどこか困惑したようにこちらを見ました。しばらくの沈黙を、はらはらと散る桜が埋めてくれます。やがて彼は柵を乗り越え、わたくしの髪についていた花弁を取りました。ふっと彼が息を吐けば、その花弁は地面を埋め尽くすそれに混ざっていきます。
「お前、なぜ俺を恨まないのだ」
彼の薄茶色の瞳が、揺れます。彼の細い指がわたくしの腕に伸び、その途中で、静かに降ろされました。
「桜燐様は、恨まれたいのですか」
「恨まれるほうが、楽だ」
「なら。『わたくしはあなたのことを恨んでいます』、これで良いですか?」
「思ってもいないだろう」
「ええ」
彼の余計に困惑したような視線に、わたくしは頷きました。桜燐様はわたくしを救ってくれた人です。わたくしが恨んでいるのは彼のご友人であって、彼に対しては感謝こそすれども、恨む気持ちは少しも沸いてきません。桜燐様がご友人の分まで自分を責めていることはわかりますが、だからと言って、彼を恨めしいと思う気持ちは少しも沸いてこないのです。
桜燐様はまだ、ご友人のことをわたくしに話してくれません。わたくしは椛田の家での仕打ちを思い出すたびに、わたくしに異能を与えた彼のご友人を憎く思います。彼は神の力なのでしょうか、わたくしがそう思うことに気が付くようで、わたくしが眉を寄せるたびに、ご友人ではなく自分を恨んでほしいとでも言うように、わたくしの手を掴むのです。それは朝家を出る時にするような優しい動作ではなく、どこか罰してほしいと願っているような、乱雑な力強いもので、その度にわたくしは彼の背を撫でてしまいたくなります。椛田の家からわたくしを救い出してくれたように、わたくしも彼を救いたいと、そうつよく思うのです。
「桜燐様。日が昇ります」
話を逸らされたように感じたのでしょう。彼はほんの一瞬、眉をひそめました。それから薄いくちびるが小さく息を零し、何か言葉を紡ごうとしました。そんな彼の袖をわたくしは掴み、地平線を指さしました。
空は薄く色を持ち始め、暗い影を少しずつ後ろに下がらせていきます。朝日は白い雲の端だけを金色に染め、柔らかな光をあちこちに零していました。優しい陽の光が空を包み始めている、そんな一瞬一瞬をわたくしは焼きつけるように見つめ、彼に向かって微笑みかけました。
「わたくし、ずっと朝が怖かったのです」
椛田の家にいた時、朝とは苦しい日々のはじまりを指していました。わたくしを囲うすべてが闇の中にあるように思っていました。朝が近づくたびに恐ろしさを感じ、止まらない涙をそのままに零していました。しかし今は違います。朝とは優しい人たちと触れ合える時間のはじまりです。凛がいて、うめさんがいて、桜燐様がいる。そんな日々は温かいもので、おそろしいことがないように思えるのです。
「朝日とは、うつくしいものだったのですね」
彼はまるで、わたくしの言葉に吸い込まれてしまったようでした。しばらくの間目を見開いたようにわたくしのことを見つめていましたが、やがて彼は己の魂を取り戻し、そっと静かに、目を逸らしました。
「もし俺が憎くなったら、あの木を燃やせ」
「あら嫌だ。わたくし火を扱うのは苦手でして」
「そういうことを言っているのではない」
桜燐様は屋敷の中に戻ろうと、足を踏み出しました。すれ違った彼からは澄んだ空と桜の香りがします。春の匂い、というべきでしょうか。
「今日の午後、空いているか」
「ええ」
「翠子の宝石。宝飾品に仕立てて貰いに行こう」
何を思って、彼がそう口にしたのかは、わたくしには分かりません。前々から約束していたことでしたし、宝石を首飾りや耳飾りに仕立ててもらうことは楽しみにしていましたから、今日出かけることに異存はありません。しかし、彼がどうして話の最後に出かけるように言ってくれたのかが、分かりませんでした。彼を救いたい、愛おしいとすら思っているわたくしの気持ちが届いたのではないかと考えて嬉しくなり、しかし自惚れないように、自分の指に自らの爪を突き立てるのでした。
凛は桜燐様の屋敷で働くことにも少しずつ慣れ始めていたようで、朝日よりも早く起きて、うめさんと共に食事の準備をしています。わたくしも彼女に起こされ、今日は庭の掃除の当番であったことを思い出し、薄っすら白み始めた空の下で、箒を手に、ちりを掃いていました。
わたくしがこの屋敷に住むようになってからしばらく経ちましたが、桜の花びらは散り続けています。桜の大木は葉桜になることを知らぬように、毎日花びらを散らし、地面を桜色に染め上げているのです。その花弁をちりと一緒に掃いてしまうのも勿体なく思い、わたくしはいつも花びらを避けて掃除をしているのですが、おかげで地面はふかふかしはじめ、足を一歩踏み出せば下駄が花弁で柔らかく包まれるようになっていました。
