朝のチャイムが鳴る前の、まだ誰もいない校舎一階。
廊下の突き当たりにある掲示板の前に、二つの影が立っていた。
一人は萌美。ブレザーのボタンをきちり留めて、スニーカーのかかとまでまっすぐに立っている。
もう一人は雅也。派手な市販パーカーに制服のズボンだけ合わせた妙な格好で、ペンキの缶を足元に置いていた。
「……ほんとに、やるのか?」
雅也がボソッと聞く。
萌美は頷いた。
「“点数掲示”は、誰かを序列化する道具だと思ってる。あれを見て、“自分が劣ってる”って思わされる生徒がいる限り、あのままにしておけない」
彼女の声は、冷静で、静かで、しかし異様に芯が強かった。
廊下の掲示板には、例のチェックシートの“得点上位者”が毎週貼り出される。
「今週のキラメキTOP10」として、学年と名前、合計点が書かれていた。
誰が笑って、誰が無言で立ち去るのか。
あの掲示板の前には、毎週“勝者”と“敗者”が生まれる。
萌美がポケットから取り出したのは、大判の白紙ポスターと、マスク、手袋、黒のスプレー缶。
雅也は思わず口を開けた。
「お前、用意良すぎだろ……。何者だよ」
「“計画は冷静に、行動は大胆に”。これ、私の座右の銘」
手際よく掲示板の上に白紙ポスターを貼ると、萌美は黒スプレーで文字を書き始めた。
《点数より物語を見ろ》
見事な直線文字だった。にじみもなく、迷いもない。
続いて雅也に向かって頷くと、彼は苦笑しながらペンキのフタを開ける。
「……じゃあ、いっちょやるか」
校舎の廊下に、濃い赤のペンキが落ちていく。
雅也が太筆で床に線を引き、そのまま掲示板の下へ円を描くように塗っていく。
真っ白な掲示板と、その下にうごめくような赤い円。
そしてその中心に、雅也が書き加えた一言――
「お前の価値は点じゃない」
その文字を見たとき、萌美は一瞬だけ目を細めた。
心のどこかが、静かに満たされていくのを感じた。
「……悪目立ちするだろうな」
雅也が立ち上がり、手袋を脱ぐ。
萌美は小さく頷いた。
「でも、見られることで考える人が増えるなら、それでいい」
「ほんと、冷静すぎて逆に怖いわ。あの優亜と同じチームになるとはな……」
「同じ“手段”じゃなくていい。ただ、“目的”が一致してるなら、私は迷わない」
そのとき、遠くから足音が聞こえた。
もうすぐ始業のチャイムが鳴る。生徒たちが校舎に入ってくる。
「逃げるぞ」
雅也がそう言って、二人は掲示板から離れ、階段を駆け下りる。
黒板のような白紙ポスターが、まだ乾ききらないスプレーの匂いを漂わせながら、静かに存在感を放っていた。
始業のチャイムが鳴ると同時に、校舎の廊下に生徒たちの靴音があふれた。
ざわつきの中心は、やはり掲示板だった。
「今週のキラメキTOP10」が見えるはずの場所は、真っ白な紙に黒文字で覆われ、さらに下には赤ペンキの輪と、赤字で描かれた抗議の一言があった。
「点数より物語を見ろ」
「お前の価値は点じゃない」
「なにこれ」「やば……」「落書き?」「ってか犯人誰?」
生徒たちは口々に囁き、写真を撮り、ざわざわと騒ぎ立てた。
ある者は笑い、ある者は眉をひそめ、ある者は無言で立ち止まった。
教員が駆けつけたのは数分後だった。
「掲示物が……誰だ、こんなことを……!」
教頭が怒声を上げ、掲示板の紙を引きはがそうとするが、スプレーのインクが白紙に染み込み、簡単には剥がれない。
職員たちはあわてて生徒を教室に戻そうと声を張ったが、生徒たちは興奮気味に騒ぎ続けていた。
職員室では緊急会議が開かれた。
そのころ、犯人である萌美と雅也は、校舎裏の倉庫前で息を整えていた。
「……バレてない、か」
「まだね。でも、時間の問題」
萌美はそう言って、スプレー缶を袋にしまう。
彼女の表情には後悔も、焦りもなかった。ただ一点、達成感に近いものが宿っていた。
「なあ、萌美」
雅也が口を開いた。
「お前さ、何でそこまで“冷静”でいられんの? こんだけやってバレたら、停学だぜ?」
「冷静っていうより、計算かな」
萌美は立ち上がり、制服の袖についたペンキをそっとぬぐった。
