七月中旬の午後。
蝉の声がうるさいほどに響く放課後。だが、校舎内には妙な静けさが漂っていた。
職員室横の長い廊下。その奥にある、曇りガラスのドア。
――校長室。
その前に、丈太郎は立っていた。
手には呼び出し状。
件名は簡潔だった。
「校内秩序に関する面談」
「灰色上等」の横断幕を掲げた体育祭から数日後。
生徒会にも、学年主任にも、明確な“処分”は下っていなかったが――
その“余波”が今日、丈太郎に静かに襲いかかっていた。
扉をノックすると、重々しい声が返ってくる。
「入りなさい」
丈太郎は、深呼吸をひとつしてドアを開けた。
部屋の中は、冷房が効きすぎていた。
まるで意図的に空気を凍らせているかのような冷気。
正面の机には、霧山高校の校長――西園寺が腕を組んでいた。
無表情。
だが、背筋の伸びた姿勢と、机上に整然と並ぶ書類が、その人間の“揺るぎなさ”を物語っている。
「花咲丈太郎君。座って」
丈太郎は促されるまま、革張りの椅子に腰を下ろす。
背もたれに触れないよう、意識的に背中を伸ばす。
「……先日の体育祭について、少し話をしましょうか」
それは“話し合い”ではなかった。
どこまでも“指導”としての空気が支配していた。
「無断の掲示物。開会式中の突発的な主張。教師の指示に従わない行動。……どれをとっても、見逃せるものではありません」
丈太郎は、喉が渇いているのを感じながらも言葉を選んだ。
「でも……あの言葉を掲げる意味は、僕らの中にちゃんとありました。
評価されることが悪いんじゃない。でも、評価に縛られて“息ができなくなる”生徒がいるんです」
校長の眉がわずかに動いた。
それは同意ではなく、“余計な感情を持つな”という一瞬の圧力だった。
「君たちの主張があるのは分かっています。
しかし――“学校”とは、秩序をもって生徒を育てる場所です。
その秩序が崩れれば、教育は成立しません」
「じゃあ、僕らの心が崩れていくのは、成立するんですか?」
言ってしまった。
丈太郎の声は震えていた。だが、目はそらさなかった。
校長はしばらく沈黙したのち、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「これは、“停学措置”の通達書類案です。今の時点では、まだ発動されていません」
丈太郎の指先が、冷えた椅子の肘掛けをぎゅっと握った。
「このまま行動を続ければ、正式に手続きを進めざるを得ません。
学校全体の指導方針に対して、組織的な反抗を行っているのですから」
「でも、これは反抗じゃない。……問いかけです。
“点数って、そんなに絶対なんですか?”っていう、ただの――問いです」
声はかすれていたが、丈太郎の目は、逃げていなかった。
丈太郎の“問い”に対して、西園寺校長はわずかに顎を引いた。
その目は冷たいまま、だがどこか“観察者”のようでもあった。
静かに、低く口を開く。
「問いかけなら、方法を選びなさい。
公の場で、しかも多くの生徒を巻き込んで“制度そのもの”を否定する。
それは、『問い』ではなく『破壊』です」
丈太郎は唇を噛む。
「でも、“破壊”しなきゃ見えない景色もある。
誰も止められなかったルールを、僕らはせめて“立ち止まって見直す”ために、声を上げただけです」
「その声が、“誰か”を萎縮させている可能性は、考えましたか?」
「……え?」
意表を突かれた。
丈太郎は、校長の言葉の意味をすぐに理解できなかった。
「君たちの行動は、確かに一部の生徒にとって“救い”かもしれません。
しかし同時に、“行動できない生徒”にとっては、“声を上げられない自分”への否定となる」
西園寺校長の言葉は、どこまでも冷徹だった。
それでいて、確かな論理に裏打ちされていた。
丈太郎は、言葉を返せずにいた。
「学校とは、“一律”を目指す場です。
“個”にすべてを委ねれば、教育は成立しません。
