「やっほー! なおっぴー!」

 溌剌とした声が響き渡る。
 振り返れば髪を左右でお団子にした、いかにもハッピーオーラを持つ少女が仁王立ちしていた。

「お前の知り合い?」
「知り合いといえば、まぁ」
「私との仲をそんな淡泊に語るなんて、なおっぴーはひどいなぁ!」
「なおっぴぃ……」

 あまりに聞きなれないフレーズに、葵の顔を疑うようにみる。クールかつ無気力で不愛想な男が、そんなふざけたあだ名で呼ぶことを許しているとは驚きだった。

「あれ、ていうかなおっぴー友達連れだ! お友達さん、イケメンですね」
「え、あ、そう?」

 お世辞でも嬉しくて調子に乗れば、少女の前から咲也を隠すように葵が乱入してくる。

「見るな」
「そんなぁ減るもんでもあるまいしぃ~」
「減るから、だめ」
「イケメンは皆の共有財産だぞ、なおっぴ~」

 葵のやつ随分と気安いな。俺と金井のことは言ってきたくせに。咲也の中にもやっとした釈然としない気持ちが渦巻く。しかし、そんな気持ちも少女に腕を掴まれたことで、それどころではなくなった。

「1年を代表するモテ男のなおっぴーと、なおっぴーのご友人様をご招待~!」
「ど、どこに⁉」
「うちのクラスのお化け屋敷です!」

 こちらの意見も聞かず、少女はずんずんと歩き出す。よく見れば”お化け屋敷”と書かれた看板を背負っており、随分と明るいお化け屋敷の客引きだなぁと呑気なことを考える。背後では、不機嫌な表情で咲也を追いかける葵がいた。

「おい、シノさんを離せ」
「まぁまぁなおっぴー。うちのお化け屋敷は怖いから期待してよ! 視聴覚室ぶちぬきだから広いし!」
「俺は入らないし、シノさんも入らない」
「なおっぴーノリ悪いぞ」

 連呼されるあだ名に、また心にもやがかかる。
 ”葵なお”それが恐らく葵の本名で、本人から直接教えてもらったことはない。それなのに学校では当然のように下の名前で呼ばれている事実が、ジリジリと咲也の胸を焦がした。

「あれが1年5組自慢のお化け屋敷でぇーす!」

 数分歩かされた先、キャーキャー騒ぐ声が聞こえてきて、なるほどこれは期待できそうな、外観からしてハイクオリティなお化け屋敷が見えて来る。叫び声のわりに順番待ち列がなく、入口には受付係と思われるギャルが暇そうに頬杖をついていた。ギャルといっても、立花に通っている時点で高学歴ギャルだ。

「ちょっと待て、俺は本当にっ」
「2名様ご案内でーす!」
「あいよー!」

 このクラスは陽キャしかいないのか。受付係のギャルに迎え入れられ、最後まで抵抗していた葵も、女子相手に本気の抵抗もできずに開いた扉の中へと放り込まれる。
 突然暗闇の中に入れられたせいで何も見えず、勢いのままに渡されたペンライトを急いでつけた。

「葵、大丈夫か?」
「一応……」
「女子高生のエネルギー、恐るべし。ていうか、あの子がいってたけどお前学年を代表するモテ男——葵?」

 どうせ呆れた顔で”お化け屋敷なんてくだらない”とでも言うような顔をしてるんだろう葵を、イケメンネタで揶揄ってやろうと隣を照らす。しかしそこに葵の姿はなく、ペンライトで辺りを探せば背中を壁にぴったりとつけ、顔面蒼白状態で立つ姿を見つけた。

「あ、葵? お前もしかして」
「言わないで下さい」

 怖いのか。問おうとした声は本人によって阻まれる。その声も肩も震えており、今にも座り込んでしまいそうなほど、膝は緩やかに曲がってる。それが導き出す答えは1つだ。

「お前、怖いのダメなんだな……」
「言わないでって言ったのにっ」

 お前ってほんと、少女漫画。しかもヒロインのほう。
 内なる咲也が、呆れたように呟いた。

「シノさんは平気なんですか⁉」
「あーうん。俺、こういう作り物は平気。心霊スポットとかはまた別だけど」
「そんな冷静に……」
「大丈夫だよ。暗い所から脅かされるだけだって。怖くないよ」
「言っておきますけど、俺は怖いんじゃなくて、脅かされるのがイヤなだけです。怖くはない」

