夜がまだ明けきらぬ校庭の東端に、ふたりの影が並んで立っていた。
 一人は、手提げ袋に布と紐を詰めた由衣。もう一人は、前髪を風に乱しながら、旗を巻いたポールを肩に担ぐ優亜だった。
 朝霧が漂う。視界はぼやけていて、時間も空気も、どこか夢の中にいるように曖昧だ。
「思ったより、暗いね」
 由衣がぽつりとつぶやいた。
「いや、だからこそいいんだよ。霧の中で掲げたほうが、“色”って感じがするじゃん?」
 優亜は笑って言い、ポールの端を地面に突き立てた。
 今日が〈フリーカラー・フェア〉前日。その“前哨戦”として、この時間に校庭へ色旗を掲げる計画は、ふたりが密かに温めてきたものだった。
 それは誰の指示でもなく、誰かに評価されるための行動でもない。ただ、「一人と一人」が「やりたい」と思ったこと。
「支柱……よし。じゃ、由衣、いくよ」
 優亜が声をかけると、由衣は深く頷き、袋から虹色の布を取り出した。柔らかな素材が手の中でふわりと波打つ。
「……ちゃんと、結びたい。ゆっくりで、ごめんね」
「任せたよ。私は“引き上げ係”だから」
 地面にしゃがんだ由衣が、一本一本の紐を丁寧にポールに結びつけていく。その姿は、まるで小さな祈りを込める巫女のようだった。
 優亜は腕を組み、その背中を静かに見守る。



 由衣の指先が、最後の結び目を締めた。
 手の中の布は、朝の霧に濡れて冷たかった。だが、その質感がなぜか心地よい。まるで不安や躊躇を、ひとつひとつ結び目に移し替えていくような感覚。
「……できた。ゆっくりでごめんね」
「ううん。最高だったよ。じゃあ――いくね」
 優亜は軽くポールを握り、深く息を吸った。
 そして一気に、引き上げる。
 旗が、霧の中で大きく広がった。
 七色――ではなく、微妙にくすんだ、混色の布たちが連なり、たなびいていた。
 完璧ではない。にじみやムラがある。でも、だからこそ、それは美しかった。どの色も、誰かの思い出の断片から切り取られたような、柔らかな色たちだった。
 風が吹いた。霧が揺れ、空にかすかな太陽光が射す。
 その瞬間、ふたりの頭上に、虹がうっすらと現れた。
 一条ではない。かすかに重なった、二重の虹。
「……見て」
 由衣がつぶやいた。優亜が上を見上げる。
「わ、マジで出た……!」
 声が、笑いに変わる。
 誰が呼んだわけでもない。だが、校舎の窓から顔をのぞかせる生徒たちがいた。先生がひとり、校庭の端に立っていた。誰もが言葉を失い、旗と虹を見つめていた。
 その光景に、優亜が叫ぶ。
「これが、あたしらの“始まり”だあああああああ!」
 朝霧の中、声が響く。
 そして由衣も、ほんの少しだけ、声を重ねた。
「――わたしも……ここにいるよ」
 言葉は風に消えていった。でも、その温度だけは確かに、虹の端に届いていた。
――第34話「二重虹の朝」完。