澄み切った青空の下、広がる草原を二つの人影が並び進む。一方はたくましい体躯を持つ青年、もう一方は清らかな衣をまとった少女。
 世界を救うため、魔王討伐の旅を続ける勇者エルバートと聖女イレーネだった。

 慣れない野宿で寄り添い、共に魔物と剣を交え、時には冗談を言い合って笑い、また時には互いの弱さに触れて慰め合った。
 幾多の困難を乗り越え、魔王の待つ城が視界に入った頃には、二人の間には冒険を通して育まれた確かな愛があった。


「ねぇ、エルバート。魔王を倒したら、どこか景色のいい場所で暮らさない?二人で静かにさ」

 イレーネがそう言うと、エルバートはにたっと笑った。

「いいねぇ、イレーネ。君が毎日そばにいて、僕の筋肉の成長を見守ってくれるなら、どこでもいいよ」
 
 そんな他愛もない会話を交わしながら、二人は手を取り合って進んだ。

◆◇◆◇

 魔王城の目前まで迫ったその時、突如、まばゆい光が二人の冒険者を包み込んだ。光が収まると、二人の目の前には、白銀の衣をまとった荘厳な姿があった。紛れもない、この世界を創造した神だった。

「おお、よくぞここまで来た。勇敢なる勇者エルバート、そして清き聖女イレーネよ」

神の声は、あたりに響き渡るように厳かだった。

「お、お会いできて光栄です、神様」

エルバートが畏まって頭を下げると、イレーネもそれに倣った。

「うむ。しかし、お前たちに伝えねばならぬことがある。魔王を打ち倒し、世界を救うには、並大抵の力では不可能。真に奴を滅ぼすには、神が創りし最強の武器が必要となる」

 神の言葉に、二人の間に緊張が走る。

「その武器はどこに?」

 イレーネが震える声で尋ねた。

「その武器は、聖なる力を代償とせねば手に入らぬ。すなわち、聖女の命を捧げねばならぬ」

 その言葉に、イレーネは息を呑んだ。全身から血の気が引いていくのが分かった。しかし、世界を救うという使命を胸に刻み、彼女は震える声で答えた。

「そ、そんな……。でも、世界を救うためなら……仕方ありません……」

 イレーネの瞳には、すでに決意の光が宿っていた。エルバートの顔を見た。彼はどんな顔をするだろう。苦悩し、葛藤するだろうか。

 もしかしたら、答えられないかもしれない――。

 そんな不安がよぎった、その時だった。




「わかりました! 《《いいっすよ》》!」


 エルバートは、まるで軽い冗談でも言うかのように、躊躇なく言い放った。イレーネは目を丸くして、呆然と彼を見た。

「え……? 今……なんて言ったの……?」

 信じられないといった様子で、イレーネは尋ねた。

「だから、聖女様を犠牲にするんでしょ? いいっすよって」

 エルバートは首を傾げながら、あっけらかんと答える。

「ちょっと待ってよ! 普通、こういうシーンだと勇者は苦悩を重ねて答えを出すものではないの!? 『どちらも選べない。どちらも取る!』とか、なんかこう、カッコいいセリフとか言うでしょ!?」

 イレーネは思わず声を荒げた。

「だって、世界大切じゃない?」

 エルバートは真顔でそう言った。

「そうだけどさ! そういう問題じゃないでしょ!?」
「僕、迷うの嫌いなんだよね」

 イレーネは心の中で叫んだ。こいつは本当に勇者なのか!?こんな状況で迷うのが嫌いとか、ありえないでしょ!?