 お化けが苦手な人はいつもそういう。
 強がってはいるものの、葵は頑なに壁から背中を離さない。入口から帰ることは可能そうではあったが、それもまた葵のプライドを傷つけることになるのでは、と思われた。

「俺が本当に怖いから無理、ってことで入口から出してもらお」
「え」
「お前はあと2年ここに通うし、お化け屋敷途中リタイアなんて不名誉なあだ名は、俺でいいでしょ」

 まるで何も気にしていないように、カラっっとした笑顔で咲也が言う。その言葉のままに戸にかけた手を、葵がドアを押えることで引き止めた。

「シ、シノさんが一緒にいてくれれば、多分、大丈夫なんで」
「えっと」
「もう、既に情けないんですけど、でも、そんなことシノさんにはさせたくないっていうか、俺も頑張るんで、その、手を引いて、一緒に回ってもらえませんか」

 手の震えは、お化け屋敷の怖さからくるものか、否か。分からないながらも、緊張しながら一生懸命に気持ちを伝える姿に、咲也は”しょうがないな”と言って笑う。

「かわいいやつめ。シノさんがついてるから大丈夫だぞ」
「っ」

 わざと冗談めかしていって、震える葵を和ませる。
 
「あ、でも手汗だし、手を繋ぐのはレベル高いので無理です」

 この期に及んでそんなこと言う葵のせいで、折衷案としてお互い、片手の手首同士を握るスタイルに落ち着いた。
 

                     +++


 うぅっ!う~!
 あ、無理。 絶対無理。
 無理無理無理無理。無理だって言ってんだろ。

 俺がついてるから大丈夫だぞ、と言ったがあれは嘘だ。
 そう突き放したくなるレベルで、咲也は絶賛後悔の最中だった。粉砕されそうな左手首の痛みを無視するのも限界があり、ツッコミを入れる気力もない。

「シ、シノさん、まだですか? まだ終わらない?」
「半分はすぎたよ」
「まだ半分っ」

 喚き散らすと共に歩調が緩む葵を、無理やり手首を引いて進む。
 室内はかなり薄暗く、進む道が辛うじて分かる程度だけ明かりがある。ルートを間違えて壁に向かわされることも多く、大体はそこで脅かし役が待っている、という状態だった。天井から濡れた布らしき物が吊るされていたり、壁を急に叩かれたりと、学生の催しにしてはかなり本格的に作られている。そのせいもあってか、葵は5秒に1回ペースで驚かされていた。

「なんで平気なんですかっおかしいですよっ」
「本物じゃないないからな」
「本物だったらそんなに呑気にしてられなくないですか」
「本物だったらな」

 このような生産性ゼロの会話も何度目か。脅かされるたびに足が止まるので、もう何人も後続に抜かされている。本当はキャーキャー騒ぎたいカップルも、自分以上に騒ぎ散らす葵を見てしまえば苦笑して通り過ぎて行った。
 中盤からは脅かし役のスタッフにまで心配される始末で、比較的脅かし役がいない通路側を教えてもらい、葵に歩かせることになった。まぁ、効果はあまりなさそうだが。

「ちょっとペースあげるか」
「無理です! シノさんっ無理」
「つっても、もう店側も迷惑だから。ほら、引っ張ってやるから」
「う、嬉しい! でもシノさんは1人しかいないからっ」
「どういう意味……?」
「反対側も前も後ろも空いてるじゃないですかっ、全面にシノさんくっ付いて下さいっ」
「無茶いうなよ」

 クールで物静かで不愛想で何を考えてるのかわからない。
 ついこの間までそんなイメージだった葵がどんどん崩壊していく。恐怖とはここまで人を変えるものかと、咲也はおかしな所で感心していた。
 クールなのにお化け屋敷で大絶叫、実は怖がりの葵くん。なんて汚名を着せないために入口から出ようとしたというのに、これでは何の意味もない。外には葵の叫び声が響き渡ってるだろう。

「っ~しゃーねぇなぁ」

 埒が明かない。そう思った咲也は、葵の手首を掴んでいた手を離し、己の腕に葵の腕をまきつけるように絡ませる。身長差があるので男らしく肘付近とはいかなかったが、両手で二の腕に抱き着かせるような形を取らせた。