「誰かが“あれ、おかしいかも”って立ち止まるだけで、もう十分意味がある。そういう芽が、きっと広がってくから」
「……ほんと、優等生の革命って感じだな」
「それ、悪口?」
「ちょっと褒めてる」
雅也がにやりと笑う。
萌美も、小さく息を吐いて微笑んだ。
――その頃、資料室では、丈太郎と優亜がその“事件”の知らせを受けていた。
「え、掲示板にスプレー……?」
丈太郎は驚きと興奮を隠せず、椅子の上で前のめりになった。
「やったな、あの二人……てか、やりすぎじゃね?」
優亜は楽しそうに笑った。
「いいじゃん。やりすぎくらいがちょうどいい。学校ってさ、なんも起きないと、誰も何も考えないもんだし」
「いやいや、これ学校にバレたら……」
「どうせバレる。でも、それも“灰色同盟”の初仕事としては上等だよ。炎上上等」
丈太郎は思わず額に手をあてた。
優亜の“突っ走り体質”は分かってたけど、こうなるとは――。
しかし、心のどこかでは思っていた。
自分にはできなかったことを、誰かがやってくれた。
その事実が、不思議な勇気として、静かに胸に灯っていた。
その日の午後、掲示板の騒動は、あっという間に全校に知れ渡った。
誰がやったのか。
何のために。
そして、次は何が起きるのか。
生徒たちの間にはざわざわとした空気が残り、特に“中位〜下位”のスコアを取っていた生徒たちは、口に出さないまでも何かを感じていた。
まるで、見えない誰かが「お前は点じゃない」と言ってくれているような――そんな錯覚。
***
放課後。再び、資料室にメンバーが集まった。
今回は五人。
丈太郎、優亜、涼平、萌美、雅也。
優亜が机の上に腰をかけて、スプレーの写真をスマホで見せながら言った。
「やるじゃん、二人とも。バッチリ写ってるよ、これ。消される前に撮っといた」
「……証拠残すなよ、バカ」
雅也があきれた顔で手をひらひら振る。
萌美は肩をすくめた。
「これくらいでビビってたら、変えられるものも変えられない」
「とはいえ、次からは少し抑え目でな」
涼平が口をはさむ。
「教員会議で話題になったそうだ。“いたずら”という形で処理する方針になったが、もし繰り返されれば、正式な処分が下る。君たちはすでに監視対象だ」
「でもさ」
丈太郎が言葉を挟んだ。
「“掲示板を見てて苦しくなる”って言ってた奴、何人かいた。今日もさ、チラチラ周り見ながらだけど、“あれ、良かった”って言ってる子もいた」
「つまり」
優亜がスマホを閉じて立ち上がる。
「火は点いたってことじゃん」
その言葉に、誰も否定の言葉を返さなかった。
署名欄は、すでに半分を超えていた。
まだあと四人。けれど、初動の影響としては、十分すぎる滑り出しだった。
萌美がメモ帳を取り出す。
「次は、“見た目”の点数に疑問を持っている生徒を探す。外見の評価や“清潔感”って項目で悩んでいる子がいるはず。そこへアプローチする」
「宏美って子がいたはずだ」
雅也が思い出すように言った。
「いつもメイクばっちりで、校則ギリギリの髪色してる子。生徒会のアンケートで『“身だしなみ”は誰のため?』って書いたって噂がある」
「よし、それ、私が行く」
優亜が一歩前に出た。
「見た目の話は、女子同士の方が入りやすい。特に“点数化”されると、男子に話すのは抵抗ある子多いし」
「俺も情報集めてみる。“キラメキ偏差値”と進路の関係性について、統計とれる」
涼平の視線はすでにパソコンの画面にあった。
「私も声かけてみる。慎重だけど芯のある子が、クラスに数人いる」
萌美のメモはすでに数ページ分、話しかけ候補のリストで埋まりかけていた。
――そして、丈太郎。
自分には何ができるのか。
あの掲示板の前で、言葉もなく立ち止まっていた同級生たちの顔が、脳裏に浮かんだ。
「……俺も探すよ。まだ言葉にできてないだけで、何かを感じてる奴、絶対いるから」
静かに、でもはっきりと。
その言葉に、優亜がふっと笑った。
「いいね、隊長。じゃあ“灰色のスカウト”部門、任せた」
「いや、いつから俺が隊長になったんだよ」
笑いが生まれる。
それは、点数で測れない、たしかな空気だった。
