「ごめん、お前には楽しい話じゃないと思うけど」

 俺の昔の話、と切り出した。
 不安と緊張が入り混じった顔で、葵は黙ってその話を聞いている。

「俺は、中学から付き合ってる幼馴染の彼女がいて、名前は明菜」

 名前を出せば、それだけ当時の痛みが思い起こされる。それほどまでの存在が、咲也にとっての明菜だった。
 ゆるくまいた黒髪に、落ち着いた色のカーディガンを好んで来ていた、身長が咲也よりも20センチ以上低い可愛らしい少女。普通であれば地味メンである咲也が付き合えるわけもない子だったが、幼馴染というアドバンテージがあった。

「家も近くて、親同士も仲良くて、高校は別々になったけど、遠距離ってわけでもないし、俺は何も変わらないって思ってたんだ」

 フっと嘲笑の鼻息が出た。
 勿論、過去の愚かな自分に対してだ。

「去年のクリスマスだった。明菜の両親が実家の都合でいなくて、俺は行けないってわざと行って、サプライズで家に行ったんだ。そういうの、喜ぶやつだったから」

 お菓子買って、映画レンタルして、うきうきで。笑っちゃうだろ、と言えば、葵は首を振って否定してくれる。

「何度インターホンを押しても出なくて。でも玄関が開いてたから、もしかして何か事件か⁉ って思った俺は家に入ったわけ。そこからは普通にありきたり。部屋では俺の彼女と、全然知らない男が抱きしめ合って、キスしてた」

 本気で心配して、靴だって荷物だって投げだすように家に入った自分が、滑稽すぎて泣けてくる。咲也にとってあの日は、間違いなく人生で最も最悪な日になった。
 互いにベッドの上で抱きしめあい、脱いでこそいなかったが、はだけた服の明菜と、その腰に手を当てている男。後から聞けば明菜の学校の先輩だとか、なんだとか説明されていたが、そんなことはどうでも良かった。

「俺とお揃いにしてたはずのキーホルダーはゴミ箱に捨てられてて、多分、浮気相手? とお揃いの別のキーホルダーなんてつけててさ。俺もなんでか、それが目についちゃって」
「お揃い……」

 葵の目が、自分たちの鞄へと向けられる。当たり前にラベンダーと青のうさぎがゆらゆらと揺れていた。
 フラッシュバックしていたクマのキーホルダー。それは、可愛い物好きの明菜が咲也にくれたものだった。

「吐きそうだったよ。当日はね。ていうか吐いた」

 浮気現場に遭遇してしまったあの後、正直記憶は曖昧で、咲也は己がどうやって帰ったのかも覚えていなかった。家は遠くないはずなので、フラフラしながらも自力で帰ったのだと思うが、気づけば家にいて、何十件という連絡が明菜から入っていたことだけが、メッセージに残っている。
 明菜の弁明のような、それでも嘘をつくようなメッセージを見ては現場を思い出し、吐きまくったことも、覚えていることの一つだ。

「明菜は今日みたいに必死に謝ってた、ずっと。ごめんなさい、魔がさしたの。寂しくて。色んなこと言われて、1回は復縁したんだけど、俺は無理だった」

 俺は無理だった。これが先ほどの自分の言葉に繋がると、葵自身も察したようだった。

「浮気防止のアプリだとか、こまめな連絡だとか、毎日スマホを見せるだとか。明菜は全部やってくれたよ」

 頑張る、なんでもするから。もう不安にさせないよ。なんでもどれでも見ていいよ。
 沢山のことを明菜はしてくれた。明菜のことを根本はいい子、だなんて風にはさすがの俺も思わない。けれど、浮気の代償と挽回をしようとやれる全てのことをしてくれたのは事実だった。

「関係ないんだ。不安とか、証明とか、言葉とか。そういうことじゃない。もう、信じられなくて、信じて傷つくのが嫌だった」

 彼女を信じたい気持ちと、そう思うたびに出てくる、グロテスクな浮気シーン。
 信じて、絶対にもうしない。どんなことをしても証明するから。必死に懇願する、かつて大好きだった人。
 それらがごちゃごちゃになって、当時の咲也は人生で一番心が辛くて、体重も一番軽かった。だからこそ、もうダメだと思って別れを切り出したのだった。

