近頃すっかり長くなった夏も終わりを迎え、季節は冬を迎えていた。すっかりコートなしで出かけるには無謀な気温となり、秋とはなんだったのかと口が囁かれる。
先月から続く勉強会は今日も順調に行われ、咲也の学力は確実に向上していた。
ふと目をやれば、空いてる席に横並びで鞄が置かれ、ラベンダー色と青色のうさぎが、明らかにお揃いだとわかる状態で吊るされている。
「ちょっと、恥ずかしいかも」
互いに、鞄に装飾品をつけるタイプではない。それがより一層、うさぎのキーホルダーという異質さを目立たせていた。
「何か言いました?」
「いや、大丈夫」
学校でも何度も友人に声をかけられ、外そうと思ったのは一度ではない。だが”お揃い”を心底嬉しそうにしていた葵が思い浮かんで、咲也は外すことができなかった。恥ずかしいのはそれだけではない。葵だ。勉強会の短時間の間ですら、何度もうさぎを見る瞬間があり、それを見る度に激しい羞恥心に咲也が見舞われていた。だが、外すことはできない。すれが結果だった。
「シノさんすごいです。最初にやったテストより倍以上、点が取れてます」
「まじか!」
「大マジです。この調子で行けば、来月の期末テストも余裕だと思います」
「え~! そんなこと言われたら俺期待しちゃうんだけど!」
葵によって採点されたテストが返却される。整った字で「good」と書かれた赤字と、綺麗な丸を思わず撫でた。
「期末テストっていえば、立花って文化祭いつなんだ?」
「再来週ですけど——あ! シノさん! シノさんの学校は文化祭いつですか⁉」
「もう終わったけど」
「え」
「先週で終わり~! うちのがっこ、ちょっと早いんだよな」
11月も中盤に差し掛かるこの時期、多くの高校で文化祭が行われている。咲也の学校は先週それを終え、宣伝する必要性も相手もいないと思った故に、誰にも伝えていなかった。しかし、葵は肩を落とし、眉を八の字にして嘆く。
「い、行きたかったのに……」
「バカ高だから来てもおもしろくないよ」
「……違います」
「ん?」
「いつもと違うシノさんが、見たかったんです」
「……そりゃ、その、悪かったよ」
もっと悔しがってくれれば、冗談交じりで揶揄えたのに。
葵は心底悲しいといった様子で、家に置き去りする時の大型犬を思わせた。金髪もあいまって、ゴールデンレトリバーが脳内に浮かんでくる。
「代わりにならんが、俺がそっちの文化祭行くよ」
「そっちの……って、俺の文化祭ですか⁉」
「それ以外ないだろ」
「ダメです!」
力強い否定に、店内が一瞬静まり返る。全員の視線が集中し、葵は恥ずかしそうに肩をすぼめた。葵の背後、咲也からしか見れないカウンtナーで雅が笑顔で握り拳を作っている。あわてて手をあわせて謝罪の意を表明した。
「か、勘違いしてて、うちももう終わってるんです」
「さっき再来週って言ったのに?」
「言い間違えました」
「ホームページにも再来週って書いてあるけど」
即座に調べたスマホを見せれば、ぐうの音も出ないといったように葵は押し黙る。
「まぁ、俺みたいのが知り合いなんて恥ずかしいか」
「俺がシノさんを恥ずかしがるわけないじゃないですか!。じゃなくてとにかく、俺のために来ないでほしいんです」
また大声を出しかけた葵は、思い出したように途中から小声になった。
懇願するような視線に、揶揄いモードだった俺の気持ちも、罪悪感に変わっていく。
「……そこまで言うなら、行かねぇよ。お前以外知り合いもいないし」
「!」
大型犬の顔がいっきに嬉しそうにほころぶ。
その顔に免じて俺が行かないと思ったら大間違いだからな、なんて台詞は咲也の脳内でのみ再生されていた。
+++
白く、上品さが伺える校舎に幾つもの垂れ幕。
サッカー部が全国大会だとか、超名門大学何人合格だとか、予想通りの文武両道高偏差値、といった立花高校がそびえたっていた。
入口はひっきりなしに人が通り、学生が作ったにしてはハイレベルなアーチが客を迎え入れる。
「あんな顔されて行かないわけないよなぁ⁉」
