午後の校庭に、乾いた風が吹いた。
 朝の卒業式で生徒たちが通ったあの灰色の花道――今は誰もいない。だが、その真ん中に、丈太郎と優亜が立っていた。白い式服の下には、着慣れた私服が見えている。
 彼らの手には、たったひとつずつの小さな布バケツ。中には、それぞれが選んだ“色”が染みこんだ絵の具と、未使用の刷毛が一つ。
 振り返ると、後ろには後輩たち――来年以降、学校を受け継いでいく面々が並んでいた。萌美に声をかけられて集まった一年生、泰輝の呼びかけに応じた図書委員、優也と涼平がそれぞれに影響を与えてきた面々もいる。
「始めるよ」
 丈太郎の言葉に、後輩たちが黙ってうなずいた。
 彼は校庭の端に向かい、コンクリートの壁に刷毛を当てる。吸い込まれるようにして、灰色の壁がゆっくりとオレンジに変わっていく。
「ここは、“最初の一歩”って意味で、日の出の色にした」
 優亜は、丈太郎とは反対の側に立ち、鮮やかなターコイズブルーを広げる。
「こっちは“水の道”。混ざるもの、流れるもの、受け入れるものって意味」
 二人の絵の具が、左右から壁面に向かって伸びていく。それはやがて、中央で出会うための準備のように見えた。
 後輩たちも、それぞれが持参した布や塗料を取り出し、壁に向かって描き始める。
 誰も口にしないが、心の中には一つの共通した想いがあった。
 ――この灰色の壁を、もう“強制の象徴”にはしない。
 ――ここは、“自由に染めることができる場所”にする。
 かつて“青春偏差値”を掲げたこの学校。
 かつて「灰色は怠惰」と言われ、他者の評価で塗り固められたこの空間。
 その中心で今、誰かの“意思の色”が広がっている。
 由衣が小さな筆で、“風”の絵を描いた。白く抜いたキャンバスに、やさしく流れる風のかたち。
 雅也が、燃えるような赤で大きな渦を描いた。「怒りも、表現の一部」とぼそりと呟いたその顔は、いつになく穏やかだった。
 宏美は、自分のリップの色に近いピンクで、小さな花を一つだけ描いた。その真ん中に鏡のかけらを貼ることで「見る人が自分を写す花」を表現した。

 泰輝は、無彩色の灰をそのまま残すように見せながら、隣に薄く光る銀色を重ねた。それはまるで、過去の“灰色”に敬意を払いながら、新しい“光”を加えるようだった。
 優也は、壁に大きくひとつの円を描いた。中心に向かって線が少しずつ重なり合いながら広がる、呼吸のような輪。対話の中に含まれる沈黙――彼の持論を、そのまま視覚化したようだった。
 萌美は、壁の下部に鍵盤を模した模様を描きはじめた。それは実際の音は鳴らさないが、見る者の想像の中で鳴る“即興の音”だった。ほのかはその横に、即興で混ぜた絵の具で水彩風の羽根を描く。どれも非現実的な色をしていたが、だからこそ夢が詰まっているようだった。
 丈太郎は、ふと筆を止めて、空を見上げた。
 校舎の上に、淡い雲の隙間から光が射していた。
 「ねぇ」
 後ろから声がした。優亜だった。彼女の服にはすでにあちこちに絵の具が飛んでいて、いつもよりも“自由な姿”だった。
「終わったらどうするの?」
「え?」
「灰色同盟。今日で、解散でしょ」
 丈太郎は少し黙ったあと、壁を見て答えた。
「この壁が完成したら……きっと“誰かがまた塗り替える”と思う」
「……うん」
「だから、俺たちは“今この瞬間”を完成させる。終わりじゃなくて、引き継ぐってことだと思う」
 優亜は少し笑った。
「そっか。じゃあ私は、次の誰かが混ぜたくなるような色、残しとこっと」
 彼女はターコイズの隣に、指で金色のドットを描いた。キラキラと反射するそれは、見ようによっては花にも星にも見えた。
 日が傾いて、全員の影が長く伸び始める。
 丈太郎は最後に、壁の端に文字を描いた。
 それは、かつて灰色同盟の設立日に彼が書いた言葉と同じだった。
『点数より物語』
 そこに今、誰かがもう一言を書き加えた。
『物語は、自由の色から始まる』
 誰が書いたのかはわからなかった。
 でも、それで良かった。
 全員が笑い合い、塗料を片付けながら、静かに校庭を後にする。
 丈太郎と優亜が、最後に振り返った。
 かつて色を奪われたはずの壁が、今や無数の色に染まり、見る角度で表情を変える“フリーカラー・ウォール”になっていた。
 灰色同盟は――ここに解散する。
 けれどその魂は、新たな誰かの手で、いつかまた塗り替えられるだろう。
 自由とは、自分の色で描き続けること。
 その一歩を、彼らは確かに刻んだ。
――完