(第3話「点数ゼロの廊下」End)
廊下の突き当たりにある掲示板の前に、二つの影が立っていた。
一人は萌美。ブレザーのボタンをきちり留めて、スニーカーのかかとまでまっすぐに立っている。
もう一人は雅也。派手な市販パーカーに制服のズボンだけ合わせた妙な格好で、ペンキの缶を足元に置いていた。
「……ほんとに、やるのか?」
雅也がボソッと聞く。
萌美は頷いた。
「“点数掲示”は、誰かを序列化する道具だと思ってる。あれを見て、“自分が劣ってる”って思わされる生徒がいる限り、あのままにしておけない」
彼女の声は、冷静で、静かで、しかし異様に芯が強かった。
廊下の掲示板には、例のチェックシートの“得点上位者”が毎週貼り出される。
「今週のキラメキTOP10」として、学年と名前、合計点が書かれていた。
誰が笑って、誰が無言で立ち去るのか。
あの掲示板の前には、毎週“勝者”と“敗者”が生まれる。
萌美がポケットから取り出したのは、大判の白紙ポスターと、マスク、手袋、黒のスプレー缶。
雅也は思わず口を開けた。
「お前、用意良すぎだろ……。何者だよ」
「“計画は冷静に、行動は大胆に”。これ、私の座右の銘」
手際よく掲示板の上に白紙ポスターを貼ると、萌美は黒スプレーで文字を書き始めた。
《点数より物語を見ろ》
見事な直線文字だった。にじみもなく、迷いもない。
続いて雅也に向かって頷くと、彼は苦笑しながらペンキのフタを開ける。
「……じゃあ、いっちょやるか」
校舎の廊下に、濃い赤のペンキが落ちていく。
雅也が太筆で床に線を引き、そのまま掲示板の下へ円を描くように塗っていく。
真っ白な掲示板と、その下にうごめくような赤い円。
そしてその中心に、雅也が書き加えた一言――
「お前の価値は点じゃない」
その文字を見たとき、萌美は一瞬だけ目を細めた。
心のどこかが、静かに満たされていくのを感じた。
「……悪目立ちするだろうな」
雅也が立ち上がり、手袋を脱ぐ。
萌美は小さく頷いた。
「でも、見られることで考える人が増えるなら、それでいい」
「ほんと、冷静すぎて逆に怖いわ。あの優亜と同じチームになるとはな……」
「同じ“手段”じゃなくていい。ただ、“目的”が一致してるなら、私は迷わない」
そのとき、遠くから足音が聞こえた。
もうすぐ始業のチャイムが鳴る。生徒たちが校舎に入ってくる。
「逃げるぞ」
雅也がそう言って、二人は掲示板から離れ、階段を駆け下りる。
黒板のような白紙ポスターが、まだ乾ききらないスプレーの匂いを漂わせながら、静かに存在感を放っていた。
始業のチャイムが鳴ると同時に、校舎の廊下に生徒たちの靴音があふれた。
ざわつきの中心は、やはり掲示板だった。
「今週のキラメキTOP10」が見えるはずの場所は、真っ白な紙に黒文字で覆われ、さらに下には赤ペンキの輪と、赤字で描かれた抗議の一言があった。
「点数より物語を見ろ」
「お前の価値は点じゃない」
「なにこれ」「やば……」「落書き?」「ってか犯人誰?」
生徒たちは口々に囁き、写真を撮り、ざわざわと騒ぎ立てた。
ある者は笑い、ある者は眉をひそめ、ある者は無言で立ち止まった。
教員が駆けつけたのは数分後だった。
「掲示物が……誰だ、こんなことを……!」
教頭が怒声を上げ、掲示板の紙を引きはがそうとするが、スプレーのインクが白紙に染み込み、簡単には剥がれない。
職員たちはあわてて生徒を教室に戻そうと声を張ったが、生徒たちは興奮気味に騒ぎ続けていた。
職員室では緊急会議が開かれた。
そのころ、犯人である萌美と雅也は、校舎裏の倉庫前で息を整えていた。
「……バレてない、か」
「まだね。でも、時間の問題」
萌美はそう言って、スプレー缶を袋にしまう。
彼女の表情には後悔も、焦りもなかった。ただ一点、達成感に近いものが宿っていた。
「なあ、萌美」
雅也が口を開いた。
「お前さ、何でそこまで“冷静”でいられんの? こんだけやってバレたら、停学だぜ?」
「冷静っていうより、計算かな」
萌美は立ち上がり、制服の袖についたペンキをそっとぬぐった。
「誰かが“あれ、おかしいかも”って立ち止まるだけで、もう十分意味がある。そういう芽が、きっと広がってくから」