君がどれほど思いを込めようと、“例外”が“正義”になってはならない」
そのとき、丈太郎の脳裏に、あの無記名の手紙がよぎった。
体育祭の日、図書館でこっそり渡された、あの「ありがとう」の言葉。
あれは“例外”じゃない。
あれこそが、この世界で黙って消えていく“本音”だった。
「校長先生。僕、黙るのだけは無理です。
人を救えるのが“正義”じゃないなら、その“教育”ってなんなんですか?」
もう怖さもあった。言い負かされるかもしれない、停学になるかもしれない。
でも、それ以上に――引けなかった。
その言葉のあと、室内に再び沈黙が訪れる。
時計の秒針がやけに大きく聞こえた。
しばらくして、西園寺は書類を机に戻し、ため息をついた。
「……いま、君に結論は出さない。
これは組織として判断すべき事項だ。教職員会議で正式に扱う」
「……ありがとうございます」
丈太郎が立ち上がり、頭を下げようとすると、校長が一言、加えた。
「ただし――次の行動次第では、本当に“色”を失うことになる。覚悟しておきなさい」
丈太郎はその言葉に返答しなかった。
ただ深く一礼し、冷え切った校長室のドアを、そっと閉めた。
外に出ると、蝉の声が再び耳に戻ってきた。
冷気の中で硬直していた体に、夏の熱が戻ってくる。
丈太郎は、小さく息を吐いて、歩き出した。
――戦いは、終わってなどいない。
校長室を出た丈太郎は、足取りも重く校舎を歩いていた。
廊下の窓から見える中庭では、三年生たちが進路指導の資料を配布されている様子が見えた。
「この学校ってさ、“未来”も点数で塗りつぶすのかよ……」
心の中で毒づきながらも、その場で足を止めた。
そんな丈太郎の肩を、ふいに後ろから叩いた者がいた。
「おつかれ。やっぱり呼び出されたんだな」
振り返ると、そこにいたのは涼平だった。
表情は変わらず淡々としていたが、その目はどこか心配を浮かべている。
「うん……まあ、“保留”って感じ。
でも、停学の文字が目の前にあった。あれはヤバいな」
丈太郎が力なく笑うと、涼平は「それで済んだなら上等だ」と返した。
「俺が提出した資料、教師側でちゃんと共有されたみたいだ。
“数値の正当性が不明確”っていう項目は、特に議題に上がるはずだ」
「マジか。じゃあ、もう少しだけ風穴開けられるかもな」
二人が話していると、少し離れたところから優亜が走ってくるのが見えた。
「ちょっと!丈太郎!無断単独突撃はナシって言ったでしょ!」
怒っているのか、心配しているのか分からない声だった。
丈太郎は、軽く両手を上げて謝った。
「ごめん。急だったんだ。呼び出し。ちゃんと報告するつもりだった」
優亜は勢いよく近づいてきて、胸のあたりを軽く拳でドンと叩いた。
「報告だけじゃダメでしょ。あんたが一人で責任背負って倒れたら、あたしらどうすんのよ」
「……ありがとう」
丈太郎はその言葉に、初めて肩の力が抜けるのを感じた。
“自分が背負い込まなくてもいいんだ”と、ようやく思えたのだ。
涼平が微笑を浮かべた。
「優亜のこういうとこ、ちょっと羨ましいよな。直感で人に飛び込めるって」
「なにそれ、褒めてんの?バカにしてんの?」と軽口を叩きながら、優亜は手を腰に当てる。
「ま、でも……今日だけはちゃんと言っとくわ。
よくやったな、丈太郎。……かっこよかったよ」
それは、まるで何気ない一言のようだったけど――
丈太郎にとっては、この夏で一番、心に沁みる言葉だった。
蝉の声が、また大きくなった。
日陰だった廊下に、ひとすじの光が差し込んできた。
丈太郎は、静かに口を開いた。
「このまま、終わらせたくないな。
俺たちで、“別のやり方”を作っていこう。反抗じゃなく、提案として」
涼平が頷き、優亜がにっと笑う。
灰色同盟はまた、歩き出す。
冷たい部屋の外で、確かに熱を帯びながら――
(第9話「校長室の冷気」End)