「明菜を好きな気持ちはない。俺に残ったのは明菜への気持ちじゃなくて、誰とつきあっても、同じことになるって気持ちだけ」

 感情が溢れそうになり、両手で顔を押えた。

「俺はお前を好きになったらダメなんだ。疑って疑って疑いつくして、あげく信じられなくて、傷つけて終わる」

 流されるように葵の告白が保留になって。その後も思いを告げられ突けて。
 整理がつかないといいつつも、舞い上がっていた自分に、咲也は今更気づく。舞い上がっていたからこそ、もっと早く”自分は誰ともつきあわない”というべきことを、先延ばしにしてしまった。

「本当にごめん。お前の気持ちを弄ぶようなことした。その気にさせて、今更こんなこといって」

 気づかないふりをして、葵が与えてくれる幸福を享受した。あまりにも許されないことだと嘆く。
 突然こんなことを言われ、当然、葵は押し黙った。何を思っているのか、咲也にはわからない。それどころか、顔を隠す手をどけることもできない自分がいた。いつか、かっこいいと葵が褒めてくれた姿はない。
 咲也にすれば地獄のように長く、現実ではそれほどでもない時間を使い、葵はついに口を開いた。

「……だから金井さんは、楽しませてくれてありがとうって俺に言ったんですね。元カノさんとのこと、知ってたから」

 肯定するように頷く。文化祭でのことだとすぐにわかった。
 最悪なクリスマスを迎え、明菜との関係修復がうまくいかなかった間。自分を横で見守り、支えてくれていたのは何を隠そう金井だった。多くは言わずとも、自然と心配して、元気づけようとしてくれていた。そして、やせ細る咲也を見て、最終的に”別れろ”と告げたのもまた金井だった。

「俺も、その元カノさんみたいに咲也さんの要望に全て答えて、できることを全部してあげることができます」

 GPS繋いで、メッセージが来たらどんな時でも返信して。電話も証拠の写真も常に送って。毎日好きだよって言えますし、できます。なんて、葵が続ける。その全てを明菜は自主的にやってくれたが、そうさせる自分も、それでも拭い去れない不安と疑心も、咲也を苦しめ、崩壊させた。
 
「でも、咲也さんが欲しいのはそういう言葉じゃないよね」

 寄り添うように言ってくれる葵の言葉が、咲也には痛かった。
 浮気されたことのトラウマによる猜疑心と恋愛不信。これに対する対処法など、この世には存在しないのだと咲也は思う。そして、そんな気持ちを向けられる相手も、恋人からの尽きない不信に苦しむことになる。最終的に待つのは互いに傷つき、嫌われ、破局する未来だ。
 黙った咲也の手に、葵の手が触れる。顔から剥がすようにゆっくりと力がこめられた。怒っているか、呆れているか。そう思った葵の顔は、咲也への愛しみに溢れていた。

「待ちます。ずっと」
「……え?」
「咲也さんが、俺と付き合っても大丈夫って安心できる日まで。俺は待ちます」

 話を聞いていなかったのかと、咲也が食って掛かる。

「待たれても無理だって、俺は、誰かとつきあえないんだよ! それに、このまま一緒にいて好きになって、傷つけて、お互い、いい未来なんてないだろ!」
「咲也さんが俺を好きになって、疑って、傷つけて。それは確かに、いい未来じゃないかもしれない。けど、そんなこと言われたって困るんです」
「困るってなんだよ」
「あなたが好きだから、諦めることができないんです」
「っ」

 そんなお前だから、俺はもっと付き合えない。
 言いたい言葉は、混みあがる気持ちが大きすぎて飲み込まれた。

「その日が来るまで、俺はずっとあなたを好きでいます」

 どうしてそんなに好きでいてくれるのか。
 聞いたらきっと、もっと好きになってしまうだろうと咲也は思った。