「……ほんと、優等生の革命って感じだな」
「それ、悪口?」
「ちょっと褒めてる」
雅也がにやりと笑う。
萌美も、小さく息を吐いて微笑んだ。
――その頃、資料室では、丈太郎と優亜がその“事件”の知らせを受けていた。
「え、掲示板にスプレー……?」
丈太郎は驚きと興奮を隠せず、椅子の上で前のめりになった。
「やったな、あの二人……てか、やりすぎじゃね?」
優亜は楽しそうに笑った。
「いいじゃん。やりすぎくらいがちょうどいい。学校ってさ、なんも起きないと、誰も何も考えないもんだし」
「いやいや、これ学校にバレたら……」
「どうせバレる。でも、それも“灰色同盟”の初仕事としては上等だよ。炎上上等」
丈太郎は思わず額に手をあてた。
優亜の“突っ走り体質”は分かってたけど、こうなるとは――。
しかし、心のどこかでは思っていた。
自分にはできなかったことを、誰かがやってくれた。
その事実が、不思議な勇気として、静かに胸に灯っていた。
その日の午後、掲示板の騒動は、あっという間に全校に知れ渡った。
誰がやったのか。
何のために。
そして、次は何が起きるのか。
生徒たちの間にはざわざわとした空気が残り、特に“中位〜下位”のスコアを取っていた生徒たちは、口に出さないまでも何かを感じていた。
まるで、見えない誰かが「お前は点じゃない」と言ってくれているような――そんな錯覚。
***
放課後。再び、資料室にメンバーが集まった。
今回は五人。
丈太郎、優亜、涼平、萌美、雅也。
優亜が机の上に腰をかけて、スプレーの写真をスマホで見せながら言った。
「やるじゃん、二人とも。バッチリ写ってるよ、これ。消される前に撮っといた」
「……証拠残すなよ、バカ」
雅也があきれた顔で手をひらひら振る。
萌美は肩をすくめた。
「これくらいでビビってたら、変えられるものも変えられない」
「とはいえ、次からは少し抑え目でな」
涼平が口をはさむ。
「教員会議で話題になったそうだ。“いたずら”という形で処理する方針になったが、もし繰り返されれば、正式な処分が下る。君たちはすでに監視対象だ」
「でもさ」
丈太郎が言葉を挟んだ。
「“掲示板を見てて苦しくなる”って言ってた奴、何人かいた。今日もさ、チラチラ周り見ながらだけど、“あれ、良かった”って言ってる子もいた」
「つまり」
優亜がスマホを閉じて立ち上がる。
「火は点いたってことじゃん」
その言葉に、誰も否定の言葉を返さなかった。
署名欄は、すでに半分を超えていた。
まだあと四人。けれど、初動の影響としては、十分すぎる滑り出しだった。
萌美がメモ帳を取り出す。
「次は、“見た目”の点数に疑問を持っている生徒を探す。外見の評価や“清潔感”って項目で悩んでいる子がいるはず。そこへアプローチする」
「宏美って子がいたはずだ」
雅也が思い出すように言った。
「いつもメイクばっちりで、校則ギリギリの髪色してる子。生徒会のアンケートで『“身だしなみ”は誰のため?』って書いたって噂がある」
「よし、それ、私が行く」
優亜が一歩前に出た。
「見た目の話は、女子同士の方が入りやすい。特に“点数化”されると、男子に話すのは抵抗ある子多いし」
「俺も情報集めてみる。“キラメキ偏差値”と進路の関係性について、統計とれる」
涼平の視線はすでにパソコンの画面にあった。
「私も声かけてみる。慎重だけど芯のある子が、クラスに数人いる」
萌美のメモはすでに数ページ分、話しかけ候補のリストで埋まりかけていた。
――そして、丈太郎。
自分には何ができるのか。
あの掲示板の前で、言葉もなく立ち止まっていた同級生たちの顔が、脳裏に浮かんだ。
「……俺も探すよ。まだ言葉にできてないだけで、何かを感じてる奴、絶対いるから」
静かに、でもはっきりと。
その言葉に、優亜がふっと笑った。
「いいね、隊長。じゃあ“灰色のスカウト”部門、任せた」
「いや、いつから俺が隊長になったんだよ」
笑いが生まれる。
それは、点数で測れない、たしかな空気だった。
(第3話「点数ゼロの廊下」End)