蝉の声がうるさいほどに響く放課後。だが、校舎内には妙な静けさが漂っていた。
職員室横の長い廊下。その奥にある、曇りガラスのドア。
――校長室。
その前に、丈太郎は立っていた。
手には呼び出し状。
件名は簡潔だった。
「校内秩序に関する面談」
「灰色上等」の横断幕を掲げた体育祭から数日後。
生徒会にも、学年主任にも、明確な“処分”は下っていなかったが――
その“余波”が今日、丈太郎に静かに襲いかかっていた。
扉をノックすると、重々しい声が返ってくる。
「入りなさい」
丈太郎は、深呼吸をひとつしてドアを開けた。
部屋の中は、冷房が効きすぎていた。
まるで意図的に空気を凍らせているかのような冷気。
正面の机には、霧山高校の校長――西園寺が腕を組んでいた。
無表情。
だが、背筋の伸びた姿勢と、机上に整然と並ぶ書類が、その人間の“揺るぎなさ”を物語っている。
「花咲丈太郎君。座って」
丈太郎は促されるまま、革張りの椅子に腰を下ろす。
背もたれに触れないよう、意識的に背中を伸ばす。
「……先日の体育祭について、少し話をしましょうか」
それは“話し合い”ではなかった。
どこまでも“指導”としての空気が支配していた。
「無断の掲示物。開会式中の突発的な主張。教師の指示に従わない行動。……どれをとっても、見逃せるものではありません」
丈太郎は、喉が渇いているのを感じながらも言葉を選んだ。
「でも……あの言葉を掲げる意味は、僕らの中にちゃんとありました。
評価されることが悪いんじゃない。でも、評価に縛られて“息ができなくなる”生徒がいるんです」
校長の眉がわずかに動いた。
それは同意ではなく、“余計な感情を持つな”という一瞬の圧力だった。
「君たちの主張があるのは分かっています。
しかし――“学校”とは、秩序をもって生徒を育てる場所です。
その秩序が崩れれば、教育は成立しません」
「じゃあ、僕らの心が崩れていくのは、成立するんですか?」
言ってしまった。
丈太郎の声は震えていた。だが、目はそらさなかった。
校長はしばらく沈黙したのち、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「これは、“停学措置”の通達書類案です。今の時点では、まだ発動されていません」
丈太郎の指先が、冷えた椅子の肘掛けをぎゅっと握った。
「このまま行動を続ければ、正式に手続きを進めざるを得ません。
学校全体の指導方針に対して、組織的な反抗を行っているのですから」
「でも、これは反抗じゃない。……問いかけです。
“点数って、そんなに絶対なんですか?”っていう、ただの――問いです」
声はかすれていたが、丈太郎の目は、逃げていなかった。
丈太郎の“問い”に対して、西園寺校長はわずかに顎を引いた。
その目は冷たいまま、だがどこか“観察者”のようでもあった。
静かに、低く口を開く。
「問いかけなら、方法を選びなさい。
公の場で、しかも多くの生徒を巻き込んで“制度そのもの”を否定する。
それは、『問い』ではなく『破壊』です」
丈太郎は唇を噛む。
「でも、“破壊”しなきゃ見えない景色もある。
誰も止められなかったルールを、僕らはせめて“立ち止まって見直す”ために、声を上げただけです」
「その声が、“誰か”を萎縮させている可能性は、考えましたか?」
「……え?」
意表を突かれた。
丈太郎は、校長の言葉の意味をすぐに理解できなかった。
「君たちの行動は、確かに一部の生徒にとって“救い”かもしれません。
しかし同時に、“行動できない生徒”にとっては、“声を上げられない自分”への否定となる」
西園寺校長の言葉は、どこまでも冷徹だった。
それでいて、確かな論理に裏打ちされていた。
丈太郎は、言葉を返せずにいた。
「学校とは、“一律”を目指す場です。
“個”にすべてを委ねれば、教育は成立しません。
