六月上旬の昼休み、校舎裏の桜並木には、そっと初夏の光が落ちていた。
 満開だった花はすでに散り、若い緑が枝を覆っている。
 その木陰に、一対の足音が響いた。
 一人は、瀬野涼平。
 もう一人は、神谷優也。
 この二人が二人きりで会うのは、実は初めてだった。
 きっかけは、涼平からの短いメッセージ。
《話せるか? ちょっとだけ、正直なやつを》
 教室ではいつも冷静で、論理と戦略の申し子のように振る舞う涼平。
 一方、優也は“厳格”の代名詞であり、誰よりも自分に厳しいことで知られていた。
 そんな二人が、今――
 桜の木陰のベンチで、互いの言葉を探していた。
「ここ、意外と静かだな」
 優也がぽつりと言う。
「春はにぎやかだったけど、今は誰も来ない。ちょうどいいんだ、こういう時には」
 涼平は缶の麦茶を開けながら、隣に腰を下ろした。
 しばらく風の音と葉のざわめきだけが続く。
「……で、話って何だ?」
 優也が問うと、涼平は少し視線を遠くにやった。
「お前ってさ、ずっと“正しくあろう”としてるよな。
 それ、苦しくないのか?」
「……は?」
「いつも真面目に、自分の点数がどうとかじゃなく、他人の評価を超えたところで律してる感じがする。
 それが“誰かの役に立ってる”のも分かる。でも、それが全部お前自身を押しつぶしてるようにも見えるんだ」
 優也の喉がひくりと動いた。
 たしかに彼は、誰よりも“正しさ”にこだわっていた。
 成績は常に上位、生活態度は模範、誰かに甘えることも許さなかった。
 チェックシートに対しても「形としての努力が反映されるのは当然だ」と語ってきた。
 でも、その実、自分の中には“答えのない不安”があった。
「……お前に、何が分かる」
「分からないよ。だから聞いてる」
 風が、二人の間を吹き抜けた。
 遠くで、チャイムが鳴る。昼休みの残りはあと十五分。
 優也は、ようやく口を開いた。
「俺さ。いつからか“評価される前提”で全部考えるようになってた。
 授業も、委員も、友達付き合いも、全部“どこかで見られてる”前提で動いてた」
「それ、疲れただろ?」
「当たり前だ。息、止めてるみたいだった。ずっと」
 その言葉は、まるで深海の底から浮かび上がったもののようだった。
 静かで重く、けれど確かに真実だった。



 優也の声は、風の音にかき消されそうなほど静かだった。
「点数で評価されること自体は、もう慣れてる。
 でもな、だんだん“自分で自分を評価する”ことすら、信用できなくなってきてた。
 “これでいいのか?”って、毎晩思って。
 でも、止まったら全部崩れそうで、止まれなかった」
 涼平は言葉を挟まず、ただうなずく。
「そんなときさ、あの掲示板の“点数より物語”って言葉、見たんだ。
 ……なんか、どうでもよくなった。
 “ああ、俺、物語のことなんか一回も考えたことなかった”って思った」
「評価されるための人生じゃなくて、物語としての人生ってことか」
「そう。“何をやったか”じゃなくて、“なぜやったか”。
 それを、誰かに語れる自分でいたかった。ほんとは」
 優也は麦茶の缶を握りしめる。すでに中身は空だった。
 涼平が、ゆっくりと口を開く。
「俺たち、同盟って名前つけたけど、別に敵と戦うつもりはないんだ。
 ただ、“点数じゃ測れない自分”を取り戻したいだけなんだよな。
 お前も、その一人でいていいと思うよ」
 その言葉は、優しさでも慰めでもなかった。
 まるで、遠くに投げられた浮き輪みたいに、そっとそこに置かれたものだった。
「……俺、手伝っていいのか? 灰色同盟に」
「もちろん。というか、お前みたいなやつが必要なんだ」
 優也は苦笑した。
「皮肉なもんだな。点数トップの俺が、“点数ってなんなんだ”って思ってるんだから」
「だから、説得力があるんだよ。トップのやつが言わなきゃ、下のやつが文句言ってるだけに見えるだろ」
「……それは、あるかもな」
 ふたりの間に、もう一度風が通り抜けた。
 桜の葉がさらさらと揺れ、枝の隙間からこぼれる光が、地面にまだらな模様を描いていた。
 優也がそっと立ち上がる。
「じゃあ、俺も“物語”をやるか。誰かに点をつけられる前に、自分の言葉で語れるやつ」
「それでこそ」
 涼平も立ち上がり、背中を軽く叩いた。
 チャイムが鳴る。昼休み終了。
 二人は並んで歩き出す。
 同じ方向に向かって、でもそれぞれの速さで、木漏れ日の中を。
(第6話「木漏れ日の対話」End)