ぽつ、ぽつ――。
 六月の雨は、朝から図書館の窓を静かに叩いていた。
 午後になっても止む気配はなく、灰色の空は遠くまで続いている。
 そんな静寂に包まれた図書室の一角、窓際の席にふたりの女生徒が向かい合っていた。
 一人は由衣。
 おとなしく、ゆっくり話すタイプだが、何事も丁寧に向き合う真面目さがある。
 一人で行動するのは苦手だが、誰かと一緒なら、驚くほど芯の強さを見せる。
 もう一人はほのか。
 自由奔放で、空想を好み、自分の世界に没頭することが多い。だが、その想像力は人の心を解きほぐす不思議な力を持っていた。
 二人は、机の上に広げた紙を囲んでいる。
 そこには色鉛筆で描かれた、何枚ものしおりのラフ案が並んでいた。
「……この“しおり配布作戦”、本当に意味あると思う?」
 由衣が少し不安げに尋ねると、ほのかは頬杖をつきながら、にこりと笑った。
「意味なんて、ないかもしれない。でも、好きな本に“好きな気持ち”を重ねるって、すてきじゃない?」
「……それは、そうだけど……」
「“雨の日の静かな時間”ってだけで、もうごほうびだと思うな」
 ほのかの言葉は、いつもどこか詩的だ。
 でもそれが、由衣の内側の“こわばり”を少しずつほどいてくれる。
 ふたりが企画しているのは、“無言読書会”。
 場所は放課後の図書室。声を出さずに、それぞれが好きな本を持ち寄り、同じ時間にただ“読む”だけのイベント。
 名前は――《雨音図書館》。
 “点数をつけられない時間”を、そっと共有する。
 そんな空間を、ふたりは手作りのしおりと手書きのメッセージで、校内に静かに広げていこうとしていた。
 机の中央には、小さな紙片が山のように積まれている。
 それぞれ、微妙に違う色や形。誰かが手に取った瞬間、その人の手元にしかない一枚になる。
「これ……全部、由衣が?」
「うん……不器用だから、一気にはできなくて……でも、手で折ったら、なんとなく形に命が通る気がして……」
「それ、“由衣クオリティ”ってやつだよ」
 由衣は照れたように笑った。
 誰かと一緒なら、自分の小さな“やれること”も、少しだけ誇らしく思える。
 ほのかが、色鉛筆を取り、しおりの隅にそっと文字を書き添えた。
『評価されない時間は、心を自由にする』
 誰に見せるでもない一言。でも、それが“雨音図書館”の芯になった。



 翌日、放課後の図書室には、普段よりほんの少し多い靴音が響いた。
 「雨音図書館」の小さな張り紙に気づいた生徒たちが、傘を持ったままそっとドアを開けて入ってくる。
 言葉は交わさない。
 挨拶も、名乗りも、自己紹介もいらない。
 そこにあるのは、“読書という静けさ”だけだった。
 入り口のそばには、由衣が折ったしおりの山が置かれていた。
 そこには、それぞれ異なる手書きのメッセージが添えられている。
「点数はつかないけど、大切な時間です」
「誰にも見られずに、本と会話しよう」
「あなたが選ぶ物語は、きっとあなたの一部」
 生徒たちは、その中から気になる一枚をそっと手に取り、自分のページに挟む。
 最初は3人。しばらくして4人目、5人目と増え、最終的に10人以上の生徒が、それぞれの本を胸に静かに椅子へ座っていた。
 誰も話さない。
 でも、その沈黙は息苦しくない。
 むしろ、目の前のページをめくる音がやさしく響く。
 それは、点数で評価されない、けれど確かに“共有される時間”だった。
 由衣は、静かに見守るように部屋の隅に座り、ほのかはノートを膝に乗せて小さなスケッチを描いていた。
「見て」
 ほのかが、そっと由衣にノートを差し出す。
 そこには、いくつかの椅子に座る生徒たちの後ろ姿が描かれていた。
 ページの下には、こう書かれていた。
《言葉を使わず、心が近づいた》
 由衣は小さく頷いた。
 こんな風に、静かでも“確かに伝わるもの”があると知っただけで、自分の世界が広がった気がした。
 ***
 読書会が終わる頃、ふたりは使用済みのしおりを回収しようと机を回った。
 すると何枚かのしおりには、文字が書き加えられていた。
「久しぶりに、心が静かになりました」
「この時間、続いてほしいです」
「今度は自分の好きな本を誰かに勧めたい」
 由衣は、胸の奥がじんわりと温まるのを感じた。
 何も大きなことはしていない。ただ、静かな時間を“差し出した”だけ。
 それでも、誰かがそこに“なにか”を感じ取ってくれた。
「これ……全部、物語だよね」
 由衣がつぶやくと、ほのかが頷いた。
「点数がつかないからこそ、色があるんだよ」
 その言葉に、由衣はゆっくりと微笑んだ。
 外はまだ、雨の音が続いていた。
 でも、図書室の中には“誰にも採点されない優しい物語”が、そっと灯り始めていた。
(第7話「雨音図書館作戦」End)