美術準備室の隅、誰にも気づかれない場所で、ほのかはひとり、色見本帳を抱えてしゃがみこんでいた。
閉じられたページの間には、彼女がこれまで塗り重ねてきた色たちが静かに眠っている。橙、群青、紅、そして……あの夜に作った、“灰色”。
淡い霧のような、輪郭のない灰色。孤独と希望を同時に抱いたその色は、ほのかにとって、自分そのものだった。
指先で、表紙をなぞる。
色見本帳は、彼女が入学以来、少しずつ作り続けてきた「わたしの言葉」だった。
でも今――それが、まるで意味をなさない気がしていた。
フリーカラー・フェアが近づく中、由衣も、優亜も、丈太郎でさえも、明確な色を手にして前へ進もうとしている。
なのに自分は――まだ、何色にもなれていない。
「……なんでだろうね」
誰にともなく呟いた声が、空気に溶けた。
窓の外は曇り。朝なのに夜みたいな光。部屋の中も、心の中も、ずっと曇天だった。
机の上には、火を灯すためのマッチと、小さな陶器の皿。これは偶然じゃない。ほのか自身が――準備していた。
「燃やせば、消えるかな。何もかも」
声が震えていた。マッチを一本取り、擦る。オレンジの火花が一瞬、室内に灯る。
けれどその光が、色見本帳の灰色のページを照らしたとき――ほのかの手が止まった。
マッチの炎が、そっと揺れた。
ほのかの指先に宿った小さな火が、色見本帳の角に影を落とす。燃やす。それだけで全部消える。重ねてきた悩みも、他人に分かってもらえなかった気持ちも――全部。
だけど。
「消したくないの、かな……私」
涙ではなかった。もっと深い感情。怒りや悲しみとも違う、何か胸の奥を締めつける思いだった。
ほのかは、ゆっくりと火を消した。
マッチの先から上がる煙が、白く立ちのぼる。何かを断ち切ったようで、何かが始まるようでもあった。
そのときだった。
ガラリ、とドアが開いた。
「……いた」
由衣だった。息を切らし、顔には小さな傷がついている。転んだのだろうか。だけど、そんなことは気にせず、まっすぐにこちらへ来た。
「ほのか、探した。ずっと、探してた」
言葉にならない声が、ほのかの喉に詰まる。
由衣はゆっくりと近づき、ほのかの隣にしゃがんだ。そして、何も言わずに色見本帳をそっと開いた。
そこに現れたのは、灰色のページ。
曖昧で、脆くて、けれど確かに「ほのか自身」だった色。
由衣は、その色を見つめたまま言った。
「……この色、私には作れない。でも、すごく、きれいだと思った」
ほのかは息を飲んだ。
「でも……私は、何色にもなれてない」
小さな声。それに、由衣は首を振った。
「違うよ。なれてる。もう、なってる。誰にも真似できない、“ほのかの色”に」
それは慰めではなく、確信だった。ほのかは、思わず顔を伏せた。
嗚咽は出なかった。涙も流れなかった。
ただ、胸の奥の何かが音を立てて溶け出した気がした。
由衣が立ち上がる。
「さっき、美術室から絵の具持ってきた。新しいページ、塗らない?」
ほのかはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「うん……塗る」
由衣が微笑む。
「じゃあ、一緒に始めよう。“あたらしい灰色”」
――第33話「孤独の色見本」完。
閉じられたページの間には、彼女がこれまで塗り重ねてきた色たちが静かに眠っている。橙、群青、紅、そして……あの夜に作った、“灰色”。
淡い霧のような、輪郭のない灰色。孤独と希望を同時に抱いたその色は、ほのかにとって、自分そのものだった。
指先で、表紙をなぞる。
色見本帳は、彼女が入学以来、少しずつ作り続けてきた「わたしの言葉」だった。
でも今――それが、まるで意味をなさない気がしていた。
フリーカラー・フェアが近づく中、由衣も、優亜も、丈太郎でさえも、明確な色を手にして前へ進もうとしている。
なのに自分は――まだ、何色にもなれていない。
「……なんでだろうね」
誰にともなく呟いた声が、空気に溶けた。
窓の外は曇り。朝なのに夜みたいな光。部屋の中も、心の中も、ずっと曇天だった。
机の上には、火を灯すためのマッチと、小さな陶器の皿。これは偶然じゃない。ほのか自身が――準備していた。
「燃やせば、消えるかな。何もかも」
声が震えていた。マッチを一本取り、擦る。オレンジの火花が一瞬、室内に灯る。
けれどその光が、色見本帳の灰色のページを照らしたとき――ほのかの手が止まった。
マッチの炎が、そっと揺れた。
ほのかの指先に宿った小さな火が、色見本帳の角に影を落とす。燃やす。それだけで全部消える。重ねてきた悩みも、他人に分かってもらえなかった気持ちも――全部。
だけど。
「消したくないの、かな……私」
涙ではなかった。もっと深い感情。怒りや悲しみとも違う、何か胸の奥を締めつける思いだった。
ほのかは、ゆっくりと火を消した。
マッチの先から上がる煙が、白く立ちのぼる。何かを断ち切ったようで、何かが始まるようでもあった。
そのときだった。
ガラリ、とドアが開いた。
「……いた」
由衣だった。息を切らし、顔には小さな傷がついている。転んだのだろうか。だけど、そんなことは気にせず、まっすぐにこちらへ来た。
「ほのか、探した。ずっと、探してた」
言葉にならない声が、ほのかの喉に詰まる。
由衣はゆっくりと近づき、ほのかの隣にしゃがんだ。そして、何も言わずに色見本帳をそっと開いた。
そこに現れたのは、灰色のページ。
曖昧で、脆くて、けれど確かに「ほのか自身」だった色。
由衣は、その色を見つめたまま言った。
「……この色、私には作れない。でも、すごく、きれいだと思った」
ほのかは息を飲んだ。
「でも……私は、何色にもなれてない」
小さな声。それに、由衣は首を振った。
「違うよ。なれてる。もう、なってる。誰にも真似できない、“ほのかの色”に」
それは慰めではなく、確信だった。ほのかは、思わず顔を伏せた。
嗚咽は出なかった。涙も流れなかった。
ただ、胸の奥の何かが音を立てて溶け出した気がした。
由衣が立ち上がる。
「さっき、美術室から絵の具持ってきた。新しいページ、塗らない?」
ほのかはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「うん……塗る」
由衣が微笑む。
「じゃあ、一緒に始めよう。“あたらしい灰色”」
――第33話「孤独の色見本」完。



