クスクスと肩を震わせて、2人は歩く。
笑うたびに漏れた呼吸が白くなり、ポツポツと玉のように空へと消えて行った。
「アハハ! お前、なんだよ。わざと遅く歩いてたって。確かに、女子みたいに歩くの遅いなって思ってたけど」
「仕方ないじゃないですか。ちょっとでも長くいたかったんですから……」
拗ねるような、でも己も笑うように葵が言う。
ひとしきり笑い合ったところで、咲也がハーと息を吐いた。長く、重たい息だった。でもそれは、今まで心に居座り続けた痛みが、抜けた重みでもあった。
晴れやかになった心で、咲也は物理的にも精神的にも、葵に向き合う。
「来てくれてありがとう。本当に嬉しかったし、助けられた。振り回してごめん。お前の心をぐちゃぐちゃにして」
その気にさせて、好きになりそうだけど付き合えないと言ってみたりして。
葵からすれば堪らなかっただろうと、咲也は思う。心をぐちゃぐちゃにされることがどれだけ辛いか、知っていたはずなのにと、後悔が止まらない。
「ごめん」
誠心誠意、真摯に。
腰を曲げて頭を下げたいほどだったが、それは明菜と同じ、謝罪を許さなければならない状態を作り出すので、そうはしない。
「お前を傷つけたくないと思ったのは本当、でも、一番はそうじゃなかったんだ。俺は、お前に嫌われたくなかったんだ」
咲也の頬に冷たい物が伝った。言葉が溢れるのと同時に、涙も溢れて止まらなくなっていた。
そんな咲也の姿を見て、葵が何かを思うように息を吸う。
「実は苦い物が苦手で珈琲が飲めません。でも咲也さんの前ではかっこつけたくて頑張って飲めるフリをしてました」
「……は?」
思い出すのは勉強会。いつも葵は、咲也と同じブラックコーヒーだ。
「咲也さんはレシピがない料理の味が、本当に微妙です。店のメニューは問題ないのに、咲也さんオリジナルのまかないだけ微妙で、皆避けてました。でも、俺は、俺だけがそれを食べるのが嬉しくていつもリクエストしてました」
「え、ちょ」
咲也くんのまかない食べるでしょ。
いつだったか、雅に言われた言葉が頭に響く。
「接客業も得意じゃないし、実は家から店はめちゃくちゃ遠いです。でも、あなたに会いたくて、無理して通ってます。これからも通います」
赤裸々に語られる内容は、いわばセルフ暴露であり段々と葵の顔も赤くなっていく。
最初は戸惑っていた咲也も、その内容を聞けば顔に熱が集まるのを止められなかった。
「2年前の冬でした。俺が、あなたに会ったのは」
照れて反らしてしまった目を、葵へと向ける。ここから始まるのは自分の知らない、頑なに葵が教えてくれなかったことだとすぐにわかった。
「俺の家は学歴主義で、親は子どもの成績にしか興味がないです。ずっとずっと勉強して、でも弟の方がずっと頭がよくて。高校受験の日も、母は弟を車に乗せて俺は徒歩でした」
そこまで聞いて、咲也はこの話の先に合点がいった。
県内には幾つか高偏差値の高校がある。葵の通う立花もその1つだが、その更に上。東大合格を何人も排出する私立が、この地区にはあった。
「試験会場に向かう中、靴が壊れたんです。靴底がべらっと剥がれて、2つに分かれた」
丁度あのあたりでしたと、葵が少し先にある大通りを指さした。車通りは多いが、人の行き交いはあまりない。
葵の説明にあわせて、じわじわと、咲也の忘れていた記憶がひも解かれていく。
「同じ受験生も何人かいましたけど皆見て見ぬふりで、誰も助けてくれなくて、もう終わりだなって思ってたら、声をかけてくれた人がいました」
その人の第一声を今でも覚えてますと葵が続け、咲也も同時に口を開いた。
「大丈夫か、お前」
咲也と葵の声がキレイに重なる。
葵は泣きそうな顔で笑い、咲也はまだどこか、呆然としているようだった。
「その人は汚れたり、自分の時間も気にせず、俺の靴を直そうとしてくれました。そして」
「この靴みたいに俺の人生も終わりだって、泣いてた子って……」
「俺です」
目を見開いて、交差点と葵を交互に見る。
もう2年の前のことで、自分にとっては特別なことではなかったので、思い出すこともなかった出来事。交差点でへたりこんで泣いていていた、明らかに受験生の黒髪の男の子。その姿がいまやっと、葵と重なった。
「俺の靴くれてやるから受験に行け! 靴ごときで人生が終わるわけないだろ! って、咲也さんは俺を怒ってくれた」
「俺は繊細な受験生になんてことを……」
励ますのはいい。しかし、何も叱りつけなくてもいいだろうに。
「あなたは自分が片方素足になることも厭わず、俺に靴をくれました。他人の靴なんて気持ち悪いだろ、とまで言って、俺にガンバレって言ってくれた」
1つ1つ丁寧に。葵の中でその出来事が宝物のように大切だと、痛いほど伝わって来た。