「手は手汗とか乙女チックなこと言うからこれで我慢しろ。あと分裂はできないから反対側と後ろは諦めて。前は見といてやるから」
「シ、シノさん」

 押し黙った葵を了承したと捉えて、咲也は歩き出す。くっついた分、歩きづらさは増した。しかし、脅かし役が出て来ても、多少の声をあげるだけでこれまでのほどの恐慌はない。
 壁から少しでも距離を取りたいためか、咲也のほうへと頭が傾けられる。さらりと流れた金髪が暗闇の中ではよく見えて、ついでとばかりにシャンプーだろう石鹸のような香りが鼻に残った。

「ちょっと脅かし役減ったか?」
「そ、そですか……?」
「もうヘトヘトじゃん、お前」

 ラストへの貯めなのか、とある角を曲がったところで脅かし役の出現が顕著に少なくなる。遠くの方ではより多くの悲鳴が聞こえるので、葵の悲鳴効果で、客入りがあがったせいで後半が手薄になってることも考えられた。
 もう一つの角を曲がっても何もなく”出口”の看板も見える中、いわゆる沈黙状態になった。
 咲也も葵も、ペンライトが照らす先に視線を送り互いは見ない。互いにそれが、あえてだとわかっていた。

「シノさん」
「んー?」
「お化け屋敷怖がるなんて、ダサイと思ってました。でも、今はよかったって思ってます」
「ハハ、何それ」
「怖いから、不可抗力ってことで許してください」

 そう言うやいなや、葵は更に強く咲也の腕に抱き着いてきた。腕だけではない、体全体で密着するように寄り添ってくる。咲也の息を呑む音が、葵の耳にだけ届く。

「……うるさいよ」
「え?」
「お前の、心臓の音」

 暗闇の中見ることは敵わない。しかし、葵の顔が赤く染まってるだろうことは用意に想像できた。
 まるで葵の心臓が自分の中にあるかのように、主張が激しい。それだけ、緊張していることがわかった。

「怖いから、かもです。あとは——シノさんと近いから」

 好きだと、近いとドキドキします。
 囁くような葵の声が、咲也の耳をくすぐった。

「でも、シノさんもですよね」
「え?」
「シノさんのも聞こえます、音。でもシノさんは怖いの平気だから、それって——」
「っ」

 思わずといったように、咲也は葵から距離をとった。
 わからない、自分の心臓の音がどれほどかなんて。ずっと、葵の心臓の音に耳を傾けていたから。まるで自分の中に葵の心臓があるくらいうるさいと思った。だが、それは、自分の物だったのかと思うと、咲也はいっきに、己がわからなくなった。思わずはを食いしばり、いっきに顔に熱が集まる。
 自然と離れた葵の手が、名残惜しそうに空中に留まる。期待するような目が、湿度を持って咲也を見た。

「おれは」

 絞りだしたような咲也の声。期待と緊張が入り混じる顔で、葵が唾を飲んだ、その時だった。

「ごめんなさい!! ちょっと脅かし役の伝達がうまく行かなくて最後が不発みたいで!! それもこれもなおっぴーの絶叫がすごすぎるせい——あれ?」

 出口とかかれた扉が開き、廊下の明るさが直に入って来る。
 申し訳なさそうな顔をして、ここまで2人を連れて来たお団子の少女が頭を下げていた。
”なおっぴー”と、またも呼ばれた名前に、咲也の心がささくれ立つ。まだ収まらない心臓の音と相まって、その感情は咲也を駆け出させた。

「っシノさん、まって、シノさん」

 走る。廊下にごった返す人々の合間をぬいながら、わき目も降らず。
 立花高校の構造も分からない、どこに向かっているのかもわからない。とにかく、人がいない方へ、葵がいないところへと。
 幾つか階段を上って、廊下の突き当り。生徒の荷物置き教室なのか、誰もいない場所にたどり着いた時だった。

「さ、咲也さん!」

 聞きなれた声で、聴きなれない言葉が聞こえた。
 咲也。親や金井、同級生に呼ばれる時とは違う。自分の名前でありながら、そうではないような不思議な感覚だった。
 足を止め、酸素を取り込むように肩で呼吸する。相手も同じなのか、荒い息遣いが背後から聞こえてきた。

