最悪なクリスマスを追えて、1月。
正月も終わり、学校も始まればいっきに学年末のムードがやってくる。
節目であった期末テストも赤点を回避し、葵と咲也の勉強会は”正月休み”という体から未だ復活していなかった。考えるのは、あの日の自分の最悪な言動ばかり。好きになれないといって断ればよかったものを、また気をもたせる言い方をしてしまったと、ずっと後悔し続けている。
何度か葵にも会っているが、葵はあれ以来、特別変わった様子はなく、これまで通り”あなたが好きです”といった雰囲気を隠すこともなかった。
「咲也、お前なんかあったわけ?」
「……別に。なんも」
「なんもないって顔じゃないだろ~」
疎らに人が残る教室内で、金井が椅子を近づけて来た。
放課後の今、終礼を追えて人々は教室から去って行く。アルバイトまでまだ時間があり、今日は葵とシフトが被っている。少しでも会う時間を短くするためには、ギリギリで見せに駆け込んで、どさくさに作業をして、2人きりになる時間を減らさなければならなかった。
軽い口調ながらも、金井は椅子を近づけてくる。
咲也の反応に思うところがあったのか、愉快犯的に笑いながらスマホを取り出した。
「なんかったのか、葵くんに聞いてもいい?」
「絶対ダメ!」
反射的にでた声に、やっぱり葵くん関係か、と金井が言う。
とんでもない勘違いが置きそうで、咲也はしぶしぶといったように顔をあげた。
「違う。いや、違わないけど厳密にはそうじゃない」
「なんだぁ~フラれたか」
「なんでだよ」
「なんだ、、じゃあやっぱりフッたのか」
「どっちも違う! ていうか、なんでフッたとかフラれたとかって話になるんだよ」
至極当然といった風に、金井が笑った。
「いや、だってお互い好きなんじゃないの」
「……は?」
「両片思いってやつ? 見てたらわかるっしょ、普通に」
「いや、ちょ、待て待て待て」
手にあごを乗せ、まるで咲也がおかしいと言わんばかりの表情に、思わず金井の肩を掴む。金井が気に入ってきている緑のカーディガンにぐしゃりと皺が寄った。
「葵くんは明らかに咲也が好きだし、咲也もなんだかんだ絆されてるのかと思ってたけど。なんかこじれてダメになっちゃった?」
「なんでお前が普通のことみたいに話せるのかわからん!」
「まぁ付き合いも長いですから」
「照れるな、きしょくわるい」
うげぇと言いながらカーディガンから手を離す。
葵と金井がどれほど連絡をとりあっているのかは知らないが、直接会っていたのは文化祭だけのはずで、僅かな時間でしかない。確かに葵は金井に嫉妬じみた言動を取っていたが、それも葵の好意をしっているから分かることであり、金井側にそれがしていることが不思議でたまらなかった。
咲也が恋愛不信という問題とは別に、葵と咲也が男同士であるという問題は他人から見れば忌避されるものだ。
「いや、俺たち男同士だし、ないだろ、そういう恋愛とかってのは」
声が震えたのが、自分でもわかった。
金井は呆れたような溜息をついた。
「咲也はほんと、自分のことがわかってないなぁ~」
「ど、どういう意味」
「お前は男とか女とか関係なく、人を大事にする奴だよ。だから、関係ないでしょ、そういうのは」
思わず食いしばっていた歯から力が抜ける。
「俺も関係ないよ。お前が楽しそうなら、それが一番じゃない」
楽しそうだったよ、葵くんと一緒にいるお前は。
愛しむようにいう金井から感じるのは、己への友情だった。過度に取り繕うわけでも、気遣うわけでもない自然体の姿は、咲也の長年の友人でしかなかった。
「それに、俺は葵くんならいいんじゃないかと思ったけどね。咲也がもう一度、恋してもいいかな~って思う相手として」
「それは」
葵が金井に言われたという”楽しませてくれてありがとう”という言葉が浮かんだ。最悪な状態だった咲也を知る金井が認める、咲也という男。しかも金井は単なる友達ではなく、恋人として葵を認めている。その事実が嬉しくもあり、同時に、どこまで自分は優柔不断で利己的なのだと思えた。被害者のふりをして、加害をしている。そう思うまでに。
