「あ」

  お風呂からあがり、乱雑に髪を拭いていた最中。意味もなくただ見ていた画面に現れた通知に、咲也は思わず声を漏らした。
 送り主は、ついさっき混乱の渦を巻き起こした張本人、葵だ。

「み、見るのこわぁ」

 最後にスタンプを押されたそれは、通知欄には”スタンプが送信されました”の文字だけが映し出されている。通知で内容まで見たかったような、そんなことはないような気持ちになった。
 つい数時間前、不可抗力&開き直り告白の後、無駄に残業にならないために超特急で締め作業を終わらせたところで葵は言った。

『連絡先、交換してほしいです』

 アルバイト全員が入っているグループがメッセージアプリにはある。そこから自由に追加できようものを、律儀に本人に許可取りする姿は咲也の目にはいじらしく写った。しかし葵はそのまま告白の件に触れることはなく、何事もなかったかのように帰宅していき、混乱の中に咲也を置き去りして行った。メッセージにはそれに関することが書かれているのか否か。何にせよ緊張感を持ちながら、薄目で画面をタップする。

「……ん?」

 ザっと読んでわかる違和感。
 長文で気持ちが書いてあったら。イエスかノーかを問われていたら。色んなパターンを考えていたが、どれにも当てはまらない文章が連なっていた。

【おつかれさまです】
【勉強会の件、嫌じゃなければぜひ俺にやらせてください】
【バイトの前に1時間くらい、客席でどうしょうか? 雅さんには許可取ってます】

 淡泊ともいえる、絵文字どころかビックリマークも何もない、事務的なメッセージ。
 最後に、初期装備されているキャラの「お願いします」スタンプが押されており、咲也の覚悟を嘲笑うような何事もなかったかのような内容になっていた。

「あれ、まさか勘違い、だった……?」

 好きですと言う言葉には、恋愛的な好きではなく、人として好きですよ、的な意味もある。
 勘違いしたのかもしれない。そうだ、それに違いない、緊張して損した、と顔をあげたところで卓上の鏡が嫌に目につく。正確には鏡に写った自分の、更に口元に目がいっていた。

『キス、しましたけど。口じゃなくて、頬ですけどね』

 思い出した途端、ワっと顔に熱が貯まるのを感じ、髪を拭いていたタオルを床に叩きつける。

「キスはしないだろ! 人として好きだったら!」

 自分はしない、絶対に。誰に伝えるでもない叫び声をあげながら、咲也はベッドへと飛び込んだ。濡れた髪の水滴が枕に染みたが、それすらもどうでもよかった。

「うわああああ、俺、これ、どしたら!」

 もう一度画面を見て、増えもしない3つの吹き出しと1つのスタンプに溜息をつく。
 勘違いではないことは葵の行動から明らかだった。そうとなれば、咲也は事実告白をされたわけだが、考えてみればイエスともノーとも答えていない。そもそも「好きです付き合ってください」ではなく「責任とって俺を好きになってください」は告白といえるのか。

「答える間もなく、なんか解散しちゃったけど……」

 勉強を見てほしい気持ちは、確かにあった。しかし、自分がフッた相手に勉強の約束を憑りつけるなどどんな鬼か。どれだけ虫のいい話だ。咲也はスマホをもう一度見る。
 メッセージを打っては消して、打っては消してを繰り返す。そこで、自分はまるで好きな人へのメッセージを吟味する片思いの少女のようだと気が付いた。

「なんで俺が緊張してるんだよ」

 両腕を広げるようにして、ベッドに叩きつける。ぼうっと天井を眺め、重い溜息をついた。
 思い出すのは勿論、葵のことだ。今自分が感じている緊張の何倍も、葵は緊張したことだろう。常にクールで、睨みつけるようにみていた顔は、さっき、あり得ないほど真っ赤に染まっていたのだから。思い出せば思い出すほど、冗談や勘違いのようには思えなかった。

