七月初旬。
真夏の太陽が、まだ朝だというのに校庭を焼いていた。
白線の引かれたトラック、色分けされたテント、グラウンド中央のスピーカーからはアップテンポなBGMが流れ、生徒たちは各学年で準備に追われていた。
――そして、この体育祭は、例年とは違う意味を帯びていた。
「青春偏差値」という名のスコアが、この日、最大の評価対象となるからだ。
開会式での態度、応援の積極性、競技中の声出し、団結の様子……
すべてが“キラメキチェックシート”の評価項目に紐づき、先生たちはそれを表でつけて回るという。
「つまり、今日の動きひとつで“青春偏差値”が跳ね上がるってわけか」
開会式前、グラウンドの裏側に集合した灰色同盟のメンバーたちは、シートの山を見下ろしていた。
優亜が鼻で笑う。
「やっば。ウチら、今日の時点でマイナスからスタートじゃん」
「笑ってる場合じゃねえよ……」
丈太郎は汗を拭いながら、リュックの中身を確認する。
そこには、折りたたまれた巨大な灰色の布と、スプレーで描いたスローガンが入っていた。
『灰色上等』
体育祭の開会式、全校生徒が整列したタイミングで――
この横断幕を掲げ、全校に“宣言”するのが、今日の計画だった。
当然、教師陣にとっては挑発行為。
でも、これをやらなければ、点数という名の偏差に押し流されるだけだ。
「これ、今やらなきゃ、いつやるんだよ」
雅也が言った。
「“青春の正解”を押しつけられるその前に、“自分で決める”って、見せてやろうぜ」
涼平が冷静に時計を見る。
「あと三分で開会式開始。よし、ポジションに入ろう。
横断幕は、優亜と丈太郎が中央。左右に宏美と泰輝、後方から俺と由衣で支える。
タイミングは、“校長の開会宣言”の後。いいね?」
「完璧」
優亜が親指を立てた。
由衣は緊張で少し青ざめていたが、隣の宏美が「大丈夫、私が引っ張る」と笑いかける。
その時、チャイムが鳴った。
体育祭、開会式――開始。
校庭中央。整列した全校生徒の前、壇上に立つ校長の声がマイクを通じて響き渡る。
「霧山高校伝統の体育祭。今年も、“キラメキチェック”の評価を通して――皆さん一人ひとりの成長と団結力を見せてくれることを期待しています!」
拍手が起きる。が、その音のなかに、わずかに含まれる違和感を、当事者たちは感じ取っていた。
“チェックされる前提での体育祭”。
それは、楽しさよりも「減点されないための空気合わせ」を生んでいた。
――そして、その空気を変えるために。
「今だ、いくぞ」
涼平の合図で、同盟メンバーが動き出す。
中央列、白線のすぐ内側。
そこに、丈太郎と優亜が立ち、横断幕を広げる。
灰色の布地いっぱいに、黒いスプレー文字。
『灰色上等』
その三文字が、朝日を受けて、強烈なコントラストで浮かび上がった。
一瞬、会場が凍りつく。
マイクを持った校長が、言葉を失う。
それでも、優亜は一歩前へ出て、声を張った。
「“青春”が何色かなんて、決めつけんなよ!」
もう一歩、丈太郎も前へ。
「点数で決まる“正解の青春”なんて、誰が決めた? 俺たちは、自分の色で生きてる!」
風が、横断幕を揺らす。
観客席の生徒たちがざわめく。
誰かが「おいマジかよ」と笑い、誰かが「かっこいい……」と呟く。
応援団の生徒が困惑し、教師陣が壇上で目を合わせる。
だが、その数秒の空白の中で――
誰かが、拍手を始めた。
ぱち。ぱちぱち。
最初はひとり、次に二人、三人――そして、波のように。
観客席の端からじわじわと拍手が広がり、やがて全体に届いた。
誰もが、何かを“分かった”わけではない。
でも、あの堂々と掲げられた“灰色”に、**少なくとも“YESかNOかの選択肢”**があることを感じたのだ。
「点数のない声に、拍手する自由があるって……忘れてたかもな」
そう呟いたのは、応援団の副団長だった。
***
開会式は、予定より五分遅れて再開された。
校長は明らかに不機嫌だったが、「無許可掲示物」への言及を避け、あくまで“式の運営を優先”した。
その裏で、灰色同盟のメンバーたちは校舎裏に一時退避していた。
横断幕は巻き戻され、鞄に押し込まれたが――その場の空気は、間違いなく高揚していた。
「……やったな」
丈太郎の声は、疲れと誇りがまじっていた。
「バカな行動ほど、誰かの心を揺らすんだよ」
優亜が笑う。
その笑顔は、最初に出会った日の“ケンカ腰”とはまったく別のものだった。
「今のあれ、確実に評価されるよ。たぶん“減点”って意味で」
涼平がぼそっと言い、みんなが一斉に吹き出す。
「上等だろ、それも」
雅也が堂々と答えた。
そう。
彼らは、“点数に支配されない”というたった一つの宣言を、
誰の許可も得ず、誰にも測られず、自分たちの意志で掲げたのだった。