「金井、俺は――」
口を開いた時だった。
机に置かれた咲也のスマホに一件の通知がやってきた。もしや葵かとすぐさま開いたメッセージは、期待に反する人物だった。
「っ」
「咲也?」
画面を見て硬直する咲也を不信に思い、金井が画面を覗き込む。
送り主の名前に、金井は怒りを露わにした。勢いよく窓へ近づいて、校門を睨むように見る。この教室からは校門が良く見える。疎らに生徒が出ていく中にポツンと、南高のものではない制服が見えた。
【急にごめんなさい、明菜です】
【もう一度話す時間がほしい】
【今、南高の門まで来てるの】
苛立ったように金井が舌打ちをした。
「咲也、お前ブロックしたんじゃなかったの」
「してたはずだけど、なんで……」
「もしかして、葵くんとこじれたのって、これのせい?」
事を荒立てたくない。その一心で無言を貫くも、無言は肯定にも等しい。それを感じ取った金井は足音をならして教室を出ようとする。普段己の感情をうまく隠す金井にあるまじき行動に、急いでその腕を引っ張った。クラスメイトが残っていれば騒ぎになっただろうが、幸か不幸かもう残っている生徒はいない。
「なに」
「いいから! 俺の問題だし、話すだけだし!」
「俺はもう関わってほしくない」
「俺だってそう思ってる! でも、金井が行ってもあっちも納得しないだろうし。1回それでこじれただろ」
「俺は何度でも言ってやりたいよ。自分が浮気して傷つけたくせに、もう二度と会いに来るなって」
「っ」
「やっと立ち直って来たのに、ふざけるなって話しだろ」
もし自分が金井の立場だったら、全く同じことをするだろうと咲也も思った。
だからこそ、明菜にあえば手こそ出ないだろうが口汚く罵って、それを見た周囲が教師を呼んできて。その先に待つものに、金井を巻き込みたくなかった。
「金井の気持ちは嬉しい。でも、最終的には本人同士が解決しないといけない問題だと思うから」
「……でも」
「ありがとう、金井」
いつもは出てこない、感謝の言葉が驚くほどすんなりと出た。その思いを汲んでか、ここは我慢してなのか、金井の諦めたように肩の力を抜く。それを見て、咲也は自分の鞄を背負って教室を出た。
去っていく咲也を見て、金井が舌打ちをする。
校門にいる少女を睨むように見て、思い出したようにスマホを手にした。
【もしもし——くん、今どこにいる?】
誰と電話しているのか、教室を出た葵には知る術はない。
+++
校門の端、好奇の視線に晒されながら1人の少女が立っていた。
短いスカートをダッフルコートの下から除かせ、赤いマフラーから寒そうに白い息を吐いている。細く柔らかそうな黒髪が風に揺れ、寒そうにもじもじと足を動かしていた。
「明菜」
「咲也っ!」
名を呼ばれ、少女が顔を綻ばせる。一見すれば可愛らしいそれに、咲也が同じように返すことはなかった。正確には、今はもうできない、と言う方が正しいかもしれない。
「明菜、どうして来たの。それに、メッセージも」
「ご、ごめんなさい。番号変えたから連絡できて……私、どうしても咲也と話したくて」
ここじゃ目立つから、そう付け加えて咲也が歩き出す。目指す先はここからそう遠くはない駅だ。一瞬足を止めた明菜も、校門を行き交う生徒からの目に渋々と歩き出した。
自他ともに認める地味顔である咲也と、多くの人が”かわいい”というだろう容姿を持つ明菜が横に並び、しかし一言も話さない。その姿は、賑やかな下校風景の中で特別異質に映っていた。
ある程度歩き続けるも、明菜が口を開く様子はない。何度か口を開こうとして、鞄の持ち手を握っては緩めるを繰り返すだけだった。
「あのさ、明菜」
こういう時、いつだって口火を切るのは自分だったな、と咲也は思う。受動的な彼女のことは嫌いではなかったが”話したい”といってきたわりに、自分から話す気はないところがずるかった。
「別れる時に言っただろ。もう、会わないって」
クリスマスに事件が起き、その後復縁したのも、1月頃だったと思い出す。