「いや、迷ってよ! じゃあアタシの命はどうなってもいいってこと!?」
「世界を救うためだよ。大丈夫、生け贄になって死んだら聖女の銅像立ててもらうよう王様に言っておくからさ」

 エルバートのあまりにも現実離れした答えに、イレーネは呆れを通り越して怒りがこみ上げてきた。

「ちょっと! この前アタシのこと『永遠に愛する』って言ったことは嘘なの!?」
「あの時はそう言ったけど、今は世界の方が大事」
「はぁ!? なんだよそれ! もしかして、私以外に好きな女でもいるの!? だから私を犠牲にして世界を救おうなんてゲスなこと考えてるでしょ!?」

 イレーネの剣幕に、エルバートは眉をひそめた。

「いや、聖女様が世界を救うことを『ゲス』なんて言ってはダメだよ」
「そういうことじゃないでしょ! ちゃんと答えなさいよ! もしかして、王女様でしょ!?」
「なんのことかな?」
「しらばっくれんな! あの時、王女様のこと見つめてたでしょ!」
「見つめてないって! ただちょっと、王女様の胸元にあったダイヤの装飾が素晴らしかったので目で追ってただけだって!」
「はぁ!? ダイヤじゃなくて胸を見てたんでしょ? 胸を」
「でも、王女様の胸って君より豊満で……」
「はぁ!? あんた、ホント最低ね! アタシの命がかかってんのよ!?」

 イレーネは怒りで頭が真っ白になった。この期に及んで胸の話!?しかも比較対象が自分!?もはや何を言っても無駄なのだろうか……いや、諦めてなるものか!

「いや、だから、僕は別にイレーネが死んでもいいとか言ってないし。世界を救うんだから仕方ないって言ってるだけじゃん」
「それは死んでもいいって言ってるようなもんでしょ!? 本当にアタシのこと愛してんの!?」
「愛してるよ。でも、世界を救うのが聖女の仕事でしょ?」
「だからって、そう簡単に『はい、いいっすよ!』って言える神経が理解できないのよ!」
「そんな言い方することないじゃないか。僕だって悩んだんだぞ」

 エルバートは、心の中でひっそりと呟いた。……いや、一瞬だけ、本当に一瞬だけ悩んだんだ。王女よりもちょっと小さいけどその胸は惜しいなと。

「いつ悩んだのよ!? あんた、今、悩みゼロの顔してるわよ!」
「顔に出ないだけだ!」
「嘘つけ! あんたのそういうところが本当に腹立つ!」
「僕だって腹立ってるよ! なんでこんな状況でそんなこと言われなきゃなんないんだよ!」
「誰のせいだと思ってんのよ! この朴念仁!」
「誰が朴念仁だと! このポンコツ聖女!」
「ポンコツってなんだコラァ! この筋肉バカ!」
「なんだとこのわがまま女!」

 どれくらいの時が経っただろうか。お互い勇者と聖女の会話とは思えない下品な単語が飛び交う。そんな痴話喧嘩が続く中、神が二人に話しかけた。

「あの~お二人さん、ちょっといいかな?」

 神の困惑した声に、イレーネはギロリと目を向けた。

「え? 何よ!」
「だから、この女犠牲でいいですよ」

 エルバートはまだ神に対して、あっけらかんと言い放っていた。

「白熱してるところ悪いんだけど、君たちの国は今さっき滅んだ」

 神の言葉に、二人はぴたりと動きを止めた。

「……え?」

 イレーネが呆然と呟く。

「本当ですか!?」

 エルバートは信じられないといった顔で神に問いかけた。神は続ける。

「そうじゃ。お前たちが痴話喧嘩してる最中、王国は魔王直々に率いた軍団が攻め入り滅亡した。国王などの王族はもちろん国民は皆殺しじゃ」

 二人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。王国が、国民が、そしてこれまで守ろうとしてきた全てが、自分たちの痴話喧嘩の間に失われたのだ。

 イレーネは愕然とし、血の気が引いていく。

 エルバートは呆けたように立ち尽くすばかりで、その顔からはいつもの能天気さが完全に消え失せていた。


 すると、エルバートはゆっくりと顔をあげ、イレーネを見つめ、おもむろに言った。


「愛してるよイレーネ、ずっと離さない」

(完)