「咲也~恥ずかしいからあんまデカイ声だすなよ」
高らかに叫んだ咲也に、隣から声がかかる。
「おい金井、常識人ぶるなよ」
「常識人ぶってるんじゃなくて、常識人なんだよ馬鹿め」
身長が決して低くはない咲也を軽く5センチは上回る高見から、眼鏡をかけた男、金井が言った。
流れるような罵倒は他人が聞けば二度見するほどだが、生憎と2人の間では挨拶よりも軽いやりとりだった。
「咲也に立花通ってる知り合いがいるなんて驚きなんだけど。アホと天才ってどこで知り合うんだ?」
「は? こっちのセリフだが? そもそもお前俺と同じ高校じゃねえか」
高校どころではない。中学から一緒だろ、と咲也は悪態つく。中学で同じバスケ部だったことから2人の友人歴ははじまり、なんの因果か高校も同じ腐れ縁同士で、今はクラスも一緒だった。ちなみに、金井が隣に立つと自分が小さく見えるので、常時真横には並ばないようにするのが、咲也の涙ぐましい努力である。
「俺の知り合いは後回しでいいとして。お前のバイト先の後輩? その人はなん組なわけ?」
「なんくみ……」
受付でもらったパンフレットを広げながら、金井が問う。パンフレット一つとってもクオリティの違いがありありとわかった。
「そういえば知らないな」
「は? 普通聞くだろ。どうやってたどり着くんだよ」
「サプライズだって言っただろ!」
「さりげなく聞けっていってんだよ」
やんややんやと騒ぎながら、2人は1年生のページを開く。当然8クラスほどの紹介があり、しらみつぶしに行くとなると中々骨が折れそうだった。シフトの時間も知らないわけで、行ったタイミングでいない可能性も高い。
「案内の子に聞いてみるか、ワンチャン知ってるかも」
「まじ?」
すみませ~ん、と軽いノリで、金井が案内所に座っている少女に声をかけた。クラスTシャツを着て着飾ってはいるが、どことなく品があり、立花生だというのがにじみ出ている。
「どうされましたか?」
「えーと、俺たちサプライズで会いにきたせいで、めあての子がなん組か分からなくて、1年生ってことしかわかんないんですけど」
自分のせいでありながら、よくこの情報で文化祭に来たな、と己に呆れた。
サプライズはあきらめて連絡を取ることも考えるが、少女の方がそれを止める。
「お名前とかわかりますか? 私も1年なのでもしかしたらわかるかも」
見れば、確かに来ているTシャツには1年1組とかかれている。
金井から促すような視線を受け、口を開いた時だった。
「えっと、あお——」
言いかけて、言葉が止まる。
ここで初めて、咲也は葵の名字しか知らないことに気が付いた。初めの自己紹介で、下の名前を教えてもらえなかったことが思い返される。記憶をたどっても、アルバイト先ですら、葵は葵と呼ばれていた。
「あ、葵って名字しかわかんなくて……」
「咲也、お前まじかよ」
呆れた金井に、返す言葉もなかった。
女の子が気まずそうに眉を寄せるので、俺もあわててスマホを取り出す。何か情報はないかと探したところでメッセージアプリの、全体グループが目に留まった。
「こいつなんだけど」
他のバイトが辞める時に撮った全体写真。こんなものでしか葵の証明ができず、ゲーセンにいった時にプリクラでも撮っておけばよかったと後悔が募る。呆れたように金井が肩に体重をかけてきた。
「さすがに顔じゃ無理だろ~」
「だ、だよなぁ」
全面的に自分が悪い。少女に無駄に無力感を与えてしまったと謝罪しかけるが、少女の顔がパっと明るくなる。
「これ、多分なおくんさんだと思います」
「な、なおくんさん?」
「はい。隣のクラスで、なおくん、って呼ばれてる人だと思います」
聞いたところでピンと来るはずもなく、咲也は金井と顔を見合わせた。
+++
『有名人なのであってると思います。なおくん、って皆に呼ばれてますけど、本名までは知らなくて』
1年2組ですよ、と少女は丁寧に行き方まで教えてくれた。こちらも丁寧にお礼をいって、校舎に足を運んだのが今である。パンフレットを見れば”1年2組純喫茶”と上手いイラストと共に掲載されていた。なおくんこと葵がこのクラスであれば、喫茶店で働いている知識が存分に生かされてることだろう。しかし、なぜ来訪を嫌がるのかがわからない。
