午前九時、音楽室に差し込む春の光は、いつになく柔らかかった。窓の向こうではフェア二日目の準備が始まり、布を張る生徒の笑い声や、スピーカー調整の電子音が断続的に聞こえてくる。
 だが、この部屋だけは、別の時間が流れていた。
「音を出さなくても、音楽は始められる。私はそう思ってる」
 鍵盤の前で、萌美が静かに言った。
 目の前のピアノには譜面がない。椅子にも座っていない。足は床についたまま、両手も膝の上に置かれている。
 壁の前には、ほのかが立っていた。白い画用紙を何枚も貼り合わせた即席キャンバスに、まだ何も描かれていない。
「つまり、萌美ちゃんは、沈黙から始めるってこと?」
「うん。“何もない”って、自由でしょう?」
 萌美の声は、普段よりも少し軽かった。
 いつもの彼女なら、この場面に台本を持ってきたかもしれない。調和と構成、ハーモニーの理論と、演奏のルール。しかし今日は、ピアノの蓋も開けずに、ただそこに“いる”だけだった。
 そんな萌美の変化に、ほのかは目を細めた。
「じゃあ、私も…空白から始める」
 そう言って、ほのかは筆を取った。だが、すぐには絵の具をつけず、白い紙にそっと触れただけで動きを止めた。
 二人の間に流れる沈黙は、息苦しくも心地よかった。外の喧騒と切り離された空間で、彼女たちは“点数”では測れない表現を探していた。
「音を塗ってみたいって思ったの。文字通り、音を“色”にできるか試してみたい」
「わかるよ。その逆もできそうだよね。色で…音を作る」
 萌美がそっと、ピアノの鍵盤に手を伸ばす。だが音はまだ鳴らない。ただ、指先が触れただけ。
 ほのかは、黄色を選んだ。小皿に絵の具を溶き、太い筆を水で湿らせると、まずは紙の中央に、ぽたりと一滴、色を置いた。
「朝の光の色。昨日の演説で、丈太郎が灰色は“始まりの色”って言ってたけど…私は黄色が、始まりの音みたいに思える」
 その言葉に、萌美は頷く。
「黄色ってさ…ドの音に似てるよね。目を閉じたとき、太陽が透けて見えるような」
 ほのかは筆を大きく滑らせ、線を描いた。それは旋律のようでもあり、風の軌跡のようでもあった。
 萌美は、ピアノを弾いた。単音。何の装飾もない、ドの音。
 その瞬間、部屋の空気が微かに震えた。
 ほのかが思わず振り返る。「今の…すごく、黄色だった!」
 二人は顔を見合わせて、同時に笑った。
 それは、誰にも採点できないやりとりだった。



 壁を埋めるように貼り合わされた紙には、すでに二人の“音”が色で描かれ始めていた。
 黄色のラインはリズムを刻むように広がり、そこに淡い水色が交差する。ほのかの筆は踊るように走り、萌美の音は呼応するように鍵盤を叩く。
 ド、ミ、ラ。
 三音だけの小さな和音が、色の上に乗る。
「次、何色にする?」
「水色。ミの音、透明な朝の空気みたい」
 萌美は答えながら、指を三つの鍵にすべらせた。ほのかはそれを聞き取って、小皿に水色を溶いた。だが、その筆の動きが、ほんの少しだけ止まる。
「……萌美ちゃん」
「ん?」
「ごめんね、体育祭のとき。あのとき、私、自分のことで精一杯で、萌美ちゃんのこと、ちゃんと見てなかった」
 萌美の指が止まった。
 その言葉に、色が、揺れた。
「私も、ちゃんと気づけなかった。ほのかは一人でも大丈夫だって思ってたけど、本当は違ったのかもって、最近思う」
 ほのかは目を伏せ、絵の具のついた筆先で、紙の端に優しく丸を描いた。
「ほのかの絵、好きだよ。いつも、言葉の代わりみたいで」
「萌美ちゃんの音もそう。……だから、怖かった。無音のピアノの前で立ってるのを見たとき、もしかして何も感じなくなったんじゃないかって」
「違うよ。感じすぎて、言葉にならなかっただけ」
 静かな応答。次の音が、ふっと鍵盤を震わせた。
 それは低いラの音。胸の奥に落ちていくような響きだった。
 ほのかが筆を止める。
「……この色、どんな色にすればいいかな」
「うーん。深いラだから……群青? 夜が始まる直前の色」
 ほのかはゆっくりと筆を取る。青と黒を混ぜて、ぐるぐると溶かしながら、その深い色を画面の下に重ねていった。
 その間、萌美は何も弾かなかった。
 その沈黙もまた、音楽だった。
 しばらくして、ドアがノックされた。
「ごめん、入っていい?」
 顔を覗かせたのは涼平だった。
「体育館の演説、無事に終わったって連絡が入ったよ。丈太郎が無茶しなかったから、たぶん雪でも降る」
 萌美とほのかは顔を見合わせて、くすりと笑った。
「ここももうすぐ仕上がる。見ていってくれる?」
 ほのかが言うと、涼平は静かに頷いた。だが、入ってきた彼の顔には少し驚きが浮かぶ。
「……これ、即興で?」
「うん。譜面も、下描きも、ルールもない。でもね、すごく“自由”な感じがするの」
 萌美が言った。
 涼平は壁の絵を見つめる。黄色、水色、群青、そして今、ほのかが新しく加えたピンクが、優しいラインとなって紙の中央に現れる。
「これ……音楽室の中でしかできないコラボレーションだね」
「そう思ってもらえたら、嬉しい」
 萌美が鍵盤に最後の一音、ソを響かせた。
 そして、ほのかが白の絵の具を手に取り、紙の左上にそっと曲名を書いた。
《自由のセッション》
 評価も点数も、正解も必要なかった。
 そこにあったのはただ、音と色と、ふたりの心だった。
(第37話「色を塗る音」完)