その時の自分の体調が最悪だったこともあって、それを理由に半ば無理やり別れたのだった。勿論明菜は渋ったが、原因が自分にある以上、深い後追いはできなかったのだと咲也は思っている。
彼女はまだ、何も言わない。
「明菜が後悔してて、俺に申し訳ないって思ってるのも十分伝わってる。だからこそ、そう思ってるならもう会いに来ないで」
本当は歩きながらするような話ではない。隣の明菜がどこかに腰を落ち着けて、きちんと向き合って話したがっているのを咲也も気づいていた。でも、だからこそそうしなかった。彼女の懇願するような眼差しを向けられたくなかったし、最終的に泣き出して、こちらが加害者のような気分にさせられるのも嫌だったからだ。
咲也が思いを告げてしばらく。たっぷり1分以上は待っただろう沈黙の後、明菜は口を開いた。
「別れたのは、咲也の体調が本当に悪かったから、このままじゃ死んじゃうと思って……」
体調が悪くなければ別れる気がなかった、と言える口ぶりだった。
「私、咲也と別れてる間、すごい考えたの。考える時間が沢山あって、本当に後悔した。咲也になんてことしちゃったんだろうって。浮気なんてして、咲也のことが一番大好きだったのに」
何度も聞いたよ、と言いそうになるのを理性で抑えた。
別れてからずっと、明菜は言い方を変えて、結局はずっと同じことを言う。華奢で大人しく、怖がりな彼女の勇気を受けってあげたい気持ちと、それは自分からの許しを得てスッキリしたいだけなんだという嫌悪で、咲也の心はかき混ぜられる。
「咲也、謝っても意味ないっていうのはわかってるの。それでも謝らせてほしい。本当にごめんなさい」
立ち止まって、自分に視線を向けるように明菜が言った。
反応に遅れた咲也の体は、自ずと数歩前に出る。
「……何度も聞いた。もう、わかったから」
理性で抑えたはずの言葉が、とうとうあふれ出る。
返答が期待する物ではなかったのか、我慢できないとばかりに明菜が咲也の腕を掴んだ。
「咲也、私とやりなおして」
「……明菜、あのさ」
「お願い咲也!」
明菜の声が大きくなる。周囲の人の目が向けられて、あぁほら、やっぱり俺が悪いみたいになったと呆れかえった。
咲也、咲也とその声で連呼されることも頭痛を誘発するようだった。ふと、あぁ、あいつに呼ばれるのはそんなことないのにな、とここにはいない人物を思う。
「私、本当に咲也じゃないとダメなの! それに気づいたから、だから」
もう黙ってほしい。これ以上、君を嫌いになりたくないのに。その声をもう聞きたくないんだと、振り返りながら叫びそうになったその時だった。明菜に掴まれてる腕とは反対側が大きな男性の手で掴まれた。
「困ります」
ここにいるはずがない。でも、いてほしいと思った声が咲也を支配する。
「咲也さんじゃないとダメなのは俺なので、困ります」
目を見開いて息を呑む。
荒々しく息を乱し、しかしこれだけは譲らないとばかりに、咲也をかばうように立つ人物。背がすらっと高く、金髪で、足と手が大きい、咲也が理不尽に突き放した葵が、そこにはいた。
「あ、葵! お前、なんでここに」
「金井さんから電話もらって。タクシー乗ってきちゃいましたよ」
口調は軽い。しかし、腕はしっかりと咲也を放さず、鋭利な視線を明菜に浴びせ続けている。
「あ、あなた誰、ですか」
「こいつは——」
咲也にしゃべらす気はないと、葵は手をひいて自分のうしろにその姿を隠してしまう。小柄な明菜からすれば相当な圧であろうことは容易に想像できた。後ろにいる咲也ですら、葵が激怒しているのが感じ取れるからだ。
「俺は船岡葵。咲也さんのバイト先の後輩です」
「バイト先の、後輩……?」
「あなたは明菜さんですね。浮気して、別れた、咲也さんの元彼女さん」
「っ」
元彼女。そこを強調するように葵が言う。
さすがの明菜も、明らかな棘を感じ取ったようで葵を警戒するように見た。
「ただの後輩なら、私たちに関係ないですよね。大事な話をしてるんですけど」
「関係あります」
「な、なんで」
「俺が咲也さんのことを好きだから」
心臓を鷲掴みにされたように、胸が痛んだ。