「純喫茶って、喫茶店と違うのか?」
「なんかこう、レトロな奴だろ。咲也の方は喫茶って言うけど、カフェに近いよな」
マップにかかれた通りの道を、客引きに捕まらないように進んで行く。
だんご屋、占い喫茶、ドーナツ屋。頭のいい学校でも、並ぶ店のラインアップは咲也の高校とあまり変わらない。カラフルな看板を眺めながら、廊下の先で列ができている店を発見した。
「あれ、1年2組じゃないか?」
「なんか人だかりがあるな」
店に並んでいるというよりは、店の中を見ようと入口が混みあっている、ように見えた。それも、女子ばかりだ。
「嫌な予感がしてきた」
「んあ?」
「葵の奴、そういえばイケメンなんだよ……」
「イケメンかよ。敵じゃん。ベタにメイド服着させられてたりして」
「さすがにベタすぎるだろ」
「だよなぁ、さすがにどこの少女漫画——」
不自然に途切れた金井の言葉に、視線の先へと目をやる。きゃいきゃい騒ぐ女子の向こう。ベロア調の布で壁や机を覆い、高校の文化祭にしては丁寧に作られた教室内。明らかに男です、といった長身の男がメイド服で給仕をしている。情報を付け加えるのであれば、金髪に後頭部を刈り上げ、愛想のかけらもない表情の”男”が、だ。
「おたくの知り合いの葵くん、まさか彼じゃないよな。写真とそっくりだけど」
「……俺の目に間違いがなければ、あれば、そのぉ、葵くん、かなぁ」
少女漫画だね。金井の小さな声に、咲也も頷いた。
メイド服といっても、秋葉原なんかにいるようなミニスカふりふりメイドというわけではない。純喫茶の雰囲気にあわせた、ロングスカートで品のある衣装だ。ただ、男が着ているという点を除けば、おかしいところはなかった。
葵が動く度に女子生徒たちが騒ぎたて、この列は葵目当てなのか、と関心する。確かに顔がいい男だが、こんな漫画みたいなモテ方は初めて見た。そんな風に見ていれば、呆れた様子で葵が入口へと近づいて来た。
「見せに入らないなら邪魔なんてどっか行ってもらってもいいですか」
明らかに不機嫌な、鬱陶しいという視線が女子たちに刺さる。
出会った当初の葵を思い出し、咲也は少し愉快な気持ちになった。学校でもどうやら、葵は葵らしいと。
「入るなら横にならんで——え」
周囲をざっと見た視線が、女子の群れの後ろ、戸惑ったように立つ咲也の姿を捕らえた。
「シ、シノさん…⁉」
目を見開いて葵が叫ぶ。自ずと店内、廊下、全ての視線が自分に向けられて、咲也は嫌な汗をかいた。相変わらず驚いた時の声が大きい。見た目はクール男子なんだからもっとクールに驚け。
周りなんてどうでもいいとばかりに、葵は女子をかきわけてシノの前へと現れる。店内ならまだしも、通常の学校と変わらず廊下に出てしまえば、服装がもっと異物に見えた。
「どんなもんかって様子見に来たんだけど、お前……」
「っ」
己がどんな格好をしているのか思い出したようで、目に見えて葵の顔に熱が集まるのが見て取れた。大変気まずい、こんなこととは思わなかった。そう思いながらも、出会ってしまった以上、なかったことにはできない。
「に、似合ってるぜ、メイドさん」
「やめてください。だから来てほしくないって言ったのにっ」
「本当にすまない」
ただでさえ人だかりができていた店前が、葵と咲也のやりとりに一層騒がしくなっていく。葵のクラスメイトらしき人物から声がかかり、3人はいったん店内へと戻ることになった。受付をしていた子が、教室の扉を閉め窓に紙を張り付けて、中が見えないようにする。
「い、いいのか?」
「店に入らない人ばっかりなんで。俺がシフト終わったら外します。それで——」
睨みつけるような視線が、葵から金井に向けられる。
「……こちらの方は?」
「あぁ、悪い。俺の中学からの腐れ縁、金井。金井、こっちはバイト先の後輩で葵」
「どもっす」
「……どうも」
会話終了。