「……ちゃんと、答えないとだめだよな」

 誠意には誠意をもって答えなければならない。
 さっきまであれだけ決まらなかった返信は、今度はすぐに打ち込めた。

【勉強は、自分でなんとかしてみるから大丈夫!】
【でも話したいこともあるし、店はなんだから駅前のカフェはどう?】

 バイト先で相手をフるというのも、気がひけた故の返信だった。

「はぁ」

 スタンプでも送っておこうか。
 スマホを持ち上げた時だった。軽やかな音と共に、通知が光る。

「え」

 新しい通知は葵からのもので、返信を見た瞬間、秒速で返信してきたのが伺えた。

【いえ、そのままふなおかで大丈夫です】
【よろしくお願いします】

 意外にも押しが強い。
 いや、今日の押しの強さを思い出せば、意外でもなんでもなかった。


                      +++


 なんとも気まずい気持ちで訪れた勉強会当日。
 この後バイトの時間も一緒に過ごすと思うと楽しい気持ちにはなれず、だけど人からの好意をそう思うのも失礼だと思えば、より雁字搦めになるというループにはまっていた。
 それなのに、出会った葵といえば何事もなかったかのような顔で、先に着席して咲也を迎えたのだった。

「シノさん。ここです」
「お、おぉ~」

 努めていつも通りの返答を心がける。
 葵がメニュー表を見ているのに気づき、咲也は思い出したように告げた。

「あ、俺が奢るから」
「なんでですか」
「年上だし、普通に」
「普通とかないです。一歳しか違わないし。俺が出します」
「いやなんで……?」

 突き放すような言い方に、押し黙るしかできない。
 土曜日とは別人のような態度に、いやいやこちらが通常だった、と咲也は一人納得した。
 同僚のスタッフにコーヒーを頼めば、葵も同じ物を注文し席には沈黙が訪れる。この半年、先日の土曜日を例外として、2人は碌に会話をしたことがない。つまり、互いの共通の話題も知らなければ、会話のテンポ感も何もわからないのであった。

「あ、あのさ」

 口火をきったのは咲也だった。
 この後何と継げようか。集合してそうそう本題に切り込んでいいものか。高速回転する思考を止めるかのように、葵が鞄から本を取り出す。

「さ、やりましょうか」
「えっと、何を?」
「何言ってるんですか」

 机に出されたそれは”数Ⅱ”の教科書だった。

「勉強に決まってるでしょ」
「嘘だろ⁉」

 迷惑にならない程度の声量に気をつけながら、声を荒げる。

「嘘って、そのために集まったんじゃないですか」
「そ、そうだけど、え⁉ そうだっけ⁉」

 勉強については断ったはずだけど、なんて声も葵には通じない。
 このまま流されてはいけない、咲也は強く決意して意識して葵と目をあわせた。少し色素の薄い目も、咲也を見ている。勿論、数Ⅱの教科書も咲也を見ていた。

「そ、その前に! 俺は、ちゃんと言わないとと思って」
「あぁ、告白の件なら、大丈夫です」

 あっけらかんと、葵が言う。
 
「シノさんが俺を好きじゃないのは分かってるんで。断りの返事はいりません」
「そう、気持ちはうれし——え?」

 耳から入った言葉が、そのままストップする。脳が処理できずに、理解を放棄したようだった。
 強がりかと思えば、本当に何も気にしてないという顔で、葵は教科書を開いている。

「好きならわかりますよ。相手が自分を恋愛的に好いてくれてるかどうか。シノさんは俺を好きじゃないですよね」
「そうだけど、だから、俺は……」
「はい。だから断りの返事はいらないっていったんです。好きになってもらうんで」
「好きになってもらうんで⁉」
「俺があなたを諦めるって選択肢がないんで、となると両想いになるしか……」
「前向きすぎるだろ!」

 誰こいつをこんなに開き直らせたのか。あぁ、あの日の俺か。いや、俺なのか。
 目の前で起きた理不尽かつ意味不明な出来事に理解が追いつかない。

「俺が頑張ることなんで、シノさんは何も考えなくていいんですよ」
「そんなわけにいかないだろ。それに、だから俺は勉強教えてもらうのは」
「俺の気持ちを利用してるみたいで嫌?」
「っ」

 図星をつかれて口を噤む。
 そうだとも。だからこそ勉強会は断ったのに。葵はなぜか嬉しそうに笑っている。

「ばかだなぁ。この勉強会は、シノさんが俺を利用してるんじゃない。シノさんの優しさを俺が利用してるんだよ」
「い、意味が分かりません」
「バイト以外の時間もシノさんに会える、そんな口実を得られたってこと。俺はこれから頑張ってシノさんに好きになってもらわないといけないから、会える時間は多いほうがいいでしょ? 下心ですよ」

 何を言われているのか、じわじわ理解した咲也は徐々に沸騰するやかんのように時間さで顔を赤く染め上げた。よくもまぁそんなキザな言葉が吐けたもので、言った本人よりも言われた側の方が恥ずかしくなって、両手で顔を覆う。