「朝から精が出るな」
庭から境内に出ようと思った時、桜燐様の声が聞こえました。見上げれば、萌葱色の羽織に肩掛けを持った彼が、静かに微笑んで立っていました。
「もうお出かけですか?」
「いや、桜の木の様子を見に来た」
彼が木の周りに設けられている柵をひょいと乗り越え、軽い足音を立ててそこに立ちました。ほんの少し、境内の中の空気が変わります。
「これは俺の依り代だ。この木があるから、俺は現世にいられる」
「うつくしい木です」
「よく聞いてくれ。この木が倒れれば、俺はこの世には留まれない」
「桜の木は病気に脆いと聞きます。守らねばなりませんね」
わたくしの答えに、彼はどこか困惑したようにこちらを見ました。しばらくの沈黙を、はらはらと散る桜が埋めてくれます。やがて彼は柵を乗り越え、わたくしの髪についていた花弁を取りました。ふっと彼が息を吐けば、その花弁は地面を埋め尽くすそれに混ざっていきます。
「お前、なぜ俺を恨まないのだ」
彼の薄茶色の瞳が、揺れます。彼の細い指がわたくしの腕に伸び、その途中で、静かに降ろされました。
「桜燐様は、恨まれたいのですか」
「恨まれるほうが、楽だ」
「なら。『わたくしはあなたのことを恨んでいます』、これで良いですか?」
「思ってもいないだろう」
「ええ」
彼の余計に困惑したような視線に、わたくしは頷きました。桜燐様はわたくしを救ってくれた人です。わたくしが恨んでいるのは彼のご友人であって、彼に対しては感謝こそすれども、恨む気持ちは少しも沸いてきません。桜燐様がご友人の分まで自分を責めていることはわかりますが、だからと言って、彼を恨めしいと思う気持ちは少しも沸いてこないのです。
桜燐様はまだ、ご友人のことをわたくしに話してくれません。わたくしは椛田の家での仕打ちを思い出すたびに、わたくしに異能を与えた彼のご友人を憎く思います。彼は神の力なのでしょうか、わたくしがそう思うことに気が付くようで、わたくしが眉を寄せるたびに、ご友人ではなく自分を恨んでほしいとでも言うように、わたくしの手を掴むのです。それは朝家を出る時にするような優しい動作ではなく、どこか罰してほしいと願っているような、乱雑な力強いもので、その度にわたくしは彼の背を撫でてしまいたくなります。椛田の家からわたくしを救い出してくれたように、わたくしも彼を救いたいと、そうつよく思うのです。
「桜燐様。日が昇ります」
話を逸らされたように感じたのでしょう。彼はほんの一瞬、眉をひそめました。それから薄いくちびるが小さく息を零し、何か言葉を紡ごうとしました。そんな彼の袖をわたくしは掴み、地平線を指さしました。
空は薄く色を持ち始め、暗い影を少しずつ後ろに下がらせていきます。朝日は白い雲の端だけを金色に染め、柔らかな光をあちこちに零していました。優しい陽の光が空を包み始めている、そんな一瞬一瞬をわたくしは焼きつけるように見つめ、彼に向かって微笑みかけました。
「わたくし、ずっと朝が怖かったのです」
椛田の家にいた時、朝とは苦しい日々のはじまりを指していました。わたくしを囲うすべてが闇の中にあるように思っていました。朝が近づくたびに恐ろしさを感じ、止まらない涙をそのままに零していました。しかし今は違います。朝とは優しい人たちと触れ合える時間のはじまりです。凛がいて、うめさんがいて、桜燐様がいる。そんな日々は温かいもので、おそろしいことがないように思えるのです。
「朝日とは、うつくしいものだったのですね」
彼はまるで、わたくしの言葉に吸い込まれてしまったようでした。しばらくの間目を見開いたようにわたくしのことを見つめていましたが、やがて彼は己の魂を取り戻し、そっと静かに、目を逸らしました。
「もし俺が憎くなったら、あの木を燃やせ」
「あら嫌だ。わたくし火を扱うのは苦手でして」
「そういうことを言っているのではない」
桜燐様は屋敷の中に戻ろうと、足を踏み出しました。すれ違った彼からは澄んだ空と桜の香りがします。春の匂い、というべきでしょうか。
「今日の午後、空いているか」
「ええ」
「翠子の宝石。宝飾品に仕立てて貰いに行こう」
何を思って、彼がそう口にしたのかは、わたくしには分かりません。前々から約束していたことでしたし、宝石を首飾りや耳飾りに仕立ててもらうことは楽しみにしていましたから、今日出かけることに異存はありません。しかし、彼がどうして話の最後に出かけるように言ってくれたのかが、分かりませんでした。彼を救いたい、愛おしいとすら思っているわたくしの気持ちが届いたのではないかと考えて嬉しくなり、しかし自惚れないように、自分の指に自らの爪を突き立てるのでした。



