図書室の午後は、静けさが支配していた。
 だが今日のその空気には、いつもの気配とは違う緊張が混じっていた。
 陽射しが差し込む窓辺の机に、一枚の透明なA3サイズのフィルムが置かれている。
 その隣には、契約書と書かれた紙。そして、二人の人影。
 優也は黙ったまま、机の上のボールペンを手に取り、少しだけためらった。
 その対面に座る宏美が、整った髪を指で整えながら目を細める。
「ほんとにやるのね、これ」
 宏美の声は、やや笑みを含んでいた。だがその奥には、本気が宿っている。
「やるよ。言ったろ? “外見で点を取る時代”に、終止符を打つって」
 優也の声は、静かだが揺るぎがない。
 それは、彼自身がかつてその点数に支えられたからこそ、その重さを知っているという響きだった。
 透明なフィルムは、いわば“無点数評価”の象徴だ。
 「見た目による加点なし」「点数の記録なし」「視覚的先入観からの脱却」
 そうした新評価制度を提案するため、灰色同盟のメンバーが作成した「理念宣誓フィルム」。
 今、この透明シートに署名をするということは、
 「誰にも色を貼らせず、誰かにも貼らない」という約束にサインをすることだった。
「でもさ、正直怖くない? あたしは“見た目で褒められてきた”側だよ」
 宏美は笑いながらも、ペンに手を伸ばそうとはしない。
 ネイルの先がキラリと光り、今まで築いてきた自分の「装い」の歴史を反射していた。
「怖いよ。俺も、点数制度がなかったらここまで来られなかったかもしれない。
 でも……それが“全部だった”と思われるのが、もう無理なんだ」
 優也は、窓の外を見た。
 風に揺れる旗。昨日、由衣と優亜が掲げた“虹の布”。
 誰かが選んだ「色」ではなく、自分で選び、自分で掲げた旗。
「……だから、これからの指標は“透明”なんだ」
 静寂の中、宏美が指を動かし、ペンを手に取る。
 そして、透明なフィルムの左下に、小さく、だがはっきりと――“藤田宏美”と書いた。
 その直後、優也も迷わず右下に名を記す。
 ――“小林優也”
 二人は、それを見つめる。
 名以外に何も書かれていない、空白のフィルム。
 けれどその透明さは、濁らない誓いの色だった。



 図書室の隅、普段は閲覧されることのない哲学書が詰まった書架の前。宏美は、慎重に広げた透明フィルムの上に、黒のマーカーペンを置いた。
 静かだった。見た目だけで判断されることが当たり前になったこの学校で、「無色透明に評価する」なんて理屈がどこまで通用するかはわからなかったが、少なくとも今ここで署名することには、確かな意味がある。
 優也が先にペンを手に取った。
「名前、だけでいいんだな?」
 彼はそう言ってから、慎重に書き込む。漢字の筆致は揺れず、筆圧も強すぎず。透明のシートに浮かび上がる「間宮優也」の文字は、どこか印鑑のように確かな重みを持っていた。
「……ありがとう」
 宏美の声は、思ったより小さかった。だが、それがきちんと優也に届いたとわかったのは、彼がただ一度、視線を合わせて頷いたからだ。
「次、頼む」
 ペンが差し出される。宏美はそれを受け取りながら、少し指を震わせた。
 点数に翻弄され、身だしなみや評価の目を常に意識して生きてきたこの一年。人に笑われないように、見下されないように、今日という日までマスカラやチークに逃げてきた。けれど今、初めて「色を消して、自分の価値を選ぶ」ことができる場所に立っている。
 名前を書く。それだけの行為に、全身が強ばる。
 宏美は、自分の指が少し汗ばんでいるのに気づいた。髪をかきあげるのも忘れたまま、肩をすくめて呼吸を整える。透明のフィルムの端に、慎重にマーカーの先を置いた。
 小さく「石田宏美」と書いた。
 それだけだった。けれど、それだけで、何かが変わった。
「……宏美さんはさ、」
 優也が、ほんの少し口調を砕いた。
「最初から、何も誤魔化してなかったと思う」
「そんなわけない。ずっと隠してたし。怖かったし……顔、だって」
「いや、たぶん――自分に嘘はついてなかったと思うよ」
 言葉が不意に、胸を突いた。
 宏美は何も返せなかった。ただ、目の前の透明なシートを、じっと見つめた。黒インクで書かれた二人の名前は、まるで無音の証明書のように、そこにあった。
 やがて、二人はそのフィルムをそっと巻き直し、台紙に挟んで封をした。宏美が選んだのは、白い表紙のアルバムだった。無印良品のものに見えるが、決して手抜きではない。中身は、他のメンバー全員分の「自由な評価方法」や「自分自身のルール」を描いたメモと署名シートで埋まっていく予定だ。
「これ、展示する?」
「ううん、最終日に渡す。校長にじゃなくて――後輩に」
 その言葉には、迷いがなかった。
「自分を誰がどう見ようが、自分だけはちゃんと信じられるように」
 宏美がつぶやいたその瞬間、背後の窓から柔らかな午後の光が差し込んできた。
 その光が、まるで透明なシートを祝福するように、そっと輝きを与えていた。
――第38話「透明シートの約束」了