自分と葵のファーストコンタクトを思い起こさせるやりとりに、笑わないように口を押える。そうだよこれこれ、葵といえばこれだよ。
不愛想攻撃をくらった金井は、気分を害した様子もなく愉快そうに笑っていた。
「いや~咲也にこんなイケメンの友達がいたとは、驚きっすわ」
「咲也?」
葵がピクリと反応する。
「ん? こいつ、紫野咲也」
「知ってますけど」
じゃあなんで反応した。冗談めかして言えればどれだけ良かったか。
ピリついた葵の態度と、浮ついた金井の態度が事にミスマッチして場の空気が冷える。どうどうと落ち着かせながら、空いている席にいったんは腰を落ち着けようとした。通常の学校の机を4つ集めた席なので、当然四角い作りだ。
「シノさん、俺の隣座ってください」
「なんで? まぁ、別にいいけど」
「いや、昨夜は俺の隣だろ。俺、付き添いで来たし」
「は? なんなんですか?」
「こっちのセリフだけど」
ピシリと、明らかに2人の間にヒビが入る音が聞こえる。
咲也は溜息をつき、金井の腕を軽く殴った。
「葵を揶揄うな! 葵も、この愉快犯のいうこと真に受けるんじゃない」
「え?」
「いったいなぁ~いやぁ、だって驚くほどイケメンだから、ちょっといじりたくなっちゃって」
ごめんね、俺は咲也のことそんなに好きじゃないよ、と金井が謝った。その発言もどうなんだよと思いつつ、咲也も葵の横に腰かける。葵はといえば、ドッキリをしかけられたかのような顔で呆然と金井と咲也を見比べていた。
「ほんとごめんね、葵くん。ていうか葵くんて呼んでも平気?」
「大丈夫ですけど……」
「びっくりさせちゃったお詫びに、咲也の文化祭の写真をあげよう」
「もらいます」
俺はまだお前を警戒しているぞ。と言わんばかりだった葵の態度は、一瞬で忠実な部下のようにひっくりかえった。
スマホを取り出しあう2人の手を止める。
「おいおい馬鹿、やるな馬鹿、もらうな馬鹿」
「もしかしてシノさんもメイド服を——」
「いや、俺は普通にギャルソン」
さっぱりと、スマホの画面を見せながら金井が葵の夢を打ち砕く。画面には、何の変哲もないギャルソン服をきて給仕をしている咲也が映っていた。
「裏切られたっしかもかっこいい」
金井がバー風ジュース屋さんだよぉ~と付け加える。
既に終わった南高の文化祭。クラス全員バーテンダー風、ということで、ふなおかでは着ないベストとネクタイを締めている。違いといえば微々たるものだが、葵は悔しそうに、でも嬉しそうに画像を金井に貰っていた。
「咲也のことかっこいいとか、葵くんいい子だね」
「どういう意味だよ」
「お友達になろう葵くん。咲也の色んな写真送ってあげる」
「本当に嬉しいです。よろしくお願いします」
「よろしくせんでいい。写真もやるな!」
騒ぐ咲也を無視して、2人は連絡先を交換しあう。葵と金井、長身が揃うと場が華やぎ、金井がそこそこ顔が整っているということもあり、葵がメイド服を着ていること忘れそうだった。
「噂の葵くんと仲良くなれたことだし、俺はそろそろ行くわ」
「え、シノさんと回るんじゃ」
「俺は別で友達と待ち合わせしてるんだわ。葵くん、シフト抜けられそうなら寂しんぼのこいつと回ってやって」
「誰が寂しんぼだよ、ひょろがり眼鏡」
貶し合う俺たちだったが、葵が逃さないとばかりの勢いでこちらを見てきた。
「シノさん! 俺、もうシフト終わるんで、その、一緒に!」
勢いは激しいにもかかわらず、発する言葉はどこか不安を帯びている。咲也はいつの間にか心に取り付けられた”葵がいじらしいメーター”がぐんぐん上がっていくのを感じた。
「じゃあ俺は行くわ。咲也、明日払うから、俺の分までなんか頼んでおいてね、メニュー」
「お~」
店に入ったからには、という奴なりの気遣いに手を振って答える。
律儀な奴、と心の中で呟く。ふと訪れた静寂に、咲也はメニュー表を広げた。
「えーっと、これは萌え萌えキュンとかやってもらえるのかな?」
「絶対やりません」
+++
飲み物とお菓子を頼んで休憩した後、葵のシフトあがりと共に2人は立花高校の文化祭に繰り出した。
