体育館の照明が落ちた瞬間、世界が静かに灰色へと沈んだ。
 幕の向こう側で、丈太郎は深く息を吐いた。ステージ裏の床は緊張のせいかほんのり湿っているように感じられ、足先が冷たい。緞帳のすき間から覗いた体育館には、全校生徒が着席していた。あれほど点数制度に騒いでいた校長も、教職員も、生徒会も、今は誰も声を発していない。
 張り詰めた空気の中心に、自分が立っているという実感が、丈太郎の心を締めつけていた。
「……行ける?」
 背後から、優亜の声がした。豪快さを潜めたその声は、今だけは同じ緊張を共有する仲間のものだった。
「うん。たぶん」
 丈太郎は首を小さく動かし、マイクを手に持った。手汗がにじみ、黒いスーツの袖口に指が震えているのが見える。だが、もう迷う時間はなかった。
 緞帳が静かに上がる。灰色の光に包まれたステージへ、一歩を踏み出す。
 客席のざわめきがすっと引いた。
「……こんにちは」
 マイクからの声が、小さくこだました。がらんとした広さに、丈太郎の存在が際立ってしまう。
「僕は、二年三組の青野丈太郎です。今日は、“灰色同盟”の代表として、ここに立っています」
 その言葉に反応するように、体育館後方の壁面が動いた。
 ぱたぱた、と音を立てて、天井近くの装置から無数の紙片が舞い降りてくる。それはすべて――灰色の紙吹雪だった。
「今、僕たちは“フリーカラー・フェア”を開催しています。これは、点数に縛られない、自分自身の色で、学校生活を彩っていいという意思表示です」
 紙吹雪は音もなく落ち続ける。淡く、軽く、だが確かに、全員の頭上へ降り注いでいる。
「僕はずっと、“点数がすべて”だと思っていました。誰かに認められなければ、自分なんて存在しないと思っていました。だから気を遣って、空気を読んで、正解ばかりを探してきた。でも、それって、いつのまにか“自分”を失くしてるってことなんです」
 丈太郎は、袖口を握りしめた。
「今日、僕が着ているのは、制服じゃありません。これは、僕が選んだ“灰色のスーツ”です。誰の採点表にも書かれていない、僕自身の判断で選びました」
 後方で見守る仲間たちが、うなずいているのが見えた。
「灰色って、何色にもなれるんです。混ざる前の自由、染まる前の可能性。それを、“無色”と呼ぶ人もいるけど……僕は、“まだ何色にも染まってないってこと”だと思います」
 ざわ……と、どこかで椅子のきしむ音がした。だが、誰も立ち上がらない。全員が丈太郎の言葉に耳を傾けている。
 丈太郎はゆっくりと手を掲げた。
「だから――灰色を恥じなくていい。混ざってないことを怖がらなくていい。誰かと違うってことは、自分を選んで生きている証拠なんです」
 紙吹雪が、ステージにも積もり始める。
「僕たちは、“灰色”から始めます。ここが出発点です。誰かの評価じゃない、自分自身の価値を、これから一人ずつ探していきます」
 その瞬間、照明が切り替わった。ステージの背後がぱっと開く。後光のような白い光に照らされて、後方に控えていた灰色同盟のメンバーが一人、また一人と歩み出る。
 彼らもまた、制服を着ていなかった。
 パステルカラーの服、古着のようなレイヤードスタイル、モノトーンに一輪のバッジをつけた者……みんなが、自分の色を纏っていた。
 丈太郎は微笑んだ。
「灰色の中心には、自由があります。だから、ここから先は――あなたの色で、歩いてください」

 体育館は静まりかえっていた。誰もが息をのむなか、紙吹雪だけがひらひらと落ちていた。
 ステージに並んだ十人の仲間たちは、決して派手な格好をしているわけではなかった。だが、そのどれもが“制服”ではないことが、強烈な主張となっていた。
 校長は前列中央に座ったまま、無言で天井を見上げていた。どんな感情を抱いているのか、読み取ることはできなかった。
 しかし次の瞬間、会場後方からぽつりと拍手が響いた。
 パン、パン、パン――。
 それはやがて隣へ、前へ、波のように広がっていった。
 体育館全体が、音で満ちていく。強制されていない、自然発生的な拍手。
 丈太郎は、自分の喉の奥が熱くなっていくのを感じた。
 隣に立つ優亜が、にやりと笑った。
「泣いたら、もう一回やり直しな」
 丈太郎は苦笑し、そっと目元を拭う。
 ステージ袖から教頭が飛び出してくる気配がしたが、涼平がすかさず前に立ち、何かを囁いた。その瞬間、教頭の動きが止まった。
 萌美がそっと前に出て、客席に向かって言った。
「本日はご来場、ありがとうございました。“点数がない自由”がどんな景色か、これから二日間、存分にご覧ください」
 客席のあちこちから笑いが起きる。笑顔が広がる。
 その瞬間、体育館は、点数では測れない“空気”で満ちた。
 丈太郎はステージから一歩下がり、仲間たちの方を向いた。
「ありがとう……みんな」
 宏美が口元に手を当てて、「この会場に鏡があったら、たぶん私、今日一番まともに映ってる」と言って笑った。
 由衣はゆっくりと丈太郎の横に来て、静かに言った。
「紙吹雪の色、すごくきれいだった。灰色って、まっすぐ落ちると、銀色にも見えるんだね」
「うん……あれ、君が言ってた“透明な勇気”と同じかも」
 泰輝が最後に一言だけ、低い声で付け加えた。
「……始まったな」
 丈太郎は深く頷いた。
 これが、“灰色の中心”。
 誰にも染まらず、けれど誰とでも混ざれる、自由の色。
 その中心から、彼らの青春が――ようやく、始まりを告げた。
――第36話了