旧校舎の最奥――使われなくなったその教室には、黒板いっぱいに広がる色の海があった。
 それは〈灰色同盟〉が夜通し描いた、黒板アート。
 由衣が構図を、泰輝が色彩の配置を担い、全員でチョークを走らせたあの夜。夜明けと同時に披露されたその絵は、点数では測れない生の証として、しばらく掲示されていた。
 しかし、今、泰輝はその前に立っていた。
 手には濡れ雑巾。袖をまくり、じっと黒板を見つめている。
 そこへ、涼平が無言で現れる。手には乾いた布。
「――やるのか」
「うん。やらなきゃって、思ったんだ」
 二人は言葉少なにうなずき合う。
 静かな時間が流れる。かすかな風音と、時計の秒針のように鳴る足音だけが教室に響く。
 泰輝が一歩、黒板に近づいた。
 そこには、色とりどりの線、層、メッセージ。点数ではない価値を形にしようと必死に描いた、叫びの結晶。
「これが、点数に保存されるようじゃ、意味がない」
 泰輝の声は淡々としていた。だが、手のひらの震えが、その本音を語っていた。
 涼平は言葉を挟まず、黒板の左端に指を伸ばした。
 最初の線を、拭う。
 色が一筋、消えた。
 その瞬間、教室の空気がわずかに揺れた。壁の時計の針が、小さく「コトリ」と鳴った気がした。



 二人は黙々と黒板を拭き続けた。
 チョークの粉が空中にふわりと舞い上がり、鼻の奥に甘くて乾いた匂いを残す。静かだった。かつて十人が賑やかに笑い合った教室とは思えないほどに。
「泰輝、あのさ……」
 涼平が口を開いた。拭き取った部分に、うっすら残った輪郭を見つめながら、ぽつりと続ける。
「お前、あの夜、“始まりはいつも灰色だ”って言ってたろ。あれ、今でも正しいと思うか?」
 泰輝は少しだけ手を止め、天井の蛍光灯を見上げた。
「……思うよ。何かを始めるときってさ、大抵は形がなくて、曖昧で、不安で……でも、だからこそ、塗る自由がある」
 拭き取る動きが再び滑らかになる。
「だったら、こうやって元に戻すのも、“自由”ってことか?」
「うん。保存されることを前提にしないで、“消せるもの”として残すこと。点数じゃない価値は、“固定しない”ことで守れる気がするんだ」
 涼平は頷いた。彼らの背後で、朝日がゆっくりと昇り始めていた。旧校舎の高窓から差し込む光が、黒板の隅を優しく照らす。
 そこには、泰輝が最後に書いた言葉が、まだ残っていた。
 『はじまり』
 たった四文字。けれど、すべての意味がそこに込められていた。
 涼平はその文字の輪郭をなぞるように、丁寧に最後の拭き取りを始めた。
 ゆっくり、ゆっくりと。
 黒板が、黒に戻っていく。
 誰もいない教室で、ふたりは確かに“証”を消し、“意志”を残した。
――第32話「黒板アート解体」完。