君がどれほど思いを込めようと、“例外”が“正義”になってはならない」
そのとき、丈太郎の脳裏に、あの無記名の手紙がよぎった。
体育祭の日、図書館でこっそり渡された、あの「ありがとう」の言葉。
あれは“例外”じゃない。
あれこそが、この世界で黙って消えていく“本音”だった。
「校長先生。僕、黙るのだけは無理です。
人を救えるのが“正義”じゃないなら、その“教育”ってなんなんですか?」
もう怖さもあった。言い負かされるかもしれない、停学になるかもしれない。
でも、それ以上に――引けなかった。
その言葉のあと、室内に再び沈黙が訪れる。
時計の秒針がやけに大きく聞こえた。
しばらくして、西園寺は書類を机に戻し、ため息をついた。
「……いま、君に結論は出さない。
これは組織として判断すべき事項だ。教職員会議で正式に扱う」
「……ありがとうございます」
丈太郎が立ち上がり、頭を下げようとすると、校長が一言、加えた。
「ただし――次の行動次第では、本当に“色”を失うことになる。覚悟しておきなさい」
丈太郎はその言葉に返答しなかった。
ただ深く一礼し、冷え切った校長室のドアを、そっと閉めた。
外に出ると、蝉の声が再び耳に戻ってきた。
冷気の中で硬直していた体に、夏の熱が戻ってくる。
丈太郎は、小さく息を吐いて、歩き出した。
――戦いは、終わってなどいない。
校長室を出た丈太郎は、足取りも重く校舎を歩いていた。
廊下の窓から見える中庭では、三年生たちが進路指導の資料を配布されている様子が見えた。
「この学校ってさ、“未来”も点数で塗りつぶすのかよ……」
心の中で毒づきながらも、その場で足を止めた。
そんな丈太郎の肩を、ふいに後ろから叩いた者がいた。
「おつかれ。やっぱり呼び出されたんだな」
振り返ると、そこにいたのは涼平だった。
表情は変わらず淡々としていたが、その目はどこか心配を浮かべている。
「うん……まあ、“保留”って感じ。
でも、停学の文字が目の前にあった。あれはヤバいな」
丈太郎が力なく笑うと、涼平は「それで済んだなら上等だ」と返した。
「俺が提出した資料、教師側でちゃんと共有されたみたいだ。
“数値の正当性が不明確”っていう項目は、特に議題に上がるはずだ」
「マジか。じゃあ、もう少しだけ風穴開けられるかもな」
二人が話していると、少し離れたところから優亜が走ってくるのが見えた。
「ちょっと!丈太郎!無断単独突撃はナシって言ったでしょ!」
怒っているのか、心配しているのか分からない声だった。
丈太郎は、軽く両手を上げて謝った。
「ごめん。急だったんだ。呼び出し。ちゃんと報告するつもりだった」
優亜は勢いよく近づいてきて、胸のあたりを軽く拳でドンと叩いた。
「報告だけじゃダメでしょ。あんたが一人で責任背負って倒れたら、あたしらどうすんのよ」
「……ありがとう」
丈太郎はその言葉に、初めて肩の力が抜けるのを感じた。
“自分が背負い込まなくてもいいんだ”と、ようやく思えたのだ。
涼平が微笑を浮かべた。
「優亜のこういうとこ、ちょっと羨ましいよな。直感で人に飛び込めるって」
「なにそれ、褒めてんの?バカにしてんの?」と軽口を叩きながら、優亜は手を腰に当てる。
「ま、でも……今日だけはちゃんと言っとくわ。
よくやったな、丈太郎。……かっこよかったよ」
それは、まるで何気ない一言のようだったけど――
丈太郎にとっては、この夏で一番、心に沁みる言葉だった。
蝉の声が、また大きくなった。
日陰だった廊下に、ひとすじの光が差し込んできた。
丈太郎は、静かに口を開いた。
「このまま、終わらせたくないな。
俺たちで、“別のやり方”を作っていこう。反抗じゃなく、提案として」
涼平が頷き、優亜がにっと笑う。
灰色同盟はまた、歩き出す。
冷たい部屋の外で、確かに熱を帯びながら――
(第9話「校長室の冷気」End)