「咲也さんにとっては取るに足らないことだったと思います。でも俺は、その言葉が何よりも支えになったんです。生憎とその日の受験は落ちましたが、立花は自分で選んで行きました。それまでの俺なら、もう挫折して、きっと受験どころじゃなかった」
確かにと、あの日の狼狽した葵を思い出せば、後半の内容にも頷けた。靴が壊れたくらいで、この世の終わりのように泣く子ども。その頃から背は高かったように思うが、あまりにも弱弱しい姿だったので”子ども”という印象がぬぐえなかった。
大きな葵の手が、下から救うように優しく咲也の手を取った。汗が恥ずかしいといわれて握られてこなかった手が、今はこんなにも近くにある。
「ずっとあなたに会いたかった。冷たい冬の道を、片足を素足で帰らせてしまったであろうあなたを。靴を持ってるんです。大事に飾って、毎日見てる」
咲也はもう、泣いてしまいそうだった。
「そして、雅さんの店で、運命的にあなたを見つけた」
ドクリと、強く鼓動が聞こえてくる。
「雅さんに頼み込んで雇ってもらって、その先はあなたも知ってる通りです」
『いつから、俺のこと好きなの』
『……ずっと前から』
『え⁉ まってくれ、もしかしてあの日が初対面じゃないとか⁉』
『ノーコメントで』
今までの言葉が脳裏をよぎる。
ずっと前、冗談だと思っていたそれが、2年も前のたった一瞬のことだと誰が思い出せようか。
「これが、俺が咲也さんを好きすぎてした、キモい言動です」
「キモいって、お前」
「キモいですよ。ストーカーみたいなことして、勝手に好きになったくせにぐいぐい迫って。会ってすぐに言えなかったのは、俺も、嫌われたくないと思ったからですから」
嫌われたくない、その言葉に咲也も息を呑んだ。
「だから、お互いさまにしましょう。お互い嫌われれるのが怖くておかしなことをした。これでいいじゃないですか」
「お前それ、全然違うだろ」
「いや、正直、咲也さんがなんで謝ってるのかもよくわかんないので」
なんでだよ、あれだけ熱弁したのに。
泣きそうに笑いながら、咲也は葵の手を握りしめた。
「傷ついてもいいです」
「……?」
「傷ついても振り回されてもいい。咲也さんが辛いなら、何回別れても、付き合ってを繰り返してもいい。何でもいいんです。言葉では足りない。それくらい、あなた好きだから」
開き直ったような言い方に、半年以上前、不可抗力で開き直りながら告白してきた姿を思い出す。気づいていなかった、けれどあの日から、咲也の止まった時間は動き出していたのだ。
「もう一度いいます。咲也さんのことが好きです。俺のこと、好きになってください」
「ッハハ! 前から思ってたけど、好きになってくださいってなんだよ、俺に拒否権ないみたいに聞こえる」
「断られたら困ります。だって、どうしようもなくあなたが好きだから」
咲也はこみ上げてくる物を抑えきれずに、嗚呼を漏らすように涙を零した。
こんなにも深い愛情を示してくれる相手がいるだろうか。こんなにも惜しみなく、言葉を尽くしてくれる人がいるだろうか。葵以外の誰でもきっとダメだったのだろう。それほどまでに、葵の言動は咲也への愛に満ちていた。
一途で、献身的で、どこまでも優しいこの男の愛に、振り向かない奴がいるのだろうか。いるはずがない、自分とて振り向いてしまうのだからと、咲也は泣きながら笑って観念した。
葵の手をやんわりと放し、しかし両手を伸ばして葵の肩に乗せる。周囲に人がいるか、確認できるほどの余裕はなかった。手に力を入れるようにして背を伸ばす。
「俺も、どうしようもないくらい、お前が好きだよ」
両想いになったシノさんからしてください。
その言葉通り、咲也は葵にキスをした。
背伸びをするような咲也を支えるように、葵の手が背中に回される。
何の変哲もない、唇同士が一瞬触れあうだけの物。それでも、今が人生で一番最高の瞬間だと、互いが思っていた。やがて2人の距離は離れ、顔を見合った。葵は美しくも大胆に泣いていて、思わずといったように笑ってしまう。
「お前、こんな時までかわいいね」
「咲也さんは、かっこいいです、あいかわらず。でも」
不意打ちにまた一瞬。葵がキスをし返した。
「かっこいいはいい加減、俺にくれませんか」
かわいいは咲也さんにあげるので。
そういうところが可愛いのだ、なんて言葉は言ってはやらない。
「かっこよくて可愛い俺が好きだって、前に言ってただろ。俺もそうだよ」
かっこよくて可愛いお前が好きだ。
2人はクスクスと笑い合って、やっと体を放して、でも手を繋ぎ合う。深く指をからませて、離れることは許さないとばかりに。
この一途で愛の深い男にどうやって報いていこうか。
咲也の胸はそれでいっぱいだった。
<完>