切り裂かれるような痛みではない。温かさで胸がいっぱいになって、それが溢れてしまいそうな痛みだ。
突然現れ思いを吐露した男に、明菜は当然たじろいだ。それでも引く気はないのか、引きそうになった足をなんとか食い止めた。
「なにそれ、冗談ならやめて」
「冗談じゃない。咲也さんも知ってる」
「私は咲也の幼馴染で、元カノなんだけど」
「だからなんですか」
「っ~! 誰よりも咲也が好きで、咲也のこと知ってるって言ってるの」
「それは嘘です」
それが揺るぎない真実のように葵が言い切る。
「世界で一番咲也さんを好きなのは俺だから。あなたのそれは勘違いです」
心臓がいくつあっても足りないから、もうやめてくれ。そう言えたらどれだけよかったか。くだらないことを考えながら、物理的に胸元に手を伸ばす。ひたすらにうるさい心臓の音が服越しに伝わってきた。
誰が一番好きか。そんなものは主観的な物でしかなくて、正しく一番を決めることはできない。しかし、葵の言い方はどこまでも真っ直ぐで、言葉だというのに何にも曲げられない固さがある。
動じない葵に焦ったのか、まるでそれが隠し持っていた最高の一手かのように明菜は叫んだ。
「そんなこといって、男同士じゃない!」
何も言えまいと言うように、明菜の顔に自信が戻る。
言ってはいけない、絶対に言ってほしくない言葉を吐かれ、咲也が思わず前に出る。しかし、それをも片手で抑え、あろうことか葵は笑った。
「ハハッ!」
「な、なにがおかしいの……」
「すみません。純粋におもしろいと思ったんです」
本当におかしいと言うように、葵が言う。
「あなた、女性ということでしか俺に勝てないんですか?」
「っ——」
明菜の顔が一瞬で赤く染まる。恥じらいなんて可愛い物ではない、葵による明菜への明らかな屈辱だった。
「あなたがどうして、咲也さんなんて素晴らしい恋人がいて浮気できたのか、俺にはわかりません」
俺は、その場所が欲しくてほしくて堪らないのに。
明菜に対する葵の言葉で唯一、羨望がにじむ言葉だった。
ふと気づけば、咲也の中に、あれだけ渦巻いていた混乱と恐怖は跡形もなく消え去っていた。呼ばれたくない、声を聞きたくないと叫んだ心は落ち着いて、それどころか強い安心感すらあった。そうして思い知る。全ては、自分を掴んで放さずにいてくれる葵のおかげだと。
「明菜」
ハっとしたように、明菜が顔をあげた。
止めようとする葵に”大丈夫”と小声で伝え、一歩前へと出る。明菜との距離は近づいたが、これは決別のための一歩だった。
「ずっと、ハッキリ言わなかったからこうなったんだと思う。だから、もうここでキッパリ言う」
決意を込めるように息を吸った。
自分が被害者のように潤む明菜と目があった。その目が見たくなくて、ずっと避けていた。でも、今はハッキリと見ることができる。
「俺は明菜を許せない。許す日はきっと来ない。もう付きまとわないで。迷惑だから」
「さくやっ」
「付き合ってた時は楽しかった。幸せだった。でも、それだけだよ」
すがろうとしてきた手を、咲也の意思で拒絶する。
「もう、好きじゃないから」
簡素で、しかしストレートな言葉が明菜の心をえぐったのは明白だった。対して、今までどうして言えなかったのかと思うほど、咲也の心は晴れやかで、唖然としている葵の腕を掴み、明菜に背を向けて歩き出した。どうにか引き止めないと、と思った明菜が最後のあがきとばかりに叫ぶ。
「咲也はっ! いつだって私に歩幅を合わせてくれてた! 今日だってそう! 私のこと、覚えててくれたんでしょ!!」
歩幅。そういえば、明菜の歩幅は咲也より随分と小さくて。付き合った当初、歩くのが早いと何度か指摘されていた。一緒にいる時間が伸びるにつれて慣れて行って、今日は意識すらしていなかった。どうしてだろう、その疑問は隣の男によって解決された。
「違いますよ。俺が歩くの遅いから、俺に合わせてくれてて、それに慣れてくれたんです」
至極楽しそうに、葵が笑う。
「ちょっとでも長くいたいから、わざと遅く歩いてたんですけどね!」
だから、あなたじゃないですよ。
どこをどう切り取っても、勝者の言葉だった。