午後の競技が始まる頃には、校庭の空気はいつもの体育祭に戻っていた。
ただ、午前中の「灰色宣言」の余韻は、校内のあちこちに静かに残っていた。
あの瞬間を目撃した生徒たちは、仲間と小声で話していた。
「さっきの、マジでびっくりしたな」
「なんか……羨ましかった。自分で何か言えるのって」
「うちのクラスも、応援とかちょっと形だけだったし……」
生徒たちは、点数を稼ぐための“見せる団結”を繕いながらも、心のどこかで「これって誰のため?」と疑い始めていた。
一方、教師たちは明らかにピリついていた。
とくに教頭は、昼食時間を使って学年主任たちと緊急打ち合わせをしていた。
「どうするんですか、あの横断幕。黙認していいんですか?」
「しかし、あれを強制的に排除すれば、逆に騒ぎが広がる」
「生徒たちは拍手しましたよ。“共感”の項目として見れば加点対象じゃないですか?」
「ふざけるな。あんな行為を“共感”として評価するなど……!」
その議論は堂々巡りだった。
制度に縛られるのは、生徒だけでなく、教師もまた同じだった。
***
閉会式直前。
灰色同盟の面々は、保健室前の廊下で再び集まっていた。
由衣がこっそり封筒を取り出す。
「これ……さっき、図書室で渡された」
中には、折り畳まれた一枚の紙。
そこには、手書きのメッセージが記されていた。
《あの横断幕、ちゃんと見てました。
私は名前も出せないけど、あれに救われた一人です。
誰かが“点数のない場所”を作ってくれるって、
それだけで、今週学校に来てよかったと思えました。
ありがとう。》
読み終えた瞬間、誰もが言葉を失った。
静かな空白が訪れる。
丈太郎が口を開いたのは、少し間を置いてからだった。
「……あれだな。ああいう声のために、やってんだよな」
「うん。誰にも評価されない“本音”って、やっぱ一番重たいんだよ」
優亜がそっと言った。
その声は、普段の快活さとは違って、どこか祈るように静かだった。
涼平が封筒を丁寧に折り直す。
「これ、保管しておこう。記録じゃなくて、記憶として」
校舎の外では、閉会式の準備のアナウンスが流れていた。
点数に基づいた各クラスの表彰式が始まろうとしている。
だが、灰色同盟の十人は、その喧噪とは別の静けさの中にいた。
“点数に現れないもの”が、今日ここに確かに生まれた。
そしてそれこそが、彼らの“勝利”だった。
(第8話「体育祭・灰色宣言」End)
真夏の太陽が、まだ朝だというのに校庭を焼いていた。
白線の引かれたトラック、色分けされたテント、グラウンド中央のスピーカーからはアップテンポなBGMが流れ、生徒たちは各学年で準備に追われていた。
――そして、この体育祭は、例年とは違う意味を帯びていた。
「青春偏差値」という名のスコアが、この日、最大の評価対象となるからだ。
開会式での態度、応援の積極性、競技中の声出し、団結の様子……
すべてが“キラメキチェックシート”の評価項目に紐づき、先生たちはそれを表でつけて回るという。
「つまり、今日の動きひとつで“青春偏差値”が跳ね上がるってわけか」
開会式前、グラウンドの裏側に集合した灰色同盟のメンバーたちは、シートの山を見下ろしていた。
優亜が鼻で笑う。
「やっば。ウチら、今日の時点でマイナスからスタートじゃん」
「笑ってる場合じゃねえよ……」
丈太郎は汗を拭いながら、リュックの中身を確認する。
そこには、折りたたまれた巨大な灰色の布と、スプレーで描いたスローガンが入っていた。
『灰色上等』
体育祭の開会式、全校生徒が整列したタイミングで――
この横断幕を掲げ、全校に“宣言”するのが、今日の計画だった。
当然、教師陣にとっては挑発行為。
でも、これをやらなければ、点数という名の偏差に押し流されるだけだ。
「これ、今やらなきゃ、いつやるんだよ」
雅也が言った。
「“青春の正解”を押しつけられるその前に、“自分で決める”って、見せてやろうぜ」
涼平が冷静に時計を見る。
「あと三分で開会式開始。よし、ポジションに入ろう。
横断幕は、優亜と丈太郎が中央。左右に宏美と泰輝、後方から俺と由衣で支える。
タイミングは、“校長の開会宣言”の後。いいね?」
「完璧」
優亜が親指を立てた。
由衣は緊張で少し青ざめていたが、隣の宏美が「大丈夫、私が引っ張る」と笑いかける。
その時、チャイムが鳴った。
体育祭、開会式――開始。
校庭中央。整列した全校生徒の前、壇上に立つ校長の声がマイクを通じて響き渡る。
「霧山高校伝統の体育祭。今年も、“キラメキチェック”の評価を通して――皆さん一人ひとりの成長と団結力を見せてくれることを期待しています!」
拍手が起きる。が、その音のなかに、わずかに含まれる違和感を、当事者たちは感じ取っていた。
“チェックされる前提での体育祭”。