葵はクラシカルなメイド服から、いつもの制服に戻っている。
「メイド服のままでもよかったのに」
「いいわけないです」
明らかにムカついてます、といった葵を宥めるように叩く。こんな冗談を言えるようになったのも、半年前からは考えられないことだった。
「シノさん、なんか興味あるものありますか?」
「んーオススメある?」
「ないです。でも、シノさんがいるならどこでも楽しいと思います」
「なんだよ、それ」
目的もなく歩きながら適当な会話を続けて行く。その最中、咲也のポケットが小さく震えた。
「あ」
「どうしました?」
「金井から連絡来てたわ。知り合いに会えたらしい」
「それはよかった」
ご丁寧に画像つきで、存分に文化祭を楽しんでる画像が送られてくる。学校についてすぐ解散してもよかったところを、合流するまで一緒にいてくれたところが、金井の憎めないところだ。
「あいつ、実はいい奴なんだよな。葵も、二度と会わねぇかもだけど仲良くしてやって」
恥ずかしさ半分で言った言葉に、葵からの返事がない。
不思議に思ってそちらを見ると、足を止め拗ねるような表情で葵が立っていた。
「金井さんはいい人です。でも、ちょっと嫌でした」
「あ~、あいつの態度? ごめん、金井の奴ちょっとふざけた所があって——」
「……俺の知らないシノさん、いっぱい知ってるみたいな、マウント取られたみたいで嫌だったんです」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
葵は視線を下に向けたり咲也に向けたりと忙しなく動かしながら、あの土曜日の夜、不可抗力で告白してきた時と同じ勢いでしゃべりだした。
「シノさんもすごく仲良さそうにしてるし」
「仲いいってか、まぁ中学から一緒だから……」
「身長、俺より高くて」
「それは、仕方ないだろ」
「それになんか、シノさんのこと元気づけてくれ、とか言われたし」
「あ~それは」
金井の意図がわかり、咲也は口を濁す。フラッシュバックしたのは鞄についてるうさぎと、不随して思い出した以前もっていたクマのキーホルダーだった。あまり思い出したい内容ではない。
それについては気にならなかったのが、葵は”それよりも!”と強く主張したいことがあるようだった。
「な、名前で、呼んでるし!!」
頭の中で「咲也」と呼ぶ金井が思い浮かぶ。続けて、確かにバイト先ではもっぱら「柴野くん」「柴野さん」で、咲也を名前で呼ぶ人は葵の周りには誰もいないことに気がついた。それは逆もしかりだったので受け付けて焦ることになったのだが。
「えっと、つまり、俺を名前呼びをしてる金井に嫉妬……」
「く、口にださないでください。めっちゃださい」
拗ねたように葵が顔をそっぽ向ける。
葵がいじらしいメーターは、もう振り切れそうだった。
「お前も呼べばいいじゃん」
「え?」
「呼んだらいいだろ」
名前で呼ぶくらい、なんでもないだろ。親も金井も呼んでるし。
そんな風に思った気持ちは、葵の行動で見事に破壊される。
「俺の名前、覚えてる? さ——」
「咲也」
決して大きくはない。でも、まるで耳元で囁かれているように、葵の声は耳によく届いた。葵と出会ってから何度もある、呼吸が止まるような感覚。ガヤガヤとうるさいはずの廊下なのに、その音さえ聞こえないような気さえする。
「咲也、さん」
何かを請うような目と声で、葵は咲也を見ていた。
つくづく、目が印象的な男だと、その目に射貫かれて思う。色素の薄い葵の目に写る自分はさぞ滑稽な顔をしているのだろうか。風に揺られて、葵の前髪で隠れてしまったその目が見たくて、手を伸ばした時だった。
「む、無理です!! 俺にはまだ早い!!」
心臓を抑えるようにして葵がしゃがみこむ。
なんだなんだと周りが俺たちを見て、本日何度目かの注目を集めた。
「おっまえ、全部台無し——」
何が台無しなのか。
問われたら困る内容に、咲也が口を噤んだ時だった。
「あ、なおっぴー!」
場違いな程明るい声が、その場に響いた。
