その朝、校門前はまだ眠っているように静かだった。
 風が強い。春一番だと、誰かが言っていた。冷たさの残る空気の中、風だけが生きているように校舎の壁を叩き、フェンスを揺らしている。
 丈太郎は、正門の石段に立っていた。
 制服のポケットには、前夜遅くまでかけて書いた署名用紙の束。〈点数制度の廃止〉を訴える声明文。その右下には、同盟十人の名が一列に並んでいた。けれど、今その場にいるのは丈太郎ひとりだった。
 理由は簡単だ。これは、彼のわがままだったからだ。
「思いついたから、明日やる」
 昨日、ミーティングの最後にそう言った時、誰も止めなかった。涼平は苦笑し、優亜は黙って親指を立てた。
 風の中、マフラーを巻き直しながら、丈太郎は校舎の屋上を見上げた。
 ここに立つのは、たぶん正解じゃない。戦略的にも、意味的にも。でも、どうしてもやらなきゃ気がすまなかった。自分の言葉で、自分の声で、今の気持ちを届けたかった。
 ――だから、拡声器は使わない。
 スピーカーに頼れば確かに聞こえる。でも、それでは彼自身の声にならないと、丈太郎は思った。
 風の音にかき消されるかもしれない。注目すらされないかもしれない。それでも構わなかった。誰かがどこかで聞いてくれていたら、それで充分だった。
 手のひらがじんわりと冷たい。けれど、心は熱かった。
「灰原丈太郎!」
 誰かが名前を呼んだ。校門の内側から、教師が駆け寄ってくる。
 だが、丈太郎はその声に背を向け、校門の中央へ一歩踏み出した。
 そして、深く息を吸い込んで――風の中、叫んだ。
「この学校の“点数制度”は、もう限界だと思う!」
 叫びは、風にさらわれた。けれど、それは確かにあった。誰かの心に、小さな火を灯すように。



 教師が駆け寄ってきても、丈太郎は動かなかった。
 制服の袖が風にあおられ、鞄の中から書類が数枚飛び出してアスファルトに舞い落ちる。その白紙が、まるで自分の魂が空中を泳いでいるかのように思えた。
「丈太郎、やめなさい。こんなことをしても何も変わらない!」
 進路指導の井村だった。
 丈太郎は振り向かずに、ポケットの中から紙の束を取り出すと、胸の前に掲げた。
「この中に、点数制に疑問を感じて署名してくれた生徒が、百七十人います」
 ざわり、と校門の内側から登校してきた生徒たちの視線が集まる。
 丈太郎は声を張った。
「僕らは、“輝いているかどうか”を他人に数値で決められるのに、もう耐えられない。誰かの物差しで、自分の価値を決められるのが、もう嫌なんです!」
 周囲が凍ったように静まる。
 丈太郎の声が、風とともに空へ吸い込まれていった。
 沈黙を破ったのは、一人の生徒の拍手だった。
 その音は小さかったが、すぐに二人、三人と続き、やがて校門前に拍手の輪が広がった。まばらではあったが、確かにそれは広がっていた。
「灰原くん、それは……校長に直接届けたい書類なんだな?」
 井村が、少し柔らかい声になった。
「はい。校長に……僕たち全員の声を届けたいんです」
「……わかった。付き添おう」
 丈太郎は驚いて井村を見た。
「君のやり方は、正攻法じゃない。でも――正しいとは限らないからこそ、意味がある」
 その言葉に、丈太郎は何も言い返せなかった。
 校門の向こうで、涼平たち〈灰色同盟〉の仲間が次々と駆け寄ってきた。優亜が誰よりも早く横に並び、ポケットから自分の署名用紙を取り出して見せる。
「足りない部分は、声で補えばいいだろ?」
 丈太郎は頷いた。風が、再び強く吹いた。
 まるで、空が応援してくれているようだった。
――第31話「春一番の叫び」完。