その日は、朝から重たい雲が空を覆っていた。
 校舎の窓はどこも曇りがちで、天井の蛍光灯だけが白々と空間を照らしている。丈太郎は進路指導室の前で立ち止まったまま、手のひらに握った通知表のコピーを見つめていた。
 成績欄の右上に押された「総合評価・C」の文字。
 胸の奥にある鉛のような重さは、この小さな赤い印から始まっているのかもしれない。
「丈太郎、入って」
 扉の向こうから、進路指導の教師・井村の声がした。
 戸を開けると、部屋の中にはすでに父と母が座っていた。普段は温厚な母も、今日は眉間に皺を寄せて無言。父は口を開く気配すらない。
 そして、部屋の照明がなぜか半分だけ消えていた。
「電球、切れちゃってね。業者まだ呼べてないのよ」
 井村が申し訳なさそうに笑ったが、その不自然な暗さが場の緊張を増していた。
「では、始めましょうか。灰原丈太郎くんの三者面談です」
 静かな口調で進行が始まり、沈黙が漂う中、井村がまず通知表に視線を落とす。
「キラメキチェックシートの評価、ここ三ヶ月で大きく下がってるのは事実です。平均点を大きく下回っていて、学内推薦は現状ではかなり厳しいでしょう」
 母が小さくうめく。
「……なんで、こんなに落ちてるの?」
 丈太郎は言葉に詰まり、喉の奥が乾くのを感じた。説明する言葉が浮かばない。ただ、自分が点数に縛られ、怯え、苦しくて、それからようやく動き始めたこと。〈灰色同盟〉の活動が自分を少しずつ変えたこと。そのすべてを、どうやってここで話せばいいのか。
「彼は最近、部活動にも参加せず、仲間と一緒に……なんというか、制度に対して“反抗的な”態度を見せていると、担任からも報告があります」
 井村の言葉が「反抗的」という一語でくくられた瞬間、父の目がきつく細くなった。
「丈太郎。……お前、何をしてるんだ?」
 怒鳴るでもなく、低く沈んだ声。その静けさがむしろ鋭く胸に刺さる。
 丈太郎はゆっくり顔を上げた。
 この瞬間のために、どれだけの夜を迷い、ためらい、そして決意してきたか。
 ――だから今は、逃げるわけにはいかない。



 丈太郎は唇を噛んでから、意を決して口を開いた。
「……僕は、自分の“点数”でしか評価されない学校に、ずっと違和感を持ってました」
 父と母が顔を見合わせる。井村は表情を動かさず、視線だけを向ける。
「他人から見てどう思われるか、キラメキの数字が何点か、そればっかり気にして……本当の自分がどこにいるのか、わからなくなってたんです」
 そこまで話してから、丈太郎は一度深呼吸した。
「だから、“灰色同盟”って名前で、自分たちのままでいられる道を探そうって仲間と始めました。別に喧嘩したいわけじゃない。ただ、点数以外の価値があるってことを、証明したいだけなんです」
 暗がりのなか、母がぽつりと口を開く。
「……でも、未来は“点数”で決まるのよ、丈太郎。成績、推薦、内申書。それはずっと続くの」
 その声には責めるというより、不安がにじんでいた。
「わかってる。だから、怖かった。でも……僕、点数のためだけに生きるのは、もう無理です」
 静かな反論だった。
 父が椅子の背からゆっくりと身を起こす。
「丈太郎」
「はい」
「そんな理屈は、大人になれば通用しなくなる。現実を見ろ」
「僕は……現実を見てるつもりです。逃げるんじゃなくて、“僕がどう生きたいか”を、ちゃんと考えたくて」
 暗い室内。どこからかわずかな風の音がしていた。外では、季節外れの風が強く吹いているのかもしれない。
 井村が、いつの間にか手元の記録用紙を閉じていた。
「……私個人としては、丈太郎くんの言うことに一理あると思っています」
 え? と母が小さく声をあげた。
「もちろん制度に従う義務はあります。でも、異議を唱えること自体が悪とは限らない。彼のように“なぜ?”を考え、行動する生徒がいることは、教師としても無視できません」
 丈太郎の心に、すっと光が差し込むような感覚があった。
 父は腕を組みながらしばし黙っていたが、やがて短くうなずいた。
「……お前がそこまで言うなら、自分の責任で最後までやってみろ。ただし、“途中で逃げる”のは許さんぞ」
 丈太郎は、わずかに笑った。
「うん。逃げないよ。ちゃんと、自分で結末を描くから」
 部屋の照明が、ふいに完全に消えた。停電だった。
 次の瞬間、窓の外に稲光が走り、部屋の中を一瞬だけ真っ白に照らす。
 その白さの中で、丈太郎の決意だけが、確かに浮かび上がっていた。
――第30話「暗闇の三者面談」完。