「だから、俺と一緒に勉強してください。シノさん」

 含みのある笑顔で、葵はもう一度微笑んだ。
 緊張します、といっていじらしく照れていた姿はなく、あれよあれよという間に勉強道具が机に広げられる。
 今何を勉強しているのか、どこが苦手なのか。下心といったわりに、勉強会はかなり真面目に進行されていく。

「あぁ、ここはこの公式を使います」
「え、なんで」
「一個前に解いた問題ありますよね、これと一緒で」

 さらさらと、俺のノートに葵の赤ペンが書き足されていく。

「こう考えると、そんなに難しくなくないですか?」
「確かに」

 かかれた公式をみて、咲也はおぉとこえをあげた。
 咲也は馬鹿な方ではないが、こと数学に関しては包み隠さずアホだといえた。歴代の教師も教えるのに苦労していたというのに、葵はそういった様子もなく上手く説明してみせる。

「ほんとに2年の内容でもわかるんだな」
「まあ、たまたま」
「「たまたまなわけないだろ。立花ともなれば普通なのか…?」

 県内有数の高偏差値の学校、立花高校。
 突然、バイト先の不仲だった後輩が雲の上の人のように見えはじめた。

「高校では勉強できないほうですよ、俺」
「そうなの?」
「はい」
「中間テスト、何人中何位だった?」
「……真ん中よりちょっと上くらい?」
「嘘だろ」
「……いえ」
「その反応は嘘じゃん。下に鯖読む意味がわからん」

 ちらりと葵を見れば、これまでに見たことがない困ったような表情をしており、それ以上の言及を止める。触れてほしくないのかもしれない。ならば話題を変えようと、咲也は口を開いた。
 
「でもさ、お前教えるの上手だよ。俺でもわかるもん」
「シノさん、頭悪くないですよ。今のだって、ちゃんと理解してるからひっかかってたんですから」
「いや、お前が頭いいからだよ。人にわかりやすく教えられるやつは、ほんとうにわかってる証拠って言わない?」
「……じゃあ、シノさんもそうですね」
「は?」

葵は、至極当然ですといった顔で俺を見た。

「仕事教えるの、うまいから。俺、シノさんのおかげでうまくやれてると思います」
「あ、えと、そう?」
「間違いなく」
「俺、教え方下手で嫌なのもあって、お前に嫌われてるかと思ってた」
「それは! だから、その、緊張してたからうまく反応できなくて……」

 お前の照れるポイントわからねぇよ。と心の中でツッコミをいれる。
 照れ隠しのように視線を外し、気持ちを落ち着かせるようにペンのキャップを弄るさまは、いわゆる”かわいい”と思ってしまうもので。男にかわいいってなんだよ、と思いながらも、目の前の属性を山ほど積んだ男に対して小さな猜疑心が生まれだす。

「聞いてもいいか」
「なんですか」
「いつから、俺のこと好きなの」

 少し考えるように、葵が口を閉ざす。

「……ずっと前から」

 目を反らしながら、葵は言った。
 少なくとも出会った半年前から、ということだろうか。

「……その、俺はいまいち信じられないんだよ。お前、頭いいし、顔もいいし、なんか、色々だし!」
 大げさではなく、葵はいい男で、女子的にいうなら明らかな優良物件だ。顔がよく、頭もよく、背も高い。クールで不愛想だが、ヘラヘラしているよりよっぽどいい。何より自分への反応を見るに、恋には純粋で一途。そんな人間いてたまるかと言いたいような男だ。

「なんで俺? 揶揄われてる? って思ったりもして——」

 言いかけた言葉は、葵が頬に伸ばしてきた手によって遮られた。
 葵の身長に見合った大きな手の親指が、咲也の頬に触れそうで、触れない位置まで伸ばされる。

「ここにキスしたの、覚えてません?」
「キ!!!」

 また出そうになった大声を、今度はきちんと制御する。そうさせた本人である葵を、睨むように見た。

「お、おま、こんなところでっ」

 男同士が見つめ合って、片や頬に手を伸ばしているなんて、どんな事態だ。
 非難の目を向けても、葵の真っ直ぐな目が咲也を見ていた。

「俺は好きでもない人にあんなことはしない」
「っ」
「それに、別に男が好きとかでもない」

 退店していく人が開けた扉から、少し冷たい風が、葵の前髪を揺らす。

「シノさんだからだよ、全部。シノさんが好きだから、それ以外ない」

 自分が息を吸ってるのか吐いてるのか、もしくは止まっているのか、咲也にはわからなかった。それぐらい、葵の目が、言葉が、雰囲気が衝撃的で真摯で。体の奥底から全身に向けて、熱いものが回りだす。