それは、楽しさよりも「減点されないための空気合わせ」を生んでいた。
――そして、その空気を変えるために。
「今だ、いくぞ」
涼平の合図で、同盟メンバーが動き出す。
中央列、白線のすぐ内側。
そこに、丈太郎と優亜が立ち、横断幕を広げる。
灰色の布地いっぱいに、黒いスプレー文字。
『灰色上等』
その三文字が、朝日を受けて、強烈なコントラストで浮かび上がった。
一瞬、会場が凍りつく。
マイクを持った校長が、言葉を失う。
それでも、優亜は一歩前へ出て、声を張った。
「“青春”が何色かなんて、決めつけんなよ!」
もう一歩、丈太郎も前へ。
「点数で決まる“正解の青春”なんて、誰が決めた? 俺たちは、自分の色で生きてる!」
風が、横断幕を揺らす。
観客席の生徒たちがざわめく。
誰かが「おいマジかよ」と笑い、誰かが「かっこいい……」と呟く。
応援団の生徒が困惑し、教師陣が壇上で目を合わせる。
だが、その数秒の空白の中で――
誰かが、拍手を始めた。
ぱち。ぱちぱち。
最初はひとり、次に二人、三人――そして、波のように。
観客席の端からじわじわと拍手が広がり、やがて全体に届いた。
誰もが、何かを“分かった”わけではない。
でも、あの堂々と掲げられた“灰色”に、**少なくとも“YESかNOかの選択肢”**があることを感じたのだ。
「点数のない声に、拍手する自由があるって……忘れてたかもな」
そう呟いたのは、応援団の副団長だった。
***
開会式は、予定より五分遅れて再開された。
校長は明らかに不機嫌だったが、「無許可掲示物」への言及を避け、あくまで“式の運営を優先”した。
その裏で、灰色同盟のメンバーたちは校舎裏に一時退避していた。
横断幕は巻き戻され、鞄に押し込まれたが――その場の空気は、間違いなく高揚していた。
「……やったな」
丈太郎の声は、疲れと誇りがまじっていた。
「バカな行動ほど、誰かの心を揺らすんだよ」
優亜が笑う。
その笑顔は、最初に出会った日の“ケンカ腰”とはまったく別のものだった。
「今のあれ、確実に評価されるよ。たぶん“減点”って意味で」
涼平がぼそっと言い、みんなが一斉に吹き出す。
「上等だろ、それも」
雅也が堂々と答えた。
そう。
彼らは、“点数に支配されない”というたった一つの宣言を、
誰の許可も得ず、誰にも測られず、自分たちの意志で掲げたのだった。
午後の競技が始まる頃には、校庭の空気はいつもの体育祭に戻っていた。
ただ、午前中の「灰色宣言」の余韻は、校内のあちこちに静かに残っていた。
あの瞬間を目撃した生徒たちは、仲間と小声で話していた。
「さっきの、マジでびっくりしたな」
「なんか……羨ましかった。自分で何か言えるのって」
「うちのクラスも、応援とかちょっと形だけだったし……」
生徒たちは、点数を稼ぐための“見せる団結”を繕いながらも、心のどこかで「これって誰のため?」と疑い始めていた。
一方、教師たちは明らかにピリついていた。
とくに教頭は、昼食時間を使って学年主任たちと緊急打ち合わせをしていた。
「どうするんですか、あの横断幕。黙認していいんですか?」
「しかし、あれを強制的に排除すれば、逆に騒ぎが広がる」
「生徒たちは拍手しましたよ。“共感”の項目として見れば加点対象じゃないですか?」
「ふざけるな。あんな行為を“共感”として評価するなど……!」
その議論は堂々巡りだった。
制度に縛られるのは、生徒だけでなく、教師もまた同じだった。
***
閉会式直前。
灰色同盟の面々は、保健室前の廊下で再び集まっていた。
由衣がこっそり封筒を取り出す。
「これ……さっき、図書室で渡された」
中には、折り畳まれた一枚の紙。
そこには、手書きのメッセージが記されていた。
《あの横断幕、ちゃんと見てました。
私は名前も出せないけど、あれに救われた一人です。
誰かが“点数のない場所”を作ってくれるって、
それだけで、今週学校に来てよかったと思えました。
ありがとう。》
読み終えた瞬間、誰もが言葉を失った。
静かな空白が訪れる。
丈太郎が口を開いたのは、少し間を置いてからだった。
「……あれだな。ああいう声のために、やってんだよな」
「うん。誰にも評価されない“本音”って、やっぱ一番重たいんだよ」
優亜がそっと言った。
その声は、普段の快活さとは違って、どこか祈るように静かだった。
涼平が封筒を丁寧に折り直す。
「これ、保管しておこう。記録じゃなくて、記憶として」
校舎の外では、閉会式の準備のアナウンスが流れていた。
点数に基づいた各クラスの表彰式が始まろうとしている。
だが、灰色同盟の十人は、その喧噪とは別の静けさの中にいた。
“点数に現れないもの”が、今日ここに確かに生まれた。
そしてそれこそが、彼らの“勝利”だった。
(第8話「体育祭・灰色宣言」End)