「わかんねぇよ」

 踏み出そうとした葵の足が、咲也の一言で怯えるように止まる。

「なにが、ですか」
「お前が。俺が好きっていってみたり、お化け屋敷で、あぁいうこと言ってきたり、名前で呼んで来たりして。それなのに、俺はお前の下の名前も教えてもらってないし」
「それはっ」
「でも!」

 頬を赤く染めながらも、今にも泣き出しそうな、どんな感情がそうさせているのか分からない表情で、咲也は振り返った。

「こんなことしてる自分が、なんか、最高にかっこわるいし、わかんねぇ」

 咲也の言葉に、葵が目を見開く。息を呑み、真っ赤に染まる咲也の目元に指を運んだ。

「ごめんなさい」
「別に謝ってほしいわけじゃない」
「違うんです。名前のことはちょっと罪悪感と、でも、それに喜んでる俺がいるから」
「何言って——」
「だってシノさん、それって、嫉妬だ」
「っ」
「俺が金井さんに思ったのと一緒。そう、でしょ?」

 困ったような、でも嬉しさをにじませる顔で葵が言う。
 目元に触れていた手が、目をこすろうとした咲也の手を取った。葵は罪悪感からなのか、囁くように言葉を落とす。

「俺の本名は船岡葵って言うんです」
「……ふなおかって、え」
「雅さんは父方の叔母で、俺は甥っ子ってことになります」
「は? え? じゃあ葵ってのは」
「名字じゃなくて名前、ですね」

 わなわなと口が震える。脳内で雅の姿が想像され、瞬時に言われてみれば似ているかもしれない、と葵と雅の顔立ちを思い比べた。叔母ともなれば似てなくてもおかしくないが、葵を黒髪にすればかなり近い系統とも思えた。アルバイト中も2人は店長とスタッフという関係性を崩していないのか、親密だなと思ったことすらない。

「し、知らなかった」
「俺が黙っててもらったんです。店長の親戚って知られて、気とか遣われるのも嫌で」
「あぁ、そういう…でも、なおくんってのはなんだよ! 俺はてっきり、葵なおって名前なのかと思ったんだぞ!」

 ここまでの鬱憤をはらすように強く葵を指さす。
 葵は頭をかくようにしながら、くだらないというような表情になった。

「ただのあだ名です、船岡から取った。ふなは魚っぽいし、岡は別の人がいて。下の名前で呼ばれるのが嫌って言ったら、なんかそういう風になって」
「え」

 でもお前、と続いた咲也の言葉に、皆まで言うなとばかりに葵は顔を背ける。わかりやすく頬に赤みがさしていた。

「下心、です」
「し、したごころ?」
「……シノさん、名字と勘違いしてるみたいだったから。言わなければ、ずっと名前で呼んでもらえると思って」
「葵が名字であるフリをした、ってこと?」
「……はい」

 恥ずかしそうな葵に対し、咲也もまた、己の勘違いによる言動に体が沸騰しそうになっていた。
 名字と騙されていたことは百歩譲っていいとする。だが、同級生につけられたよくわからない名前に対して嫉妬していた事実が、恥ずかしくて堪らない。

「あれ、でもあの日が初対面だったと思うんだけど。あの頃から、名前で呼んでほしかったってこと?」
「それは……秘密です」
「え⁉ まってくれ、もしかしてあの日が初対面じゃないとか⁉」
「ノーコメントで」
「えぇ」

 うそだろ。いつだ。
 葵のような男に出会っていれば、そのイケメンぐあいから忘れなそうなものだと、頭を捻る。そんな咲也を見ながら、葵は嬉しそうにはにかんだ。

「シノさんがわけわかんなくなったことの答え、今じゃなくていいんで、ちゃんと考えてもらってもいいですか
「っ」
「それがなんなのか、俺のこといっぱい考えて。毎日俺を思い出してほしい」
「お前っ」
「それに、バレちゃったんで、今度からちゃんと意識して呼んでもほしいです」

 お化け屋敷が怖いだとか、話すの緊張するだとかいっていた可愛いゴールデンレトリバーはここにはいない。

「葵って。名前だって意識して呼んで下さい」

 咲也さん。
 声で幸福度がわかるほどに。至極幸せそうに葵は言った。