「う、疑って、すみません」
「はい。分かってくれれば大丈夫です」

 雰囲気が元に戻って、咲也も肩を下ろした。
 葵は顔が整っているせいか、声もいいせいなのか、ふとした瞬間に場を支配する雰囲気を作るのが非常にうまかった。いつのまにかそれに飲まれて、咲也は息すら忘れてしまう。

「……お前、あの日から開き直りすぎじゃない? 緊張するとか嘘だろ」
「嘘じゃないですよ。ずっと緊張してますから。でも、俺は後がないわけですから、なんでもしないと」
「嘘こけ~」
「ここで証明してもいいですよ」
「それは止めろ」

 自分ばかりが調子を崩されている。むしゃくしゃして、態度を誤魔化すように視線をうろつかせた時だった。葵の手元、開かれたノートが水に濡れているのに気づいたのは。

「葵、水滴垂れてる」
「え?」
「ノート。コーヒー飲むときに垂れたんじゃ……」

 紙ナプキンを差し出して、あれ、と手が止まる。
 脳裏に「同じものを」と頼んだ葵が思い浮かんだからだ。咲也の手元にはまだ温かいホットコーヒーがある。つまり、葵が飲んでるのもホットコーヒーのハズで、水滴は垂れるはずがない。

「なんか濡れてる物とかあったか? おしぼり?」

 葵は質問には答えずに、あまりに強い勢いでノートを閉じる。

「ちょ、え、大丈夫か⁉ 閉じたら余計濡れちゃうぞ」
「大丈夫です! 大丈夫ですから、忘れて——」

 行き場の失った紙ナプキンをあてがおうとすれば、抵抗するように葵がノートを引き寄せる。その勢いで、卓上に並べられていたペンが床へと散らばった。

「っすみません」

 必要以上に焦りながら、葵はペンを取るために机の下へと頭を下げた。
 俺の方にも転がったかも。咲也はそう思って、軽く机の下を覗き込む。丁度真ん中あたりに転がった赤ペンを見つけて、手を伸ばした。

「シノさん!」
「!」

 あまりの声に、急ブレーキをかけるように手を止める。
 窮屈な姿勢のまま向かいへと視線を寄越せば、真っ赤な顔をした葵と目があった。照れている。確実に。もしくは、何かを恥ずかしがっている。

「違うんです! これはっ」
「ど、どうした? 俺、ほんとお前のタイミングよくわからんかも」

 強奪するように赤ペンを握り、葵は体を起こす。咲也も続いて顔をあげれば、葵は真っ赤な顔のまま、悔しそうに歯を噛みしめていた。

「俺、手汗ひどくて」
「手汗?」
「多分、ペンも濡れてるから」
「あ~ひどい人ってノートびしゃびしゃになるっていうよな~てか、そんなん気にしないけど」
「俺が! 気にします!」

 激しい剣幕に、へぁと間抜けな声が漏れる。

「だから言ったでしょ! 緊張してるって! 緊張すると、その、もっと手汗かくからっ」
「え、あ、そういう……」
「ばれたくなかった」

  せっかく、ちょっとカッコイイこと言えたのに。
  顔の赤さはそのままに、しょげたように視線が下を向く。
 あの日、開き直り告白をしてきた日もまた、こんな風に言いたくなかったとしょげていた葵を思い出した。

「生理現象だし、恥ずかしがることないだろ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ何だよ……」
「好きな人の前で手汗でびちゃびちゃとか、小学生みたいで、恥ずかしい!」

 真っ赤な顔でいう葵に、咲也は「は」と空気を吐いた。
 厳密には、それしか吐けなかった。

「俺は、俺のカッコイイところ見てもらって、シノさんに好きになってもらいたいから」

 追撃。
 致死量の湧き出てくるナニカに、この場から逃げ出して叫び回りたい気持ちにさせられる。

「お、お前って二重人格?」
「はい?」

 嘲笑うように押せ押せな葵と、今のように照れて赤面する葵。交互に攻撃を受けて揺さぶりは完璧だ。

「お前ってやっぱりかわいいかも」
「かわっ」

 告白された日、かわいくないと思った自分に咲也は言ってやりたかった。
 葵は拗ねたように眉を寄せ訴える。

「かわいいは嫌です。かっこいいがいい」
「う」

 わざとやってるよな、と咲也は悪態をついた。